I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

米米と建築科

http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20060323/115964/
 米米クラブについての記事なのですが、後半の方で文化学院のことが、ちょっとだけ書いてあります。あんまり本人達は学院に対して特段の思い入れは無いようですが(笑)、でも、いいものを培って、そして花開かせたのだから、それで充分でしょう。
 建築科は私の入学後に無くなったと思いますが、内心、そんな学科のあることを凄げー、と驚きました。珍しい学科だからこそ、本当の個性派が集まるんでしょうね。高等課程の子でも、パフォーマンスの巧い子が多いし。
 ある意味、建築科こそ、文化学院の味だったのかも。世間的にはほとんど報われないですが、実利を離れたところにこそ、本当に求める何かがある、というか。

Posted at 2006/03/25(Sat) 13:15:11

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東京新聞;文化学院校舎建て替え計画見直し求めOBら保存会

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20060314/lcl_____tko_____000.shtml
 ふーん。「文化学院を愛する会」ねぇ、こんな会があったのか。全然知らなかった。まぁ、何んにしてもこのサイトはweblogに限らず“名誉ある孤立”を貫き通しますが。


 会の名称は、「文化学院を愛する会」(事務局・大橋智子さん)。要望書では、新校舎の設計が完成していないことを理由に「校舎の行く末を話し合う時間は残されている」と主張。アーチ形の玄関が特徴の本館は、耐震補強などで保存の道を探り、新校舎建設は残りの敷地内で行うよう提案している。


(研究目的での著作物の引用は著作権法により認められています

 事情を知っている人には解るけれども、部外者には何んのことかわけ解らない記事だな。(笑) 東京新聞は良いのか悪いのか微妙なところ。
 そこで解説。文化学院の建物というのは85年前に建てられた旧館と、それ以降に増築された新館とに分かれている。新館ははっきり言って、さして美しくもない建設ラッシュ時の建物なので、別に壊されたとしてもこれといった感慨はない。文化学院の象徴はやはり旧館のアーチにあるので、それだけは残して欲しい、という要望なのだろう。
 GoogleEarthの画像から、新館部分を赤く透過してみた。

sinkyu.jpg


 見ての通り、敷地の大部分を新館が占有し、旧館はほんの僅か、ハリボテのように建っているだけ。
 現在は美術科と演劇実習が旧館を使用しており、高等課程や創造表現科、デジタルデザインなど大部分の講義・授業はほとんどが新館を利用している。確かに老朽化は酷いが、シンボルとして残すことにして、建物としての機能を排除し、それらは新校舎にのみ集中すれば何んの問題もないように見請けられる。
 それがダメだというのは、やっぱり何か予め決まった計画でもあるのだろうか――と勘ぐってみたくなる。
 まぁ、現実的に見れば『建物は修理するよりも、新しく建てた方が安くつく』のであるから、当然のことといえば、そうなのだが。

 しかし――形あるものはいずれ壊れる。永遠なんて無い。どちらにしても、あまりに急だった。せめて一年は間を空けてくれれば、随分と気持ちも違ったのに。普段学校に来ない生徒も、少しでも学校に来ようとしただろうし、校舎と学校の雰囲気を存分に感じたことだろう。そういった感慨に浸る暇さえ与えず、このままじゃ赤字ですから壊します――あまつさえ耐震性なんて流行語を使って言い訳をするのは、ちょっと情けなく思う。

----(3/14追記)----
 今日は卒業制作展を見るために学校へ出ていたのですが、新校舎の一階部分を賃貸することは既に決定事項らしい。普通に考えて、そうでなければ借金を返せるはずはないし、建て替えの話が出た時点で想像していました。私は別に賃貸自体には反対ではないのですが、そうならそうと最初から言ってくれれば。
 変にあいまいなことを言ってごまかすから、疑心暗鬼を生ずるのですよね。

