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オゴテメリの語ったドゴン神話はごく普通の神話だった

 やっとのことで<マルセル・グリオール「水の神」を読み終えた。
さして長い文献ではないのだが、とにかく素朴な話が延々と続き、うんざりしてくるのだ。ただし、文章自体は非常に小説的で面白く読めることを明記しておく。言うなれば、鳥山明「ドラゴンボール」にうんざりしてくるのと似たようなものだ。

 さて、ドゴン神話といえば、宇宙人信仰とかシリウス星系から逃げてきたとかいう妙なオカルト話が出回っているが、少なくともこの「水の神」――盲の老賢者オゴテメリの話――には、全くそれを彷彿とさせる突飛な話は出てこない。たまたま御神体が両生類めいていただけで、どこにでもある、素朴な神話の連続である。むしろ、地味とさえ言っていい。キリスト教の旧約聖書の方がよっぽど派手で、破天荒ある。
 十戒に出てくる奇蹟の数々は誰でもご存知のことだろう。『海がまっぷたつに裂けた』とか『天からマナが降ってきて、餓えを凌いだ』とかとんでもない話が多い。新約聖書でも、キリストが起こす奇蹟の数々は『水上を歩いた』り『死んで復活』したりなど、少年漫画にも描かれないほどの眉唾ものである。しかも『復活』というのは奇蹟でも何んでもなく、当時ユダヤ教信者なら誰でも信じていたごくごく一般的な信仰である。ユダヤ教では死んだ人間は、誰でも復活すると信じられていた。もちろんそれらは譬えであって、本当に蘇るとまでは思っていなかったことだろう。それを後に弟子達がイエスを救世主に祀り上げるために、無理矢理こじつけたのである。

 ドゴンの話に戻す。神話は“ことば”の生まれる歴史であり、“7”“8”という数字と“双子性”が特に神聖視されている。“8”は人類始祖=ノンモの数であり、“7”は男性器の数【睾丸2+陰茎1=3】と女性器の数【大陰唇2+小陰唇2=4】を足した数である。
 ドゴン神話では八百が一番大きな数だそうだが、これは日本でも同じことである。八百万の神、八百八町、吉原の土手八丁、よく解らないほど多いもの、大きなものには片っ端から“8”があてがわれている。なんだ、奇妙な神話どころか、日本文化とさして変わらないじゃないか。

 ところで宇宙創世の神様は唯一神アンマであり、アニミズムとは性質が大きく異なる。唯一神アンマは一人でいたので、大地と交わろうした。蟻塚が性器である。大地は蟻塚の塚を起きあがらせて男性性を示したが、神によってその陰核を折られてしまう(ドゴン族には陰核切除の風習があるという)。それは男性性のゆえに不吉な交わりであったので、その行為によって生まれたのは双子ではなく、単独の、神の困難さの象徴としてジャッカルが生まれた。これはイザナミイザナギの話と似ている。
 神は再び行為に及んだが、既に陰核切除によって最初の無秩序のもとは無かったので、秩序正しく双子が生まれた。それは“水”から造られ、“神”と同質であり、同時に“水”と同質でもあった。彼等を大ノンモという。“水”と“ノンモ”は同じものである。
 ジャッカルは大地と近親相姦に及ぶ。これによってジャッカルは“ことば”を得たが、再び世界には無秩序が生まれ、月経の血が生じ、大地は不浄のものとなった。
 唯一神アンマは大地から背を向け、自分で生命を生み出すことにした。土くれから人間が二人生まれた。その時、先ほどの大ノンモが再び無秩序の訪れることを怖れて、人間の男を割礼し、女を陰核切除した。
 粘土から造られた一組の男女は八人の人間の始祖を生みだした。上の四人が男で、他が女であったが、二重の魂と二重の性器を持っていたため、一人で身ごもることが出来た。ドゴンの八つの家族は、この始祖から生まれた。これは恐らく双子性の信仰と関係があるだろう。また、神や天使を両性具有と考える神話は決して少なくない。
 これら人間の始祖は蟻塚に入ることにより、中でノンモに変身する。ノンモは水かきを持ち、腕には関節が無く、脚が無い。その時、7番目のノンモが大地から“ことば”を受け継ぐ。これは後に人間に伝えられ、機織の技術を伝えることになる。
 7番目のノンモは地上ではヘビに変身して、後に人間に変身した。これらのノンモは天から穀倉に乗って、天の火を盗んで地上に降りてくる。天の火を盗む話はギリシア神話にも似たものがあり、珍しいものではない。また、最初の人間は死んで、そしてヘビと化した7番目のノンモに食べられることで、復活した。新約聖書の復活と較べれば、遙かに素朴だが、復活自体は神話の王道である。ヘビと7番目のノンモが融合していることは、神聖な双子性に適い、信仰の一つとなっている。
 ごく一部ではノンモが宇宙人で、穀倉が宇宙船だというが、そのような読みはとても出来なかった。宇宙人はヘビや人間に変身なんてしないし、天から食べ物や穀倉が降ってくる――という表現は神話の上で別に珍しくもない。先にも述べたように、旧約聖書では正体不明のマナが降ってきて餓えを癒すのであるから、そちらの方がよっぽど驚きだ。しかも、それらを事実として信じている人々が現在でも世界中にいるのである。
 それに較べればドゴン族の神話は何んと素朴だろう。全てが象徴として語られているのであって、ごく普通の神話と見るべきである。

