I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

歴史禍

http://x51.org/x/06/01/1434.php 
 中島敦の作品に「文字禍」というのがある。デビュー作の『古譚』四篇の最後の短編である。例によってあらすじを書いておく――
 アッシリア人の老博士ナブ・アヘ・エリバが、アシュル・バニ・アパル大王より文字の精霊についての研究を命じられる。老博士が聞き取り調査をするに、文字を覚えた人が真を見る眼を損ない、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり猟師は獅子を射損なうことが多くなったという。文字の危険性を認識し、そして怖れをなした老博士は大王へ文字の危険性を訴える。しかし彼は大王の不興を買い謹慎に処され、数日後に起きた大地震の時、自分の書斎で崩れた粘土板によって圧死してしまった。
 ――このような、まるでボルヘスのような話である。この中で、歴史家の青年と会話するシーンがある。そこが今回の着目点である。
 
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 賢明な老博士が沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次の様な形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
 (中略)……歴史とは昔在った事柄で、且つ粘土板にされたものである。この二つは同じことではないか。
 書き漏らしは? と歴史家が聞く。
 書き漏らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
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 これは何も作品の中に限ったことではない。歴史とは記録されたものである。歴史的な新発見とは、井真成の時のように書かれたものの発見か、そうでなければ実物を掘り出すより他にない。しかしこの二つを較べた時、より強力なのは前者=書かれたものである。書かれていない出来事というのは、書かれた歴史の前ではほとんど全く無力なのである(参考文献:穂刈実「ラディカル・オーラル・ヒストリー」)。書かれたものが全くの嘘っぱちである可能性もあるというのに!
 中でも“発見”ということほどややこしいものはない。歴史上の発見について言えば、その記述が残されてはじめて発見と呼ぶことが出来るのである。もし記述が残っていなければ、どれだけ過去に見つけられていても、歴史の上では発見とは呼ばれない。仮にアメリカ大陸でコロンブス以前の白人の遺骨が発掘されたとしても、その人は発見したとは言えないのである。もちろん、ここでは西欧の歴史についてである。誰が何んと言おうとも、歴史に最初に刻まれてしまったのはコロンブスなのである。最も古い記述=最も古い歴史(発見)というわけだ。
 まともな神経をした人なら、下らないことだと思うだろう。それは実に正しい感覚だ。「文字禍」に登場した若い歴史家も同じような気持ちだったと想像する。しかし、歴史とはあくまでそうしたものなのである。もし、真を捉えたものだとしたら、それはもう既に歴史ではないのだ。
 
 さて、リンク先の地図ついての個人的な所感も書いておけば……実際に全土を歩んで地図を作製したのではなく、航海の時に現地人とのやり取りから地図を総合的に編集したのなら、あってもいいと思う。同時に、ありそうなことである。文字を持たない民族は西欧人からは想像もつかないような場所まで到達していたことがあるので、南極が描かれていても、あまり不思議ではない。
 しかし、もし鄭和らのみで全部踏査したと言い張るならそれは絶対にあり得ない。それはもはや竹内文書の世界である。
 現在、歴史小説や歴史漫画に書かれている全てを史実だと思っている人はまさかいないだろう。沢山の嘘があるにも拘わらず、歴史を知るためにそういうものを読む人は割と多い。それには文句はつけないのに、人というのはオカルトの世界になると、一つでもダメなところがあれば全てにバッテンを付けたがるものである。
 歴史モノの創作に何んらかの真実が含まれているように、この地図にはいったいどんな真実があるんだろうか、と思うとなんだか愉しみなものだ。

Posted at 2006/01/15(Sun) 11:55:55

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