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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

ケータイ小説vs純文学

 素人作品なのにプロの小説よりも何百倍も大人気! のケータイ小説ですが、一方で本読み連中からは非難囂々、映画化作品も映画好きからは「ちょっと何なのこれ?」状態です。
 しかし小説というものはあくまでエンターテイメントであって、芸術などと言ってお高く止まっていられるものではありません。
「芸人は上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば」
 という言葉がありますが、時代や読者の傾向に合わなければどんな上手な作品でも、誰からも読まれることなく消えていくだけです。読まれない小説というのは、それはただの模様に過ぎません。小説とは読者があってはじめて価値を持つものです。
『自分の為に書いている』と言い切る小説家も多いですが、それは一定の水準に達した人の話しで、未熟な人が独善で書いてもただの自慰行為にとどまります。

●よく言われる良い小説の条件
1.人が死なない
2.セックスの描写がない
3.他人を傷つけない

 上の二つは特によく言われる定番中の定番で、村上春樹の小説にも書かれています(主にネズミの作品にて)ので、ご存知の方も多いでしょう。
 人が死んだり、セックスをする描写はただそれだけでセンセーショナルなので、作家としての技量はほとんど必要ありません。小学生でもネットのお蔭で文章力のしっかりしたイマドキの子なら、感動のスイーツ(笑)を書けます。そのうちケータイ小説も小学生女子が実話を基にイケメンレイプネタで純愛(笑)ケータイ小説出すでしょう。マジで。
 純愛の意味も完全に変貌してしまい、現代では和姦でさえなくとも純愛と呼ばれるようになりました。作者が若い女性で、レイプ小説を実話と称して発表すれば、若年女性作家の作品なら何でもいいスケベ男も沢山群がってさらに売り上げ倍プッシュ!

 三つ目については、特に倉本聡が『玩具の神様』の中で人物に言わせていました。他人を傷つける目的で書かれたものはもはや創作とは言えません。叩き煽りや自己主張するのはせいぜい自分の日記帳だけにしとけばいいんですよ(ネットでやると炎上するけどね)。そもそもそんな作品が世に出た日には、作家生命が断たれてしまいますけれども。
 書くという行為は責任重大なんですね。
『小説を書くということはヒューマニズム以外の何物でもない』と言い切った人もいます。シュテファン・ツヴァイクなどはそうですね。他人への思いやりがあってこそ、文学と呼べるのでしょう。
 現代作家で思いやりに溢れた文章を書ける人は物凄く少ないですけどね。井上ひさし、丸谷才一くらいなものでしょうか。


 ケータイ小説のほとんどは、買わなくてもネットで検索すればタダで読めるのですぐお解り戴けると思いますが(例えばケータイ文学賞とか)、だいたいテンプレに忠実な作品が多いです。今の時代は奇抜な作品よりも、定型通りの作品の方がウケる傾向にあるようです。

・ケータイ小説のテンプレ
冒頭は電波ポエムではじまる
→レイプ
→IKEMENキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
→セックス
→鬱(リスカ・ドラッグなど)
→セックス
→難病(エイズ・癌など)
→妊娠
→彼氏が死ぬ/死んだと思ってたけどそんなことはなかったぜ

 これでベストセラー(笑)間違いなし! 安い感動? 安い話じゃないと感動できないのがほとんどの現代日本人ってことです。

 いわゆる文学作品とケータイ小説との違いを見るために、このテンプレと純文学作品とを比較してみましょう

・石原慎太郎「太陽の季節」(芥川賞受賞作)映画化
俺たちの→青春は→セックスだ(あと酒と博打と喧嘩も)

・花村萬月『王国記』(第一部「ゲルマニウムの夜」で芥川賞受賞)映画化
セックス→雑学→暴力→哲学→セックス…(以下ループ)

・伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」(芥川賞受賞作)
底辺バイターが→鬱→女性社員の→鬱→尻を追う

 大筋だけを見る限り、特に内容について差はありません。名作はともかく現代文学に関しては、どちらもひたすらセックスだの鬱だの書かれていることは確か。他にやることねーのかよ。(笑)
 昔、芥川賞の選評で小川祥子が「セックスが無い小説は見晴らしがいい」とかなんとか言っていましたが、あながち間違いでもないかもしれません。

 文章のリズムに関してもケータイの制約上短い言語に限られるという特徴を除けば、ケータイ小説も、ほとんどの現代小説も
【会話会話会話・地の文・会話会話会話…】
 という会話中心の進行です。会話の中でもさらにどうでもいい会話が7割くらいを占めていますが、会話中心小説にはその無駄さえ必要な要素とされています。
 海外の名作小説も会話中心の作品が多いですが、現代小説とは違って、長科白が多くモノローグ的で、どちらかと言えば地の文に近い性質があります。ヨーロッパ系は現代でも劇作の影響が強いですね。日本・アメリカの会話文は流れ重視で、テレビの影響が非常に強いように感じます(実際、テレビ的言語がほとんどで日常的言語を使っている作家は非常に少ないです。生きた日本語の会話は井上ひさしくらいしか思い浮かばない)

 売り上げが凄い上に、文章はともかく内容そのもにはそれほどの差は無い――というわけでケータイ小説完全勝利の流れになってしまいました。
 しかし、ケータイ小説を消費しているのは、一生読書に精を出すことのない人達だという文芸批評家もいます。文芸そのものを変えるような存在にはなり得ないということでしょうか。
 でも、私からするとそれは傲りだと思うんですよ。
 確かに、今ケータイ小説で書かれているのはギャルゲーの二次創作小説や、今まで見向きもされて来なかったネット小説と、質も内容もほとんど変わりません。しかしそれが商売になってしまうとなるとまた別の問題が出てきます。
 出版社が作品の水準よりも売り上げを優先し、そうした素人レベルから脱却できない人達が作家などと称するようになれば、作家全体のレベルが低下します。ひいては作家業・出版界そのものへの不信感と蔑みを招き、坂道を転げ落ちるように崩壊していくような気がします。
 もしかすると文学は淘汰されて消えていくかもしれないわけで、こういう流れもその過程の一つにあるんじゃないかな、と不安になります。
 まずは、真っ当な文学がしっかりしないといけないですよね。純文学に限らず。

Posted at 2007/11/29(Thd) 15:15:46

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