I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

野狐禅「電撃フットワーク」ファイナル@12/08渋谷O-west

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 なるべく早く会場に行くつもりが、カロリーメイトくらい食べとこう、とか洗濯物をカゴに移しておこう、とか下らない理由で結局着いたのは開演5分前だった。しかも当然のごとくに道に迷っていたが、今回は1991年製の地図を持っていたお蔭で逆方向へ行くことだけはどうにか避けられた。ただし15年前の地図ともなると半蔵門線すら書いてない。お蔭で乗り換えを少し間違えてしまった。
 さて、野狐禅のライブは二回目である。一度目はアコースティック・ライブイベントの対バンだった。前回は竹原氏と対角線に位置し竹原氏の顔ばかり見ていたので、今度は濱埜氏の対角線に位置し、濱埜氏の顔の見える絶好の角度を確保しておいた――が、用を足している間に立っていた場所には確実に180cmは越えているノッポの青年が。すぐに始まってしまうので、今更動くのも迷惑である。――というわけで、今回はあまりステージが見えなかった(全く見えなかったわけではない)。二階があったのなら、大人しく二階に行っておくべきだったかな、と今更ながらにも思うが、ハコの場合、音は一階の方がいいと思う。床から直接伝わってくる振動も音の要因として感じられるのではないかと思うので。ただ、次の機会にギリギリに到着した時は大人しく座っておくことにする。やはり高い視点からプレイもしっかり眼に焼き付けたいものだ。


 開始直後はどうも竹原氏の声が嗄れていて張りがなく、ノビもない。ツアーの疲れが今になって出てきたのか、それとも季節柄風邪の心配もあり、大丈夫だろうかと心配にもなったが、ちょっとした“ミス”の後、いつものパンチ力あるボイスが戻ってきてホッとした。終盤はもうノリにノっていた。
 この竹原氏の声というのがまた、いい意味で身体に響くのである。天童大人という人がクリスタル・ボウル(bowl)を鳴らしながら叫び声のようなものをあげる“聲”というのをやっているが、その“聲”にもひけをとらない迫力である。音というのは人間の内臓にも響いてくるもので、内臓に悪いもののある人はその箇所に圧迫感を覚えることもあるという。――少し話が脱線してしまったが、私は竹原氏の声を聴くと、身体の中に何かが芽生えるようなか変化を感じるのである。

 手拍子もしたし、なかなか気持ちよく疲れることの出来たライブだった。筋肉痛と一種の虚脱状態のために、数日間文章を書く気持ちが全く起こらなかった(やる気だけはとてもあったのだが、執筆とは地味で興ざめな作業である)。むしろ逆に数年ぶりにギターを手にとって奏でてみた。もうマメも完全に消えて、譜もすっかり忘れているはずなのに不思議と手は自然に動いてくれる。右手は相変わらずすぐダメになってしまったが、久々にいい気分に浸ることが出来た。野狐禅には何か心の原動力になるものがあるらしい。

 
 少しライブの話しに戻る。PAは時々低音部が共鳴現象を起こしていたが、アコースティック・ギターと鍵盤だけで、ドラムもベースも要らないな、と客を納得させるのに充分過ぎるほどの重厚なサウンドだった。ただ野狐禅にしては少々上品すぎるサウンドだったような気もするが、それは贅沢すぎるだろうか。濱埜氏がメインボーカルを下げ、鍵盤を上げるよう注文を付けるシーンもあり、そこからなんとなく野狐禅の音のコンセプトが覗ける気がする。歌声さえ聞こえりゃOKというアイドル音楽などと違い、一体となった音楽を聴かせるのが目的なんじゃないか。
 野狐禅の音と楽曲についてもっと詳細に考えてみる――。ポップ・フォーク路線なのに他になかなか見られない音である。特に鍵盤の副旋律(それと……なんだっけ。ああ、音楽用語を猛烈な勢いで忘れている!)は個性的で、もし竹原氏だけだったら物足りない上、野狐禅を野狐禅たらしめているのは濱埜氏の存在が大きい。
 日本のポップの楽曲には楽器を基に大きく分けて二種類の作曲法があり、一つは鍵盤で作られたもの、もう一つはギターで作られたものである。作曲にとって用いる楽器というのは大きな意味がある。方法が違えば、まるで違ったものが生まれてくる。鍵盤で作られた楽曲の方が高度なものになりやすく、ギターで作られた楽曲は単純で親しみのあるものになりやすい。理由は鍵盤の方がより自由な音の選択が出来るからである。弦楽器の場合は演奏法は多彩でも、音の選択が狭く、作曲は容易になる。慣れてくれば、ほんの少しフレイズを耳にしただけで、作曲の時にどちらを用いたかはすぐ解るようになる。
 さて、野狐禅の良さとはこの中間的要素を持っているところにあると思う。タラレバを言うのは何んだが、もし竹原氏の作曲を竹原氏の編曲だけで聴いていたら、それほど目立った音楽だとは感じないと思う。野狐禅の野狐禅たるところは、濱埜氏の鍵盤が大いに荷っているのではないか。

Posted at 2005/12/11(Sun) 18:35:52

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