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ツタンカーメン暗殺説


なんでも評点;1968年に忽然と消えたツタンカーメンのペニスが墓の中で再び発見される

 だいぶ以前にディスカバリーチャンネルで特集されていたので、こちらで紹介してみる。ここでは結論・過程ももディスカバリーチャンネルに沿っておく。二人の刑事が三千年前のことを捜査するというもので、なかなか面白く、学者がやるよりもよっぽど説得力もあった。

1922年 考古学者ハワード・カーターによってツタンカーメンの墓が発掘される。
    しかし当時は財宝探しとしての意味の方が強かったようで、
    扱いは非常に杜撰だったらしい。

1925年 イギリス解剖学の権威ダグラス・デリー教授がミイラを検視する。
    その際、棺から取り出すために、ミイラはバラバラに分解される。

1927年 ハワード・カーターにより、2体の胎児のミイラが発見される。

1932年 D・デリーの検視によれば、いずれも女児で1体は未熟児、もう1体は死産児だった。

1978年 R・G・ハリソンのX線撮影では、死産児が脊椎破裂と脊柱側湾の障害を抱えていた。これは遺伝性である可能性が高い。

1968年 リバプール大学のR・G・ハリソン教授によってファラオの墓で
    ミイラのX線調査が行われる。
    頭蓋骨底部の血塊らしき影が見つかる。異常とはいえないが、脳膜下出血の可能性もある。→後頭部への打撲が死因

    検死主任のグレイ博士によると、頭蓋骨内部に骨片の剥離があり、生前後頭部に衝撃を受けた可能性がある。反衝損傷という現象により、骨が損傷することがある。


死因・容疑者
1.宰相アイによる暗殺説◎
   →王の死後アンケセナーメンと結婚、王に即位
   →イクナートン在位中はアテン信仰、死後アメン信仰に転向
2.蚊による敗血症△→顔に変色の痕があるため。
3.結核△
4.将軍ホルエムヘブによる暗殺説○
   →王の死から4年後、王に即位
5.財務長官マヤによる暗殺説x
   →ツタンカーメンの墓を護ったのはマヤであったため
6.王妃アンケセナーメンによる暗殺説x
   →ツタンカーメンとの愛情関係があるため


物的証拠
☆ 墓の造成が急がれた
☆ ミイラ処理が杜撰である
☆ 遺体は乾く前に埋葬されていた
   →遺体がミイラ化される時には既に腐り始めていた?
☆ 大量の樹脂で棺とミイラとの間を埋められていた
   →悪臭を封じるためだった?
☆ 棺の蓋と模様が合っていない→急造である。
☆ 埋葬品によって、狩猟や戦車が好きな王だったことが明らか
☆ 壁画は故人の生涯を偽り無く神に示すものである
  →歴史上、女性のファラオもいたが、本来王位継承者が行うべき、
   遺体の開口の儀式を行ったのは王妃でなく、
   王族出身でない為王位継承資格の無い宰相アイである。
☆ ツタンカーメンが希望していた墓所には、アイの墓がある


歴史的証拠
 エジプトで永らく信仰されていた神はアメンであり、アメン神官の富と権力とはファラオの地位を脅かすほど巨大なものだった。しかしツタンカーメンの父イクナートンは独裁者であり、アメンを廃止一神教を提唱し、太陽神アテン以外の神々をことごとく否定。

 ツタンカーメン誕生当時首都であったアマルナは、父イクナートンが紀元前1348年にテーベから五万人の民衆を従え、僅か五年で都市を作り上げた。

 父イクナートンの近衛隊長マフの墓には、隊長が兵を送り、イクナートン王暗殺を企てた者を逮捕する場面が描かれていたが、それはアメンの神官であった。17年の在位でイクナートンは逝去するが、死因は不明。

 ツタンカーメンは9歳という幼さで即位。異母姉アンケセナーメンと結婚。直後、テーベへ遷都。またアメン神信仰に変わり、ツタンカーテン→ツタンカーメン(TUT-ANKH-ATEN→TUT-ANKH-AMUN)と改名。同様に王妃もアンケセパーテン→アンケセナーメン(ANKHESE-PA-ATEN→ANKHES-AN-AMUN)
 旧信仰の復活を記念した碑文には、先王へのあざけりが満ちていた。――宰相アイが書いた?
 復活祭であるオペト祭の再開→ツタンカーメン自身の力を知る機会→自分の考えで行動するようになる。

 ツタンカーメンの寝室は警備が厚かった。→暗殺であれば、身近の者による内部犯行。

 X線写真から、ツタンカーメンはクリッペル・ファイル症の可能性が考えられる。
→墓からは身体の障害を裏付ける、130本もの杖が見つかる。他のファラオの錫杖と違い、子供の頃から使い込まれたものであった。
 壁画においても、ツタンカーメンは杖をつき、脚が曲がっている。

 王の死後王妃アンケセナーメンは敵国ヒッタイトへ書状を送っている。


夫を亡くし私はおびえています。跡継ぎの息子がおりません。

王子を下されば私の夫にします。


 陰謀を疑うヒッタイトは王子を送らなかったが、王妃はさらなる懇願をする。

息子がいたなら外国に恥をさらすでしょうか。

家臣を夫にしたくありません。

 宰相アイは無理矢理王妃と婚姻し、王族として振る舞う。その後、王妃アンケセナーメンもまた、歴史から姿を消す。望まない結婚のために自殺したか、口封じのために謀殺された可能性がある。
 また、老齢のために僅か4年で治世は終わったが、その後に即位したのは将軍ホルエムヘブだった。

 状況証拠からは、もはや謀殺としか出てこない。宰相アイと将軍ホルエムヘブとによる共犯説もあり。

 ところで、ツタンカーメンのちんこについては、ツタンカーメンは側室を持たなかったというので、確かに使われなかった可能性もある。王妃アンケセナーメンとも婚姻以前の幼い頃から一緒だったので、果たして男女の情があったのかも判然としない。
 しかし胎児のミイラが一緒に安置されていたのであれば、まず普通に考えて、ツタンカーメンと王妃の実の子であることに間違いなく、愛妻家と考えられる。もし本当に王が障害者だったとすれば、行為でリードしたのは王妃の方だったかもしれないが。

Posted at 2006/05/05(Fri) 11:11:48

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