少し手が離せなくて感想を書き終える前に会期が過ぎてしまいましたが、去る3月26日、第61回アンデパンダン展へ行ってきました。会場は国立新美術館。ついでにモディリアーニ展、乃木公園も見てきました。画像は乃木公園の桜。
上野よりもこちらの会場の方が広くてあっているかもしれません。
当日メモした中から、特に印象に残ったものを書いてみます。所持金不足でカタログを買えなかったので、メモ間違いなどはご容赦をば。
「道化王女」 樋口雅一
怖いくらいにインパクトのある作品は、やはり目を引きます。
「眠りのなかにだけ平和がある」 高橋扶美子
石に着色して作った、コミカルでかわいい動物の置物が沢山ありました。
眠りは平和のシンボルのようですが、捉えようによっては後ろ向きにも聞こえますし、起きているときも平和であって欲しいですよね。
「しらないおじさん」 高橋扶美子
さらわれてしまう! 怖い! と思ったらただのおじさんでしたー! というどことなく昭和の匂いがする絵本。
現代日本では、大人は他人の子供に話し掛けるだけで逮捕されるリスクがあります。しかし児童への犯罪が増えたのかというと、逆に件数は大幅減少しています。昔は児童がレイプされても、よほどの大事件に発展しない限り報道されなかったのです。
しかし現代は情報社会のために、些細な情報でも、誇張され一人歩きします。結果、社会が過剰防衛に走り、より恐ろしい、ギクシャクした社会となってしまいました。
昔は、公園でしらないおっさんと遊ぶのもよくあることでしたし、そっちの方が健全な子供に育ちます。ただ、やっぱりリスクが大きいですし、大人の都合でやっぱり「しらないおじさんにはついてっちゃいけません」と防衛するのがベターな選択なんですけどね。
「布の絵本」 森田理知子
紙の本はどうしても手触りがよくありませんけれど、布の絵本ってのは優しい感じがします。子供が指を切る心配もありませんし、いざとなれば洗えるかもしれません。
「沖縄を旅して」 安西矩子
抽象画はコメントしずらいですね。恐らくは何も考えずにそのまま感じればいいのでしょうけれど。何か人目をひくものはあったかと思います。
色遣いと筆致から、ショッキングな印象を受けました。
沖縄といえば、最近は在日米軍の犯罪や、基地問題が気になるところです。しかし中国は「尖閣諸島をはじめ最終的に沖縄を自国領と考えている可能性もある」そうですから、実は米軍がいてくれるだけでも平和なんですよね。
日本は良かれ悪しかれ無抵抗の国ですから、米国の後ろ盾がなければ外交的にも苦しいと思います。少なくとも尖閣諸島は確実に中国領になるでしょう。戦争さえ起こす必要はなくて、日本は無抵抗のままどんどん占領されていくんです。これって平和なことなんでしょうか……。
「戦争と人間 銃口」 小松昭夫
どうにも美化されすぎなきらいがある劉連仁を讃える作品です。劉連仁事件はもはや政治問題ですね。
一連の強制連行があったことは既に国が認めています。ネトウヨさん達がよく言うように強制ではなく募集に応じて来日したのだとしても、旧日本は外国人はもちろん、自国民に対してさえクレイジーだったことは覆しようのない事実です。上から圧力を掛けられれば、どんな労働にでも従事しなければならなかった時代だったことを忘れてはなりません。日本人の女工だってほとんどは強制と変わりありませんでしたから(拒否すれば非国民です)。
中国側も南京で500万人(また増えました)が僅か一週間足らずで虐殺されたとか、どう考えても物理的に不可能なことを訴えるのではなく、こういう確かなことに留めておくべきかと思います。
ただし、金銭による賠償を要求するのはいいことではありません。ユダヤ問題を見ても、ドイツから賠償は行われていませんし、お金に換えられる問題ではないのです。
