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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

【コピペ】トークセッション:『カラマーゾフの兄弟』と『赤と黒』をめぐって−−東京・来月8日

トークセッション:『カラマーゾフの兄弟』と『赤と黒』をめぐって−−東京・来月8日

◇亀山郁夫・野崎歓両氏が語り合う−−東京・毎日ホールで

 ロシア文学者で東京外国語大学長の亀山郁夫さん。フランス文学専攻の東大准教授、野崎歓さん。新しく訳した19世紀の小説がともに話題になっている2人が語り合うトークセッション「『カラマーゾフの兄弟』と『赤と黒』をめぐって」(毎日新聞社主催、光文社後援)が3月8日午後4時から、東京都千代田区一ツ橋、毎日新聞東京本社地下1階、毎日ホールで開かれる。名作の魅力と現代性を語り合う、刺激的な時間が楽しめそうだ。


当日は2部構成。第1部で2作品の魅力と相互の関係を論じ合い、第2部で両作品の今日性を考える。司会は毎日新聞の重里徹也・東京本社学芸部長。入場無料。29日までに〒100−8051毎日新聞社「毎日文学フォーラム」係(ファクス03・3212・0405)まで、郵便やファクスでの申し込みが必要。問い合わせは03・3212・2272(土・日曜を除く10〜18時)へ。

毎日新聞 2008年2月19日 東京夕刊


 いいなあ、聞いてみたいものです。
 一応新訳版は全部読んで、「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」という新書も開いてみました。

 単純な面白さで言うと第二部・第三部が山場。第一部は物語へ入り込むのが少し困難だし、ドストエフスキーの文体に「あれ?」という違和感を感じたり、少しとっかかりにくい印象。
 第四部は殺人の教唆などといった、物語のテーマ性に深く関わってくるのですが、それが読むことをより苦痛にしている感じです。

 ここで『カラマーゾフの兄弟』を傑作たらしめている要素の一つに、作品の世界観というものを挙げたいと思います。
 作中の社会・時代背景が無ければ、絶対に成立しない作品です。

 もちろんカラマーゾフの作品世界というのは、現実のロシアの地・時代あってこそで、例えば同じようなものを日本式に書こうとすると、途端に安易なファンタジーとなってしまいます。
 同じやり方では、小説になりません。
 かといって、日本式のリアリズムをそのまま小説に書くと、作品世界がどうも矮小かつカビ臭くなりがち。
 海外文学と同じか、それ以上の壮大な傑作を書くというのは、日本という枠の中だけではなかなか難しいことです。

 日本でも江戸・明治・大正時代は魅力的な文化を有していましたが、昭和以降の日本を書こうとするなら、結局大江健三郎、あるいは村上春樹のような世界が着地点になってしまうものかもしれません。

これは作りかけのネタです

Posted at 2008/03/07(Fri) 06:13:55

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ラノベ作家桜庭一樹直木賞受賞

文春;第138回直木賞は桜庭一樹さんに決定!
 順当順当。
 ラノベから出て良かったと思います。作家にとっては却って不幸かもしれませんけれど。

これで
「ラ ノ ベ は 文 学 で す」
という人がまた増えるかもしれないけど、直木賞は面白ければOKの文学賞ですから。


 芥川賞は……今回はパス。

(↑ここまで1/16の記事)
----(追記2/16)-----
の予定でしたが読んだので。

 まず、改行が少ない上に、文章はやや粗くて読みにくい。ネット中毒で三行以上読めない人や、春樹系の信者には苦痛かと思います。
 こういうのは女性には割と珍しいスタイルなので、男性が書いたかと思いました。
 だけどどうしても読んでおきたい小説ってほどではないですね。書いてある内容も生理臭いばっかりで「うん! うん!」留まり。やっぱり小説は「SUGEEEEE!」と思わせないと物足りないかな。
 方向性は全然違いますが小川洋子の「妊娠カレンダー」とか、あとは笙野頼子のわけわからんところとか似てるかもしれません。
 名作になることはできないけれど、小説の登龍門作品としては、それなりに納得できるところです。
 要するに芥川賞作品としてはふつー。ちょっと懐かしい印象さえ感じます。

