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E・M・フォースター風小説理論 第四回「人物」

 まず、小説に登場する人物の心の内面が詳細に書かれていると、リアルだ、よく描けている、だから「ほんものの人間みたいに生き生きしている」と評する人は多いだろう。
 しかし、現実においてそこまで相手の心情が見えることはありえない。他人の心がはっきり見える世界というのはよっぽどシュールだ。つまりリアルなように描かれていても、それは決して本物の人間の心ではなく、それどころか正反対のことなのだ。
 それなのに、案外そうしたことの区別のつかない人は多いという。別にこれは私の理論ではなく、フォースターがそう言っている※し、訳者の中野康司氏に至っては『言うまでもなく当たり前のこと』とまで言っている(実際に現行作家や文藝批評家に尋いてみた結果と比較したところ、そこまで言う人は無かった。私の感じでは、中野康司氏の考え方は全体的に妄信的で、ちょっと変なところがある気がする)。私は常に言い続けられねば忘れられてしまうことだと思うが、とにかく現実の人間と接することでは決して得られない親密さが、読者と登場人物との間にはある。そこが小説の魅力の一つと言っていいだろうか。

※現実の人生では、われわれはどんなに努力しても、お互いを完全には理解しあえない。相手の心がすべてわかるということもありえないし、自分の胸の内をすべてさらけだすということもありえない。親密な交わりなど一時的なものにすぎず、お互いを完全に理解しあうことなど幻想にすぎない。つまり、現実の人間には常に不明瞭さがつきまとう』

 さて、この“人物”を、フォースターは二つに分ける。一つは平面的人物。もう一つは立体的人物である。
 平面的人物は、解りやすく言えば喜劇的・漫画的人物。サザエさんの登場人物のようなもので、常に類型的な“型”にはまっており、ほとんど発展が見られない人物のこと。サザエは常にドジマヌケ。タラちゃんがやったことを、カツオのイタズラと決めつけてどつく姿は見る者に既視感さえ与える。そのカツオは常にテストで悪い点を取り、暇さえあれば中嶋と野球へ行く。時々良い点を取るとそれだけが笑いのネタになってしまうほど類型化されてしまっている。
 こういう風に、たった一つの属性に“役回り”が限定されているのが平面的人物。これは小説を書く上で最も便利な登場人物である。人物の出し入れが、作者の目的に合わせて自在に行える。それは例えば探偵小説における名探偵、有能な助手、無能な刑事……。全く彼らは自分の意思で登場したり、退場したりするわけではない。自分の“役回り”を演ずるためだけに、プロットやストーリーに合わせて現れては消えるだけである。コナン・ドイルの『シャーロック=ホームズ』シリーズはこうした平面的人物の出し入れ法の教科書的な作品とも言えるほど、この形態が顕著である(特に「緋色の研究」)。それだけに、どれほど筋が面白くても人物がワンパターンなだけに、だんだん読み飽きてくるのだが……。

 一方の立体的人物は悲劇的人物と言える。シェイクスピアの悲劇のように、葛藤や懊悩を描き出すのには立体的人物でなければ務まらない。これがもし平面的人物であるなら、そもそもドラマにさえならないだろう。
 また、立体的人物は平面的人物に優るという。それだけ立体的人物を描くのに小説家としての生まれ持った資質と、手腕とが必要となり、誰にでも充分なクオリティのものを描けるというものではない。
 立体的人物の定義そのものは『説得力をもって読者を驚かすことができる人物』だという。この“説得力”の部分が実に難しい。自然な形で人物の異なった面を見せるのは、簡単なことではない。迂闊に別の面を読者に示したところで、読者は納得してはくれないないだろう。
 やはりもって生まれた素質がモノを言うようである。フォースターは『立体的人物を描くことこそ、小説家の使命』とまで言っている。
 平面的人物は読者に繰り返しの喜びしか与えないが、立体的人物は登場するたびに何んらかの新しい面を読者に見せ、新しい喜びを読者に与えてくれる。
 立体的人物の良い例を私は挙げられない(ぶっちゃけ、立体的人物に対するセンスを持ち合わせていない)ので、フォースターの例をそのまま出せば、ジェイン・オースティンの登場人物は全て立体的人物で、フォースターはオースティンのことを『完璧な小説家』とまで讃えている。

 ほとんどの作品においては、主役級が立体的人物。脇役を平面的人物と置くことが多い。ちょっと対象年齢の高い漫画だって、似たようなものだろう。そのくらいの“深み”が無いと、作品として薄っぺらになってしまいかねない。
 また、普段は平面的人物のようであっても、ある時突然立体的人物へと変貌することがある。こうした書き方が、オースティンの人物の巧さのようである。

Posted at 2006/03/24(Fri) 12:33:32

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