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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

文化学院の歴史;佐藤春夫編 その1


 西村伊作とは一体どのような人だったのであろう。とりあえず、佐藤春夫について私が調べたテキストがあったので、ここに掲載しておく。

昭和10年頃、佐藤春夫自宅にて



佐藤春夫
詩人・小説家。和歌山県生れ。慶大中退。与謝野寛・永井荷風に師事、「殉情詩集」など古典的な格調の抒情詩で知られ、のち小説に転じ、幻想的・耽美的な作風を開いた。小説「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」「女誡扇綺譚」「晶子曼陀羅」など。文化勲章。(1892〜1964) [広辞苑第四版]

    年譜
明治二十五年(1892)
 四月九日、和歌山県東牟婁郡新宮町に長男として生まれる。父祖は代々医者。

明治三十七年(1904)十二歳(正確には不明)
 西村伊作と出会う。住まいも目と鼻の先であり、付き合いがあった。※1

明治四十二年(1909)十七歳
 新宮中学校にて夏期休暇中に、町内有志によって開催された文学講演会の席上において前座講演をするが、それが地方教育会の物議を醸し、無期停学を命ぜられる。この際に、与謝野寛(鉄幹)、石井柏亭らを知る。

明治四十三年(1910)十八歳
 中学校を卒業し、上京。与謝野寛によって詩歌の批評を受ける。

大正十四年(1925)三十三歳
 訳書『ピノチオ』を改造社より刊行。

昭和十一年(1936)四十四歳
 文化学院文学部長(四代目)に就任(以後、学院の強制閉鎖まで)。※2

昭和三十五年(1960)六十八歳
 西村伊作自伝『我に益あり』の出版を記念し、「文化学院新聞」第二十九号(10月)に西村伊作との思い出を語る。※1

昭和三十八年(1963)七十一歳
 西村伊作病没(享年七十八歳)。
 西村伊作語録「われ思う」の叙文を執筆。※3

昭和三十九年(1964)七十二歳
 五月六日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため死去。


※1
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わたくしがわが伊作さんをはじめて見知ったのは、いつであったろうか。もう半世紀以上もむかし、十二、三歳のころでもあろうから、正確なところはわからないが、ある夏の日の午後、淡い空色のワイシャツに上衣を手にして、キョロキョロあたりを見まわしながら歩いている長身の若い紳士を見かけて、いかにも立派なハイカラな人だと思ったのが、わが伊作さんを見た第一の機会の幼い第一印象であった。もとより町中にひびきわたっている伊作さんの名はもっと早くから知っていたが、まだ見る機会がなかったのである。そうして町で見かけても、これが有名な伊作さんとは気がつかなかった。
そのうちに今でいうオートバイ、そのころは町ではその轟音によって一般にバタバタと呼んでいたものを吹っ飛ばして来る人を、町の人々が伊作さん伊作さんというので、はじめていつぞやの空色のシャツの人が伊作さんであったと知った。
そのうち三、四年もして、はしなくもわたくしは思いがけなく伊作さんの知遇を得るようになった。わたくしが中学校の小生意気な不良学生だということが、わがつむじ曲がりの伊作さんの気に入ったものと見える。
 幸に家も近かったし、わたくしはまるで友達づきあいで、十も年長の伊作さんの家へ相手迷惑もかまわず押しかけたものである。その頃の十の違いは大人と子供とであるが、老幼や貴賤を問わず来る者を拒まず友だちにするのがわが伊作さんである。この人はその頃、絵を描いたり家のデザインをしたり陶器のかまを持ったり道楽を多く持っているせいか、酒や女など世上一般の金持の道楽はしない点も変った人であった。
 この人はまことに楽しく上手に語る人で、特にその身の上話が面白いが、広島の中学校で制服というバカゲたものにあいそをつかし、アメリカへ渡って勉強することを思い立って、アメリカへ行ったら、アメリカ人が「お前は何者か、クリスチャンか、ナショナリストかソシアリストか」などと問うから一語、
「自由思想家さ(オンリー・フリー・シンカー)」
 と答えてやったというが、この一語にこそ彼の自画像の最も簡略に正確な素描であろう、何んらの権威にも煩わされず、思う存分、我儘勝手にそうして長生きをしたのがわが伊作さんである。
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[1960年10月、文化学院新聞第二十九号『わが伊作さん』より現代仮名遣いに換え、抜粋した]

