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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

辻原登氏大佛次郎賞受賞講演

 最近の辻原作品は『夢からの手紙』を読んでおりますが、ちょっと卓越しすぎて、(良い意味で)読むことから逃げたくなるような作品集となっています。
 主人公の葛藤や、ダメ人間の心情などが面白すぎて、痛みを作中人物を分け合ってしまったり、面白すぎる。手を留めて考えることで、そこで読むことから逃げてしまったり、辻原作品ではそういうことが多い。
 一方で、村上春樹作品などは頭の中を空っぽにしても読み進められます。考えようと思えば考えることもできますが、考えなくても読み進められる。何か印象(ヴィジョン)を心に描いたり、人によっては考える人もあるでしょうが、考え“させられる”ということはない。
 ここに文学の本質的な違いがあるかな、と思う。これはどちらが良くて、どちらが悪いということではなく、文学の目指す着地点の違いである。
(これは蛇足だが、実力派であるにも拘わらず今ひとつ売れない作家と、読者から読んで貰うことが全てという売れまくり作家とでは、同じ作品創りはできない)

 辻原登氏は『花はさくら木』で大佛次郎(おさらぎじろう)賞を受賞しましたが、その記念講演が出身地である和歌山市で行われました。
 それを伝える紀伊民報の記事が小気味よい辛辣さ。
AGARA紀伊民報;2月7日(水) 「せめて本を読むゆとりを」



▽記念の講演会では、辻原さんが近作の短編小説を朗読し、それを例に創作の裏話を披露するなどサービス満点。その後のパーティーも郷土料理で盛り上がった。知事や和歌山市長らも出席し、次々と祝辞を述べた。


 ▽けれども、その内容がなんとも寂しかった。壇上で祝辞を述べる人がみな「受賞作はいま読みかけたところ」「まだ読み終えていない」などと断りを入れるのである。つまり、賞を受けた『花はさくら木』(朝日新聞社)を読み切らないままの美辞麗句だったのだ。


 ▽しょせん、形式的な祝辞である。堅苦しいことをいうのはヤボかもしれない。しかし、受賞者に対する礼儀として、あるいは賞に対する敬意として、せめて一言、作品に触れる話があってもよかったのではないか。



 仰るとおり。

 本離れと騒がれ、子供に本を読ませる対策が色々と立てられている昨今、一方で偉い人は本を読まないのが当たり前のままになっています。
 忙しいから本を読まないのではなく、忙しい人ほど、本を読んだ方が、より良いということですな。
 本を読まなければならない――というと堅苦しいですが、本を読むことで、人間というものは精神をより良く生きられるということですか。

関連:
asahi.com;辻原登さんが講演/和歌山

Posted at 2007/02/07(Wed) 14:39:19

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