Posted at 2008/02/16(Sat) 05:03:31

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ケータイ小説vs純文学

 素人作品なのにプロの小説よりも何百倍も大人気! のケータイ小説ですが、一方で本読み連中からは非難囂々、映画化作品も映画好きからは「ちょっと何なのこれ?」状態です。
 しかし小説というものはあくまでエンターテイメントであって、芸術などと言ってお高く止まっていられるものではありません。
「芸人は上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば」
 という言葉がありますが、時代や読者の傾向に合わなければどんな上手な作品でも、誰からも読まれることなく消えていくだけです。読まれない小説というのは、それはただの模様に過ぎません。小説とは読者があってはじめて価値を持つものです。
『自分の為に書いている』と言い切る小説家も多いですが、それは一定の水準に達した人の話しで、未熟な人が独善で書いてもただの自慰行為にとどまります。

●よく言われる良い小説の条件
1.人が死なない
2.セックスの描写がない
3.他人を傷つけない

 上の二つは特によく言われる定番中の定番で、村上春樹の小説にも書かれています(主にネズミの作品にて)ので、ご存知の方も多いでしょう。
 人が死んだり、セックスをする描写はただそれだけでセンセーショナルなので、作家としての技量はほとんど必要ありません。小学生でもネットのお蔭で文章力のしっかりしたイマドキの子なら、感動のスイーツ(笑)を書けます。そのうちケータイ小説も小学生女子が実話を基にイケメンレイプネタで純愛(笑)ケータイ小説出すでしょう。マジで。
 純愛の意味も完全に変貌してしまい、現代では和姦でさえなくとも純愛と呼ばれるようになりました。作者が若い女性で、レイプ小説を実話と称して発表すれば、若年女性作家の作品なら何でもいいスケベ男も沢山群がってさらに売り上げ倍プッシュ!

 三つ目については、特に倉本聡が『玩具の神様』の中で人物に言わせていました。他人を傷つける目的で書かれたものはもはや創作とは言えません。叩き煽りや自己主張するのはせいぜい自分の日記帳だけにしとけばいいんですよ(ネットでやると炎上するけどね)。そもそもそんな作品が世に出た日には、作家生命が断たれてしまいますけれども。
 書くという行為は責任重大なんですね。
『小説を書くということはヒューマニズム以外の何物でもない』と言い切った人もいます。シュテファン・ツヴァイクなどはそうですね。他人への思いやりがあってこそ、文学と呼べるのでしょう。
 現代作家で思いやりに溢れた文章を書ける人は物凄く少ないですけどね。井上ひさし、丸谷才一くらいなものでしょうか。


 ケータイ小説のほとんどは、買わなくてもネットで検索すればタダで読めるのですぐお解り戴けると思いますが(例えばケータイ文学賞とか)、だいたいテンプレに忠実な作品が多いです。今の時代は奇抜な作品よりも、定型通りの作品の方がウケる傾向にあるようです。

・ケータイ小説のテンプレ
冒頭は電波ポエムではじまる
→レイプ
→IKEMENキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
→セックス
→鬱(リスカ・ドラッグなど)
→セックス
→難病(エイズ・癌など)
→妊娠
→彼氏が死ぬ/死んだと思ってたけどそんなことはなかったぜ

 これでベストセラー(笑)間違いなし! 安い感動? 安い話じゃないと感動できないのがほとんどの現代日本人ってことです。

 いわゆる文学作品とケータイ小説との違いを見るために、このテンプレと純文学作品とを比較してみましょう

・石原慎太郎「太陽の季節」(芥川賞受賞作)映画化
俺たちの→青春は→セックスだ(あと酒と博打と喧嘩も)

・花村萬月『王国記』(第一部「ゲルマニウムの夜」で芥川賞受賞)映画化
セックス→雑学→暴力→哲学→セックス…(以下ループ)

・伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」(芥川賞受賞作)
底辺バイターが→鬱→女性社員の→鬱→尻を追う

 大筋だけを見る限り、特に内容について差はありません。名作はともかく現代文学に関しては、どちらもひたすらセックスだの鬱だの書かれていることは確か。他にやることねーのかよ。(笑)
 昔、芥川賞の選評で小川祥子が「セックスが無い小説は見晴らしがいい」とかなんとか言っていましたが、あながち間違いでもないかもしれません。

