佐藤泰志の各作品についての解説・感想はこちら。
第八十六回芥川賞選評より
該当作品無
候補作
「遠すぎる友」 高樹のぶ子
「小さな娼婦」 増田みず子
「火の降る日」 宮内勝典
「離郷」 木崎さと子
「万蔵の場合」 車谷長吉
「きみの鳥はうたえる」 佐藤泰志
「隻眼の人」 飯尾憲士
「影の怯え」 喜多哲正
吉行淳之介
候補作八篇を読み終って、今回は残念だが授賞作なし、になってしまうかな、とおもった。それにしても、近年短篇はどんどん長くなり、内容に比べてあまりにも長過ぎるものが多い。
(中略)
それにしても、これだけ支持される作品がなくては、「授賞作なし」も仕方がなく、へんに吹っ切れた気分になってしまった。最終に三篇残ったが、それは当選圏内にあるという残り方ではなく、あとの五篇とそんなに差のあるものではなかった。
丹羽文雄
八篇の候補作品があったが、今回は授賞者なしという結果になったのは妥当な審査であった。
(後略)
大江健三郎
(前略)
自分の個性、主題をねじ曲げず、かつ短篇のかたちをよくみたすには、書きなおしが重要である。表面的なツジツマをあわせるのでなく、根本的な書きなおしが必要なのだ。その繰りかえしのうちに、驚きにみちた短篇がみのってくる。
遠藤周作
自らも現場の小説書きであるから小説を書く時の労苦は多少は知っているつもりだ。だから芥川賞候補の作品は少なくとも二度は読む。今度も二度、読んだが、どんな反対意見があってもこれだけは奨したいという作品はなかった。
(中略)
私はなんだか新人の作家が書きすぎるような気がしてならない。多く書くということはもちろん大切なことだが、一方、この作品は充分、発酵して書くということがあるべきだと思う。発酵するということは細部にわたって熟することだが、同時に作者に内側から書かずにはいられない噴出力が吹き出ることでもある。
今度の作品のなかでも技術的にうまいと思う人もいた。しかし書かずにいられぬ内側の噴出力が作品に感じられぬ時は、この技術のうまさは悪く言うと「わる達者」にみえるのである。
噴出力があっても充分に発酵しないで書くとやはり失敗するのは当然である。噴出力のないのを技術でカバーすると退屈な作品になってしまうし、噴出力のないのをいかにもありげに書かれるのもいやだ。
こんな事は言わずもがなの話なのだが、此のの作品を読みながら噴出力の乏しさを技術でカバーしたものと、噴出力のないのをいかにもありげにみせかけたものとを交互に感じた。
瀧井孝作
(前略)
「きみの鳥はうたえる」 佐藤泰志
現代青年の心持はわかるが、芥川賞の文章として肯定するわけにはいかぬ。
(後略)
丸谷才一
今回もまたすこぶる低調であった。からうじて論ずるに価するものは佐藤泰志さんの『きみの鳥はうたえる』である。
これは青春の哀れさと馬鹿ばかしさといふ、もうすつかり陳腐なものになつてしまつた主題、いや、文学永遠の主題の一つをあつかつたもので、かなり読ませる。特にいいのは若者たちに寄り添ひながら、しかしいつも距離を取つてゐることである。そのせゐでわれわれは彼らのいい気な生き方をわりあひ客観的に眺めることができる。
ただしおしまひのはうは感心しない。人殺しなんか入れなくたつていいのに。佐藤さんは小説的な恰好をつけようとして、かへつて話のこしらへを荒つぽくしてしまつた。
なほ、主人公が暴漢二人に殴られるのを同僚の指金と、主人公が受取るのはまあかまはないが、これはむしろ店長に雇はれた男たちなのではないかといふ吉行淳之介さんんお意見があつた。わたしもこのくだりにはいささかこだはつてゐる。わたしの考へでは、あれだけ夜の町をさまよつてゐる男なら、ほかにもいろいろ怨みを買つてゐさうな気がするのである。それを作者がいきなり同僚の仕業と決めてしまふのでは、小説の底が浅くなるだらう。このへんのところでも、小説の物語性といふもののとらへ方にいろいろ問題がある
安岡章太郎
(前略)
「芥川賞は文壇登竜の東大」というメイ文句で、文学賞の宣伝につとめたのは、一と昔か二た昔まへの雑誌「文學界」である。文壇の「東大生」をあつめることが、文運の隆昇に役立つものかどうかは知らない。しかし、あらゆる文芸雑誌が新人賞の名目でおこなつてゐる懸賞小説の数かずは、作品の質を高めるものでは決してなく、文学をただの空騒ぎのタネにすることに終つてゐるのではないか。
井上靖
候補作八篇、それぞれ力をこめて欠いているが、授賞作として推し出せる作品のなかったことは残念である。
