I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

マイク・リンデル自伝「What are the odds?」 第4章〜第5章 あらすじ・日本語訳

「What are the odds from crack addict to CEO」=「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」

what_odds_240_2.jpg

 今回は九死に一生を得たという話と、ギャンブル依存症についてです。

第4章 「ペパーミント・シュナップス 1972年〜1979年」
第5章 「たばこの煙とアクアネット【整髪料】 1982年〜1985年」

※【】内は訳註です。

第4章「ペパーミント・シュナップス 1972年〜1979年」

 ペパーミント・シュナップスとはドイツ系のキツいお酒のことです。

 精神的に影響を受けたものを思い出すとき、エルビスを自分のリストに入れる人はあまりいないと思うが、私は11歳の夏にエルビスをリストに加えた。その年、私の家族はチャスカの北西にある1時間ほどドライブした場所にあるKOAキャンプ場を訪れた。

 この附近はキャンプ場だらけで具体的にどこなのかはわかりませんが、写真より。
koa_camp.jpg

 そのキャンプ場でマイクが聞いたのがエルヴィスの「I've Got Confidence(自信がある)」

truck_accident.jpg

・ 継父のフレッドのピックアップ・トラックで時速55マイル(88.51km/h)でオークの大木に突っ込み、20ヤード(18メートル)もトラックから投げ出されたにも拘わらず、無傷で生還。

・ 町の半分が停電したほどの大停電を起こし、危うく感電死するところだった。

・ スカイダイビングへのレッスンへ行き、パラシュートが完全に開かなかったため、時速60マイル(96.56km/h)で地面に激突した。

bike_crushed.jpg

・ その日のスカイダイビングの帰りにバイクを大破。HONDAで空冷アメリカンということはCM400Tホーク2っぽい外見ですが……。

年々、このようなことが何度も起こり、自分に問いかけています。こんなことが起こる確率は? 【英語表現で「ありえるか?」という意】


第5章「第5章 たばこの煙とアクアネット【整髪料】 1982年〜1985年」


 青年時代のマイクです。
go_vegas.jpg

 アクアネットとは80年代のアメリカで流行った整髪料のこと。パンク・スタイルなどをこれで表現していました。
aquanet.jpg

 つまり日本的に意訳するなら「たばこの煙とヘア・スプレー」で、80年代ヤンキーの絵面を重ねておけばちょうどいいかと思います。

 高校卒業後、ギャンブルに本格的に取り組んだ。私が育ったのと同じトレーラーパークにトレーラーを購入していた。
 私が最初にしたことは、フェルトで覆われたポーカーとクラップスのテーブルを置いてカードを配ることだった。家族の言によると、母の父である祖父のチャックは、指紋が消えてしまうほどたくさんのカードを配っていたというから、祖父の足跡をたどっているような気がした。彼は、サウスダコタ州デッドウッドにある、おがくずを敷き詰めたサルーン「ゴールド・バー」で働いていた。


 母親が父親と別れてトレーラー暮らしで不安定な数年間を送っていたリンデル少年にとって、祖父母のチャックとミリーの住む町は嵐の中の安全な港のようでいて、「平和」を意味していた。
 チャックおじいちゃんはキャデラックに乗って、エメット郡のあちこちに連れて行ってくれた。私はおじちやんが賭博場での話をしてくれるのが大好きだった。デッドウッドでカードを配ってから何十年も経っていましたが、彼がギャンブルを愛し、イカサマを嫌っていることはよくわかった。
 それは、私の血筋だったのかもしれない。高校3年生の時には、スポーツ賭博、特にNFLに夢中になり、可能な限り試合に賭けるようになりました。高校卒業後、私はミネソタ大学に5分ほど通った。
 1979年、イスラム過激派がテヘランのアメリカ大使館を占拠したとき、私はいつ世界が終わるかわからないと思いました。黙示録の間は勉強するよりも楽しんだほうがいいだろうと考え、大学を辞めて友人のジム・ハンセルとクーパーズの近くに引っ越しました。住むところがなくなった私は、友人のリックを説得してバンを購入し、一緒にカリフォルニアに行くことにした。
「太平洋を見に行くんだ」

 途中のカンザスまで母親の弟であるブッチ叔父さんを送っていくことなるが、彼はアルコール依存症。しかし善良な酔っぱらいであり、ジン・ラミーの名手でもあり、いなくなると寂しくなるような面白い人だった。
 叔父を下ろし、ニューメキシコ州のアルバカーキ郊外で夜中にガス欠を起こした二人は、ガソリン・スタンドに置いてあった車輌からガソリンを抜く。代金替わりにワイパーに20ドル札を挟んで置いたのだが、警察に咎められてしまう。幸い、警察はわかってくれて駐車場で一晩過ごすようにアドバイスしていった。
 マイクとリックはラスベガスに到着する。

 マイクはチャックおじいちゃんからクラップスはどのカジノでも確率が一番高いと言っていたのを思い出す。

クラップスとは?
 クラップスは、ラスベガスのカジノで、大きなテーブルの中で行われるサイコロゲームです。クラップスは、さまざまなベッティングオプションがあるため、理解するのが難しいゲームです。クラップスでは、プレイヤーは、1回のロール、または2つの赤いサイコロを連続して振ったときの結果に対して、カジノに対してお金を賭けます。

