
オゴテメリとの対話である「水の神」(全326p)の2倍の厚さはあろうかという本(全577p)。オゴテメリとの対話は非常に小説的で面白かったのだが、こちらは資料的本に過ぎない。とてもじゃないが全て読む気にはなれない。どうにか斜め読みしてみると、何カ所かでシリウスという単語と出会うことが出来た。しかし、とてもじゃないがこのサイトやこのサイトに書かれているようなことは読みとれなかった。
言葉を捉える限りでは、あくまで神話の域を出ていない。どうやっても無理矢理に歪曲させて、近代宇宙観とつなぎ合わせているとしか思えない。言うなれば『演繹法ではなく帰納法によって求められている』ということだ。つまり『ノンモ=シリウス星人』という定義をまず最初に作り上げ、都合の良く合致する事実だけを拾っているに過ぎない。
恐らく周囲からの注目を得るために、博士らがこじつけたものだろう。当時は、そうしたものがウケていたし、横行した時代だったはずである。または、実際に読んだことは無いが、テンプルの論文などにも影響はあるかもしれない。所詮、白人に黒人の神話を理解せよ、と言ってもどだい無理な話だったのだ。日本にもいるではないか、本人は日本通だと思い込んでいるが、我々日本人から見ればただの“変なガイジン”に過ぎない人達が……。
この場合、問題となるのはあくまで“こじつけ”であって、ドゴン族の語った言葉に偽りを求めることは全く無意味である。そもそも神話とは、全てが事実とは無縁なのだから。
聖書を事実だと信奉する人々は現在でも世界中に沢山いるが、日本人の我々がそうした人に触れると、『この人は頭がおかしいのかもしれない』と思うことだろう。旧約の『天からマナが降ってきた』などはトンデモ学者格好の温床で、異星人飛来説や、彗星の雲説など、幾らでもバカな話をこじつけられる。要はそれを解釈する人によって、神話は幾らでも変貌するのだ。
神話はまず象徴、あるいはフィクションとして読むべきであって、事実と思って読むべきものではない。ある私小説作家の実母は『もう何十回も殺された』とぼやいていたそうだが、それは悲しみという経験を象徴として描いているので、実母が死んだという事実を書こうとしたのではない。しかし作者にはそういう気持ちが心の中にあるのだから、全く偽りというわけではないし、むしろ真実の心を告白したとも言えるだろう。事実でなくとも、真実は描けるのである。
ドゴンの教義には、案の定段階があり、その段階を積むことで新しい神話と出会い、なおかつ高い宗教的地位を得られるものだということが解った。オゴテメリも、密かに長老会へ逐次報告していたらしい。
それぞれの階級に応じて少しずつ違った神話が用意されている――これがドゴン神話最大の特徴ではないか。最後にシリウスの載っている図を一つだけ拝借して、結びとしておく。

----(6/13追記)----
これだけで終わるのは何んなので、少しだけ解説。本気で解説するにはあまりに厖大過ぎるので、あくまでほんの少しだけ。
ドゴンの文化はとにかく“形”に由来しており、家々の配置なども、神話に基づかれているという。星の配置は創造神アンマの身体の配置である。現代の宇宙図に対応できない星もあるが、それらはあくまで神話に合わせるために用意されたものであって、高度な宇宙観測によって得られたもの――という印象は受けなかった。
因みにタイトルにも使われている狐だが、「水の神」ではジャッカルと記述されていたもの。アンマによって造られた最初の被造物であり、最初の混乱を生んだ狐=オゴである。
狐の祭壇というのがあり、足跡が吉凶の占いに用いられているという。
トンデモ世界になると、それぞれの要素を天体として、宇宙での諸現象の暗示と見るのだが、正直無理しすぎ、である。
宇宙起源の話を持つ神話は非常に多いが、それらはあくまで想像力によって作られ、練り上げられた“おはなし”であり、地上での出来事を“象徴”したものに過ぎない。従って、それを現実のこととして捉えるのは、かなり見当違いな話である。
Posted at 2006/06/11(Sun) 12:28:34
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