I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

我が家のオーディオ環境

AIWA ET-700

上から見た図


 いかがわしい中古屋で一目惚れして購入。\1,500円也。外見がETの頭部のようなので、ETという名前が当てられているそうです。いいのか?(笑) 頭部は上下に動き、左右には動きません。1980年代前半から中盤、多分ETが流行った頃(1982)に発売されたものと思われます。
 スピーカーは、スコーカーが横に三つ並んだものです。中央は実はウーファーで低音部でも出しているのか、もしくは空間系エフェクトのためかもしれません。よく見たら、確かに少しだけ大きい。

裏から見た図


 この製品の最大の問題点は、電源が自動的に切れることです。音圧=電圧を感知してスイッチが入るようになっているのですが、これはクラシック音楽などを聴く場合には致命的で、僅かな間や、ピアニッシモ表現などによって、いちいち電源が切れます。(笑) 哀話(AIWAの蔑称)なんかでクラシックを聴く人間なんていない、という自覚でしょうか。

正面から見た図


 イベント会場における展示などではこの頭部の上下可動が非常にありがたいです。お客の顔にスピーカーが向くよう角度を調整できますので、音が無駄なく伝わります。

 
SONY SEH-310

謎のイコライザ?


 実家にいた頃、オーディオの「校倉造」がまとめて粗大ゴミとして棄てられていたので、持ち主に交渉して譲って貰いました。目当てのSANSUIアンプはイカれていましたが、このイコライザは生きていました。他に、SANSUIスピーカー、多分ONKYOだったプリアンプ、PIONEERのFMチューナーなどもゲット。近所にオーディオ・マニア(現在のオタク族の祖先)がいるとお得ですね。
 で、結局このSEH-310というイコライザだけが現在まで生き残ったわけですが……これ、マイク端子なんてあります。(笑) なんに使う目的で開発されたのでしょうか……。エコーは今となっては珍しいスプリング・エコー。デジタル・エコーでは絶対に出せない“非常にいい加減な”音が出るので、これはこれで音の制作には使えます。
 さて、イコライズ・ボタンの隣に[SPACE SOUND]という聞き慣れない名前のボタンがあるのですが、これを押すと左右の音を散らした上、少しコーラスがかった感じの空間系エフェクトが掛かります。意外とイイです。でも、オリジナルの音が損なわれてしまいますので、普段は使いません。(笑) それこそエフェクターとして、音の制作に使う程度でしょうか。
 もしかすると、このイコライザはカラオケ用に作られたのかもしれません。それ以外考えられない機能が備わっているのですが、しかしもしそうだったらイコライザとして販売する理由が見当たらない。(笑)

実はオーディオ・セレクタ?


 しかも、裏面を見れば解るように、オーディオ・セレクタとしても使えます。一台三役。便利なことは、便利……。
 あと、一枚目の写真ではイコライザが変な波形をしていますが、哀話製アンプ/スピーカーから音を漏らさず出すのは苦労するのです。(笑) 低音域を出すと他の音域が死に、高音域はもとから出ないので――と調節していったらこうなってしまいました。スカスカですけどね。朗読を聞くのには最適です。(笑)
 ……音楽用にダンボール・スピーカーくらい、買おうかなぁ。

Posted at 2006/02/01(Wed) 09:50:52

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阪神の安藤優也投手が登場曲を募集中


http://www.sanspo.com/baseball/top/tig200512/tig2005122405.html


http://ballplayers.jp/ando/2005/12/post_7.html(公式ウェブログ)


 安藤選手……直感では全然思い浮かばないのですが(笑)、球場――特に甲子園球場は反響が厳しいので、ごちゃごちゃした音楽よりも、野狐禅みたいにシンプルな音の方が映えるのではないかな。安藤選手は変化球ではなく直球のノビで勝負する選手なので、アナログ音楽な方がいいかと。テクノ系は谷中投手みたいになりそうなので、やめた方が無難。
 野狐禅なら「フライング蝉」とか、明るい曲調だしスポーツには最適かと思います。ただし、既にばんえい競馬のCMに使われていますが。「泪橋」で『ビールっ腹のファイティングポーズ』とか鳴らしたら、縁起でもないと言われるかな。(笑) 「拝啓絶望殿」で『僕、もう二度と敗けない』と言って敗戦が込むとシャレになりませんし。
 