そうした中で、私の場合、上位に置くとすると、佐藤泰志「きみの鳥はうたえる」、飯尾憲士「隻眼の人」の二篇ということになろうか。前者には私などの知らない現代の若者たちの生活が、一応納得できるように書かれてあった。若者たちの会話も、多少調子にのって喋らせているようなところはあるが、なかなか面白かった。後者は隻眼の人物もよく書かれてあり、主人公のその人物へのこだわりも、まあ、不自然でなく書かれている。
(後略)
開高健
(前略)
八作を通じて共分母としていえること。一言半句のユーモアもウィッドも見られないこと。黒い絶望の笑いも赤い怒りの笑いもない。いったいこれはどうしたことなんですと、誰にともなくたずねると、誰やらがぼっそり、困ったことですと、呟いた。
中村光夫
(前略)
佐藤泰志「きみの鳥はうたえる」前作がともかく孤独な大人恋愛を描いてゐるに反して、これは盛り場の世相にべつたりついた青春小説。人物たちが新しがつてゐるのにどことなく古風で、昭和初年の世相小説を思はせるのは、両者の筆致が浅く風景的な点で共通するせゐでせうか。
(後略)
佐藤泰志を評価する人が数名。他は、主に木崎さと子の「離郷」がウケていたようだ。木崎さと子は後に「青桐」で芥川賞受賞しているので、無難な線だろう。しかし木崎さと子の世界は……。
遠藤周作の言う『噴出力のないものをいかにもありげにみせかけたもの』の中には、確実に佐藤泰志の「きみの鳥はうたえる」も含まれていることだろう。佐藤泰志は自己と向き合っているように見えて、実はかなり計算高いところがあり、インチキをやってしまうのである。遠藤周作の慧眼を前にあっさりと見抜かれた、というところだろうか。
あと“文豪”丸谷才一のコメントが嬉しい。見る人はちゃんと見てくれているではないか。井上靖だって『面白かった』と言ってくれている。
少し詳しく書きすぎたので、次は簡略に書いていこうと思う。
第八十八回芥川賞選評より
受賞作
「夢の壁」 加藤幸子
「佐川君からの手紙」 唐十郎
候補作
「活火山」 南木佳士
「空の青み」 佐藤泰志
「白い原」 木崎さと子
「ナビ・タリョン」 李 良枝
「浮上」 田野武裕
選評には、佐藤泰志の作品へのコメントは一切無し。
なお、受賞作となった「夢の壁」はやたら審査員に好評だが、まるで中学生が書いた作文のようで、私はそれほどの“作品”とは思えなかった。
また「空の青み」はマンションの管理人を主人公とした作品だが、トイレの話が非常に印象に残っている。しかしこれでは、確かに芥川賞は無理だ。
第八十九回芥川賞選評より
該当作品無
候補作
「内気な夜景」 増田みず子
「草のかんむり」 伊井直行
「町の秋」 高橋昌男
「かずきめ」 李 良枝
「退屈まつり」 池田章一
「追い風」 高樹のぶ子
「優しいサヨクのための嬉遊曲」
島田雅彦
「水晶の腕」 佐藤泰志
丸谷才一
候補作八篇、読み終えるのにずいぶん苦労した。個性があるものは文章が悪く、文章のいいものは個性が弱く、新味のあるものは作りがデタラメで、作りがきちんとしているものは古臭く……読んでいてすっかり厭になってしまうのである。小説というのはすこしおもしろければすぐ夢中になって引きずりこまれるものなのに、そういうことは今回はなかった。
そのなかでわりあいましなのは、佐藤泰志さんの『水晶の腕』だろうか。これまでの作品と同じく青春の研究だが、人物たちを型によってとらえながら、主人公である青年が、人生、社会、世界その他いろいろ名づけることのできる不思議なものに立ち向おうとするところをとらえようとしている。その主人公の姿は、健気と言えないこともないが、しかし印象が薄く、かえって、周囲の人たち、特に「頭のとろい」あんちゃんが記憶に残る。
感じは悪くないにしても、スケッチふうの仕立てで、短編小説と呼ぶにしてはどうも水っぽい。これではやはり受賞作となる資格はないかもしれない。題名の意味も、わたしにはわかりにくかった。
大江健三郎、開高健、中村光男、吉行淳之介、安岡章太郎、井上靖、丹羽文雄、遠藤周作、以上は佐藤泰志へのコメント無し。
第九十回芥川賞選評より
受賞作
「杢二の世界」 笠原 淳
「光抱く友よ」 高樹のぶ子
候補作
「ウホッホ探検隊」 干刈あがた
「黄金の服」 佐藤泰志
「赤い罌粟の花」 平岡篤頼
「亡命旅行者は叫び呟く」島田雅彦
「四国山」 梅原稜子
「住宅」 赤羽建見
佐藤泰志へのコメントは無し。この「黄金の服」も今ひとつ。前の作品の方がよっぽど良かった。
高樹のぶ子の「光抱く友よ」……読みやすいんだけど、ありがちで、イマイチだった記憶が。もちろん、悪くはない。イメージとしては松村栄子「至高聖所―アバトーン―」などと被っている。趣味だけでいえば至高聖所の方が好きだったかな。