 マイクはルールさえ知らなかったものの、たった5ドルではじめてなんと2,600ドル(当時は1ドル=200円以上だったので、52万円以上にもなる)以上の大金を手に入れた。これは天文学的な確率だが、これが34年間にもわたるギャンブル依存症原因でもあった。はじめは些細な敗けだったが、回数を重ねるごとに賭け金が増えていき、文字通りの意味で生死に関わるほどにまで悪化した。
 高校生の頃からお金さえ払えば賭けられるノミ屋で、マイクは賭けにのめり込んでいた。1981年の秋、ある火曜日の朝に目が覚めたときには、1万2千ドル(当時264万円相当)もの大赤字になっていた。
 マイクはマフィアに怯え、店長のレニーに「ライン3」の合図(店には電話が2回線しかない)を出して貰うことにした。ライン3を告げられたマイクはトレーラーに逃げ込み、バリケードを作り、隠れてやり過ごす。
 友人のマークが銀行員をしていたので、マイクは正直に話して融資を取り付け、どうにか乗りきった。

 しかし、マイクはこれで懲りずに今度は1983年11月、今度は2万5千ドル(当時580万円相当)の赤字を出す。年収よりも多い。マイクは友人宅を転々とし、飲み暮らす。
 マフィアは電話でこう告げる。
「お前が自分のことを大切にしていないことはわかっているが、お前はとてもいい家族と暮らしているな」

家族が狙われている。私は何をしてしまったのか……涙が溢れた。ああ、自分の顔が。思わず腹の底から叫んでしまい、床に崩れ落ちてしまった。目覚めない悪夢の中に閉じ込められたようだった。長い間、その場に座り込んでいたが、突然、頭の中の雑音をかき消すように、一つのひどい考えが浮かんだ。

 マイクはパニックを和らげるためにビールを1ケースを空っぽにするまで酔っぱらった。そして車に乗ってハイウェイ169号線を南下。アイオワに立ち寄って叔父から金を借り、ラスベガスに逃げて、マフィアに見つからなければ二度と戻ってこない。……つもりだったのだが、ミネソタ州のセント・ピーターに車を停めると、彼らはそんなルールを守らないことに気づいた。どこかに侵入して窃盗罪で刑務所に入って安全を確保するか……酔っぱらいの歪んだ論理で次々と酷いことを考えつく。
 マイクが近くのガソリンスタンドに入ると、中は無人でマイクはレジを開けて物色する。その時に部屋の片隅に誰かがいるのに気づいてマイクは酷く恥ずかしい気持ちになる。
それまで犯罪の被害者だったのに、今度は別の人に同じ思いをさせてしまった。その人に「何も恐れることはない」ということを伝えることが、私にとって最も重要なことになったのだ。私は全力で店を飛び出し、車にたどり着いた。ふと、小切手をレジに戻すのを忘れていたことに気づいた。私は小切手を空中に放り投げ、車に飛び乗ってアクセルを踏み込んだ。

 マイクはパトカーと接触しそうになった。警察はまだ窃盗のことは把握していなかったが、あっという間にマイクは捕まってしまう。目を覚ました時には留置場の独房だった。
 窃盗と高速でのカーチェイスはニュースになり、マイクは恥ずかしさでいっぱいになる。
ギャンブル好きでいたずら好きと言われることと、犯罪者と思われることは全く別のことだった。

 マイクは他人と向き合う勇気を持つのに2週間ほどかかったが、ようやく向かったのが数ヶ月前から通っていた「サイズ・バー(Cy's Bar)」だった

 しかし、オーナーのローからマイクは辛辣な言葉を浴びせられる。
「マイク、君はこの街を出た方がいい。この先やっていけないだろう」

 そして、銀行からも『道徳的な性格』を理由に融資を断られ、マイクは涙する。
 1984年3月、ニコレット郡の地方裁判所で裁判が行われた。ノミ屋からは「決して名前を明かさないように」というメモを受け取るが、マイクは元々喋るつもりなどなかった。
 ソーシャル・ワーカーと多くの時間を過ごしたが、彼は純粋に私のことを気にかけてくれ、神について話してくれた。私は彼を信頼し、名前を出さずに 自分がしたことの理由を正確に話した。ソーシャルワーカーが私を信じてくれたのか、裁判官に話してくれたのかはわからなかったが、弁護士が交渉してくれて、司法取引が成立した。
 軽度の窃盗と飲酒運転を認め、5年間の保護観察とスコット郡刑務所での週末の社会奉仕5回を言い渡されたが、自分のモラルに完全に反することをした理由を説明できないのは、最悪の罰だった。これまでに受けた敗北の言葉は、何年も頭の中で鳴り響いていました。私は町中を車で走りながら、一人一人の目を見て「あなたは間違っている、私は善良な人間だ」と言いたかった。

 この真相は7年間ずっと隠されていたものの、1990年に、マイクを脅していたノミ屋が新聞に載ったのだ。偽造犯罪組織を率いていたため、30年の懲役だった。そして、やっとマイクは祖母のミリーからはじまる話をすることができるようになった。
私は家族や友人にも同じようなことを言って回りましたが、驚いたことに、みんな「覚えていない」とか「どうでもいい」とか言うのだ。私は信じられなかった。私はずっと恥ずかしい思いをして生きてきたのだ。人にどう思われているかを気にしながら、でも本当は自分を許すことができなかったことを知り、それがとても長い時間を要することがわかった。

