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夢野久作「卵」「押絵の奇蹟」(ネタバレ注意)

 今までに何度か話題に挙げた夢野久作だが、彼の作品は生前、ほとんど問題にされることが無かった。彼の長篇「ドグラ・マグラ」がヒットしたのは、戦後になってからのことである。その時のヒットが無ければ、あるいは夢野久作という名前は文学史の深い地層に埋もれていたかもしれない。
 読んでみると確かに戦前の作品とは思いがたいものがちらほら見える。同じジャンルと言える江戸川乱歩を読んだ時に感じるような古くささがほとんどない。少し下世話なところがあるので、そこが古くささとも言えるが、彼の世界観は近代の世界観よりもむしろ現代の小説、映画、漫画により近いものがあるように思う。言葉遣いや名詞が古いだけで、書いてあることは、最近の名詞と形容詞をすげ替えただけの使い古された純文学や、妙に対象年齢の低いエンターテイメントよりも、よっぽど新鮮味があるような気がする。
 さて、今回はその中から二つの作品を紹介したい。


「卵」(青空文庫へリンクしてあります)
「押絵の奇蹟」
 ――の二つである。どちらも魂の交合が何んらかの結果を生み出すことをモチーフとした作品なので、セットで読み解いてみる。


「卵」
 隣の貸家に引っ越してきた露子さんと、三太郎君(共に呼称は原文通り)。一目で惹かれあった二人の魂が夜な夜な抜け出しては逢い引きするという、女性が読んでも『アラ、素敵な話じゃない』と思えなくもない展開だが、これが実にくせ者なのである。魂の交合にも、肉体の交合と同じように『ある結果』が残されていたのである。二人の魂が逢い引きをしていた場所には誰が植えたわけでもないのにコスモスが咲き乱れ、露子さんの家が引っ越してしまった時、その場所には一つの大きな卵が残されいたのである。
 三太郎君は卵を抱いて眠り『こうして独身のまま、かあいい卵を抱いて生涯を過したらばどんなに気楽で嬉しいだろう』と空想する。しかしそのうち卵は病的な風になり『オトウサンオトウサンオトウサン……』と死にものぐるいで叫ぶ人間の声がしてくるようになる。ついに三太郎君は卵をもとの処に返す決心をし、その途中で卵を割ってしまう。翌朝、後始末の心配していると、不思議なことにあとには何も無かった。『そうして何喰わぬ顔で朝食前の散歩』に出かける。隣の貸家にはまた新しい人が来るらしく、貸家札が剥がされていた。
 ――こういう、男性諸子にとっては何んともむずがゆい譬喩的な話しである。時折三太郎君ダメっぷりを男の無責任となぞらえて紹介されているが、「押絵の奇蹟」と併せて読んでみると、それだけではないような気がする。

