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マイク・リンデル自伝「What are the odds?」 第4章〜第5章 あらすじ・日本語訳

「What are the odds from crack addict to CEO」=「こんなことってある? コカイン中毒者からCEOへ」

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 今回は九死に一生を得たという話と、ギャンブル依存症についてです。

第4章 「ペパーミント・シュナップス 1972年〜1979年」
第5章 「たばこの煙とアクアネット【整髪料】 1982年〜1985年」

※【】内は訳註です。

第4章「ペパーミント・シュナップス 1972年〜1979年」

 ペパーミント・シュナップスとはドイツ系のキツいお酒のことです。

 精神的に影響を受けたものを思い出すとき、エルビスを自分のリストに入れる人はあまりいないと思うが、私は11歳の夏にエルビスをリストに加えた。その年、私の家族はチャスカの北西にある1時間ほどドライブした場所にあるKOAキャンプ場を訪れた。

 この附近はキャンプ場だらけで具体的にどこなのかはわかりませんが、写真より。
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 そのキャンプ場でマイクが聞いたのがエルヴィスの「I've Got Confidence(自信がある)」

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・ 継父のフレッドのピックアップ・トラックで時速55マイル(88.51km/h)でオークの大木に突っ込み、20ヤード(18メートル)もトラックから投げ出されたにも拘わらず、無傷で生還。

・ 町の半分が停電したほどの大停電を起こし、危うく感電死するところだった。

・ スカイダイビングへのレッスンへ行き、パラシュートが完全に開かなかったため、時速60マイル(96.56km/h)で地面に激突した。

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・ その日のスカイダイビングの帰りにバイクを大破。HONDAで空冷アメリカンということはCM400Tホーク2っぽい外見ですが……。

年々、このようなことが何度も起こり、自分に問いかけています。こんなことが起こる確率は? 【英語表現で「ありえるか?」という意】


第5章「第5章 たばこの煙とアクアネット【整髪料】 1982年〜1985年」


 青年時代のマイクです。
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 アクアネットとは80年代のアメリカで流行った整髪料のこと。パンク・スタイルなどをこれで表現していました。
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 つまり日本的に意訳するなら「たばこの煙とヘア・スプレー」で、80年代ヤンキーの絵面を重ねておけばちょうどいいかと思います。

 高校卒業後、ギャンブルに本格的に取り組んだ。私が育ったのと同じトレーラーパークにトレーラーを購入していた。
 私が最初にしたことは、フェルトで覆われたポーカーとクラップスのテーブルを置いてカードを配ることだった。家族の言によると、母の父である祖父のチャックは、指紋が消えてしまうほどたくさんのカードを配っていたというから、祖父の足跡をたどっているような気がした。彼は、サウスダコタ州デッドウッドにある、おがくずを敷き詰めたサルーン「ゴールド・バー」で働いていた。


 母親が父親と別れてトレーラー暮らしで不安定な数年間を送っていたリンデル少年にとって、祖父母のチャックとミリーの住む町は嵐の中の安全な港のようでいて、「平和」を意味していた。
 チャックおじいちゃんはキャデラックに乗って、エメット郡のあちこちに連れて行ってくれた。私はおじちやんが賭博場での話をしてくれるのが大好きだった。デッドウッドでカードを配ってから何十年も経っていましたが、彼がギャンブルを愛し、イカサマを嫌っていることはよくわかった。
 それは、私の血筋だったのかもしれない。高校3年生の時には、スポーツ賭博、特にNFLに夢中になり、可能な限り試合に賭けるようになりました。高校卒業後、私はミネソタ大学に5分ほど通った。
 1979年、イスラム過激派がテヘランのアメリカ大使館を占拠したとき、私はいつ世界が終わるかわからないと思いました。黙示録の間は勉強するよりも楽しんだほうがいいだろうと考え、大学を辞めて友人のジム・ハンセルとクーパーズの近くに引っ越しました。住むところがなくなった私は、友人のリックを説得してバンを購入し、一緒にカリフォルニアに行くことにした。
「太平洋を見に行くんだ」

 途中のカンザスまで母親の弟であるブッチ叔父さんを送っていくことなるが、彼はアルコール依存症。しかし善良な酔っぱらいであり、ジン・ラミーの名手でもあり、いなくなると寂しくなるような面白い人だった。
 叔父を下ろし、ニューメキシコ州のアルバカーキ郊外で夜中にガス欠を起こした二人は、ガソリン・スタンドに置いてあった車輌からガソリンを抜く。代金替わりにワイパーに20ドル札を挟んで置いたのだが、警察に咎められてしまう。幸い、警察はわかってくれて駐車場で一晩過ごすようにアドバイスしていった。
 マイクとリックはラスベガスに到着する。

 マイクはチャックおじいちゃんからクラップスはどのカジノでも確率が一番高いと言っていたのを思い出す。

クラップスとは?
 クラップスは、ラスベガスのカジノで、大きなテーブルの中で行われるサイコロゲームです。クラップスは、さまざまなベッティングオプションがあるため、理解するのが難しいゲームです。クラップスでは、プレイヤーは、1回のロール、または2つの赤いサイコロを連続して振ったときの結果に対して、カジノに対してお金を賭けます。