Posted at 2021/09/13(Mon) 11:49:44

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

マイク・リンデル自伝「What are odds?」 第3章「沢山のコカイン 1993年」あらすじ・日本語訳

「What are the odds from crack addict to CEO」=「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」

what_odds_3.jpg

※【】内は訳註です。

第3章 沢山のコカイン 1993年


 1993年、シュミティーズ・バーのある夜、私の全面的な賛同を得て、常連客が文字通り垂れ幕から振り下ろされていた。バーは混雑し、隙間無く詰め込まれていた。私は、小さな仕事でもやらなければならないことを考えていたが、その一つが天井のタイルの張り替えだった。それは、18インチの白い音響用タイルで、木製の横木で支えられていた。私は天井を見上げて、天井の状態を確認した。絶え間なく立ち込めるタバコの煙と、ソフトボール大会後の水鉄砲による水の掛け合いで、タイルは何十色にも醜くなっていた。
 その頃、常連客のスキーターとカマラの2人が入ってきた。彼らの目には、トラブルを探しているような感じがあった。ここで、私は一石二鳥のチャンスを思いついた。天井を壊すことは決まっていたが、そのためにはお金が必要だ。私はスキータとカマラをバーの後ろに立つ私のところに呼んだ。
「君たち、うちの天井のタイルを壊してみないか?」
 と言ってみた。
「本当に?」
 スキータが言った。二人とも目を輝かせて、何の問題もなく物を壊せることを喜んだ。
「今すぐ?」
 私はニヤリと笑った。
「ああ、今すぐに」
 すぐに、スキーターとカマラはテーブルの上に飛び乗って、破壊を始めた。突然、その場がジャングルジムに変身した。スケリー、ピティ、トード、ポッキー、フライマンなどが、バーやテーブルに登り、垂木にしがみついて、天井を蹴り始めた。床には瓦が降ってきて、一部は丸ごと、一部はバラバラになって、全体が瓦礫の山のようになってしまった。

 そんな風な調子なので当然ながら抗議にやってくる人も出てきます。マイクは「面白い」と言って常連達の行動を全面的に支持し、相手の不興を買う。しかし、それはマイクの作戦で、シュミティーズのイカれた行動を宣伝させることだった。実際、シュミティーズは話題となり、地域で最も収益性の高いバーとなっていた。
 常連客は新しいバーテンをからかうために、侮辱するような声明を出したり、バースツール【バー試用の椅子】をバラバラにして置いたり、バーテンに直接抗議するのではなく、センスある演出を行った。バーテンはもう沢山だと言って辞めていったが、マイクは却ってそれに満足していた。
 テレビ番組「アメリカズ・モスト・ウォンテッド」のロケ地に選ばれたときも、常連客は撮影班のピザを横取りしたりと、ハチャメチャをやってのける。
 そんな常連客に囲まれている状態に、マイクは自分の居場所を感じていたのだった。
 シュミティーズが急成長したことで、私はコミュニティの構築に着手した。男性と女性のソフトボールリーグを作り、フィールドの手入れや照明の管理、試合の審判もした。シュミティーズはいくつかのチームのスポンサーとなり、ソフトボールの試合が終わると、選手や観客のほとんどがバーに足を運んでくれた。

schmitty.jpg

 【もっと先の内容の写真ですが。地域コミュニティを構築していくマイク】
 また、ビリヤードやダーツのリーグ戦を開催して、シュミティーズをいつも利用してもらえるようにした。その結果、飲み物の売り上げはもちろんのこと、私が作った食べ物の売り上げも増えた。
 厨房の費用は、ほぼ空の銀行口座から小切手を振り出し、その小切手を会計から補填していた。しかし、この年、私は常に先手を打っていたわけではなく、多額の借越金をしてしまった。
 その一方で、書いた小切手と同じくらい多くの不渡りを受け取っていた。ビクトリアは労働者階級の街であり、顧客のほとんどが私と同じように給料日までの生活をしていることを知っていたから、常連客から「給料日まで預かってくれ」と小切手を渡されても気にしなかった。
 しかし、そのような判断を従業員にしてほしくなかったので、私が町に出かけるときには、バーにサインを貼っていた。

『マイクが帰ってくるまで、不良債権は受け付けません』

 マイクは人生を謳歌し、日に20時間働いても平気だったが、それはコカインの助けを借りてのことだった。常連客はコカインをやっていない者の方が多かったし、マイクがコカイン常習者だとは知らなかった。知っている者は黙っていた。
 それでも、シュミティーズでの日々は、マイクに人生がコカインばかりでないことを教えてくれた。

Posted at 2021/06/10(Thd) 19:34:13

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

マイク・リンデル自伝「What are odds?」 第2章「馬鹿げたこと 1968年」あらすじ・日本語訳

「What are the odds from crack addict to CEO」=「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」

back_cover.jpg

 上の画像はバックカバーなのですが、kindle版には付いていません!

※【】内は訳註です。

第2章 馬鹿げたこと 1968年


1968年、マイク・リンデル7歳。
 舞台はリンデル一家がチャスカへ引っ越すことになった日からはじまります。ちなみにチャスカにはマイ・ピローの本社があります。

 私の心の中の1968年。 私の子供時代は、ビフォーとアフターに分かれている。面白いことに、ビフォーの最後の日のことを覚えている。私は、小学2年生のちょうど9日間通ったことを思い出した。なぜそんなことを覚えているのかわからないが、覚えている。9日間だ。

lidell_family1966.jpg

 この家族写真は後の章にある1966年で、2年前のもの。マイク・リンデルの子供時代のビフォーにあたります。
 ビフォーの時代、リンデルは『1960年代のブレイディバンチのような黄色、オレンジ、アボカド・グリーンで統一された』大きな家に住み、朝食用シリアルに砂糖を好きなだけ掛けるような暮らしをしていた。しかし、ある日突然その生活は母の「家を出ていく」という言葉で終焉を告げる。
 
寝室に行って、服やおもちゃを箱に入れたのを覚えている。妹のシンディと私はいつも車で遊んでいたので、かなりのコレクションを持っていた。母がシンディと私、そして妹のロビンを車に乗せる前に、私はできるだけ多くの小さな車を見つけようと必死になった。車はすでに走っていた。母が最後の荷物を車に放り込んでドアを閉めると、私は後部座席にひざまずいて、後ろの窓から外を見た。