 野球選手の登場曲って、意外とアマチュアの人がやっていることもあるので、変な一般受けなんか狙わずに、面白いのをチョイスしてくれたら嬉しいんですけどね。

Posted at 2005/12/25(Sun) 08:29:56

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N264

n264.jpg

 来年は音楽コンテンツを再開しようと、鍵盤を設置した。キーボード・スタンドは引っ越しの時に処分してしまったので、本を積み重ねることで対応。KORGのN264は76鍵のフルキーボードなので、それなりの重さなのだが、一応支えることが出来た。本の内訳は『ジョジョの奇妙な冒険』のコンビニ版と日本文学大系からこれはもう読まないだろうな、という本。具体的に言うと山本有三、横光利一、堀辰雄、丹羽文雄、宮本百合子、壺井栄、中野重治、福永武彦、中村真一郎、山本周五郎、司馬遼太郎、有吉佐和子、瀬戸内晴美、石坂洋次郎。文学史的に全然知らない人が3人いる。特に時代小説は私の専門外。
 さて、鍵盤の使い心地だが、これはこれで高さ調節が出来るので、実は安物のキーボードスタンドよりもありがたい。手に負担に行かない高さを巧く調節出来たような気がする。手が下がれば下がるほど力を入れずに鍵盤を弾けるようだ。その替わり足腰に負担が行く。その辺は巧く妥協点を見つけることが出来た。
 もし倒壊したら、それは作家の怨念のせいだということにしておこう。
 
 ところでKORG N264といえば、もはや骨董品と言っていいほどの古さである。来年で10歳となるわけだ。当時はなかなか手頃な値段で売られていたので、持っている人も多いかもしれないが、シーケンサーがなかなか使いやすくて、今でも愛用しているというわけだ。音色もテクノする程度ならさして不満は感じない。
 鍵盤の場合、音は外部からも出せるので、シーケンサーとタッチの好みをより重視した方がいい。もちろんkorg好きならTrinityやTRITONに手を出したいのだが、いかんせん値段が……。

Posted at 2005/12/21(Wed) 20:32:42

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re-in.Carnation

 インディーズユニット「re-in.Carnation」。リーンカーネーションと読み、意味は“転生”である。物語性の高い楽曲が印象的である。プログレッシブ・バンドということで、ライブでも少し変わったパフォーマンスが見られる。これまた物語性の高い演出が行われている。
 以前の日記でも紹介したが、新曲が上がっていたので、もう一度。あれから随分とMP3を聞き込んだので、少しは印象が変わったと思う。
 楽曲は典型的な鍵盤型音楽。ギターのような楽器ではなかなかこういう曲は作れない。マニアックなのだが、キャッチーなところがあり、意外と聞きやすい。決してテクニックにガツガツすることなく、遊び心も存分に発揮されている。バンドとしては残念ながら統一感が無いのだが、楽曲の高度さと歌声の美しさはそれらを補ってあまりある。
 ボーカルの凪という方の声は大変気に入っているのだが、残念ながら脱退されてしまうらしい。芯のあるやや硬めの声質なのだが、不思議と邪魔にならないのである。これは天の配剤と言うより他にない。はじめてライブで耳にした時、吸い込まれるような感動を覚えた。楽曲との融合も素晴らしく、聞き惚れて公開されているMP3を無限ループにして何度も聞き込んだ。ソロ活動でも、耳に出来る機会があればなるべく聴きたいものである。
 さて、新曲のre-animatorをダウンロードして聴いたが、なんとなくnine-inch-nailsのファーザー・ダウン・ザ・スパイラルという(ダウンワード・スパイラルのリミックス・)アルバムを思い出した。NINの方が(オルタナティブ・ロックということで)もっと破壊的・頽廃的・ヘヴィでよりマニアックな部類になるが、イメージとアレンジの力は天才トレントにも負けないくらいの素質を感じる。そういえば、音遣いもどこか似たところがあるような気もする。
 こういう高度かつマニアックな音楽を作っている人がいるとなかなかどうして嬉しいものである。私は「キヲク」「砕華」「神隠し」「patria」「リンカネ」「ブランコ」「kids」といったところが気に入っている(順番通りに)
 
