I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

文化学院の歴史;佐藤春夫編 その2


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    佐藤春夫氏の人となりについて……

――春夫先生はいつまでも新宮なまりのアクセントで話された。少年の日の思い出は、新宮の山や川や海とともに春夫先生にとって一番強い懐かしさを持つものだったろう。
――私が小さい子供の頃、新宮の父の家によく先生が見えられた。登坂の佐藤病院の春夫さん、と母たちも呼んでいたし、春夫青年も父のことを伊作さんといっていられた。子供ながらも春夫さんは芸術家でとても素敵なんだと思い、タバコの煙が何段にもたなびいて掛かっている父の書斎兼応接間の隅などに身をひそめて、父や他のお客様などと盛んに話してはときどき爆笑するのを、これは大変高尚でしゃれたことなのだと感心して眺めていた。
――文学部長としては戦雲の暗くなって行くあの時代によく学生のめんどうを見られ、優れた作品を書いた者には春夫賞を与えられたり、ご自宅に読書グループを作って男女の学生を可愛がって育てていられた。
――文化学院に迎えた春夫先生はもう老人の姿をしていられた。といっても右の文にあるように就任された当時は新宮時代の文学書生風なところもまだ残っていたのだから、だんだんに老人風に鳴って来られたのであろう。
 父があるとき文化学院の職員室か何かで、「春夫さん、あんたは私より若いのに爺さんみたいな風をしているが……」と嗤っていったことがある。それに対して春夫先生はおもむろに口許をほころばして、例のいたずらっぽい笑顔になって答えられた。
「老人の境地というのは、人間の一番いい状態だから私はわざとその態度をとっている」
 けれどもそのころは本当の老人ではなかったので、実際には若い女子学生などの柔い二の腕を大きな手でがっしり握んで引きよせたり、頬っぺたに口を寄せて「舌を出してペロペロ舐めて」(これは父が見て半ば羨ましげに、半ばあきれ顔にあとで何度も私たちに話したことであったが)見たりもしたのだろう。しかし東京っ子の女子学生たちは、お爺ちゃん大家の先生を適当に尊敬し、適当にいたわり、適当に体をかわしてめんどうなことなどには一つもならなかった。
 春夫先生も「老いてますます」というような噂はいろいろあったが、そうした相手には学生はちゃんと除外していられたようだった。
――春夫さんは父と一緒に油絵を描いたり、陶器を作ったり、粘土でたくさん大人のオチンコを作ったりした。よく伊佐田の家で解きを過ごされた。この家の洋風な生活も大正のころの日本では珍しく新鮮な想像力を養ったことだろう。
 そして父の話し上手なのをいい事にいくらでも聞き出し、自分も話したりして寄るをふかすことも多かった。彼の作品「FOU」※iは「おれもそう思う」と副題がついていて、父の弟のフランスでの話をほとんど父の話すままに小説にしたもので、パリの町の様子は春夫さんの親友の堀口大学氏に詳しく聞いたのだという。
 も一つの作品「小妖精」※iiは、まだ春夫氏が文学部長になられる前の文化学院にいた美しい少女のことで、与謝野晶子さんはその小説が雑誌に発表されたときには「あれは伊作さんが書いて春夫さんの名で発表されたんでしょう」といわれたくらい父の話し方の通りで、その少女のことが実にこまかく描かれているという。
――去る三月六日私の長女利根の結婚式に、春夫先生はご夫妻でおいで下さった。この娘の生まれたときも大変よろこんで下さって、十号位の油絵で鯛と蛤を描いて下さり、そのカンバスの裏には、のしと松竹梅とを描き、
   めでたいをかいてみたいとゆうめしにくいたいととをたべずゑにして
                                  はるを
と油絵具で走り書きしてあった。
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[『「春男さん」と「伊作さん」』石田アヤより]

※i
 佐藤春夫「F・O・U」より冒頭部分
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   F・O・U
    一名「おれもそう思う」
 彼は立ち上がり際に、もう一度、マドレエヌ寺院の大円柱の列と大階段と、またその側の花市場とに、影と日向とが美しく排列しているのを一目に見渡してから、旗亭ラリュウから出た。すると、表口に、素晴らしい総ニッケルの自動車が、彼の哀れなシトレインのそばに乗り捨ててあるのを見出した。
 さっきまでは無かった車だ。
 目のさめるようなロオルス・ロイス号であった。
 形は何というか未だ一度も見たこともない。
 どこもかしこもキラキラと耀いている。
 彼はそれへ乗って見たいと思った。そこで彼は乗った。それから把手をとって、車の向いている方向へ進めた。
 車は自とリュウ・ロワイヤアルの人ごみへ出た。コンコルド広場の方尖塔(オペリスク)を右へまわるともうシャンゼリゼだった。ロオルス・ロイスは少しも動揺しなかった。そればかりかちっとも音がしなかった。彼はもっと音のたつほど勢よくやった。しかし車は更に音を発しなかった。気がついて見るとタコメータアは百二十キロメートルを示していたので、彼は驚いて、速力をゆるめた。そんなことをしているうちに凱旋門(エトワアル)はもう通り過ぎて、ボア・ド・ブウロウオニュへ来ていた。しかし、この公園へ来てからロオルス・ロイスはどこか機嫌が悪いように思えた。そこで彼は車をとめて下りてみた。
 機械をあけて彼が見ていると、そばに一人のニッカボッカをはいた十二ぐらいの少年が見物していた。腹を突き出して、両方の腰骨のところへ両手の甲をくっつけて腕を花瓶の把手のような恰好に曲げ、実に仔細げな様子で立っているところは、見るからガマン・ド・パリの見本だった。
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[新潮日本文学12 佐藤春夫集より(外国語のカナのルビは括弧書きにした)]