「押絵の奇蹟」
 少し込み入った話なので、梗概が長くなってしまうが、ご愛敬。
 この作品は久作お得意(?)の手紙体の小説で、ピアニストの井ノ口トシ子から売れっ子歌舞伎俳優の中村半次郎こと菱田新太郎宛の手紙になっている。トシ子は男嫌い、新太郎は女嫌いと言われるほど、それぞれ異性を撥ねつけている。二人とも同じ年齢、同じ誕生日で、胸が悪く喀血の気がある。トシ子は新太郎の父親の半太夫に顔が似ており、新太郎はトシ子の母親に似ている。これにより、二人が双子の兄妹ではないかという疑惑が浮かび上がる。
 トシ子の母親というのが美しく、かつ天才的な裁縫手芸の才を持ち、博多で評判である。そんな折、柴忠という博多一番の大金持ちから娘が生まれるから――と阿古屋の琴責を押し絵にすることを依頼する。その時に参考とするために芝居を見せるが、その時に阿古屋の役を演じたのが中村半太夫(新太郎の父)であった。母親は六日目まで芝居を観た後、一週間後にはもう押し絵が完成していた。それがまた評判の代物で、柴忠の家には多数の見物人が押し寄せ、櫛田神社の絵馬堂に収められた。これによって母親の名前は広く知れ渡り、あちこちから引っ張りだこになる。
 美しい娘(トシ子)が生まれた。ところで父親は武士の家柄だが、醜男で、無粋である。そのために周囲の者たちはトシ子が半太夫との子であると邪推し、それを揶揄した歌を近所の子守女が歌った。そもそも無粋な父親はそれに気づくことは無かったが、元々引け目と妻に近づく男に嫉妬を感じていたのか、母親をほとんど幽閉状態にして、外に出そうとしない。そのために、母親は憑かれたように仕事に打ち込む。ところでその仕事によって作られた押し絵というのが、娘のトシ子の面影を有している。というのも、トシ子をモデルにして下絵を描いているからである。問題はその時の母親の様子である。自分の娘の顔をじっと見て、溜息をついたり、時折泣き出したりもしているのである。
 さて、時が流れて再び柴忠から押し絵の依頼が来る。八犬伝の犬塚信乃と犬飼現八の押し絵を作ることに決めたが、この時の錦絵の犬塚信乃は中村半太夫が改名した中村珊玉が演じていたのである。母親は半太夫の姿をした錦絵を下敷きに押し絵を作る。先の押し絵同様、櫛田神社の絵馬堂に収められたが『見物人を見てくる』と言って出ていった父親は、その時やっと自分の娘が中村半太夫と瓜二つであることに気づくのである。そして帰ってくるなりトシ子をひっつかまえて妻を問い質す。妻は『不義を致しましたおぼえは毛頭ございませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます』という謎の言葉を残し、父親によって斬り殺される。その時トシ子も母と一緒に斬られてはいたが、肺を避けていたために助かった。父親は切腹死していた。
 その後、成長したトシ子は周囲の眼の冷たい博多を嫌い東京へ出てきたが、そこで中村半太夫が死んだことを知る。替わりに新太郎が母親と瓜二つであることに気づくのである。やはり兄妹なのか――と思いつつも『不義を致しましたおぼえは毛頭ございませぬ』という母の最期の言葉が気になって調べものをする。そのうちに妊娠中に強い意識で見ていたものに胎児の姿が酷似する――という奇異な話を発見する。母親と半太夫とがお互いに強く純粋に想い合っていたために、トシ子と新太郎の二人の姿が入れ違いに似てしまい、他の異性をことごとく撥ねつけ、お互い一目見ただけで惹かれ合っていることをトシ子は確信し、いたたまれなくなって新太郎に手紙をしたためたのである。


 オカルトファンならニヤリとする話であろう。x51.orgでもこれに類した話が紹介されている。そうでなくとも、この両方の作品はオカルト漫画で随分ネタを利用されているように思う。
 ともあれ、プラトニックな想いが何らかの結果を生む……という点で「卵」と「押絵の奇蹟」は似た作品だと言えると思う。ただし一見子供向きに見える「卵」の方がより邪悪で、大人が読んだ方が痛い。一方の「押絵の奇蹟」は「ドグラ・マグラ」のように複雑で読むのに苦労するが、子供のような純心な世界が描かれているという、ちぐはぐさがある。このちぐはぐなところが却って面白味があると私は思う。
 また、「押絵の奇蹟」はとても面白い作品ではあるのだが、少し冗長である。読者を幻惑することを気にするあまり、そこが却って作品を損なっているように思う。もう少し文章を締めた方がいいように思うが、その辺は女の手紙という設定で、どうにか煙に巻いている。
 一方の「卵」は切れ味抜群、ピリリと辛い。視点も冷静に神の視点である。「卵」と「押絵の奇蹟」の二作品はモチーフは似ていても、その手法は大いに異なっているのである。これは実に面白いサンプルだと思う。

Posted at 2006/01/18(Wed) 20:54:10

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