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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

手書きとワープロ書きその2

 このサイトでしばしば話題に上る辻原登氏について。
 辻原氏の執筆法は込み入っている――作業自体はそう複雑ではないが、極々丁寧。イマドキの本も読まない、お前ほんとは文学好きとちゃうやろ? と尋きたくなるような多くの芥川賞作家とは違い、コテコテ(氏は関西出身である)の文学好きであることが解る。
 あんまりリークして怒られてもしょうがないので、簡単なところだけ。執筆そのものの流れは――

 下書き→推敲→書き写し→清書

 これら一連の流れを全て手書きで行う――というよりも、パソコンを扱うことが全く出来ないそうだが。(笑) 特に太字の『書き写し』の部分がパソコン/ワープロの作業と大いに違う。
 推敲段階で並べ替えたストーリーをもう一度写し直すことそのものが創作の作業となっている。しかし、もしこれがパソコン/ワープロであれば、そのままコピー&ペーストで終わってしまいかねない。なんという芸のないことだろう。酷い流行作家になれば、印刷もせずにそのままメールで編集部に送るという杜撰な真似をしてしまう。
 言葉というのは、手塩に掛けただけ洗練される。辻原氏の作品が評価されるゆえんは何よりもそこにある。洗練された言葉の美しさは、他の作家の追随を許さない。
 しかも、辻原氏の作品には誤字が全くと言っていいほど見当たらない。もちろんこれは編集側の力もあるが、やはり原稿がしっかりしていればこそ、間違いも少ないものである。

 また、辻原氏は執筆中に読書断ちするようなことは無く、逆に読書に読書を重ねて、関係のある本を読みあさり、その中に注意すべき言葉を付箋に書き写し、そこから自分の言葉を絞り出していく。辻原氏はこれを『ダムを言葉で満水にする』と表現している。
 読書こそが発見であり、創作の要となっている。付箋に拾われた時、また別の新たな創作の種となっている。
 ――創作とは恐らくそういったものであろう。人間の脳細胞が突然全く変わったものを生み出せるとは到底思えない。既存のものからの突然変異にのみ、人間の創造力は働くような気がする。
 そのためには、頭の中に浮かんだだけの言葉をキーボードでただ打ち込むだけでなく、一つ一つの文字を手で直接書くことによって洗練してやらねばならない。その時に、また一つ新しい言葉が生み出されていくのに違いない。
 
 
 
 ……軽妙なんて、阿呆の勲章やで。

Posted at 2006/03/18(Sat) 13:35:06

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