※ii
 佐藤春夫「小妖精伝」より冒頭部分
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 小妖精伝
   (1)出色の新入学生
 その年、美術部へ入学したのは男女合せて四十人位であったろう。我々の女主人公Oはそのうちのひとりであった。嶄然出色なひとりであった。F女学校の四年を修了して入学したということであったが、同じ学校からもうひとり文学部へ入学したA女があった。――自分で試みた怪談に恐怖して自分が卒倒したりなどするような多少ヒステリイ的傾向のあるへんに陰気な少女であったがA女はOが何か家庭の都合で修学が一週間ほどおくれて欠席しているうちに自分と同じ母校からここへ入学する筈になっていたOが学校に来ないのを怪しむついでにOの容色やら操行やらについてさまざまに吹聴したものだからOの噂は忽ち全校へひろまった。この気まぐれとしか思えぬ宣伝が無用にも意外な効果を奏して人々の好奇心がそこに集中しているその視野の焦点へ何も知らぬOはひょくりと姿をあらわしたのであった。彼女は人々の注目を知って彼女の行くさきざきでは必ず渦巻の起ることを心私(ひそか)に期待し彼女は自分を学校のクインだと自負していた。或る朝N校長は登校して門から学校のなかを一とおり見まわしているとアトリエの前に見慣れないひとりの美しい女生がいるのを認めた。N氏は陽気な気持ちで片手を高く差し上げ指をひろげたりすぼめたりして見せると、先方でも同じ動作でそれに気がついたという合図を応えた。N氏はその女生のそばへ歩を近づけてあなたは今度入学したのですかと声をかけて見ようかと思ったが、それも気がさすほど美しい子であった。噂のもとも多分はそんなところから出たろうかと思えるが、入学願書によれば十八とあるこの少女は、大きな体つきで、ただ背が高くて脚が長いというだけではなく胸のあたりなど充分発育してもう成熟した婦人のような趣さえあった。手を差し上げて指をモジャモジャと動かす合図はその後習慣になって、彼と彼女との間には毎朝この動作は反復された。登校の時のみならず、学校をひけて出る時にもこの事が行われ、さながら相互に明日を約束するがごとき感があった。こんな仕方に於て暗黙の間に親愛が感じられていた。或る時校庭でダンスをしている学生たちを中心にして他の学生たちは大きな輪をつくって見物していたN氏とOとは偶然と相対していて彼等の視線は中心のダンス連のところをはなれて直接に結ばれ自然とこの二つの視線はこの円周中のN点とO点とを結んで円の直径を示していた。その最も遠い部分からOはわざわざ半円周をぐるりと歩いてN氏のそばまで近づいて来たこともあった。
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[新潮日本文学12 佐藤春夫集より(読めそうもないルビは括弧書きを付けた)]
嶄然……一段高くぬきん出ているさま
出色……他より際立ってすぐれていること。
([広辞苑第四版]より)

 文中には、実際の人々を指していると思われるイニシャルがあり、また人物描写も実際にその通りのように思われるので、当時を知る上では大変興味深い内容になっている。尚、この後の梗概については、Oに関する噂が一人歩きするようになり、石井柏亭氏を思わせるI氏の提案によって、Oは暑中休暇中に除名されてしまう。I氏への偏見とも取れないようなものが文体から滲み出てくる辺り、物語の客観はあくまでもN氏の主観に依っている。この辺りが与謝野晶子女史をしてからが「伊作さんが書いて〜」と言わしめる部分でもあろう。
 そして除名処分の取り消しを求めたOは談判にやってくるが、その際、N氏や30人ほどの学生とともに銚子へ海水浴に出掛けることとなる。銚子にて、N氏はOと同じ横浜に住むM・Nという青年を紹介する。しかし、OとM・Nとがいつも一緒にいることに、N氏は次第に嫉妬を覚えるようになってくる。そして、M・Nに対抗するように、息子のQをOに紹介する。
 その後、二学期になり、通学してくるOについて、I氏がN氏へ抗議に来る。N氏は仲裁役をA女史に頼み、一つの切り札として、Oと息子Qとが両方で好きになったらしいと言う。A女史は了解し、I氏を説得し、Oは無事通学を続けられることとなる。
 OとQとは婚約することになったが、ある日、Oが生きていてもつまらない、とピストルを持ってやってくる。それを諭すと、今度はどこかへ行ってしまおう、とやってきて、その後神戸三宮へ行ってしまう。その後、N氏は関西へ行くことになり、Oとは再会する。OはKという男性の財布を自分のもののように使えていた。その後、甲子園ホテルでOとふたりきりになったN氏は家へ帰るようにと勧める。そして、N氏が東京へ戻ったところで、Oが先に飛行機で帰っていて、出迎える。Oは一人で帰ってきた、と言う。

<了>

Posted at 2006/02/26(Sun) 12:04:05

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