 マイクは車の中で母から新しい生活がはじまるということを伝えられるが、辿り着いた先はトレーラー・パークの中にあった。

traler_court.jpg

 私は車のハンドルを握りしめ、外に出て周囲を見渡した。45台くらいのトレーラーが4列に並んでいて、砂利の遊び場の周りには鉄棒やメリー・ゴーランドが置いてあった。通りの真向かいにはゲドニー・ピクルス工場があり、その西側には砂糖工場があった。トレーラーの中はとても狭く、廊下は片手と片足を壁につけて天井まで登れるほどの狭さだった。

 そこでの生活を、マイクは映画「サンドロット」に喩える。子供が大勢いて、色々な冒険や遊びをする、そんなアメリカにある片田舎の光景です。
sandlot.jpg

 5年生になり、マイクはディーンとティムという2人のいじめっ子に、スクール・バスの窓から飛び降りられる方に賭けると持ちかけた。
 その頃の私は、人が見たことのないものを見せることに夢中になっていた。心の中では、驚きを伝えることができれば、他の子供たちに好かれると思っていた。トレーラー・コートの中心にある小さな運動場で、ゲーム(ペニー・ピッチ、ソフトボール投げ)やマジック・ショーを盛り込んだカーニバルを開催していた。妹のシンディが水を飲んで飛び跳ねると、お腹の中でドロッと音がして、それが異常に大きいのです。子供たちは誰もそれを信じられない様子だった。何度かそのような『ショー』を行った後、彼女は抗議した。
「マー! イー! クー!  もうやりたくない!」
 しかし、私はいつもチャームの吸盤や小銭で彼女を買収できた。

 マイクは実に起業精神溢れるお子様だったようです。
 他にも、脱出できるか25セントを賭けてトレーラー・コートの砂場に首から下を埋もれているところに、管理人のメルがフロント・ローダー【ブルドーザーのようにローダーの付いたトラクター】に乗って作業をはじめ、あわやという事もあった。

 しかし、このバスから飛び降りるというアイデアは、私にとって今までで最も危険なスタントだった。真冬のことである。道路には雪が積もり、除雪機が通った溝を埋めていた。私は、フードに毛皮がついた大きな青いパーカーを着ていた。
 ディーンに言われて、私はバスの窓の上部を下げるために座席に立った。思っていたよりも開口部は小さく、バスの中で半身をぶらぶらさせているのを見られたくなかったので、少し心配になった。しかし、今更引き下がるわけにもいかない。いじめっ子たちはすぐ近くに集まってきていたし、バスに乗っている子供たちはみんな見ていた。
 そこで私は、足を先にして窓から体を出し、凍えるような空気の中で窓の上部にしがみつきながら、肩越しに着地点を探しました。不思議なことに、雪が何か背骨や胴体を揺らすような物体を覆っているかもしれないとは一度も思わなかった。もしかしたら、私はボディギプスをつけられてしまうかもしれないし、小指サイズの人間シシカバブ【串刺し】になってしまうかもしれない。
 先に行動、後に考える、これが私のやり方だった。

 バスの窓から飛び降りるというスタントをどうにか成功させたマイク少年。マイクはそのまま少年達に紛れて登校するつもりだったのだが、それはうまく行かなかった。当然ながらバスの運転士は気づいていたし、校長に告げ口されてしまう。
 私は校長の後を追って校長室に入ると、校長は旧式のカール・コードの電話機の受話器を取り、私の母に電話をかけた。彼は母に私のスタントを説明し、心配するバスの運転手とチェルシー小学校の評判の良さを中心に説明したが、いいところが全部省かれていると、私は思った。
carl_phone.jpg

 校長は受話器に向かって言った。
「マイクはいい生徒です。しかし、彼は馬鹿げたことばかりしています。私たちは彼をどうしたらいいのかわからないのです」

 とてもやんちゃで問題児だったようですね。

 2013年のスタートリビュートのインタビューで、子供時代のことについて少し語っています。消えるかもしれませんし、サルベージしておきましょう。


関連記事;StarTribune;Q&A with C.J: 枕メーカーの帝国を夢見る

2013年2月2日 - 7:49pm
 マイ・ピローのCEOであるマイク・リンデルは、非常に夢見がちです。なぜかというと、彼の夢は実現する傾向にあるからです。チャスカに拠点を置き、テレビのインフォマーシャルをあちこちで流しているマイ・ピローは、この夢がきっかけで生まれました。

 リンデルは常に起業家精神にあふれている。少年時代、仲間と一緒に、何匹ものゴキブリの赤ちゃんが住んでいる無人の巣穴を見つけた。
「スポイトで餌をやって、1匹25セントで売ったんだ」
 とリンデルは言います。また、リンデルは7歳のとき、妹のシンディのお腹に水が入ったときの音を利用してマジックを作ったことがあるそうです。

 この他にも、リンデルの自伝『Against the Wind』には、フェンスが設置される前にゲドニーのピクルス工場で行った幼少期のいたずらについても書かれているかもしれません。

 リンデルは私に、本社、工場、そして新居の建設が終わるまでマイクの頭がマイピローに当たる場所などを案内してくれた。なお、リンデルと彼の婚約者が寝室で読んでいる本は、私のゴシップ本のコレクションである。ビヨンセ、私のstartribune.comでは歌を歌っていますが、口パクはしていませんよ。

Q 簡潔に答えてください。どのようにして枕の会社を設立することを思いついたのですか?

A 夢があったからです。私は神からの夢から何かを得るのです。

Q これまでの5つの職業は何でしたか?

A 私は常に起業家でした。最初は、カーペット・クリーニングの事業を始めました。その後、ランチ・ワゴンの事業を始めましたが、これは車を出して料理を提供するものです。その後、バー、そしてレストランを経営しました。

Q 大学では何を勉強していましたか?