 ここからは愚痴になるが、なるべくライブにも行きたかったのに、体力的・金銭的になかなか難しかった。体力的には何ヶ月も前から準備して行けるようなものだとどうにか出来るのだが、こういうものはどれだけライブが良心的でも意外にも交通費が莫迦にならない。こういうものには投資のつもりでお金を幾らでも使うべきだ――と言われるものの、政府が以前若者を対象に行った月15万円での生活実験によれば『文化的生活は出来ない』と次々と脱落者が出たのに、今の私はその約半分の月7〜8万円の収入で生活している。心身共にボロボロなのである。ゆえに働くにも働けないのだ。無いものはどうやっても出せない。こればかりは巡り合わせのタイミングが悪い、ということで言い訳がましくなってしまったが、仕方なく思う以外に無い。そのうちいい風が吹くだろう。その時には全くケチるつもりは無いのだが……。問題はその風がいつ吹くか……。

Posted at 2005/12/19(Mon) 21:58:23

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野狐禅「電撃フットワーク」ファイナル@12/08渋谷O-west

yako.jpg


 なるべく早く会場に行くつもりが、カロリーメイトくらい食べとこう、とか洗濯物をカゴに移しておこう、とか下らない理由で結局着いたのは開演5分前だった。しかも当然のごとくに道に迷っていたが、今回は1991年製の地図を持っていたお蔭で逆方向へ行くことだけはどうにか避けられた。ただし15年前の地図ともなると半蔵門線すら書いてない。お蔭で乗り換えを少し間違えてしまった。
 さて、野狐禅のライブは二回目である。一度目はアコースティック・ライブイベントの対バンだった。前回は竹原氏と対角線に位置し竹原氏の顔ばかり見ていたので、今度は濱埜氏の対角線に位置し、濱埜氏の顔の見える絶好の角度を確保しておいた――が、用を足している間に立っていた場所には確実に180cmは越えているノッポの青年が。すぐに始まってしまうので、今更動くのも迷惑である。――というわけで、今回はあまりステージが見えなかった(全く見えなかったわけではない)。二階があったのなら、大人しく二階に行っておくべきだったかな、と今更ながらにも思うが、ハコの場合、音は一階の方がいいと思う。床から直接伝わってくる振動も音の要因として感じられるのではないかと思うので。ただ、次の機会にギリギリに到着した時は大人しく座っておくことにする。やはり高い視点からプレイもしっかり眼に焼き付けたいものだ。


 開始直後はどうも竹原氏の声が嗄れていて張りがなく、ノビもない。ツアーの疲れが今になって出てきたのか、それとも季節柄風邪の心配もあり、大丈夫だろうかと心配にもなったが、ちょっとした“ミス”の後、いつものパンチ力あるボイスが戻ってきてホッとした。終盤はもうノリにノっていた。
 この竹原氏の声というのがまた、いい意味で身体に響くのである。天童大人という人がクリスタル・ボウル(bowl)を鳴らしながら叫び声のようなものをあげる“聲”というのをやっているが、その“聲”にもひけをとらない迫力である。音というのは人間の内臓にも響いてくるもので、内臓に悪いもののある人はその箇所に圧迫感を覚えることもあるという。――少し話が脱線してしまったが、私は竹原氏の声を聴くと、身体の中に何かが芽生えるようなか変化を感じるのである。