 そんな下らないことよりも、卒業制作展はとても面白かったです。ただし個人の努力や資質がそのまま結果に出ている――という工合で、作品の程度はピンキリですけどね。上の方にいる人は、労力・感性どれをとっても素晴らしく、有り金を残らずはたいてでも買いたいほどの出来の作品と、逆に『気持ちはわかるんだけどね』という程度の作品とが一緒に並んでいます。
 そこも何んだか文化学院らしくて。学生の誰が描いたって似たような傾向になる美術学校って多いのですよね、意外と。

----(3/30追記)----
http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/const/426170
 同じような記事がありました。

Posted at 2006/03/14(Tue) 15:16:19

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ビックカメラ子会社が歴史ある私立専修学校を買収>校舎取り壊しへ(3/11追記)

 11月2日、約十億円(金額は推定)文化学院を買収。経営権は百パーセント日本ビーエス放送(株)(親会社はビックカメラに委譲された。文化学院は高等部・大学部の各三年制の学校。生徒・学生の数が減少しており、赤字経営が続いていた。
 それから僅か数ヶ月の後、事前の説明は一切無しに、2月6日月曜日の昼休み、突如として『文化学院校舎を建て直す』という、既にくつがえらない決定事項を一方的に発表
 第一回の説明会は昼休みの僅か15分しか時間が取られなかった。生徒からの抗議によって、2月14日火曜日に第二回説明会が行われることになった。この告知も突如として決まった。
 説明において、学院側は時間が無かったことをしきりに強調するが、邪推すればするほどそれらにはいくつかの不自然な点が見られ、誠実な説明はなされず、主に進行をしていた事務の佐竹氏の発言も問題をはぐらかすことに終始した。
 6日の説明会の閉会時には立花利根氏が『次回、生徒の要望も汲み上げる』と言っていたにも拘わらず、理事会で決定したことを一方的に生徒へ押しつけるだけで、14日の説明でも建設的な話し合いは一切行われなかった。決定事項の発表及びそれに対する質問の時間に過ぎなかった。
 建て替えられた後、テナントが入るかどうかの質問に対しては『学校法人として賃貸することはある』というあやふや回答。学生数が減っている以上は、これは事実上認めていることと同じである。やはりこれがホンネではないだろうか。
 一方、これから二年間は研数学館を仮校舎とすることだけは決まっているが、他設備面などに関してのことはほとんど全く決まっておらず、演劇科、美術科の生徒・講師らからは、不満の声が相次いだ。授業料など、肝心要のことについてはほとんど相談、決定されておらず、学生の立場で物を考えた者は理事会には一人もいなかったものと見える。これは生徒・学生・保護者に対して不誠実としか言いようがない。
 学院側は『嘘はついていない』ことを強調していたが、これは心理テストの設問にもあるように、どんな人でも僅かな嘘はあり、隠し事はする。この場合では理事会が変わったことを非常勤講師・生徒・学生・保護者側へ口止めしていたことが何よりの証拠で、それをもって嘘をついていない――というのはまさしく嘘つきにしか出来ないこと。もし正直な人であれば、そのことに思い当たって『嘘をついていない』とは言えないものである。

 さて、これは余談になるが、説明会ではメディアからの取材はあり得ないとコメントしていたものの、普通に考えれば、現在は昨今のライブドア事件などで買収問題に注目が集まっており、企業が学校を買収をして即座に広辞苑に載っているほど著名な校舎を取り壊すとなればニュースにならないとは思えない。
 説明会の前に事務室に電話をしていた佐竹氏が『スポ日の……』と何んのと言っていたが、あれは取材の申し入れではなかろうか。時期的にもそれ以外に考えられないのだが……。だとしたら、なぜ実際に取材の申し入れはあったが、相談してからでないと決められない、と言わなかったのだろうか。
 これは個人的話になるが、事務の佐竹氏は常勤講師で、政治学を教えている。私自身も受講したことがあったが、二回の受講で辞めた。質問をいい加減にはぐらかしたり、『この本は読んだこと無いだろう?』と無礼にも勝手に決めつけてきて、あまり誠実には教えてくれない人なので。また、別にこの人から推薦された本でもないのに、読んでいるとあたかも自分が推薦したように言うので、プライドの高い私のこと、もう全く口を利いていない。説明会の時も人の見ていないところで苦笑したり、ニヤついたりしていた。別にこの程度の人ならどこにでもいる。しかしだからこそ私はこういう人には嫌悪感しか感じない。文化学院に期待するものとは随分開きがあるから。一応、いい話もしておくと『鞠躬如(きっきゅうじょ)』という字が読めなかったので、知識をテストする意味(パソコン使えば三秒で解るから)で聞いてみたらわざわざ調べてくれた。そういう心遣いもある人であることを記しておく。
 検索エンジンでここを見る人もあると思う。もしこれから文化に入ってみよう――という人があれば、これらのことを心に留めておいて欲しい。学校案内にあるよう、本当に『一人ひとりを我が子のように』思ってくれているのかどうか。