第九十三回芥川賞選評より
該当作品無
候補作
「見えない絵」 高橋睦郎
「僕は模造人間」 島田雅彦
「黄色い斥候」 海辺鷹彦
「掌の護符」 石和 鷹
「オーバー・フェンス」 佐藤泰志
「ゼロはん」 李 起昇
三浦哲郎
(前略)
佐藤泰志氏の「オーバー・フェンス」を凡作だと思ったのは、この人にはもっと優れた作品があるからである。今度の作品には珍しく文章の粗雑な箇所が目についた。ありふれた生活を淡々と描いて飽かせずに読ませるのは難しいが、だからといって苛立ったり投げやりになったりするのは禁物である。(後略)
他審査員、コメント無し。
「オーバー・フェンス」には確かに、粗さが目立った。こちらの方が初期作品かと思ったほど。確かに、芥川賞を獲りに行くのには、ちょっと足りない。
ついでなので、同じく実力派作家でありながらも、芥川賞を受賞できなかった村上春樹がどうなっているかを見てみたい。
第八十一回芥川賞選評より
受賞作
「やまあいの煙」 重金芳子
「愚者の夜」 青野 聡
候補作
「閉じる家」 立花和平
「風の歌を聴け」 村上春樹
「逆立ち犬」 北澤三保
「ふたつの春」 増田みず子
「蘭の跡」 玉貫 寛
「八月の光を受けよ」 吉川 良
丸谷才一
(前略)
村上春樹さんの『風の歌を聴け』はアメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。
もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。
(後略)
瀧井孝作
(前略)
村上春樹氏の『風の歌を聴け』は、二百枚余りの長いものだが、外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。このような架空の作り物は、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、私は長い眼で見たいと思った。
以下評略。
吉行淳之介
今回、票を入れた作品はなかった。しいてといわれれば、村上春樹氏のもので、これが群像新人賞に当選したとき、私は選者の一人であった。しかも芥川賞というのは新人をもみくちゃにする賞で、それでもかまわないと送り出してもよいだけの力は、この作品にはない。この作品の強みは素材が十年間の発酵の上に立っているところで、もう一作読まないと、心細い。
(後略)
遠藤周作
(前略)
村上氏の作品は憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説のなかからすべての意味をとり去る現代流行の手法がうまければうまいほど私には「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」という気持にならざるをえなかった。こう書けば村上氏は私の言わんとすることを、わかってくださるであろう、とに角、次作を拝見しなければ私には氏の本当の力がわかりかねるのである。
(後略)
大江健三郎
(前略)
今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。
井上靖、開高健、丹羽文雄、安岡章太郎、中村光夫、以上は村上春樹へのコメント無し。
何んというか、大江健三郎が寝言を言っているように見える。(笑) 自分はどうなのだ、と。
第八十三回芥川賞選評より
該当作品無
佳作
「羽ばたき」 丸元淑生
候補作
「神田村」 吉川 良
「狸」 村上 節
「闇のヘルペス」 尾辻克彦
「ソウルの位牌」 飯尾憲士
「一九七三年のピンボール」
村上春樹
「狩人たちの祝宴」 北澤三保
丸谷才一
わたしがよいと思つたのは、丸元淑生さんの『羽ばたき』、村上春樹さんの『一九七三年のピンボール』、尾辻克彦さんの『闇のヘルペス』の三篇で、最後に残つたのもこの三篇でした。
(中略)
村上春樹さんの中篇小説は、古風な誠実主義をからかひながら自分の青春の実感である喪失感や虚無感を示さうとしたものでせう。ずいぶん上手になつたと感心しましたが、大事な仕掛けであるピンボールがどうもうまくきいてゐない。双子の娘たちのあつかひ方にしても、もう一工夫してもらひたいと思ひました。
(後略)
大江健三郎
銓衡のなかばで、議論は尾辻克彦『闇のヘルペス』、村上春樹『一九七三年のピンボール』、丸元淑生『羽ばたき』に集中された。僕はこれら三篇のいずれが入賞しても不満でないと考えていたが、またそれらいずれにも積極的に賞へと推すことにはなにか不十分な思いが残るのでもあった。(中略)
