I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

八知よさらば

 ついに八知校長がお辞めになるそうな。後任は戸田一雄氏。

 このカテゴリは消そう消そうと思いながら、何かの記録として役に立つこともあるかと思って、結局現在まで残しています(某所からヲチされているので、私にとっては無い方が都合がいいですし、特段伝えたいこともありません)

 文化学院は遠からず消滅することになるでしょうが、できれば綺麗な花火を打ち上げてから終わって欲しいものです。
 どんな物事も、はじめよりも終わりが難しい。終わらせる――となると尚更ですね。
 文化学院は今のところ「終わりを見極められなかった」という印象を受けます。着地点の見えないままにその場しのぎをしている段階です。

 ところで一昨年売却騒動のときにはなかなか面白い人間観察ができました。特に団塊世代。
 学生運動の影響もあるのかもしれませんが、ブログ上でVIPPER顔負けの煽りに加え、「見解が違う=敵だから幾らでも叩いていい」というまさに荒らし体質丸出しの卒業生がいました。
 これは恥と言わざるを得ない。若い人やより年輩の方はちゃんと話し合いをする姿勢や、空気を読む姿勢がありましたが、団塊世代は自分の見解が絶対に正しいということが前提条件となって話をする人が多いので、とても見ていられませんでした(そのくらいでもなければ、その他大勢から抜け出せない世代でもあるのでしょうが)
 さんざん若い世代をバカにしていながら、実際にやっていることはVIPPERの特攻と大して変わらないのです。

 また学校側の、未だに私学だから学生・生徒・OBを無視してオーナーの好き勝手にしていい、という考え方には驚かされました。この考え方は近代では通用しても現代では通用しない。
 私学であっても、学校というものは年月を経るに従い、学生・卒業生と育てた共有の財産となります。それははじめにオーナー側が作り上げたものとは懸け離れた存在です。
 過去の文化学院と、現在の文化学院では存在の重みが全く違うのですよね。しかし、そこの違いは一切無視して近代の考え方を貫こうとする。
 当然、学生やOBとの認識の差が生まれます。そのギャップはとても言葉や行為で埋められるものではない。

 外側が変わっても中身が同じなら〜という論法もさんざん聞かされました。
 しかし、仮校舎で一年間学んだ感想は、建物一つでも人は環境が大事なのだな、ということにつきます。根本的に感覚が違うのですよね。
 『精神は肉体の玩具』というニーチェの言葉があります。仮に肉体がすげ替えられたとすれば〜という喩えのときによく引用されますが、そうなった時には精神も瞬時にその肉体に相応のものになると、多くの心理学者が考えています。
 人も建物も似たようなものかもしれません。

Posted at 2007/07/07(Sat) 10:01:27

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