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E・M・フォースター風小説理論 第一回「要素と用語」


E・M・フォースター「小説の諸相」より。

 E・M・フォースターはイギリスの作家だが、とてもいい小説理論を発表した。尤も理論というような堅い話ではなく、小説についての座談として読んだ方がいい。邦題の小説の“諸相”は原題に忠実に訳せば小説の“要素”であり、言葉通り小説を構成する部品について述べている。
 ここではその「小説の諸相」より、4つの要素を紹介していきたいと思う。もちろん私の解釈によるし、私の信じていることだけを書くので、ある意味では私の小説理論と言ってもいい。何しろ私はこの本を所持していない。とても値の張る本なので、忘備録だけを持っている。その時点でもう歪められているのである。



4つの要素



ストーリー
 物語。
 未開人でもぼんやり口を開けて聞き入ることの出来る低次の要素。通読して面白い作品は、この要素無しではあり得ない。多くの人は千一夜物語の例を好んで使う。
 時間の流れに従い、とりとめの無い話や、とんでもない話が突拍子もなく現れたかと思うと、消えていく。
ex.『王様が死んだ。そして王妃も死んだ』



プロット
 筋。
 ストーリーよりも高次の要素。その最大の違いは、それが因果関係によって語られることである。
 作品としての“完成度”や“芸術性”はこれでほぼ決まる。
 ただし、筋通りに事が運ぶことは、つまり登場人物が筋に翻弄されることであり、とりわけ立体的人物との相性が悪い。
ex.1『王様が死んだ。そして悲しみのあまり王妃も続いて死んだ』
ex.2『王様が死んだ。続いて王妃も死んだが、後になってそれは悲しみのせいだと解った



平面的人物
 喜劇的人物。
 サザエさんのように、いつも決まって同じ考え・信念を持ち、同じ行動をする人物像のこと。戯画化された人物像。当然ながら、エンターテイメントの世界ではこの人物達が主役。
 立体的人物とも両立できる。



立体的人物
 現実の人間と同じように、奥行きのある人物。
 譬えは難しいが、いつも同じことを考え、同じ行動を起こすわけではない、相反する側面も持ったリアリティのある人物である。凡俗な小説家には書けない。これこそが“小説の才能”の本質と言ってもいい。
 平面的人物とも両立できる。



 これら全てをカバーすることが小説の理想と言ってもいい。ただし、それには恐ろしいほどのバランス感覚が必要であり、類い希な才能と熟達した技術を要する。現代純文学作家はとりわけプロットに埋没している。細かいテクニックや芸術性ばかりに固執する人はつまらない世界に陥ってしまう。かといってエンターテイメントの分野になると下らないストーリーだけになってしまい、これまた面白くない。酷くバランスの悪い状況の中、村上春樹という作家がこれらのバランスを見事に執った作品作りをした。これにより氏の爆発的ヒット作が生まれたと思われる。
 因みに、私は村上春樹の文章はどうしても好きになれない。あらすじだけ読めばとても面白いと思うのだが、持っているリズムや人生観があまりに違いすぎるようだ。――話しが横道に逸れた。リズムの話しはいずれ機会があればやりたいが、今ここではやらない。
 ストーリーとプロットは相反していて融合は出来ずとも混在は出来るし、人物を生かすも殺すも小説家の“腕”一つである。ただし技術訓練すれば、これら全てが獲得出来るかというと、そういうものでもない。恐らく訓練によって獲得出来るのは、この中ではプロットだけである。ストーリーに訓練なんてものはそもそも存在しないし、立体的人物は訓練だけでは描き得ない。やはり読書経験、人生経験、才能といった柱が無ければ、良い小説は書けないのである。

Posted at 2005/11/09(Wed) 17:14:36

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