ことば
はしなくも(端無くも)…思いがけず
知遇…………………………人格や識見を認めた上での厚い待遇
世上一般……………………世間一般

※2
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 ――文化学院には作家志望の人が多いだろうか。
佐藤 昔は相当あったようですが、今はどうでしょうか。あまり沢山はいないと思いますが。
 ――先生は文学部に対して、これからどういったお考えをお持ちでいらっしゃいますか。
佐藤 今のところ、学生がどんなつもりで這入って来ているか判らないから、対策も瞭りしないが、作家になるつもりでいる人には同人雑誌とまで行かなくても同好の集会なり、クラブから推奨して良いものを出すようなことにして、つまり選手をだね……それが一人二人なら僕が直接養成してもいいし、そのグループでするのもよかろう。
――文化学院のいわゆる、自由教育という点に関しては如何ですか。
佐藤 自由に教育することは無論よいが、自由が放縦に流れていては困るね、自由を享有する視覚のない連中に、これを与えると、とかく結果はこれになりがちである。学院の学生は果たして有資格者なりや否や、行ってまずこれを見なければなるまい。僕も厳格な規律の精神は持ち合わさないけれど、必要に応じては一奮発出来るだけしっかりやらなければなるまい。あの学校の学校の建前としてそう幻覚にもやり兼ねるかとも思うけれど。学校に出席しないで自宅で自分勝手にやるというなら、最初から学校の必要もあるまい、何のために入学したか。打ち捨てて置けない次第だから自宅で果たして何事をいかになしつつあるか位ははっきり知って置きたいものである。少々面倒でも出席しない学生は、特別な方法で監督せねばなるまい。具体案は考究して見よう。
――先生の御講義は、精神講義は一週一度あると伺いましたが、その他に……。
佐藤 それと別に文学論のようなものを、文学常識を与える目的で、作家を志す人々も批評か、感傷かにも共通に役に立つと信ずる講義をやって、一年から三年まで一遍に聞いてもらおう思っている。自分で編纂した教科書を使うつもりだが、それをプリントするか、直ぐ印刷するか経費と時間の都合上、今はまだ決定せぬ。文学の勉強は要するに如何に読むべきかということ、如何に書くべきかという二点に帰することだと思うが、まず読むことから始めるのが教えやすいらしい。それも各自の勝手にして置くと、だらしなくなりがちだから、作家としての必要は教材を決めて、それを感傷的に批評的に読む方法を具体的に教えたい。
これは僕の方のことだが、学生が三年で卒業するころには、その教材を本にして前の学生にはこういうことを教えたということを後進の学生や社会全体に知ってもらう。そうすれば無責任な講義にもならないだろうと思う。……教科書はこういう風に時間後とに追々に編む訳だ。教科書なしに勝手に読む方法でも相当なまけやすいと思うから、教える方でも方針を立ててなまけにくいようにしようと思っている。まず自分で勉強して見せないと学生も叱れない。
(中略)
 ――今までの経験によりますと、例えば劇グループなどの場合でも、どうも学生が団体的行動をとるのはうまく行かないようです。そうした個人的な精神についてはよいところもあるかわり、欠点もいろいろあると思いますが……。

 佐藤 そんな時でも、欠点があると判っていれば直してもらうよ、何しろ志を同じくしていた人が集って、その道の話を楽しむことも出来ず、自分ひとりでも何事もせずにいるとすれば、その志を認めることがむずかしい。諺に『馬に水辺に導くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない』というではないか。いろいろ具体的な方法も考えては見ると、それでもなおなまけて困る学生は、結局屑だから僕の手ではものにならないだろう。学校にそういう学生ばかりしかいないとなれば、僕が就任の第一事業として、そういう学生全部を放校してもらうか、それが出来ない相談なら、僕が直ぐ学校を出るばかりだね。(哄笑)
 とにかく勉強、広い意味の仕事に興味を持つことをまず学ばせたい。学業および自分の志す仕事に対する興味なりを持つことがね、ともかくやってみよう。どうぞ、僕のこの親切と熱意とがいくらでも役に立てばいいが。僕の心持を学生全体に通じて、僕の理想の一端を実現してもらってくれたまえ。
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[『新部長佐藤春夫氏との一問一答』前田知哉 より抜粋し、便宜的に書き換えた]