A 何もしていません。大学は1年だけでした。テストに合格するために、四半期に2回しか授業に出ませんでした。時間の無駄だと思いました。

Q あなたは今も昔もいびきをかく人ですか?

A はい、あります。

Q 私のいびきを聞きたいですか?(テープが流された)。

A おおーっ。いいですね。

Q 口ひげがあると、あるポルノスターに似ていると言われたことはありますか?

A トム・セレックにも言われたし、ジェラルドにもアメリカで2番目に有名な口ひげだと言われたよ。

Q レストレスレッグシンドロームに枕が効くのは?

A 首には8つの頸部神経があります。眠りはどこから来るのかという私の理論では、頸部神経をまっすぐに保つことで、頸部神経を落ち着かせる必要があります。心臓の鼓動が遅くなり、筋肉がリラックスして、深いレム睡眠に入ります。

Q お客様の声はFDAの承認を得ているわけではないことをご存知ですか?

A そうですね。だからこそ、私たちはFDA、FCC、その他すべての機関から完全なチェックを受けていることをウェブサイトに掲載しています。テレビで言えることはすべて精査されているのです。ちなみに、私は今シカゴで研究を行っていて、人々が何年も前から言っているように、マイピローがこの地球上のどんな枕よりも、あなたが必要とする睡眠を得るのに役立つということを証明するつもりです。

Q マイ・ピローで寝ている有名人はいますか?

A [ドン] アイマス【ラジオ番組のホスト】。実際に彼の人生を変えました。私は彼にお金を払ってあんなことを言わせているわけではありません。彼は余計なことを言ってしまうんだ。彼がマイ・ピローについて言ったことには驚かされました。ジェラルドも枕を持っている。二人とも最高のものだと思っています。

Q 寝るときは何を着ていますか?

A 下着だけのときもあれば、何も着ないときもあります(大笑い)。

Q 最近は誰と寝ているのですか?

A ダラス・ヨーカムです。彼女は私の婚約者で、6月8日に結婚します。

Q マイ・ピローは、固めと柔らかめのどちらがお好みですか?

A すべてのマイ・ピローはソフトですが、どれだけ詰め物をするかが問題ですね。私は当社のグリーン・レベルを使っています。

Q バック、フロント、サイドスリーパー?

A サイドとバックです。

Q 睡眠時間は何時間くらい必要ですか?

A 5〜6時間ですね。枕に頭をつけるとすぐに眠れます。夜中に工場から電話がかかってきても、すぐに寝ることができます。

Q 最後に枕投げをしたのはいつですか?

A その質問は面白いですね。13歳のときに、ミネソタ州コーカトのクリスチャン・キャンプで行われたコンテストで、トロフィーをもらって優勝したんだ。これで一回りした感じですね。

インタビューは編集されています。C.J. の連絡先は cj@startribune.com で、Fox 9 でご覧いただけます。

Posted at 2021/05/21(Fri) 05:42:54

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

マイク・リンデル自伝「What are odds?」 第1章「シュミッティーズの夏 1993年」あらすじ・日本語訳

「What are the odds from crack addict to CEO」=「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」

what_odds_240_2.jpg

※【】内は訳註です。

第1章 シュミッティーズの夏 1993年

1993年、マイク・リンデル32歳の夏です。


 1993年の夏、>シュミッティーズ・ターバンのカウンターに立っていた。私は常連のピーティのためにジャック・ダニエルをハイボールグラスにたっぷりと注いだ。外は27℃もあるというのに、部屋の奥のジュークボックスではエルヴィスがクリスマスを恋しがっていた。建設作業員がシンフォニーの指揮者のように腕を振って、バー中が歌っていた。
ああ、どうして毎日がクリスマスのようにならないんだろう?
もしも毎日がクリスマスのようになれば、この世界はなんて素晴らしいんだろう!

 歌い終わり、客たちは歓声を上げた。

 そして、白いナプキンを天井のシーリング・ファンに投げると、雪のように店の中に降り注いだ。

 マイクの店はビクトリアという人口2,000人ほどの町の、シュタイガー湖の向かいにある。いつも変わった事が起こっていて、人々の話題をさらっていた。
 マイクが目指したのは『どこの国のどんな人でも、自分の居場所だと感じられる場所を作ること』だった。

シュミッティは、個性的な常連客の中から生まれた。例えば、ピーティ。
 彼は、ジェリー・ガルシアが亡くなったときに、とてもショックを受けた長髪の熱心なタダ飲み客だった。彼は、毎日同じ時間に店に来て、同じバースツール【酒場にある腰掛け】に座り、同じ飲み物(ジャック&コーク)を飲んでいた。
bar_stool.jpg

唯一変わっていたのはシャツで、絞り染めのTシャツとグレイトフル・デッドのコンサート用のお茶を毎日午後4時半ぴったりに、大画面テレビのチャンネルを「ジョパディ!」【クイズ番組】に変えさせていた。いつもみんなからうめき声があがったが、30分だけだし、何といってもピーティだからと我慢していた。

 常連客のほとんどはビクトリアで一緒に育った仲間で、スケリー、ピーティ、ポッキー、フライマン、モヒカン、シビーなどがいた。また、トーイング、トム・トーイング、トムの年上のいとこのトニーもいた。彼らはシュミエッグ、ヴォーゲル、シュレムプ、ノーターマンといった名前のドイツ系の血を引いており、1851年にこの地域に入植したとされる男の子孫である詳細も一緒だった。シュナイダーなどの名前を持つドイツ系の優秀な人材が集まっていた。町全体が、カトリックの大家族の兄弟姉妹やいとこ、義理の家族でごった返していた。私は彼ら全員を愛している。