 手拍子もしたし、なかなか気持ちよく疲れることの出来たライブだった。筋肉痛と一種の虚脱状態のために、数日間文章を書く気持ちが全く起こらなかった(やる気だけはとてもあったのだが、執筆とは地味で興ざめな作業である)。むしろ逆に数年ぶりにギターを手にとって奏でてみた。もうマメも完全に消えて、譜もすっかり忘れているはずなのに不思議と手は自然に動いてくれる。右手は相変わらずすぐダメになってしまったが、久々にいい気分に浸ることが出来た。野狐禅には何か心の原動力になるものがあるらしい。

 
 少しライブの話しに戻る。PAは時々低音部が共鳴現象を起こしていたが、アコースティック・ギターと鍵盤だけで、ドラムもベースも要らないな、と客を納得させるのに充分過ぎるほどの重厚なサウンドだった。ただ野狐禅にしては少々上品すぎるサウンドだったような気もするが、それは贅沢すぎるだろうか。濱埜氏がメインボーカルを下げ、鍵盤を上げるよう注文を付けるシーンもあり、そこからなんとなく野狐禅の音のコンセプトが覗ける気がする。歌声さえ聞こえりゃOKというアイドル音楽などと違い、一体となった音楽を聴かせるのが目的なんじゃないか。
 野狐禅の音と楽曲についてもっと詳細に考えてみる――。ポップ・フォーク路線なのに他になかなか見られない音である。特に鍵盤の副旋律(それと……なんだっけ。ああ、音楽用語を猛烈な勢いで忘れている!)は個性的で、もし竹原氏だけだったら物足りない上、野狐禅を野狐禅たらしめているのは濱埜氏の存在が大きい。
 日本のポップの楽曲には楽器を基に大きく分けて二種類の作曲法があり、一つは鍵盤で作られたもの、もう一つはギターで作られたものである。作曲にとって用いる楽器というのは大きな意味がある。方法が違えば、まるで違ったものが生まれてくる。鍵盤で作られた楽曲の方が高度なものになりやすく、ギターで作られた楽曲は単純で親しみのあるものになりやすい。理由は鍵盤の方がより自由な音の選択が出来るからである。弦楽器の場合は演奏法は多彩でも、音の選択が狭く、作曲は容易になる。慣れてくれば、ほんの少しフレイズを耳にしただけで、作曲の時にどちらを用いたかはすぐ解るようになる。
 さて、野狐禅の良さとはこの中間的要素を持っているところにあると思う。タラレバを言うのは何んだが、もし竹原氏の作曲を竹原氏の編曲だけで聴いていたら、それほど目立った音楽だとは感じないと思う。野狐禅の野狐禅たるところは、濱埜氏の鍵盤が大いに荷っているのではないか。

Posted at 2005/12/11(Sun) 18:35:52

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楽天が音楽配信サービス開始


 楽天が音楽配信サービス開始ということで、無意味に余っていた楽天ポイントを使って野狐禅の東京紅葉の東京紅葉をダウンロード。
 しかしDRMライセンス取得に失敗したらしく、再生不可。再度ダウンロードを試みるも、セキュリティ上の問題なのかダメと言われてしまった。FAQを見ても、あり得ないほど的はずれで無意味なほど遠回しな表現の質問回答しか無い。結局サポートに連絡したが、音沙汰なし。
 以前ゲーム関係でElectricArtsのサポートセンターにメールした時はすぐに返答が帰ってきた。プレイヤーから「腐れ」と罵られているEAですらちゃんとしたサービスは出来る。尤もこちらは新サービスということでトラブル続出・対応に時間が掛かっているのかもしれないが、こういうところにこそ企業の質ってものが出るんじゃないか。恐らく、このまま放置される可能性の方が高いだろう。
 どうせそのうちCDで買うのだから、別に今聴けなくても私としては全く構わないのだが……。

 IT企業には「自分たちは絶対に正しい」「間違えるのは客だけだ」という体質がある。別に企業だけでなく小さなパソコンショップですら、そうなのだ。かつてyahooがyahooBBというブロードバンドサービスを開始した時がそうだった。自信過剰な技術屋――こういった人達は不誠実を絵に描いたような存在だ。まして相手を敵対視しているのだから、手に負えない。

Posted at 2005/11/03(Thd) 01:07:25

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