 文章のリズムに関してもケータイの制約上短い言語に限られるという特徴を除けば、ケータイ小説も、ほとんどの現代小説も
【会話会話会話・地の文・会話会話会話…】
 という会話中心の進行です。会話の中でもさらにどうでもいい会話が7割くらいを占めていますが、会話中心小説にはその無駄さえ必要な要素とされています。
 海外の名作小説も会話中心の作品が多いですが、現代小説とは違って、長科白が多くモノローグ的で、どちらかと言えば地の文に近い性質があります。ヨーロッパ系は現代でも劇作の影響が強いですね。日本・アメリカの会話文は流れ重視で、テレビの影響が非常に強いように感じます(実際、テレビ的言語がほとんどで日常的言語を使っている作家は非常に少ないです。生きた日本語の会話は井上ひさしくらいしか思い浮かばない)

 売り上げが凄い上に、文章はともかく内容そのもにはそれほどの差は無い――というわけでケータイ小説完全勝利の流れになってしまいました。
 しかし、ケータイ小説を消費しているのは、一生読書に精を出すことのない人達だという文芸批評家もいます。文芸そのものを変えるような存在にはなり得ないということでしょうか。
 でも、私からするとそれは傲りだと思うんですよ。
 確かに、今ケータイ小説で書かれているのはギャルゲーの二次創作小説や、今まで見向きもされて来なかったネット小説と、質も内容もほとんど変わりません。しかしそれが商売になってしまうとなるとまた別の問題が出てきます。
 出版社が作品の水準よりも売り上げを優先し、そうした素人レベルから脱却できない人達が作家などと称するようになれば、作家全体のレベルが低下します。ひいては作家業・出版界そのものへの不信感と蔑みを招き、坂道を転げ落ちるように崩壊していくような気がします。
 もしかすると文学は淘汰されて消えていくかもしれないわけで、こういう流れもその過程の一つにあるんじゃないかな、と不安になります。
 まずは、真っ当な文学がしっかりしないといけないですよね。純文学に限らず。

Posted at 2007/11/29(Thd) 15:15:46

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何でも白黒つければいいわけじゃないさ

MSN産経;大江健三郎氏「軍命令説は正当」と主張 沖縄集団自決訴訟

 一方、大江氏に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)は「(自決用の弾薬などを求める住民に対し)死んではいけないと言った」と軍命令説を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一さん(74)は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と批判した。

 岩波新書の問題です。推測推測言われていますが、書籍なんてものは本当のことが書いてあるとは限りませんし、普段トンデモ本ばかり読んでいる私からすると、なぜここまで叩かれているのか、さっぱり理解できません。
 大江はその主張を通したいわけだからしょうがないでしょう。戦争体験者がより正しい主張をしたいのであれば、同様に本を出すなどして主張していくしかありません。

 これは当時の人々一人一人の心情が問題なのですから、どちらが本当に正しかったのかなんて、一部の人間による証言だけでは証明できないでしょう。

 問題の要点は結局、これが日本の卑屈な歴史観を変えようという最近の流れに触れてしまったこなのでしょうか。
 今までは軍国主義旧日本を悪の象徴として書けば、大抵のことは事実として認識され、絶賛されたものです。
 しかしネットが発達して情報交換が豊かになったことで、数多くの嘘が露呈。さらに中国の経済・軍事的発展に伴い脅威が増大。過去の歴史を見直そうという動き起こりました。
 日本は教育現場をはじめとして、特に人文系は左翼天国(彼らは幼い生徒の前で天皇侮辱発言を我慢できません。その内容は酷いもので普通の国なら侮辱罪で逮捕されているところです)ですから、右傾化がはじまったとか危険視する人も多いですが、実際にはようやく真ん中になってきただけです。
 確かに右へ行きすぎている人達も沢山いますけれども、それは今までの反動と見た方がいいかと思います。

 どちらの側にも、一理あると思うのですけどね。

 ただ、ちょうどドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」第4巻のコーリャ・クラソートキンのところを読んでいたのですが、どうにも大江がコーリャに見えて来ました。
 体験のある者に対し、体験のない者が強気に仕掛けていくという構図、似ていると思うのですけれど。

 小説の場合も、似たような問題を孕みます。
 古代歴史のミステリー本なら9割以上推測だけで書くことも許されていますが、ほんの六十年前の出来事について事実(とされていること)に反することを書けば袋だたきに遭います。
 それは小説の場合でも同じ。なぜなら小説にはジャーナルとしての意味もありますから。
 もちろん戦国読売巨人軍みたいなファンタジーは別な話し。


