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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

第135回上半期芥川賞「八月の路上に捨てる」

 『社会の底辺で生きる――』というコピーを見たとき、佐藤泰志のような、陰湿でありながらもきらめくように澄んだ美しさを持った作品を期待したが、それはハズレであった。表面をなでるような、かなり体裁のいい作品である。残念ながら作品に深度を全く感じなかった。雨の日の水たまりのような作品である。緊張感のかけらもないので、眠くてかなわない。
 第135回上半期芥川賞は伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」が受賞した。世の中には色々な小説があるが、中には“最初の1ページで手が止まってしまう”小説というのがある。この作者の小説を読むのははじめてだが、私にとって少なくともこの作品はそういった小説である(それでも我慢して3回は読んだ)
 原因としては大きく分けて、読み手の“気分”のように作者にはどうすることもできない問題から、技術不足や文体の下手さなど作者の問題。それから決定的な価値観の違い、という誰にもどうすることのできない問題――の三つが考えられる。
 この場合、作者の技術不足は除外していい。とりわけ図抜けて巧いというわけではないが、ソツが無く、かなり高いレベルにおける及第点以上の作品である。しかし残念ながら内容がついてきていない。
 この作者が描く世界は小さな井戸の中に過ぎない。無難にまとめて、読み手に受け容れて貰おうという目論見が垣間見えるような気がする。
 要するに小説家としては最近非常に多い小粒な作家。これは時代、かもしれない。現在は学校といいカルチャーセンターといい、技術を学ぶ機会はあるが、創作をする上で本当に必要な体験をする機会は用意されていない。自分で探すことのできる人間は少ない。ある意味で現代というものが作品にはっきりと現れている。日本は創作に適した人材が急速に渇れてきているのではないかと思う。
 何しろ、小手先の技術よりもまず素材を吟味すべき各新人賞でさえ、消去法のような選評が並び、器用貧乏気味の作家に受賞するより他にない――という傾向がある。エンターテイメント方面も似たり寄ったりでどんぐりの背比べ。異作――というコピーが付けられた作品も、あくまで登場人物が奇行をするだけに留まって作品そのものには特異性のかけらも見当たらないことが多い。
 ところで冒頭で挙げた佐藤泰志は、文体に致命的欠陥がある。作者の性格が滲み出ているのか、一目で“うっと”来る文体。正直、売れない。それでいて技術を用い、計算高い面もあるような中途半端なことをしてしまったために、玄人ウケもできなかったのだろう。
 しかし現代でこそ佐藤泰志の作品は必要とされるような気がする。こういう言い方は良くないと思うが、佐藤泰志が表現した世界を10とするなら、伊藤たかみは3か4程度しか作品世界を築き上げることができていない。要するに、伊藤たかみは“書く技術”こそよく知っているが、作品に対し真正面から向き合っていない。インチキが多すぎる、ということだろう。
 このインチキというのがくせ者で、インチキを極めた作家は、ある意味で最高の作家として崇められることになるだろう。小説はフィクションなのだから、いくらインチキをしても、作品の質を高め、しかも読者を喜ばせればそれで良いのである。
 インチキとは簡単に言えば計算高さである。たとえば、読者を騙すことで手軽に効果を得ようとする行為が当てはまる。
 今回の作品で挙げるなら、『梅干しと鰻の食べ合わせ』の譬えもその一つに数えていい。ここであまりにバカらしくなって、一旦本を閉じてしまった。確かにプロット上は一定の効果を上げている、誰でも思いつくことで共感を誘っているつもりなのかもしれない。しかし表面をなぞっただけで、実に下らない。こんなものなら小学生の作文の方がマシだ。
『ぼくは梅干しだけど、○○君はうなぎです。皆んなからは相性が悪いと言われていますが、ぼくたちはいつも一緒にいます。合わないからこそ、一緒にいるといいんです。ぼくはうなぎと梅干しを一緒に食べるのが好きです』
 ――なんというか。