だいぶ前に南京事件を扱った映画が全米で公開されましたが、「何らかの殺戮行為はあったろうけれど、この数字はあり得ないね」とか「戦争は恐ろしいことだね」という意見が大半だったそうです(尤もより大勢のアメリカ人は「リメンバー・パール・ハーバー」以外あまり興味はないですし、人口の約6割が原爆のことを全く知りません)。話しを膨らませ過ぎて、結局中国側は自分で自分の首を絞めているだけ。1つの嘘があれば全てが疑わしくなるのです。
・ありのままを伝える(美化しない、貶めない)
・誇張しない
・必要以上にがめつくしない
この三点は過去の事実を掘り返す上で、鉄則だと思います。
「縄文杉」「紀元杉」抽尾はつ江?(メモが不鮮明で読めない)
迫力があります。こういうのは写真よりも絵の方が伝わってきます。実際に見に行ってみたい気持ちになりました。
こういう自然をできるだけ多く残せればいいのですけれど。もう無理かもしれませんね。
「笑い爺のもみ治療」「おりんの熱病」 除村 晋
妖怪のマッサージで熱病が治ったという話。日本の妖怪って平和的に描写されることが多いです。日本という平和な土壌があったからこそ、妖怪というのも生まれたのかもしれません。
コミカルで、ほのかにえろいです。
「空城の重量」 高野日出見
ノー・ウォー美術家の集い横浜
無敵のレールガンが日本に設置されたら……というもの。周囲が武器を持っている以上は抑止力なくして平和はありませんが、下手に抑止力を手に入れればそれは権力者側の都合よく使われてしまいます。
じゃあ抑止力を持たないのが正しいのかというと、それでは簡単に軍事力のある国から植民地化されてしまいます。例えばろくな軍隊を持たずに蹂躙されてしまったチベットが現在平和かというと、未成年の女子が軍隊から無抵抗のまま頭をぶち抜かれたりなど、とても平和と呼べる状態ではありません。
多くの平和主義者は武器を捨てろ、日本に武器は要らないといいますが、いざ蹂躙されるような状況になったら降伏するか、抵抗して死ぬか、海外へ逃げるかの三つしか選択肢がありません。武器を捨てるのなら、全ての人が同時に捨てなければ何の意味もありません。結局どうしたらいいのでしょうね。
他にも、今回は立体物のクオリティがやたらと高かったです。
「叫け美空間0803蘇生」 浅野琢也
GEISAI MUSEUM2; 画像などはこちらから
懐かしい雰囲気の玩具の数々がズラリ。元は壊れた玩具のようです。
それらを用いて、シュレディンガーの猫を模したものやら、独特の空間が創られていました。お蔭で作品の前では、子連れの母親が長時間お駄弁りしていました。子供の目を逸らすのにうまく使われていたようです。イマドキの子供にはこういうものが却って新鮮かもしれません。すぐに飽きてしまいますけれど。
解説の多いのが気になりましたけれど、現代アートというのは解釈が難しいですし、作者の意図を理解した上で、もう一つ別の解釈に行き着くことができるような気がしますし、これはこれでいいのかもしれません。
特に観覧車の悲鳴めいた音が印象に残っています。
ところで今の子供の玩具は専ら任天堂DS。公園で2〜5人くらい集まって全員でDSやってます。本来はゲームをやらない層である女の子までも、やはりDSを弄っています。wi-fi通信で対戦やったりしているのですね。その光景は一種異様ですが、PCの前で唸りながら原稿を書いている私よりはまだマシかもしれません。
ゲームウォッチのようなものではなく、初の本格的な携帯ゲーム機はゲームボーイでした。それが登場した頃は、現在のDSほど持っている子供はいなくて、一台のゲームボーイを数人で廻して遊び、待ち時間に野球やサッカーをやったりしていました。持っていなくてもみんなと遊べたのです。
ですが、現代はDSを持っていなければ遊びの輪に加わることさえ難しいようです。時代の移り変わりは凄まじいものがありますね。
Posted at 2008/04/05(Sat) 06:30:15
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