 ところで、amazonのレビューにも毎度おなじみ●●●●が涌いています。(笑) ネットは怖いねー。

Posted at 2007/11/10(Sat) 10:01:27

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「恋空」メディアミックス作品が不人気な件

 ケータイ小説原作の作品がコミカライズ、映画と展開されました。メディアプッシュもあって話題性はそれなりにあるものの、クチコミでの評判はイマイチ。
 結局ケータイ小説はケータイ使ってどこででも暇つぶしに読めることが顧客の心を掴んだのであって、それを他の面倒くさいメディアで出してもありがたみなんざほとんどない――ってことでしょうか。

 原作については、なんつーか素人臭い陳腐さというか、プロには絶対書けないというか、そんなの書いたら人生オワタ\(^o^)/になること請け合いというか、そんな印象。
 小説のプロ育成講座などで『これだけは絶対にやってはいけませんよ』と言われていることを、全て率先してやった結果のような、今までにない全く新しい作品です。
 セオリーでダメだと言われていることを詰め込めば、逆に面白くなる現象は確かにあります。そういうところが新鮮で、ウケたのかもしれません。
 別にこれは煽っているわけではなく、一流のプロが書いた一級品の作品でも、時流に乗ることができなければほとんどゴミのようにしか扱われませんが、一方で拙い技術、ありきたりな作品であってもしっかり時流を捉えれば一躍ヒット商品となることができます。

 しかしそのヒット商品もメディアミックスに失敗すれば、逆に作品レイプという残念な結果に終わってしまいます。

 ここにこそ、創作の難しさがあるんだな、と最近痛感することが多いです。


 件の作品に関しては……。
 思春期真っ盛りの子なら、ヒネた子以外は面白いと感じるかもしれません。思春期のイタタな部分をそのまま作品化したようなものですから。
 三十過ぎるともう何が面白いのか全く理解できないと思いますが、これはもう仕方ないでしょうね。

 映画の動員はだいたい新垣結衣目当てでしょう。現在人気沸騰中ですから。
 私は好きじゃないですけどね、新垣結衣。
 なんか魅力に芯が通ってない感じ。CMやグラビアアイドルとしては充分でしょうけど、清純派じゃなくなったときや一定の年齢を超えたときに見向きもされなくなるタイプ。
 最近、年増女性がやたらと魅力的に見えるようになってきたので、私の眼がおかしいのかもしれませんけど。

Posted at 2007/11/04(Sun) 08:05:27

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佐藤泰志作品集

クレイン;佐藤泰志作品集

 あまりに不意打ちすぎる作品集が、ジョン・レノンの誕生日=佐藤泰志の命日である10月9日に発売していたわけですが、案の定どこにも売っていません……。
 ネット書店は全滅。
 本来ならこういうニッチな本こそ扱うべきamazonにもない取り扱うようになりました(12/2追記)】しこれはもう普通には買えないと思って間違いないですね。
 佐藤泰志なんて知っている人の方が珍しいですから。

 高い本なのですぐには買えませんけど、今買わないとすぐにまた絶版になってしまうでしょうね。

 しかし、この出版社もまたニッチな本ばかり出しています……。

Posted at 2007/10/13(Sat) 11:11:26

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小畑健の人間失格

yahoo!;太宰「人間失格」、人気漫画家の表紙にしたら売れて売れて

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 人間失格の主人公といえばようちゃんだったでしょうか。なかなかイメージに合っていると思います。
 イマドキの日本人ならようちゃん未満の人がほとんど大部分なのでより共感できるかもしれませんね。

 そもそも文学と漫画を分けて考えるのはあまり意味がありません。
 文学という言葉のせいで間違えられがちですが、どちらも実学ではない以上エンターテイメントに過ぎませんし、日本の場合漫画そのものが文学作品を下敷きに描かれていることも多く、文学の発展系と捉えても問題ないでしょう。
 何よりも、イマドキの若手作家は芥川賞作家でも、小説よりも漫画の方を遙かに読み込んでいますから。逆に名作なんて、びっくりするくらい読んでいません。本当に(同人活動と一緒で仲間内の作品は読んでいるものですが。でなきゃハブられる)

 そこら辺のブロガー(笑)書評家の方がよっぽど名作は読んでいるものです。

Posted at 2007/08/18(Sat) 18:33:11

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