 当時、マイクは数マイル離れたミネソタ州のチャスカで「リーマイケルズ」という別のバーを経営していたが、友人のウェイン・ヒルクに買収できるかどうか偵察に行かせると、まるで『狂気の沙汰』だと返してきて、「シュミッティの店とは一切関わりたくない」と言われる。却って気に入ったマイクは店をギャンブルで巻き上げたのだった。

 真夏にジュークボックスからエルビスが流れてくるのは偶然ではない。月曜のランチでも金曜の夜の外出でも、シュミッティーズは同じように休日の雰囲気を醸し出していた。音楽はその雰囲気に欠かせないものなので、ジュークボックスの曲はすべて私が手ずから選んだ。そのときのヒット曲を入れるのではなく。私たちの両親が聞いていたような70年代以前のヒット曲をたくさん用意した。私のお気に入りのボブ・シーガー、イーグルス、プリンス(彼の自宅であるペイズリー・パークは、この道路から数マイルのところにあった)に加えて、ジョニー・キャッシュの「Ring Of Fire」、リン・アンダーソンの「(I Never Promised You a)Rose Garden」、パートリッジ・ファミリーの「悲しき初恋」など、歌いたくなるような名曲をストックしておいた。


 誰かがこの曲を流すと、「なんでこんな下品な曲を我慢しなければならないんだ」とうめき声が聞こえてきたものだ。しかし、次の瞬間には、テーブルに座ったバイカーたちが、デヴィッド・キャシディと一緒に大声で歌っているのを目にすることになる。

僕は君を愛しているんだと思う!
だったらなんでこんなにも怖いのだろう?
確信が持てないことが怖いのです。
愛が癒しとなるのか……

 昔の歌は人々を幸せにしてくれた。単純な時代に戻してくれた 私はシュミッティーズをそういう場所にしたかった。。しばらくの間、悩みを忘れさせてくれる場所。
 日頃見られないものを見に行くような場所。その雰囲気に惹かれたのか、シュミッティーズにはすぐにファンができた。私はお酒を売っていたが、お酒を売っていたわけではない。 楽しみを売っていたのだ。家族。所属していること。
 それは、子供の頃から、自分の居場所がないと感じていたからかもしれない。私は自分の居場所を感じたことがなかった。

 古き良きアメリカ式酒場の経営という感じですね。村上春樹がバーの経営をしていましたが、方向性がかなり違いますね。
 この後、マイクはバーの経営者をしていた時の眼力を活かして生き延びたりします。それにしても、バーの経営経験はビジネス成功の秘訣かもしれない?
 さて、ついでにショップ用のプロモーション用の言葉があったので、そちらも和訳しておきます。

 こんにちは、私はマイク・リンデルです。マイピロー・ガイとしてご存知でしょう。
 しかし、皆さんは私の物語をご存知ないかもしれません。私は、クラックコカインを含め、人生のほとんどの期間、機能的な中毒者でした。起業家精神が旺盛で、自分のやり方で行動します。14回以上も死にかけて、神の存在を証明するために数学を使ってきました。100万分の1とか10億分の1とか、ありえないようなことが起こるんです。
 でも、それを全部足すと、いつの間にか奇跡になっているんです。誰にでも天職はありますが、神様が私の天職を果たすために追いかけてくれていたことに気づくのに50年かかりました。危うく失敗しそうになったり、ギリギリまで追い込んだりしましたが、最終的には神に身を委ね、神がいればすべてのことが可能であることを悟りました。
 私の物語は、皆さんにインスピレーションと希望を与えてくれるものと信じています。

Posted at 2021/05/09(Sun) 08:22:19

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

マイク・リンデル自伝「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」 あらすじ:序章

「What are the odds from crack addict to CEO」=「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」

what_odds.jpg

※【】内は訳註です。
 前文については、ショップ・サイトにも載っているものなので、全文載せます。前文なだけに!

はしがき

 人生において、私たちは誰でも、時々あまりにもユニークで珍しい瞬間を経験する。その時、私たちは立ち止まって「わあ、こんなことが起こる確率はどれくらいだろう、また同じようなことが起こったらどうしよう」と考えがちだ。または「ただの偶然だ」と思うかもしれない。一生に一度の出来事を何度もある単なる偶然だと思ってしまうと、それ以上にまた何かがあるのではないかと思ってしまうものだ。
 あなたはどの時点で自分に問いかけるだろう?
「これはただの運なのか、それとも私は奇跡を経験したのか?」
 私はこの本を、希望を求めるすべての人に捧げる。

 ベン・カーソン医師【ベンジャミン・ソロモン・カーソン・シニア(Benjamin Solomon Carson Sr.)(1951年9月18日生まれ)は、アメリカの引退した神経外科医、作家、政治家であり、2017年から2021年まで第17代アメリカ合衆国住宅都市開発長官を務めた。2016年の共和党予備選では、アメリカ大統領候補として活躍した。脳神経外科分野の先駆者とされる】による前書き。