bunka_front.jpg


(画像は文化学院外観。入り口に学生が写っていたため、少し加工してあります)

----(2/21)----
一応、ニュース・サイトのURLも出しておきます。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2006/02/15/08.html
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20060215/eve_____sya_____002.shtml
 明らかに、説明会に紛れ込んでいたのでしょうね、特にスポ日さんは。(笑) やっぱり当日の電話は取材の申し入れだったようです。なら、なぜ取材の申し入れが無かったなんて嘘を言ったのだろう。

----(3/11追記)----
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060307/mng_____thatu___000.shtml


 来年末に完成予定の新校舎は、延べ床面積が約二倍に広がる。竹内理事は「伝統も大事だが、制度疲労をきたしている面も否めない」と話す。最近の出身者にあたる二十、三十代で、各界で知名度のあるOBが少なくなっていることを例に「かつての勢いが失われた。デジタル部門の充実など時代の流れに対応する必要もある」と強調する。象徴的だった玄関アーチのデザインは、新校舎にも取り入れ、伝統の良さも残すという。

 なんだ、この視野の狭さと実利主義+詭弁は。(笑) 二十代三十代で成功したOBはほとんどいない気が。音楽系はともかくとして、どれだけ真摯な活動をしていても、ほとんどの人は世間から認められるまでに時間が掛かっているし。
 創作・美術系の人が今の世間で有名になろうと思ったら、よっぽどいいアニメを海外に売り込んで“欧米”から認められるか、アニメ風のぇろアートを“欧米のオタク”に売り込まなきゃ(笑)無理。“いい作品”では見向きもされない恐れが。そんな作品で有名になっても意味無いと思うのだが……。

 ――というか、理事会側の説明が二転三転している。先の説明会においては『今までの教育体制は残す、あくまで校舎が変わるだけ』と明言しておきながら、結局教育方針も電器屋らしく“デジタル”へ変えたがっているわけだ。

Posted at 2006/03/11(Sat) 11:39:20

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ビックカメラ、ビックポイントをSuicaと交換可能に

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060228AT1D2809328022006.html


ビックカメラ(東京・豊島)は28日、自社の割引ポイントを電子マネー「スイカ」と交換するサービスを始めると発表した。3月15日から募集する東日本旅客鉄道(JR東日本)との提携カード「ビックカメラSuicaカード」の会員が対象。ポイントと電子マネーの交換は大手家電量販店では初めて。初年度で30万人のカード会員獲得を目指す。

 ポイントの提携といえば、最近はツタヤ・楽天・ローソンなどが有名どころでしょうが、ビックカメラがSuicaと交換可能に。
 Suicaはコンビニでの利用など、ほぼ現金と同等に扱うことが出来るので、ポイントの域を大幅に超えすぎていると思いますが。ポイント不正なんてまた出てきたりして……。
 それにしても、一体ビックカメラには何があったのか?! 動きがえげつないほどに過剰。ちょっと変です。普通、企業がこういう過剰な動きをすのは、良くない徴候。ライブドア然り、かつてのダイエー然り。
 どうしても不穏な動きにしか見えなくて。

