I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

ヒトと、ヒト以外のロマン

 人間と、人間でない生き物との恋愛を書いてみたい――そう思うことがたまにある。
 実際多くの小説家が用いているモチーフでもある。私の思いつく限り、挙げてみようかと思う。ただし、神話を挙げるとキリが無いので、ここでは文学作品だけに絞ってみる。ただし幽霊もダメだ。元はちゃんとした人間なのだから。同じ理由から“変身”も含めないことにする。それとあくまで“生き物”なので、血の通っていないロボットは排除される。
 
アンデルセン「人魚姫」…人魚
安部公房「人魚伝」………人魚
フーケー「水妖記」………ウンディーネ
小泉八雲「雪女」…………妖怪
レム「ソラリス」…………ソラリスの“海”が作りだした自分の記憶の中の大切な人

 
 水の話が多い。どうやら人は水中に魅せられるらしい。なるほど確かに水の中では想像する以外に手を出せない。垣根が大きければ大きいほど、ロマンも増すのだろうか。それに恋と水はどうにも密接な関わりがあるようだ。
 その代表はなんといっても人魚だろうが、その人魚の性生活は非常に詰まらないものだという記述をどこかで見た気がする。あるいは映画の科白かもしれない。人魚になった王子は、その性生活のつまらなさに再び人間に戻るのだという。何んともえげつない話しだ。
 安部公房「人魚伝」に登場する人魚は全身緑色をしていて、上半身と下半身の継ぎ目もなく鱗もない、とてもリアルさを感じさせる。彼女には性愛がまったく無い。おまけにロマンを感じているのは人間側の一方通行である。水の中でのロマンはとても美しいものがあるが、最後はおぞましい話になって終わってしまい、もはやロマンの欠片も消え失せる。異種恋愛など幻想に過ぎないことを痛烈に書いているが、しかし現実の男女関係を思えば、この人魚と男の関係はそのまま当てはまるのではないかとも思える。男はいつでも女の掌の上で躍らされるばかりだ。
 
 列記した中で最も切ないのはダントツでスタニスワフ・レムの「ソラリス」。何しろ相手は自分の記憶を許に、全く異質な生物である“海”が戯れに作った“スーパーコピー”なのである。もはや幽霊ですら無い。仮に霊魂が存在するとしても、恋人の霊魂はそこには無いのだ。それはあくまで鏡に映った自分自身に過ぎない。しかも“海”から離れればその虚像は霧散してしまう。それは“海”が見せてくれる一つの夢に過ぎないのだ。そう、夢だ。夢に出てくる相手は自分自身の投影に過ぎない。
 私はこの小説について考えると、どうしても背筋がぞくぞくしてならない。自分が愛しているのは果たして生きている人間なのか、それとも自分の心の中にある相手についての記憶なのか……。
 SFの異種恋愛といえば異星人だが、まともな小説で異星人との恋を描いたものを私は知らない。一応あることはあるのだが、ハリウッド型エンターテイメント用に極度の擬人化が施されていて、全く違った価値観というものを詳細に書いたものを読んだことはない。映画では「V(ビジター)」という作品が少しだけ描いていたが、突き詰められたものではなく、あくまで視聴者を驚かすためのものに過ぎなかった。それについては日本の漫画の方がよっぽど突き詰めている。そこで少しだけ漫画に逸れることにする。
 手塚治虫「火の鳥」は漫画なのでここには含められていないが、実に多彩な異種恋愛が描かれている。鳳凰編では我王はてんとう虫の恩返しでその化身と結ばれるが、彼女はあくまで虫の価値観だった。我王はそれとは知らずに殺してしまう。未来編ではサルタ博士は自分の醜さのあまりロボットで恋人を作るが虚しさを感じ、全てのロボットの声帯を取ってしまう。宇宙編の主人公は自分を命を救い、さらに恋心まで抱いている鳥の姿をした異星人を食べてしまう。幾ら知性があっても人間は人間以外のものを食べても良心は痛まないものである。恋心を抱かれていようがそれは関係無い。人間は人間しか愛せない。人間の倫理ではこれを裁くことは出来ない。しかし火の鳥によって主人公は罰せられてしまう。
 食べる、食べられる――といえば藤子不二雄の「ミノタウルスの皿」は言葉は通じても意味が通じないという価値観の相違が書かれている。人間そっくりの生き物は実は牛の姿をした異星人の家畜なのだ。主人公が恋心を抱いた相手はよりにもよって『食べられること』を誇りに感じているのである。どれだけ主人公が理性ある生き物を食べることが非道かを訴えても、その星の者は誰も理解しない。
 正直、これらの漫画はイマドキとても多い緊張感ゼロで再読に堪えない軟弱な文学作品よりもよっぽど読み応えがあるし、何より“文学”している。小説なんて読まずに漫画を読む人間の方がよっぽど賢いかもしれない――とさえ思わせるものがある。
 
 さて、他に妖精か幽鬼とのロマンスが無いか探してみたが、意外と思い浮かばない。もちろん現代の性産業はオタク全盛期であり、果ては命の無いロボットまで片っ端から描き尽くされているが、そうしたものは全く考慮していないし、それにそうした下心にはとてもついていけない。時には衝突のある人間同士の恋愛よりも、何んでも言いなりになるロボットの方がいい、という男の我が儘ではないか。一方的な情欲は、ロマンでも何んでもない。ただ虚しいだけである。
 そこでちょっとだけ神話に手を延ばしてみる。とりわけその手の話が多いのはギリシア神話だ。
 ギリシアの神話はゼウスの性格通り、どうにも節操がない。ギリシアの風土がそうさせるのだろうが、とても肉感的であり、欲望に素直である。英雄はニンフとの情話を自慢げに話す。なるほど美しいものへの欲求は素晴らしいものがあるが、私にはどうにもついていけない。
 樹木の精(木のニンフ)ドライアドの話のおぼろげな記憶はこうだ。
 ――ライコスという男が樫の木を守ったところ、ドライアドが現れ、願いを叶えてくれるという。そこでライコスはドライアドを望み、二人は恋仲となる。しかしライコスは、ドライアドから自分の使者だから大切にするように言われていた蜜蜂をうっかり払いのけてしまう。ドライアドは怒り、ライコスの眼を蜜蜂に刺させて失明させた。
 ああ、節操が無い。他にも、神がひそかに地上に出向いて人間の女を孕ませたりと、やりたい放題である。
 ユダヤ教またはキリスト教にもそういった話はある。外典とされている聖書の一部や神話によれば伝説上の「巨人」は人と天使の間の子とも言われている。人の姿をした天使は、甘い香りを放つ若い娘を見ると襲いかからずにはいられないそうだ。そうして出来た子供は生まれながらの英雄であり、豪傑であった。神がノアの洪水を起こしたのは、そうした異種交配とその痕跡を廃する為だったという説もある。単なる道徳の乱れや不信心が原因というのは、いかにも宗教臭すぎて旧約聖書の世界観とは一致しない。
 
 このまま挙げ続けるとキリがないのでもうやめにするが、異種恋愛で描かれているのはほとんどが致命的とも言える価値観の相違である。そこには虚しさ、破局、不幸しか無い。ロマンを夢見ることは決して悪くないが、しかしそれによって現実を直視できないことがあってはならない。

Posted at 2005/11/13(Sun) 09:42:33

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