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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

水の文学

毎日新聞;水辺をめぐる夏:/5 辻原登『遊動亭円木』 文芸史重ねた生の池


 枡席に一人座った円木は、行司の呼び出しを聞きながら<あおみどろの水の向こう>に見えないはずの土俵を見つめ、昔の思い出をよみがえらせる。ジンとくる場面だ。「かつてあったもの、失われつつあるものを書くのが文学。それに、紫式部から始まって西鶴や近松、谷崎に至るまで、日本の文学は水辺から生まれているのです。日本語で物語を書く以上、水に近づくのではないでしょうか」

 方丈記には次のようにある。
『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世中にある人と栖と、またかくのごとし』
 日本の仏教的無常観と、水とは相性がいい。
 そして方丈記にある通り、世の中は水の流れるように過去を失っていく。人はいつまでも過去にすがりついて生きることはできない。もしそうすれば水は淀んでしまうだろう。
 だからこそ、文学の出てくる必要性がある。

 さて。文学が描くものは大きく分けて三つある。“過去”“現在”“未来”のいずれかである。
 この中で最も弱いものは“未来”の文学である。主にSF小説となるが、それでも完全に未来のことは書けず、ただ単に未来都市を舞台にして、根幹となるドラマ部分は“過去”のことを書いているに過ぎないことが多い。結局、人間に“未来”を書くことはできないのである。“未来”だけを描こうとしたところで、内容は薄っぺらだし、誰にも理解されない奇書が生まれるだけだろう。
 そうなると、“現在”と“過去”の一騎打ちとなる。読み手はいつもフレッシュなものを求めているので、一見すると“現在”が強そうに思える。現代作家は現代生活の一部を切り抜くように描写し、芸術だと主張する。読者の共感も確かにある程度は得られる。

 しかし文学には発酵という過程が必要である。発酵なくしてどれだけ現代を写実的に描いても、そこには作品に深度というものが無い。“作品”となるためには、生のまま読者に提供するのでは足りない。訓練を積んだ一流コックによる、手の込んだ調理や下ごしらえを介さなければ、本当の作品とはなり得ないのである。
 単に私小説的に現代生活を描写しても、それはかつて星新一をして『風俗小説』と揶揄されたような、つまらない文章にしかならない。

 文学はいつの時代もノスタルジーである。“今日”のことよりも“昨日”のことの方が遙かに読み手の心を掴む。
 団塊文学ではよく学生闘争のことが書かれているが、そうしたものが、本来知るはずのない若者や外国人の心までとらえるのは、そこに“昨日”の力が備わっているからに違いない。書き手のノスタルジーも大きな要因だろう。“昨日”のことは“物語”へと成長することも、私は要因として挙げたい。
 遠い昔、たき火を囲んで女や子供達が長老に物語をせがむ。そこで長老が語った言葉は、必ず“昨日”のことだったはずだ。“昨日”のことに、子供達はぽかんと口を開けて聴き入る。しかし、“今日”のことはどうだろう。どこへ行ってきたとか、獲物を何匹捕らえたとか、事実を挙げることしかできない。よっぽどの奇妙な体験をしたならともかく、大抵は事務的で退屈な話に終わってしまう。しかしそんな話も、何日か空け、空想を交えながら武勇談として語られるなら、まだ聴きがいがあるだろう。“今日”のことは、まだ“物語”にはなれないのである。
 ただし、大事なことは“現在”の視点から“過去”を書かなければダメだということ。“今日”の自分で“昨日”の世界や自分自身を書くことに、意味があるのだと思う。


 文学における「池」とは、どんな意味があるのだろうか。辻原さんは、芭蕉の名句「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」を例にこんな話をしてくれた。「具体的な水辺であると同時に、日本の文芸史が何層も重なって出来上がったイメージの世界でもあるんです」。その言葉に、私は橘川さんの話を思い出した。「金魚に適した水をこしらえるのに10年かかるんだ」。金魚池は地を掘って人工的に水をためた場所だけど、かかわった人々の手間、地域の歴史、いろんなものが<あおみどろの水>に沈んでいるのだ。だからこそ、人間を描く小説の舞台となる。

 池はどうか知らないが、とにかく川の出てくる文学作品は日本のみならず多い。漱石の「坊っちゃん」にはしばしば出てくるし、伊藤左千夫「野菊の墓」には『矢切の渡し』が少し出てくる。こんな風に挙げていくと本当にキリがない。そりゃ人間が生活には水場が無いとならないので、多いのは当たり前の話なのだが。
 古典作品になると関わりがより多くなる。水の都江戸――そこで生まれた落語には川の存在が欠かせない。名前の前に『隅田川の――』と付いたり、『川向こう』などという言葉が飛び交う。
 また、昭和以前のラブロマンスに“橋”が多く出てくるのは象徴的だと思う。“恋”という名前のついた橋や瀬川は非常に多い。男女の架け橋という意味だろうか。風恋橋の名称は一般公募なのだそうだが、それだけ橋と男女のロマンスが人々に定着しているということだろう。
 それに較べれば現代の恋愛は随分と水気が乏しいように思う。

Posted at 2006/08/23(Wed) 18:41:59

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