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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

事実を下敷きにした面白さ/事実に寄りかからない魅力

 小説にしろ漫画にしろ映像作品にしろ、純粋な創作と呼ばれるのは『事実に寄りかからない』作品である。
 しかし一般的に読者を面白がらせ、人気があるのは『事実を基』とした作品であることが多い。もちろん、作品の出来によりけりなので、一概には言えないけれども。

 私がこのところ小説で悩んでいる問題は『事実を基』とした作品を書く場合である。小説と銘打つからには“フィクション”であることに間違いない。しかし、“フィクション”と“嘘”とは微妙な違いがある。フィクション部分のお蔭で、物語がより面白く解りやすくなった――というのなら、それはいいフィクションである。しかし全く間違っている上に、当事者を悲しませるようなものの場合、それは単なる“嘘”八百に過ぎない。
 要するに『作者はどこまで想像が許されるのか』ということである。例えば、映画化されてそれなりの好評を博しながらも、専門家からは失笑も買った『ダ・ヴィンチ・コード』なども、歴史と信仰と絵画を基にしたフィクションである。恐らくほとんどの部分は事実に反する物語である。しかし、面白い。歴史的に正しくなくても、である。なぜ面白いかというと、誰もが知っている歴史を基にして書いているからである。『ダ・ヴィンチ・コード』が、全くありもしない想像から作られていたら、恐らく誰も見向きさえしないほどの三文小説と化していただろう。それくらい、事実の存在というのは、小説にとって大きいのである。

 ここで、漫画から一つの極端な例を引いてみる。
鈴木おさむ+漫☆画太郎『ブスの瞳に恋してる』
 この漫画の何が凄いか、というのは他のブログで既に十二分に検証されているので、ここでは紹介しない。ご興味のある方は下の参考をどうぞ。

参考:
大炎上;漫画家でこんなに違う「ブスの瞳に恋してる

 さて、この作品を知ってからというもの、私の迷いは氷解したような気がする。あくまで気がするだけかもしれないが。
 何はともあれ“想像力”こそ、作家の腕の見せ所なのである。その為にはちょっとやそっと事実と異なっていたって問題はない。むしろ、それを納得させるだけの力が無ければ、事実を基にした作品としては、ダメなのである。ノンフィクションならともかく、(ジャンルは限らず)フィクションと銘打つ意味が無くなってしまう。
 事実に振り回されて、小さくまとまるなんていうのは、誰にだってできる。そういうのは器用貧乏な人に任せて置けばよい。そのことを漫☆画太郎が教えてくれた気がする。

 しかし、一つだけ気を付けるべきことがある。それは人を傷つけるようなことは決して書いてはならない、ということ。それさえ守れば、何をやってもいい。それで読者がついてこないなら仕方がないが、作品に力さえあれば、決して黙殺はされないものである。

Posted at 2006/06/26(Mon) 18:53:32

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