 マイク・リンデルに初めて会ったのは、全米規模の祈祷会でのことでした。実際、私が2016年の大統領選を辞退し、ドナルド・トランプ氏を支持した後、私は彼の枕の会社でマイクについて言及しました。私は彼の枕の会社の、2つの当時のトランプ候補でマイクを言及した。あの男は、私が今まで見たトランプが私を含めて言った誰よりもテレビに出ています。マイピローは、アメリカの歴史の中で最も成功したダイレクト・マーケティング製品です。私のグレンデールが自然なマーケッターであり起業家である理由は、その発明者を長く知る必要はありません。神は誰にでも特別な贈り物を与えますが、私たちをより強くするために課題と私たちの方法を配置しています。ある人は、そのチャレンジをすぐに正面から受け止めます。ある人はそのような挑戦を正面から受け止め、私たちを鼓舞し、またある人は壊れた道を進み、外からの挑戦だけでなく、おそらく自分自身の中で最も大きな障害を乗り越えて、私たちをさらに鼓舞します。
 その後、コカインを頻繁に使用するようになり、クラック・コカインが登場してからは依存症になってしまった。
 90年代は、絶対に使わないと誓っていたが、その誓いを破り、クラックをやってしまったことで、彼は急速に落ち込んでいった。コカイン、クラック、ギャンブルの依存症は、彼をアメリカの暗黒街へと追いやり、家族を破産させ、結婚生活を破綻させ、危うく命を落とすところだった。しかし、たとえあなたが絶望の淵にいたとしても、神は夢を触発し、マイピローが生まれました。 最初、マイクは自分の会社が家族を養う手段になると考えていました。しかし、時が経つにつれ、神は、会社は、彼自身の希望と回復の物語を共有するために使えるツールであることを示しました。『What are the odds』は、夢の力についての証言です。人間の限界まで落ち込んだが、そこから抜け出した男の話です。

 復活した男の話です。失敗、成功、謙虚さ、勇気、そして最終的には希望についての物語です。

 序章
 2007年2月、マイク・リンデルは賃貸住宅で、小さなファミリー・ビジネスを立ち上げた。妻と10代の息子がリビングに座って箱詰め作業をしている様子を彼は覚えていたが、それは幸せな家族の光景ではなく、崩壊寸前の世界だった。
 敵対的買収、銀行口座はほとんど空、アルコールやドラッグに溺れ、ギャンブルに熱中していた。ノミ屋に4万5千ドルもの借金まであった。全てが崩れ去る寸前だったが、まだ彼は家族にそれを伝えていなかった。「カミソリの刃」の上を歩くような人生をずっと続けてきて、自ら自分を追い込んでいた。

 だからこそ私は、どうにかして再び《ツキ》が回ってきたら、と考えていた。
『何とかして、もう一度逃げ切れないか?』
 そんな風に考えていたから、毎年恒例のメキシコ旅行をキャンセルしなかったのだ。メキシコの麻薬売人が、コカインを無限に供給すると約束してくれたからだ。そう。私は中毒者であり、私の物語の一部は中毒についての話だ。

 しかし、マイク・リンデルは路上生活者ではないし、会社を経営し、家族を養い、子供達に野球を教え、ハンティングや、釣りを楽しむ普通のアメリカ人だった。
 これは、一般の人が目にすることのない、依存症の隠された世界である。家族を持ち、コミュニティで役割を果たし、委員会に参加し、ビジネスを所有し、仕事をしている人たちが、少なくともしばらくの間は、依存症は誰にでも影響を与えるのだ。2007年の春、自滅が加速する中、私は依存症患者がするように、自分の問題から逃げようとした。カレンと私、そして親友のポール、愛称スケリー、ジェニーは、メキシコのビーチタウンへ飛んだ。

 1袋2グラム弱のコカインの小袋の数袋入手するも、最後の1袋がどこにいったかわからなくなり、マイク・リンデルは中毒者独特のパニックを起こしてしまう。朝7時〜8時まで待っていればギャングに会えるのに、夜中に売人を捜して町に出てしまったのだ。
 振り返ってみると、私は自分の強迫観念に目がくらんでいたのだとわかる。新鮮なドラッグを手に入れるためにほんの数時間待たなければならないということは、ミネソタの家に戻ってからの夜をも台無しにしてしまうという狂った論理に目がくらんでいたのだ。

 その一方で、ラスベガスでプロのカード・カウンターをしていたこともあるマイクは、コカインの供給の問題を確率で考えており、コカインの入手確率が最も高い選択肢を適格に選んで危険な場所へと入ってしまう。夜中の1時にである。
 通りは静かで、表にメキシコ人が一人立っていて、他の三人が長い木のベンチで音を立てている以外は、誰もいなかった。
「こんにちは。調子はどうだい?」
 立っている男は英語がとても堪能だった。彼はカジュアルな服装で、短い黒髪のクリーン・カットだった。
「コカイン持ってる?」
 私はストレートに言った。

 以後、この男はクリーン・カットと呼ばれる。クリーン・カットとはこういう髪型。
clean_cut.jpg

クリーン・カットの男は笑顔で言った。
「問題ないよ。お礼にビールでも飲むかい?」
 私は彼が親切そうだったので受け入れた。
 しかし、私は演技かどうか見ればすぐに分かった。その頃、私はラスベガスのブラック・ジャックテーブルで大金を稼いでいたが、偉大なカード・カウンターは、精神的な計算を演技で誤魔化していたのだ。
 私は彼に100ドル札を渡すと、彼は小屋のどこかからビールを取りに行ってしまった。私はこの機会に彼の仲間の様子を探ってみた。ベンチに腰掛けてタバコを吸っていたが、座っていても3人の顔が見えた。私よりも背が低く、175センチから177センチだ。私に一番近い男は特に目立った特徴はない。
 3人目の男は、私から一番遠いところにいた。彼が銃を持っていることはすぐにわかった。メキシコで麻薬を買うときはカジュアルなものだし、ここのギャングは短パンに麦わら帽子で、9ミリの拳銃は持っていないから変だと思った。不思議なことに。それよりも心配だったのは、真ん中の男だった。彼は若いギャングの目のような「怒りの目」をしていて、自分の進むべき道に何かひどい痛みがあって心が燃えているようだった。

