I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

著作権の話

 別に著作権を守ろう、というのでも、破壊しよう、というのでもない。なんでこういうことを言い出すのか、というと、某サイトで作品レビューを読んでいるうちにふと思ったので。
 昨今は某小説家による漫画トレース事件など、著作物に対しネットを利用した盗作・盗用監視が行われている。それ自体は別に悪いことではないし、創作者の尻を叩くことになり、創作物はより洗練されたものだけが残るようになるわけで、むしろ良いことだと思う。
 ただ非難すべきは小林○星のような人である。ちょっと似ているだけで「これは私が作ったものである」と騒ぎ立てるのはいかがなものか。それで果たして訴えた側の権利が何か守られているだろうか?
 仮に『全ての格闘ゲームはイーアルカンフーのパクリ』と言ったところで、誰も耳を貸さないだろう。(笑) しかし、現実にはその水準と変わりない“訴訟”がかなり厖大な数に上って起こされている。

 著作権とはそもそも何んだろう?
 何んのためにあるのだろう?

 ――それは著作者が必要な金銭を得、生活していけるようにするためである。
 譬えば著作物を企業が無断で使用し、しかも一切の報酬が支払われなかったら、生活がやっていけない。早い話が、資本家による不当な搾取を妨げるのが目的。
 あるいは企業ではなく、第三者が原稿を盗み出すなどして勝手に自分名義で作品を発表してしまうと、苦労して創作した人の利益が、何も苦労していない者によって損なわれてしまうため。
 企業の場合も同じで、強い企業が不当に弱い企業の権利を侵すと、弱い方はやっていけないため。

 しかし、現在の訴訟で起こされているほとんどのことは、著作権というよりは企業同士でやり取りされる“商標権”や“特許権”に近い。
 例えば『この文章は私の』とか『このフレイズが似ている』など、これは著作権とは全く関係がない、と私は断言する。人の創り出す者に無限などあるはずもなく、その組み合わせは必ず限られている。
 そして何より訴訟を起こす人々もまた、過去の作品を鑑賞することにより、文章を真似たり、音楽を口ずさんだりして、やっと自分の作品を形作るのである。果たして自分で開発したものがどれだけあるだろう? 恐らく、何もない。そもそも小説なら既にある言語と文法を用いている時点でオリジナルではないし、音楽だって自分で開発したコードなんて一つも無いはずである。

 因みに芥川龍之介の「杜子春」は「続玄怪録」が基。
中島敦「山月記」は「人虎伝」が基。
森鴎外の「寒山拾得」や「高瀬舟」などにはそれぞれ「縁起」が付いており、その元ネタが書かれている。

 キリが無いので延々列挙することはしないが、過去に優れた作品を発表してきた人々は、皆古典を下敷きに書いたものである。イマドキの作家もそうしているはず――というよりもそうする以外に創作の方法など無いはずなのに、ギャーギャーありもしない権利を求めて騒ぐのは、ちょっと考えられない。
 また、私は全て読んでいないが、海外では「ドン・キホーテ」が有名。アベリャネーダが「贋作ドン・キホーテ」を書いたのである。こんなことは現代ではちょっと考えられない。中国産の海賊版や、ネットの世界ならあるかもしれないが。

 なお、創作物とはとても言えないような“情報”に著作権を付与したがる人があるが、これもまた変だ。もちろん、著作権は“情報”そのものを保護したりはしない。しかし小説家が迂闊にその“情報”を使うと、場合によっては叩かれることのある不思議。
 仮に情報が完全に保護されるようになってもも、得をするのは企業だけ。譬えば“クチコミ”に著作権表示する人がいたらどうだろう。コピーライト表示を付けた者勝ちである。こんなコ○ミまがいのことはあってはならない。情報は共有してナンボ、である。
 もちろん“情報屋”は自分で情報に価値を付け、そして自分で情報を守るものである。

 なぜ、著作権ばかり、権力や法律を盾に『俺が最初だ、俺が最初だ』と威張り散らすのだろうか。

参考:たけくまメモ:許される模倣・許されない模倣

Posted at 2006/02/25(Sat) 09:53:32

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