I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

絲山秋子「沖で待つ」――物語と男性脳について

 あまり古いの文学作品の話ばかりになったので、現代文学の話でも。
 芥川賞受賞作の絲山秋子「沖で待つ」――実をいうとこの作品、私の周囲の評判はあまり良くなく、また前回までの記事のように中島敦について研究中でそちらの方に読書量を費やしていたために、あやうく読まずに“パス”するところだった。

 しかし亀山郁夫氏のcafe MAYAKOVSKYで強く奨められていたので、読んでみた。
 さすがにリンク先ほどには感動しなかったが、このところの芥川賞作品がどうにも胸焼けのするようなものばかりだったので、妙にホッとした。噂や批評で見掛けるほど悪くはない。
 なぜ評判がそれほどでも無かったのかを考えてみた。大抵の批評を見ると、どうにもこの作品を“私小説”として読んでいることが解った。なるほど私小説的純文学として読めば物足りない。物足りないどころか、大いに足りない、どうにもならない作品だ。悪いことにインタビューまでもが“私小説”として尋いているありさまだ。年増OLと会社員の心情? 時代背景? 社会性? それが一体何んだってんだ。
 しかしこれを“物語”として読んだらどうだろうか。私小説的純文学に当てはめられる“深み”なんて得体の知れないものは無視して、純粋に空想とテクニックで書かれた“物語”だとしてみる。“プロット”はしっかりしているし、アイディアはパソコンを扱う人間なら誰でも身近で愉しい。“人物”と“物語”と“プロット”とがそれぞれ綺麗に共存していて、力業か、文章だけ春樹クローンという作品がほとんどいう昨今、非常に珍しい。

 さて、単純な感想といえば実はこれだけなのだが、このサイトらしく、やりすぎなくらいに幅広く視野を持つことにして、文學界三月号掲載インタビューも参考にしながら話を進めていく。折からの金欠病で文學界本誌が買えなかったため、インタビュー記事は引用ではなく覚え書き。ほとんど読解不能なミミズ文字のメモや、三歩歩けば全て忘れるあやふやな記憶を基にした、不正確な情報である怖れがあることを予め記しておく。
 一番眼につくのは「ですます調」。私は芥川龍之介を連想した。そして『この作者は多分物語作家であり、語りべなのだ』と、大いに期待した。期待しない――と言っておきながら1ページ目でもう期待しはじめた。人は勝手なものである。
 作者によると、はじめは他の小説と同様「だ、である調」で書いていたが物語が途中で止まったしまったという。そこで「ですます調」に変えたところ、止まっていた物語がまた動き始めたのだという。これは大いに共感できる話である。私もhtmlでこの日記を執筆していた頃は「ですます調」で執筆していたが、日常語ほど自分自身に心の中の世界を素直に書くことができる。書き言葉は一つフィルターを介さねばならないので“物語”には不便なのだ。これもまた「沖で待つ」が“物語”であることの何よりの証拠だと思う。また、いい加減に誤魔化さなかったことに、作者の作家としての良心を感じた。

 さて、このサイトらしくトンデモ科学の話も出してみる。私は好んで『独創性の男性』と『共感の女性』とに分けたがるが、この作者はその分類で行けば男性よりに見える。科白や文章そのものの言葉遣いに関しては女性らしい面が多く見られるが、いかにもどっしりとした構成で、小説“構造”の根本は男性にありがちなタイプのものである。この作者の脳波を測定すると、もしかすると男性脳に近い結果が出るかもしれない。こういうことを言うと作者は厭がるだろうが、しかし男性脳を持った女性は強力で、そして貴重な存在である。大抵ユニークな人が多い。ジェンダー論になってしまうが、各方面でずば抜けた活躍をしている女性の多くは男性的な面を持ち、行動パターン・思考パターンとしても『群れない』『共感に頼らず、独特の価値観を貫き通せる』など一般的な“女性”とは根本から異なっている。
 同意見のソースが出せないので修辞学的に弱いが、これについては『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの作者である荒木飛呂彦氏の言を引用してみる。