 尚、上記にはフォローがある。
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 前の言葉はまだ話が決まったばかりで学院へ出てみない以前に学生の希望によって筆記させた記事であったが、学校の実情を見た今日もう一度改めて言い直してみる。学院の文学部には自分が入っても今更格別改める必要のあると気の付く点はなかった。あまり教室へ顔を見せないという学生のうちから理由の不明な者を数名自分の私信として出し、職員室へ呼び出したら決め手置いた日がたまたま大雪の荒天であったのに大半は当日定めた自国に出てきた。他の学生もその後一両日のうちにはほとんど皆な集まった。これで見ると学院のなまけものというのは悪質のものでないことがわかるから当局者の注意さえ行きとどけばこの悪風も直ぐ治るものと思う。
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[『もう一度』より抜粋]

※3
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 わが郷土の先輩で今は亡き西村伊作大人は既に知名の士で、今さらこの人を改めて伝える必要は何もあるまい。しかし奇人伝中の一人のように宣伝されているこの人が、実は奇人ではなく真の意味での進歩的で自由な大常識人であったのを知る人は少ないからこの一事くらいはここに特筆して置かずばなるまい。
 彼が奇人のごとく思われたのも実は、彼が真に進歩的でまたあまりに大常識人であったためなので、彼は日常、心理を追求して習俗には拘泥せず、一切の事実に大して独自な見解を述べるに当たって独自な表現をもってするがために、世俗一般の人々は彼の真意を解し得ずに奇人と称したのが世俗の間に流布したのであった。とはいえ、それは心理とは何ものであるかをさえ考えたこともない通俗人、もしくは低俗な常識人が、この哲人的大常識家に対する評語であって、当然あまりに無内容に過ぎるのを改めたいのである。
 わたくしは少年時代、しばしば西村家の炉辺にあって主人伊作さんの談敵として、時にはひるすぎから夕方に及ぶことさえもあり、その談論から多く教えられるところのあったのを忘れないが、彼はまことに能く、そうして面白く楽しげに語る人であった。
 その同じ頃、彼は地方の新聞に「異錯の理窟」と題した単文の雑記を時々発表していたものであった。「文は人なり」で、これらの断片的単文もまたその表題の示すような警抜に謙虚にユーモラスな表現の底に大常識を蔵したものであった。
 思えばあの「異錯の理窟」などがこの書の萌芽ででもあろうが、もはや半世紀を経てさんいつ散逸し去ってここに見ることのできないのは惜しい。
 聞けばこの書の主要部は、すべて新聞紙折り込みの広告の裏などの紙片に書き散らして雑然と篋中に投げ込まれていたものであるとか。多分は折にふれて思い浮かんだところをあたりにあり合わせた紙片に記して学院の学生たちに聞かす講話の資料にもと篋中に収めて置いたのであろう。見かけは即興的な放談のように見えた学院での講話にもこれだけの用意があったのを、懐かしみ尊んでか、学院の学生有志が相謀り相会して松尾氏の指導の下にこれを編纂したというのは、また、現代には稀な美しい志であるが、これも故人の遺徳の現れとも見るべきものであろう。
 故人には別に著述があって、本書が必ずしもその代表的述作というわけではないが、その無造作に何ら身構えもなく雑然と書き流したところに、かえって故人らしい風格のハツラツとして親しむべき珍重すべきものをおぼえるのは決して遺友たるわたくしばかりではあるまい。
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[西村伊作人生語録『われ思う』叙文(現代仮名遣いに改変)]

大人……敬称
拘泥……こだわること。執着すること
警抜……優れて抜きんでいること。着想が優れていること。事実を鋭く突いていること
篋中……箱の中のこと。筺中とも

その2へ続く

Posted at 2006/02/26(Sun) 12:05:37

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