I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

平和・宗教・無宗教


http://www.cnn.co.jp/world/CNN200510290018.html

 インドネシアのボソで、イスラム教とキリスト教との宗教上の対立なんて下らない理由で、うら若い女子高生三人の頸が刎ねられたそうだ。
 宗教はしばしば無意味な争いの引き金となる。現代の日本の学生に宗教について質問すれば「戦争や争いの理由」という答えが必ずと言っていいほど返ってくるだろう。日本では「信心深い」という言葉はオウム真理教のように危険な要素を想像しがちである。それは確かにある面では正しい。あまりに強すぎる宗教は勝手に人々をコントロールし、しばしば狂わせるからだ。当たり前のことだが、宗教は人間の為にあるのであって、人間が宗教の為にあるのではない。しかし人間にはこの当たり前が出来ない。
 すると共産主義、社会主義、あるいはアナキズムのように「無宗教」を訴える思想や社会制度が出てくる。しかし無宗教は決して平和の鍵とはならない。無宗教の共産主義国は数多くの戦争、虐殺、憎しみの火種となっており、厳しい現実を人類に突きつける。
 むしろ世界の常識では「無宗教=無法者」とする認識の方がよっぽど強い。特に西欧・イスラム諸国は性悪説(荀子)の国と言っていいと思う。そうした国ほど、強力な宗教を作ってきた。厳しい自然と対立し、そして裏切りと欺瞞に満ちた歴史を歩んできた彼らは、宗教によって自らを厳しく律しないと国家集団を形成出来ないのである。性善説(孟子)がそのまま通用するなら、宗教など必要ないのだ。せいぜいアニミズムという自然賛歌が生まれる程度だ。それは人間が住むのにあまりに適した、豊かすぎるほどの土壌を持った日本や一部の“楽園”と呼ばれる地域ぐらいなものだろう。
 世界のほとんどの人々の場合、他人への無償の親切は宗教的理由から生じる。特定の宗教を持っていなくとも、これほど礼儀正しく謙虚な民族は世界中探してもなかなか見つからない。

Posted at 2005/10/30(Sun) 17:23:15

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