 最近は女性の歌手じゃないと聴く気がしないってのがあるけど、作家とかマンガ家とかでも、具体的に作品名はあげないけれど、特に恐怖の分野に関して、こいつスゲー怖ェこと考える人だなー」と思って作者名を見るとたいてー女性。
 個人的な意見なんですけど、女性にははっきり言ってズバ抜けた感じの建築士とか画家みたいな人は、いないと思うけれど、「情緒関係」について見れば、かなわないって人が、たくさんいて、とても勉強になる。最近は、その辺に注目していろんなものを見ている
(『ジョジョの奇妙な冒険』第49巻より)

 建築士や画家に必要なのは構図。文章で言い換えるなら構成力。感性だけでは『ズバ抜けたもの』には足りない。いかに男性がこの辺についてがっちりしているかについては、いかにも男性的な絵を描く今敏氏がここで述べている。リンク先は妄想代理人のネタバレになるので、ご注意をば。一応、必要な箇所のみを引用。

 このコンテも私の担当で、演出・作画は鈴木さん。6話の原画が終わった鈴木さんが手空きになりそうだったので、9話ではこのコンテを最初に描いたはず。非常に楽しくコンテを描いたが、どうも私の絵では少女漫画的な世界を再現出来ないことを痛感した。これでも中学高校の時分は少女漫画のヘビーユーザーだったし、それらしい絵も描いていたことがある。なので「その気」になってコンテを描き始めたのだが、現在の私が描ける絵の守備範囲に少女漫画的な物は皆無である、と諦めざるを得なくなった。演出・鈴木美千代さんにあっさりこうも言われた。
「絵ががっちりしすぎですよ」
 はい。
「構図や構成がしっかりしていること」「ディテールや物の大きさの対比をおろそかにしない」といったことを美徳、信条として絵を描いてきた私が、少女漫画的曖昧な描写など出来るわけがない。私の絵は構成とパースを外しては考えられない。これは後の13話に出てくる「記号の街」を描く際にも痛感させられた。

 もちろん、男性にも女性化している人はいる。しかし少女漫画誌で書いている男性漫画家の作品を見てもやはり大抵は「がっちり」しすぎているものである。
 私がいつか個人的にゆっくりと腰を据えて話をしてみたい人に、荒木飛呂彦と今敏は外せない。今敏氏はちょっと語りすぎなので大いに引くところだが、このお二方なら文化・美術系大学などで1〜2回限定の講義を持ったら大いにタメになると思う。
 さて、話が恐ろしく脱線してしまったが、決して「沖で待つ」のことを忘れたわけではなく、今までの話は全て「沖で待つ」の話をしたつもりだ。
 文學界のインタビューで、作者は『小説のテクニックを極めたい』ということを述べていた。さて、ここで疑問が浮かんでくる。小説の“テクニック”とは一体何か。また中島敦の話に戻って恐縮だが、彼はスティーブンソンの言を借りて『文学とは選択だ。作家の眼とは選択する眼だ』と述べている。こう書くと直観力のようにも見えるが、しかしこれこそ、小説の“テクニック”である。“テクニック”とは“選択”以外の何物でもない。そして「沖で待つ」は見事に選択の妙を成し遂げた。残念ながらこれは具体的に挙げることは出来ないものの、先に挙げた「がっちり」感は、この選択あってこそである。

 しかし欲を言えば、冒頭の『なぜかと言うと、太っちゃんは三ヶ月前に死んでいたからです』という説明文は削って、そのまま作品世界へ引き込んだ方が面白かったと思う。二度目に読むと、何んだかあそこでがっかりしてしまうのだ。

Posted at 2006/02/17(Fri) 02:27:14

文学・歴史・民俗学 | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

この記事へのトラックバック

「絲山秋子「沖で待つ」――物語と男性脳について」へのトラックバックのRSS

この記事へのコメント

名前

E-mail(※スパムトラップですでの何も書かないでください)

コメント


コメント本文以外は全て入力不要です。

絲山秋子「沖で待つ」――物語と男性脳についてへのコメントのRSS