フェデリコ・フェリーニ「インテルビスタ」
カフカのアメリカからヒントを得た新作映画の撮影中に日本人記者達がインタビュー(インテルビスタ)にやってきた――そこから物語は
はじまる。日本人記者は全員ちょっと挙動不審に見えるのだが(笑)、物語の重要なキー役であるし、喜劇調の映画であることも考えれば、かなりの親日視点といっていい。フェリーニの世界に日本人が入れば、まず浮くに決まっている。それをここまで映画になじませた手腕は見事だと思う。
日本人女性記者はオーバーオール姿で、アクションが大袈裟気味――と、なかなか可愛く描かれている。周囲が外国人ばかりだと、まるで少女のように見えて、こいつはフェリーニの趣味かな、と。(笑) 日本人女性の良さというのは、本来こういうキュートな面だと思う。欧米人に憧れ、無理してカッコ良さを求めても、結局は不格好なだけだと思う。もしフェリーニが日本人に偏見があるとすれば、こういったキュートな女性は用いなかったはず。
私はイタリア語を聞くと眠気を催すのだが、構成に緩急があるお蔭で、半分うとうとしながらもどうにか最後まで観ることができた。――とはいえ、緩急の幅が地味なので、最近のハリウッド型映画に慣らされた人には、少し辛いかもしれない。
カフカの夢が悪夢なら、フェリーニはたのしい思い出のような夢を描いた。同じ夢でも、これだけ違う。ユダヤ人のイタリア人の民族的な違いのように見えて、面白い。
夢や空想だけで物語を構成するのは、作品の完成度を考慮すると、案外難しいものがある。(主に性的)嗜好を並べた愚にもつかない妄想はともかく、悪夢という一段階洗練された妄想で作品を綴ることは、作者の集中力を酷使することになる。
ここから文学の話にシフトするが、ドストエフスキーの作品も、悪夢の要素が大きいように思う。集中力が極限まで昂ぶり、一種の癲癇状態に陥ったとき、悪夢が奔流のように襲いかかってくる。作品の完成度は落とすことになるが、これがなくてはドストエフスキーとはいえないし、世界中の人々を今もなお魅了することはなかっただろう。
たのしい夢は面白いのだが、悪夢ほどのパンチ力はない。
「インテルビスタ」には劇中作/作中作、現実と夢のあいまいな境界など、面白い要素は沢山あるし、文学と共通した手法ともいえる。作中作を利用した小説を書いたことで有名なのはボルヘスをはじめ、谷崎潤一郎、夢野久作など。特に珍しい手法ではなくなったはずだが、リアリティが追求される現代において、まともな神経の作家はあまりやらない。ドグラ・マグラなど実験的な大型小説も現れたが、後世の作家がその結果を活かしきれていないのが現実。
日本の場合、芸術を追求するはずの純文学において私小説的伝統が一定の地位を占め、小手先の文章技術を競う作家同士の馴れ合い大会となり、実験的作品には風当たりが強く、全体として停滞しがち。却ってメフィストなど、ややエンターテイメントよりの、俗に言う中間作家の方が文学をやろう、という気概が見える(その代わり、すぐに才能が枯れたり、迷走したりするのだが)。
参考:
Sorekika;インタビュー
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ついでなので、ここに書きますが、裏サイト(漫画コンテンツ)へのリンクを削除しました。ここは真面目なサイトにしたいので。(笑) 裏サイトは裏サイトらしく、管理人が旅をしながら同じ系統のサイトへ置いていきたいと思います。
漫画系の更新が滞っているのは、単に忙しくて手が廻らないだけなので、見てくださる方は、気長にお願いします。
なお、数日前からLogwing1.5.7へバージョンアップして運用しています。スパム対策とアクセスログ等の変更のみです。
Posted at 2006/08/27(Sun) 13:47:15
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