やはり詩的な領域になかば属する感覚、清新な文章によって新世代のスタイルをあらわしているが、散文家としての力の耐久性には不安がある。そのような作品として、村上春樹の仕事があった。
(後略)
吉行淳之介
村上春樹、尾辻克彦両氏の作品がおもしろかった。丸元淑生氏の作品もよかったが、途中の大きな破綻が気になった。銓衡がはじまって三十分も経たないうちに、論議の対象はこの三作に絞られた。
(中略)
村上春樹「一九七三年のピンボール」は、この時代に生きる二十四歳の青年の感性と知性がよく描かれていた。主人公は双生児の女の子二人と同棲しているのだが、この双子の存在をわざと希薄にして描いているところなど、長い枚数を退屈せずに読んだ。
(後略)
瀧井孝作
(前略)
村上春樹氏の「一九七三年のピンボール」は、筋のない小説で、夢のようなものだ。主人公は英語とフランス語の翻訳事務所を開いているとあるが、生活は何も書いていない。主人公は一九七〇年頃に流行したピンボールマシンに凝った男で、ピンボールの流行も夢のように消え去って、しまいに一九七三年にその廃品の蒐蔵コレクションの有所がわかって、それを見に行く場面は一寸面白相だが、それを見ても手も足も出ないで只帰る。
今回は票が割れて、ナシになったのは惜しい。
中村光夫
(前略)
読者を弄んでゐるという感じは「一九七三年のピンボール」にも共通します。ひとりでハイカラぶつてふざけてゐる青年を、彼と同じやうに、いい気で安易な筆づかひで描いても、彼の内面の挙止は一向に伝達されません。現代の現代のアメリカ化した風俗も、たしかに描くに足る題材かも知れない。しかしそれを風俗しか見えぬ浅薄な眼で捕へてゐては、文学は生れ得ない、才能はある人らしいが惜しいことだと思ひます。
(後略)
井上靖
(前略)
「一九七三年のピンボール」は、新しい文学の分野を拓こうという意図の見える唯一の作品で、部分的にはうまいところもあれば、新鮮なものも感じさせられるが、しかし、総体的に見て、感性がから廻りしているところが多く、書けているとは言えない。
(後略)
遠藤周作、丹羽文雄、開高健、安岡章太郎、以上は村上春樹へのコメント無し。
あー、なんというか、面白ければ素直に授賞してください。(笑) 面白いことが選考基準にならない文学賞というのは、ちょっとお寒くないか。『票が割れた』なんて、何んのこっちゃ? と。
中村光夫のコメントを一部太字にしてしまったが、これはいくらなんでも、あんまりだと思う。
Posted at 2006/08/17(Thd) 18:11:23
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この記事へのコメント
『一九七三年のピンボール』は、個人的にはイマイチだったなぁ…と(笑い)。僕も一時期ピンボールマニアだった時期があったので深く理解も出来ようと自惚れつつ読み始めたのですが…現在まぁったく内容を覚えていません(笑い)。先に「羊をめぐる冒険」を読んでいたので、それの長すぎるプロローグのようにしか感じなかった。それら三作品を3部作などと呼んでいるようだけど…3部作としてみると「羊をめぐる冒険」の評価まで下がってしまうのですが(苦笑)。
ま、僕はよく「村上春樹の初期作品が好き」なんて言ってますが例外もありますという事を書きたかったワケで…(苦笑)。こうやって考えてみると村上春樹って結構ムラのある作家ですねぇ。
Posted by ス at 2006/08/18(Fri) 01:48:43
村上春樹というエポック
現在でこそ春樹スタイルは一つの定型となりましたが、
当時としては画期的だったのでしょうね。
己のスタイルで一つの時代を作ったのなら、
間違いなくそれはエポックメーカーと認定できるでしょう。
エポックメーカーなら、ムラがあるのも納得できますし。(笑) あの物語性といい、日本の私小説の流れとは根本的に違うスタイルですしね。周囲から勝手に抱かれているイメージとは違って、結構挑戦的な人なのかも。
そういう意味でも、大江健三郎は全く見当違いのことを言っていると思う。何んであんなに崇拝されているんだろうか。(笑)
島田雅彦など、新しいものを切り拓こうとしている人は多いのですが、春樹スタイルほど日本中に(そして世界でも?)浸透するものは作れないですからね。
なんか、コメント欄の方が考えがいい感じです。(笑) 言葉のキャッチボールないと私も視野が狭いもんですよ。そんなわけで、どんどんコメント下さい。
一時期はポスト村上の流れがあったようですが、結局村上回帰が進む昨今。次のエポックは私が作れるように努力したいです。(誇大妄想