人物の問題
 似たような問題になるが、この「八月の路上に捨てる」に出てくる登場人物はまるでサザエさんのようだ。純文学の登場人物にふさわしい立体的人物が一人もおらず、喜劇に出てくる平面的人物しか描写されていない。 
 固定観念の塊が服を着て、お定まりの科白を吐き、キャラクター設定通りの決まり切った行動を執る。作者の色眼鏡がかなりキツイのか、人間なんてそんなものだと、悟りでも開いているのか。
 ひたすら類型的、平面的人物描写は、漫画やテレビの影響がかなり強いように思う。いや、漫画だってここまで平面ではない。この作品の登場人物と較べれば、ガンダムの登場人物の方がよっぽど深みも旨味もある。
 人物については、作者の人間観がストレートに出てしまうので、技術だけではどうすることもできない。深みのある人物を描けるかどうかは、小説家の才能が全てを左右すると言っていい。

文学にエロスは必要か?
 答えはイエスである。
 人間が人間である限り、エロスは文学になくてはならないものの一つだ。そして文学そのものが紛れもないエロスである。もちろんそれは人間の肉体関係を指すとは限らない。登場人物の心までもが透かすように描かれているのは、エロス以外の何物でもない。
 しかし、肉体的エロスはいつでも芸術のために書かれるわけではない。執筆中における作者の精神状態、読者への媚び、などなど枚挙するにキリがない。男女の仲についてなど、昔から厭というほど書き尽くされているのに、今なお書かれているのはなぜなのか。男女の溝が深遠なのは当たり前なのだが、未だにそれは終わらない。セックスの描写を一切失くし、物語に力を込めると、それは文学ではない、などと言い出す人まで出てくる。特に純文学はそう。どう考えても変だ。
 芸術と、そうでないものとの線引きは、ぶっちゃけて言えば無い。しかし無駄なエロスがずらずら並ぶのは、ただのエロ小説に他ならない。エロはいつの時代でも無条件に読者を納得させてしまうものなのである。

 さて、今回の「八月の路上に捨てる」では無駄なエロスも多い。純愛フリーター文学というコピーは勝手につけられたものだろうが、大嘘じゃないか。(笑) 肉体的な関係に対し、ささやかな想いが際立つ――という効果はあるのかもしれないが……。
 ともあれ、エロスを持ち込むことで、それで芸術と言い張ったり、エロスがあることを純文学の証明とするのは、いやだ。昔の人こそ、エロスの他に愉しみは無かったはずだが、エロスをモチーフとして取り込んだ作品がどれほどあったろうか。
 こうまで純文学が露骨にセックスのことばかり書いていると、『男と女のことしか書くネタが無いの?』と尋きたくなる。