 この「水の神」には『昴』や『オリオンの三つ星』、『金星』、そして『黄道十二宮』の星座に関連する動物――といった単語群は出てくるものの“シリウス”という単語はシという文字すら出てこない。神話にもそれを匂わせるようなものは見当たらない。これらの天体に囲まれた天体かとも思ったが、それとも場所が一致しない。
 ドゴン神話にはどうやら階梯があり、これよりさらに秘儀の方に入っていけば、後で参考に出てくるようなオカルト話もあるのかもしれないが、そこまで奥深く入ってしまうと、今度は却って信頼の置けないものになってしまう気がする。日本にも禅の密教のように秘教と呼ばれるものがあるが、大抵は奥深く入れば入るほど、眉唾で、いい加減なものになっていく。キリスト教にもいかがわしい宗派は沢山あるのだし、それに類似したものではないか。オゴテメリが話した以上の秘儀は、無視していいものではないのか。

 とにかく、盲目の老賢者オゴテメリによって語られたドゴン神話で信仰されているのは“シリウス”ではなく、実際には“水”と“ことば”であることが、よく解った。

 ここで最も大事なことは神話が“ことば”の歴史となっていること。機織や、太鼓などはノンモによって伝えられた“ことば”なのである。オゴテメリは『裸であるということはことばがないということだ』と言っているが、これに私は仰天した。アフリカの土人がそんなことを言うとは想像だにしなかったのである。
 ここまで“ことば”を大切にした神話は他に無い。何よりもここが最もユニークなところではないか。旧約聖書での“ことば”は、アダムがあらゆるものを名付けていくことに始まっている程度である。
 “ことば”とは知識である。ドゴン族の神話は、知識の神話といっていいのではないか。アフリカの先進的教育に触れていない部族が、これだけ高度な知識の神話を持っていたとなれば、やはり驚きである。
 恐らく、地中海世界及びイスラム的世界からの影響が強いと思える。ギリシア神話との類似性や、アニミズムではなく唯一神を信仰しているところなどは、元々あったアニミズムに、イスラムやキリスト教世界から輸入された知識が、融合したものと思える。黄道十二宮と神話が関連付いているところも同じである。
 ただし、少なくとも「水の神」に書かれているそれらの宇宙観は非常に曖昧で素朴なものに過ぎないことを明記しておく。



 ところで、女の腰巻きについては面白い言葉がある。


「腰巻がぴっちりと締められているのは、性器が見えないようにするためだ。だがそのために、みんなその下に隠れているものを見たいと思うようになる。このことはノンモが織り目に置いたことばのせいだ。このことばは一人一人の女の秘密であって、それが男をひきつける。女は男の欲望をかきたてるために秘密の部分をもっていなくてはならない。裸で市場を歩いていたりしたら、どんなにきれいな女であってもその後を追いかける者は一人もいないだろう。腰に何もつけてなかったら、男の心はその女をほしがったりしないだろう。飾りをつけた女というのは、たとえあまりきれいでなくても男は欲しがるものだ。飾りをつけていなければ、そんなにきれいな女でも男はそっぽを向いてしまうだろう」

 小さい頃からずっとお互いに裸を見せ合って成長してきた男女は、男女の情を抱くことが少ないという。早い話が兄妹姉弟関係にある男女が嫌悪感こそ感じても、性欲の対象とはならないことと同じである。隠すから見たいし、隠すからそそられる、というわけだ。

 ドゴン神話について、オゴルで聞き取りをしたら、まるでそういった話は聞かれなかった――という報告がある。
 ドゴン神話が一般のドゴン族に知られていないのは、その秘教的な性格のためである。『無知な人間』には決して知らせてはならない神話とされているため、若いドゴン族には伝えられないのである。また、神殿の祭祀についても、よそ者に知られないように、判じ絵のように秘匿するほどだという。
 そう言われると眉唾に思うかもしれない。しかしとてもじゃないが、これらの話はたった一人で練り上げられるものではない。もし可能であるとすれば、それはホメロスを遙かに凌ぐ詩人であり、またボルヘスをも遙かに凌ぐ知識を持った人間がアフリカ未開の地にいることになるが、未開人の愚かしさは、教育を受けた我々には想像もつかないほどである。全く教育を受けていない人々は、我々と同じように思考する能力は無い、と考えていい。『考える』『創造する』――という思考ロジックは、近代西洋において育まれたものであり、一定の教育を受けていない人にとって『考える』ことや『創造する』ことは、とても難しいことなのである。それがこれだけの話を捏造したとすれば、もはやノーベル賞どころではない、大天才である。
 また、オゴテメリは盲目のため、眼が見えなければ判別できない風習については説明不可能である、それなのに彼はあたかも見えているように白人達に自分達の風習を語っている。あるいは全盲ではないのかもしれないが、それにしても、ろくに目の見えない人間が詳細な模様について語るのは、それが知識として誰かからもたらされる必要がある。やはり神話として受け継がれた――と考えるのが自然である。

参考:
ドゴン神話とシリウスの謎

Posted at 2006/05/18(Thd) 14:33:49

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