実際、そういうものに挑戦する人が今はいないですからね。ヘタに突っ走ると、文学じゃない、なんて言われますし。絲山秋子も「沖で待つ」のような世界をぐん、と引き延ばすことが出来れば、面白いのですけどねぇ。野心はそれほどまでに無い人のような感じなので、そこまで挑戦してくれるかどうか。こういうのは、エゴイストになるくらいじゃないとダメだと思う(まんま「プラネテス」の科白ですが)。
Posted by 紫陽 at 2006/08/19(Sat) 10:04:59
海外で村上作品が人気なのは、無駄な日常描写が執拗に続く事が、日本という異国の生活を疑似体験できる媒体だからでしょうね。映画や漫画であそこまで日常描写をする馬鹿はいませんから。そして延々と続く日常描写に共感したり理解したり、ギャップを楽しんだり出来るから妙な海外ファンが多いのでしょう。またそれはキャラクターを理解するという一面で日本の読者にとっても有益に作用しているのではないかと思います。
文体に関しては、僕は文庫版のレイモンド・チャンドラーの小説の邦訳の文章スタイルと酷似しているあたり、また「翻訳夜話」ではレイモンド・チャンドラーの話をしていながら文庫版翻訳者の文章スタイルに触れていないあたり、そこらからのインスパイヤによって村上春樹の文章スタイルが定まったのではないかと思っています。つまり、別に新しくも何ともない(笑)。しかしチャンドラー小説で一番酷評されている「プレイバック」そっくりの文章スタイルである村上小説が世界で人気というのはなんだか面白い現象ですね。
そういえば糸井重里との共著「夢で遭いましょう」で村上春樹は「パン屋襲撃」というコメディを書いていますし(その続編はあまり価値の無い文章だった)、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は文学とは呼べない作品だし、「結構挑戦的な人」という指摘は当たってると思います。意外とオタクっぽい人じゃないかと(笑)。少なくともマニアとかアンチとか策略家とか野心家とかといった側面はあると思います。
Posted by ス at 2006/08/20(Sun) 17:12:40
無駄な日常描写は純文学の十八番(オハコ)ともいえますが、もし春樹文学がそれだけに過ぎないのなら、今までの日本の純文学はもう少し世界で売れていても良かったと思うのですけれどもね。
ただ、フランス文学はともかくとして、おおよそ外国人は面白くない小説は読みません。近代初期の文学や、川端康成のように物語性に富んだ作品は受け容れられるでしょうが、菊池寛が文壇を作ってから跋扈しはじめた私小説群は、受け容れられないかと思います。同じ日本人だって受け容れませんから。(笑)
もちろん、春樹のアメリカナイズされた文体で語られるからこそ、受け容れられたのかもしれませんけども。
日本の小説の文体とは、そもそもが翻訳文学で輸入したものです。鴎外や漱石はもちろん、二葉亭四迷もそう。ですから、チャンドラーの文体を純文学の世界へ持ち込んだ村上春樹の功績(笑)には、一定の評価を与えていいと思います。漢字も、中国からの輸入ですしね。輸入という功績を評価しないことには、日本文化はなかなか考えづらい面があるかと思います。
Posted by 紫陽 at 2006/08/22(Tue) 13:33:21
選考委員はともかく、コメント欄に書くような人たちが村上春樹に嫉妬してどうする。生意気だぞ。
Posted by 三太郎 at 2011/09/11(Sun) 07:38:30
佐藤泰志の不人気、村上春樹の評判のあり方面白いものでした。芥川賞選考委員の勝手なコメント、当たっていますが無責任ですな。面白いのは、自分が選考委員でも、大体こんなもの言いだと感じました。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2012/02/14(Tue) 12:57:29
『1973年のピンボール』は判ってみればすごい作品である。しかしある程度読めるようになるまでにかなりの時間を要する。候補作にあがってぱっと二回通読したぐらいで判る作品ではない。素直に”現時点では私には読みこなせませんでした”という選評があって然るべき。「ぜんぶ読めたんだよ」という無理なポーズを取るところから変になる。
Posted by 豆太郎 at 2012/09/08(Sat) 15:53:34
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