トレースの問題
 村上龍は選評で“トレース”の問題を持ち出してきた。特定の作品ではないが、小説という、大きな形をなぞっている――というのだ。これは周囲が春樹一色という時代に、唯一異彩を放っていた村上龍だったら書きそうなことである。
 そんなエッセイとも愚痴ともつかないようなことを書いているが、実はなかなか言い当てている。
 世の中には小説らしい小説、というのがある。『小説とはこういうものだ』という刷り込みのことを指す。これはある程度、確かに決まっていることではある。しかし、そのために作品の幅を狭めてしまうのは、あまり良いことではない。
 物語の構成などもそうだが、形式上もかなりトレース臭い印象を受ける。それは科白と地の文の配分を見ると、一目瞭然。最近の新人作家は一部を除けば、ほぼ全員同じ“リズム”で書いている。文脈を全く無視して、線形美術として文章を観賞していると『そろそろ括弧書きが出てくるな』と思った頃には、物の見事に出てくる。声に出してみるとなお正確を極めている。俳句のように定型が決まっているのではないかと疑いたくなる。
 読みやすさの理想的配分――というのはある程度決まっている。編集者や先達は当然それを守るように奨めるし、読者は歓迎するだろう。しかし、それをぶち破る力がなくては文学とは言えない。そうでないなら、あくまで戯れの域を出ない。
 それから、何より会話文に逃げの姿勢が見える。言葉を紡ぐのに疲れたから(=読者にとっては読むのに疲れた頃にちょうど出てくることになり、最高の配分である)会話文が出てきた――という工合である。地の文を書くのには、文章を書く地力というものが必要である。地の文がみっちり詰まっていると読む方も大変だが、書く方はそれ以上の忍耐力と、読者を飽きさせない技術が必要となる。一方で会話文は簡単。頭の中でA氏とB氏を想像し、自分の頭の中で会話をさせ、それを書き起こすだけである。
 極論すれば、会話文を書くのにセンスは要らない。地の文は作者の言葉でもあるので、読者は作者のセンスを要求するが、会話は実際に登場人物達が交わした小説中の“事実”なので、センスもクソもない。
 もちろん気の利いた会話やエスプリというものは、存在する。しかしそれはあくまでアグレッシブな会話文であって、逃げの会話文ではない。全ての言葉が必要不可欠なトリックでなければ、エスプリとは言えない。これは作者によって仕掛けられた狡猾な罠であり、地の文の延長のようなものである。例えば火浦功の会話文はもはや会話ではない。しかし残念ながらそれを感じさせてくれる文章は、ごく僅かである。恐らく生まれ持った才能の問題である。会話文は簡単だからこそ、難しいということだろうか。
 それからトレースの対象が存在するとすれば、それは“現代小説”という類型である。恐らくあまり様々な古典には手を広げていないだろうと思う。
 古典というと保守的に思われるかもしれないが、近代小説における古典作品は、試行錯誤と実験、ひたすら変革を求める怒濤の嵐である。ここ百年で小説はほとんど全てのことをやり尽くしたと言っていい。それなのに、なぜ皆揃いも揃って似たような形式に収まってしまうのだろうか。――のみならず、同じようなモチーフに眼をつけ、同じようなテーマ性しか持つことができない……。
 どれだけ素晴らしい手練を持っていても、これでは宝の持ち腐れである。文章技術は素晴らしく、文体には欠陥が見られない素晴らしいものだが、内容は読者に何物をももたらすことができない――そんな作品になってしまう。
 毎日、テレビやインターネットで厭というほど流されている、物語にとって都合の良い類型的世界しか描くことができないなら、小説も文学も一切必要がない。“読む”という自発的行為を強いる以上、映画やテレビで見た方がより臨場感溢れて愉しい話を、無理矢理活字にすることは無意味というよりも、無駄である。
 例えばここで私がよく採り上げる荒木飛呂彦の作品はほとんどアニメ化されていない。理由の一つに、コミック独特の手法が用いられており、アニメ化が非常に困難であること。もう一つの理由は、荒木飛呂彦の絵柄はコミックで読んでこそ映えるものであり、アニメ版には原作ほどの輝きがないこと、である。
 他にも挙げてみる。ガモ――もとい、大場つぐみの「DEATH NOTE」は一見映画的作品のように思えるが、実際にはモノローグが主体のために、リアリティを求めて映像化されると、かなり違った作品になってしまう。登場人物には動きが少なく、静止して話す場面が多い。絵よりも文字で訴える作品である。こういうものは本来漫画としては今ひとつとされる。しかしその欠点を完璧にカバーしているのが、小畑健の天才的な描写力。並の漫画家がやっていたら、間延びする場面を、見事な描写でぐいぐい引っ張っていく。
 デスノートなら文章だけでも確かにある程度は愉しめるし、ノベライズ作品も発売されることだろう。しかし、漫画には到底敵わない。同じく、映画やアニメも到底原作には及ばないはずである。そのくらい、絶妙にしてギリギリのバランスを保って作られた作品である。

 少し話しが逸れたが、文学でないと面白くないもの――そういうものは必ずあるはずである。他の刺激的なメディアの方がより面白く伝えられるものを、わざわざ文章にすることなどない。文章は何んでもそれなりに表現できてしまうがために、そういうディレンマに陥りやすいのではないかと思う。
 文学ならではの作品を読みたいといっても、それを書ける人間は極々限られているのかもしれない。それは過去の文学作品を見れば解る気もする。名作として現代まで残っている作品は、ほんの一握りに過ぎないのだから。
 ところで名作というものは鴎外だろうが漱石だろうが、読めば文章に吸い込まれるばかりでなく、突然ハッとさせられることがある。あれだけ古いものなのに、なぜその力があるのか。そしてなぜ現在ある数多くの作品にそれを感じることができないのか……
 私にその解答を出すことはできないが、恐らく名作を書いた人は、はっきりとした自己を保っていたのだと思う。世間からどれだけ反撥を受けようが、自己を貫き通している。下手な見栄を張らない。
 近年は本来踏ん張らなければならない作家という職業人が、人生の空虚さに負け、あっさり世間の類型にはまったり、作家の癖に本を読まなかったり、根本的な何かが足りないような気もする。

 ふと思い出したが佐藤泰志の芥川賞候補作への評について書いていなかったので、近日芥川賞全集でも見ながらやってみようかと思う。

Posted at 2006/08/16(Wed) 13:44:34

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