 マイクはルールさえ知らなかったものの、たった5ドルではじめてなんと2,600ドル(当時は1ドル=200円以上だったので、52万円以上にもなる)以上の大金を手に入れた。これは天文学的な確率だが、これが34年間にもわたるギャンブル依存症原因でもあった。はじめは些細な敗けだったが、回数を重ねるごとに賭け金が増えていき、文字通りの意味で生死に関わるほどにまで悪化した。
 高校生の頃からお金さえ払えば賭けられるノミ屋で、マイクは賭けにのめり込んでいた。1981年の秋、ある火曜日の朝に目が覚めたときには、1万2千ドル(当時264万円相当)もの大赤字になっていた。
 マイクはマフィアに怯え、店長のレニーに「ライン3」の合図(店には電話が2回線しかない)を出して貰うことにした。ライン3を告げられたマイクはトレーラーに逃げ込み、バリケードを作り、隠れてやり過ごす。
 友人のマークが銀行員をしていたので、マイクは正直に話して融資を取り付け、どうにか乗りきった。

 しかし、マイクはこれで懲りずに今度は1983年11月、今度は2万5千ドル(当時580万円相当)の赤字を出す。年収よりも多い。マイクは友人宅を転々とし、飲み暮らす。
 マフィアは電話でこう告げる。
「お前が自分のことを大切にしていないことはわかっているが、お前はとてもいい家族と暮らしているな」

家族が狙われている。私は何をしてしまったのか……涙が溢れた。ああ、自分の顔が。思わず腹の底から叫んでしまい、床に崩れ落ちてしまった。目覚めない悪夢の中に閉じ込められたようだった。長い間、その場に座り込んでいたが、突然、頭の中の雑音をかき消すように、一つのひどい考えが浮かんだ。

 マイクはパニックを和らげるためにビールを1ケースを空っぽにするまで酔っぱらった。そして車に乗ってハイウェイ169号線を南下。アイオワに立ち寄って叔父から金を借り、ラスベガスに逃げて、マフィアに見つからなければ二度と戻ってこない。……つもりだったのだが、ミネソタ州のセント・ピーターに車を停めると、彼らはそんなルールを守らないことに気づいた。どこかに侵入して窃盗罪で刑務所に入って安全を確保するか……酔っぱらいの歪んだ論理で次々と酷いことを考えつく。
 マイクが近くのガソリンスタンドに入ると、中は無人でマイクはレジを開けて物色する。その時に部屋の片隅に誰かがいるのに気づいてマイクは酷く恥ずかしい気持ちになる。
それまで犯罪の被害者だったのに、今度は別の人に同じ思いをさせてしまった。その人に「何も恐れることはない」ということを伝えることが、私にとって最も重要なことになったのだ。私は全力で店を飛び出し、車にたどり着いた。ふと、小切手をレジに戻すのを忘れていたことに気づいた。私は小切手を空中に放り投げ、車に飛び乗ってアクセルを踏み込んだ。

 マイクはパトカーと接触しそうになった。警察はまだ窃盗のことは把握していなかったが、あっという間にマイクは捕まってしまう。目を覚ました時には留置場の独房だった。
 窃盗と高速でのカーチェイスはニュースになり、マイクは恥ずかしさでいっぱいになる。
ギャンブル好きでいたずら好きと言われることと、犯罪者と思われることは全く別のことだった。

 マイクは他人と向き合う勇気を持つのに2週間ほどかかったが、ようやく向かったのが数ヶ月前から通っていた「サイズ・バー(Cy's Bar)」だった

 しかし、オーナーのローからマイクは辛辣な言葉を浴びせられる。
「マイク、君はこの街を出た方がいい。この先やっていけないだろう」

 そして、銀行からも『道徳的な性格』を理由に融資を断られ、マイクは涙する。
 1984年3月、ニコレット郡の地方裁判所で裁判が行われた。ノミ屋からは「決して名前を明かさないように」というメモを受け取るが、マイクは元々喋るつもりなどなかった。
 ソーシャル・ワーカーと多くの時間を過ごしたが、彼は純粋に私のことを気にかけてくれ、神について話してくれた。私は彼を信頼し、名前を出さずに 自分がしたことの理由を正確に話した。ソーシャルワーカーが私を信じてくれたのか、裁判官に話してくれたのかはわからなかったが、弁護士が交渉してくれて、司法取引が成立した。
 軽度の窃盗と飲酒運転を認め、5年間の保護観察とスコット郡刑務所での週末の社会奉仕5回を言い渡されたが、自分のモラルに完全に反することをした理由を説明できないのは、最悪の罰だった。これまでに受けた敗北の言葉は、何年も頭の中で鳴り響いていました。私は町中を車で走りながら、一人一人の目を見て「あなたは間違っている、私は善良な人間だ」と言いたかった。

 この真相は7年間ずっと隠されていたものの、1990年に、マイクを脅していたノミ屋が新聞に載ったのだ。偽造犯罪組織を率いていたため、30年の懲役だった。そして、やっとマイクは祖母のミリーからはじまる話をすることができるようになった。
私は家族や友人にも同じようなことを言って回りましたが、驚いたことに、みんな「覚えていない」とか「どうでもいい」とか言うのだ。私は信じられなかった。私はずっと恥ずかしい思いをして生きてきたのだ。人にどう思われているかを気にしながら、でも本当は自分を許すことができなかったことを知り、それがとても長い時間を要することがわかった。

Posted at 2021/09/13(Mon) 11:49:44

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