I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

瞑想とは何か

 フランツ・カフカの短編に「断食芸人」という作品がある。簡単なあらすじを紹介すれば、すっかり時代遅れとなった『断食』を行う芸人と世間とのギャップを描いた話だ。まるで売れなくなった芸人は、サーカスで動物たちの檻に混じって断食を続けるが、皆からすっかり忘れられ、たまにみとめてくれた者がいても、インチキだと罵られるばかりである。最期には檻を使おうとした団長達によって発見されるが、誰も彼の偉業を褒め称える者はいなかった。
 ――欧州では断食行は“芸”であり、見せ物としての価値を出ないらしい。西洋人の性格を大雑把に考えれば、なるほど確かにその通りだ。しかし東洋では違う。断食を伴った瞑想は一つの精神修練であり、西洋人の“祈り”とは全く異質の文化だ。
 西洋には“無”の思想は無い。ゼロという概念すら数学の発達を待たなければ生まなかった。もちろん数学で理解出来たとしても、実生活の行動には簡単に組み込まれない。だから“祈り”には大抵“救済”や“願い事”が含まれている。“無”の祈りや哲学は、西洋には存在しない。キリスト教の修道院で修行に当たるのは労働と奉仕であり、どちらかといえば社会倫理に近い。
 また、物事は『誰が一番得をするか』と考えれば万事が全て解決出来ると信じているのが西洋人だ。一見もっともそうにも思えるが、それは合理主義の発達した西洋でしか通用しない観念で、世界全体、特にアジア人の世界ではほとんど全く通用しない。植民地政策や、アメリカ先住民からの搾取を考えれば容易に想像がつく。一般的な西洋人は無欲や、自然との融合を下等で野蛮なものとしか考えない。限りない欲求こそが成功の秘訣であり、もし子供が無欲なようなら、親はひっぱたいてでも欲の発現を促すだろう。


 さて、前ふりが長くなったが、本題である。
http://x51.org/x/05/12/0222.php

 西洋人の眼にはこの少年の行動がよっぽど奇妙に映るだろう。15歳の若者なら、夢に向かって学業やトレーニングに励むべき年頃であり、突然断食行をはじめたとなれば親は怒り狂うべきだと考えるに違いない。少なくとも文明的ではないと解釈するはずだ。しかも『化身』という西洋人(我々日本人にとっても)には容易に理解できない概念が含まれている。
 この化身とは、例えば活仏とされているダライ・ラマは観音菩薩の化身【トゥルク】といわれている。または、歴代ダライ・ラマの化身とも言える。化身だからといって性格や思考までが同じというわけではなく、全く異なっている。じゃぁ化身とは何んだ? と問われると実に説明に困るのだが、決定論的にその人は誰彼の化身――ということが魂の奥底の記憶のようなものから証拠立てて推理されたり、予兆を見たり、夢やお告げを得たりすることで、化身と認められるのだ。リンク先の記事がやたらと仏陀との関連性を挙げるのは、証拠による推理と言って差し支えあるまい。やたらと証拠を、証拠を、と言うのは西洋人的な好奇心だけでなく、そうした理由もあると思える。しかしいくら証拠があるといっても、当然のことながら西洋式の科学はこんなものを認めることはない。人権侵害とさえ言い出すかもしれない。
 この少年が15歳という人生の春の年頃に、そんなにしてまで行う瞑想とは一体何んなのか。「ダライ・ラマ自伝」によれば、瞑想中の身体は特殊な状態に置かれ、体温が四十度近くまで上昇、食事はほとんど必要とせず、酷寒の中でほとんど裸同然でも平気らしい。十年ほど前に日本の民放が、半分タレントと化した日本のなんちゃって仏教僧を脳波測定したところアルファー波が多量に出ている事が確認されている。キリの方でもそれなのだから、修練をしっかり積んだピンのチベット僧の状態については、一般人の我々にはなかなか想像がつかない。瞑想中のチベット僧の脳波も検査されており、『善良な脳波』という言葉さえあるそうだ。
 一度瞑想を知った人なら、それは人生に与えられた素晴らしい時間であり、精神修養には欠かせないものだと考えるだろう。良い精神を育むためには、知識を詰め込み、カネをつぎ込み、奇妙奇天烈な体験をするだけでは決して実現出来ない。精神そのものが間違っていれば、知識はとんでもない凶悪なものを生み出してしまう。
 ここで現代科学らしく、心=精神を脳の機能の一つと認識する(以下の記述は養老孟史「唯脳論」を参考にした)。脳の神経細胞は使われないと死んでしまう。全く本を読まない人にいきなり本を渡してもてんで読めないし、文章を書かせてもとんでもなく哀れな結果になるのはそのせいだ。また、同じ理由だと推測されるが、脳は寝ている間でも決して活動をやめない。
 普段使われない脳細胞が生き残るためには、脳細胞同士でコミュニケーションを執る必要がある。それが高度な意識の正体である。瞑想状態とは、恐らく究極の自己完結状態ではないかと推測する。運動をやめ、食事をやめ、脳は精神機能にのみ活性化される。余計なものが全く入らない状態はまさに脳の整合と言っていいだろう。世間に揉まれていなくとも、知識を詰め込まれていなくとも、そうしたところにこそ良心が宿ると言われれば、なんとなく理解できる気がする。器の差、とでも言えばいいだろうか。器が小さいままで色んなものを詰め込めば、きっと爆発してしまうだろう。最近の凶悪事件の記事を見ていると、そんな風なことを思う。

Posted at 2005/12/05(Mon) 06:24:44

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