 寂しい場所で、彼らがいる以外に何もない。この明らかにアウトな状況にようやくマイク・リンデルは気づき始める。ビールを持ってきたクリーン・カットからの質問に、マイクは嘘で応えるが、リゾート施設のリストバンドをしていなかったため、簡単に嘘がバレてしまう。マイクは疑われ「ここに来たことがあるのか?」と質問をされ、「来たことがない、もう嘘はない」と言った直後、マイクはうっかり町の名前を口にしてしまう。
「ここに来たことがないのなら、どうして町の名前を知っているんだ?」
 三人の男達がマイクを取り囲む。マイクの喉にはマチェーテ【鉈の一種】が突きつけられた。普通なら命乞いをするところだが、マイクは普通の状態ではない。マチェーテの刃を両手で掴んで「マチェーテは買わない」と言い放つ。
 マイクはタバコを吸おうとするが、ポケットから行方不明の未成年の写真が出てくる。クリーン・カットはマイクのことを警官や情報提供者、あるいは敵対するギャングのスパイだと疑っていた。
私は顔と胸から血の気が引いていくのを感じた。そして足に向かって、脳が「走れ」と言っているのを感じたが、動く勇気はなかった。私はその場に留まり、私の人生における大事な人々の顔が走馬燈のように頭の中を駆け巡りった。妻、子供、両親、孫。その瞬間、死が現実のものとなった。
 急に悲しくなってきた。これが私の依存症と誤った決断がもたらしたものなのか。馬鹿げている。考えてみると、あの白い粉を手に入れるために何十年も策略を練り、唸り、最後にはすべてを失ってしまったのだ。
 私はとても賢かった。私はとても賢かったが、ゲームは終わってしまった。私はこの暗い荒れ果てた通りで死ぬことになった。
 アメリカ人観光客がメキシコで行方不明になったという小さなニュースが流れた。

shadow_gameover.gif

 序章でいきなりゲーム・オーバーです!
 次回、マイク・リンデルはどうなってしまうのでしょうか?

Posted at 2021/04/28(Wed) 06:28:48

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

韓国人の慰安婦問題はBLMと同じような問題(マイケル・ヨン)



我那覇さんのニューメキシコからの動画(1/27の続き)

話の内容で出ている本がこちら。

korea_blm_.jpg
マイケル・ヨン 慰安婦問題の真実

 アメリカ人に、韓国人の(政治的な)行動についての問題を説明する際「BLMと同じようなものだよ」と説明すると、すんなり理解して貰える……と思います。ただ説明する相手がANTIFAや民主党系だった場合、最悪の場合ドアノブに吊されるかもしれませんから、相手はちゃんと見極めないといけませんが。民主党を見たらヒラリーと思え!

 ところで、説明文にありますが、我那覇さんの動画も文字起こしや翻訳してしまっていいのでしょうかねぇ……。ここでは一応。権利上は大丈夫そうなやつだけ選んでます(政府発表、スピーチ、リーク、潜入調査、予言、anonymousの書き込み、ツイート類、陰謀論のレッテルを貼られている言論など、拡散希望されているもの)が、我那覇さんの動画は正当に評価されるのであれば、もっと大きな利益を生むべきだとは思っています。

Posted at 2021/01/28(Thd) 13:18:53

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

佐藤泰志作品集

satou.jpg


amazon.co.jp;佐藤泰志作品集
 なにこの辞書サイズ。大きく、分厚く、重く、そして大雑把でまさに鉄塊そ(ry
 手で持って読むと重すぎて手首が痛いのですが、厚すぎて書見台にも設置できないという罠。仕方ないですけれども……。
 読めなかった「星と蜜」「虹」が読めるのが嬉しいです。

 作品一つ一つについてはもう語ることもないのですが、福間健二の解説について。

彼の小説は、どういいのか。どうすごいのか。結局、文学の本来の力がそこにあるということを換言するだけになるかもしれないが、それは、「逃避」か「参加」かといったレヴェルを超えたところで、現実と向き合い、生きる人間をつかまえている。そして、そこには生命の粒子のつまった空気が流れていて、熱と匂いと汚れがそのまま輝きとなるような結晶の瞬間が訪れるのだ。

 綺麗すぎてわかったようなわからないような言い廻しですが、要するにあるものをありのままに表現できている、ということでしょうか。佐藤泰志の作品には確かなリアリティが存在する、と。
 最近流行りの小説にはこれがありません。実話だろうがなんだろうが現実味のないシュールな世界ばかりが描かれています。リアリズムの強い作品は重厚となりがちなので、読者から受け容れられないのでしょうね。
しかし、佐藤泰志の表現は、中上健次のような、神話的な時空への展開をもたないし、また、村上春樹のような、ニュートラルな身ぎれいさにむかうこともない。ひとくちにいえば、等身大の人物が普通に生きている場所に踏みとどまっている。

 要するに昔ながらの、本格派純文学小説家といったところでしょうか。ほのかに漂う第三の新人臭。
 佐藤泰志は自分と戦っている様子がこちらにまで伝わってくる稀少な作家です。本当に痛々しい。不幸系の純文学作家は大勢いるにはいますけど、みんな程度がヌルいですから。病気の鬱となんちゃって鬱くらいの差はあります。
 しかし、自分語りの私小説に留まるのではなく、ちゃんとした物語として作品を完成させています。そこら辺に関しては年譜や、生前のことをよく知っている人の話などと照らし合わせてみるとよくわかります。

 同世代の村上春樹と比較されていますが、彼が売れる作家の典型的スタイルなら、佐藤泰志は売れない作家の典型的スタイルですね。
 作品は確かに芸術だけれども、商品としては弱い。仮に私が出版社の人間だとしたら、やはりプッシュするのは躊躇します。

Posted at 2007/12/14(Fri) 16:38:41

ブック・レビュー | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