他、ビックカメラ関連最新記事
日経ITpro;ビックカメラ、ソフマップとの事業統合を急ピッチで進める

Posted at 2006/03/01(Wed) 06:11:07

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文化学院の歴史;佐藤春夫編 その1


 西村伊作とは一体どのような人だったのであろう。とりあえず、佐藤春夫について私が調べたテキストがあったので、ここに掲載しておく。

昭和10年頃、佐藤春夫自宅にて



佐藤春夫
詩人・小説家。和歌山県生れ。慶大中退。与謝野寛・永井荷風に師事、「殉情詩集」など古典的な格調の抒情詩で知られ、のち小説に転じ、幻想的・耽美的な作風を開いた。小説「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」「女誡扇綺譚」「晶子曼陀羅」など。文化勲章。(1892〜1964) [広辞苑第四版]

    年譜
明治二十五年(1892)
 四月九日、和歌山県東牟婁郡新宮町に長男として生まれる。父祖は代々医者。

明治三十七年(1904)十二歳(正確には不明)
 西村伊作と出会う。住まいも目と鼻の先であり、付き合いがあった。※1

明治四十二年(1909)十七歳
 新宮中学校にて夏期休暇中に、町内有志によって開催された文学講演会の席上において前座講演をするが、それが地方教育会の物議を醸し、無期停学を命ぜられる。この際に、与謝野寛(鉄幹)、石井柏亭らを知る。

明治四十三年(1910)十八歳
 中学校を卒業し、上京。与謝野寛によって詩歌の批評を受ける。

大正十四年(1925)三十三歳
 訳書『ピノチオ』を改造社より刊行。

昭和十一年(1936)四十四歳
 文化学院文学部長(四代目)に就任(以後、学院の強制閉鎖まで)。※2

昭和三十五年(1960)六十八歳
 西村伊作自伝『我に益あり』の出版を記念し、「文化学院新聞」第二十九号(10月)に西村伊作との思い出を語る。※1

昭和三十八年(1963)七十一歳
 西村伊作病没(享年七十八歳)。
 西村伊作語録「われ思う」の叙文を執筆。※3

昭和三十九年(1964)七十二歳
 五月六日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため死去。


※1
----
わたくしがわが伊作さんをはじめて見知ったのは、いつであったろうか。もう半世紀以上もむかし、十二、三歳のころでもあろうから、正確なところはわからないが、ある夏の日の午後、淡い空色のワイシャツに上衣を手にして、キョロキョロあたりを見まわしながら歩いている長身の若い紳士を見かけて、いかにも立派なハイカラな人だと思ったのが、わが伊作さんを見た第一の機会の幼い第一印象であった。もとより町中にひびきわたっている伊作さんの名はもっと早くから知っていたが、まだ見る機会がなかったのである。そうして町で見かけても、これが有名な伊作さんとは気がつかなかった。
そのうちに今でいうオートバイ、そのころは町ではその轟音によって一般にバタバタと呼んでいたものを吹っ飛ばして来る人を、町の人々が伊作さん伊作さんというので、はじめていつぞやの空色のシャツの人が伊作さんであったと知った。
そのうち三、四年もして、はしなくもわたくしは思いがけなく伊作さんの知遇を得るようになった。わたくしが中学校の小生意気な不良学生だということが、わがつむじ曲がりの伊作さんの気に入ったものと見える。
 幸に家も近かったし、わたくしはまるで友達づきあいで、十も年長の伊作さんの家へ相手迷惑もかまわず押しかけたものである。その頃の十の違いは大人と子供とであるが、老幼や貴賤を問わず来る者を拒まず友だちにするのがわが伊作さんである。この人はその頃、絵を描いたり家のデザインをしたり陶器のかまを持ったり道楽を多く持っているせいか、酒や女など世上一般の金持の道楽はしない点も変った人であった。
 この人はまことに楽しく上手に語る人で、特にその身の上話が面白いが、広島の中学校で制服というバカゲたものにあいそをつかし、アメリカへ渡って勉強することを思い立って、アメリカへ行ったら、アメリカ人が「お前は何者か、クリスチャンか、ナショナリストかソシアリストか」などと問うから一語、
「自由思想家さ(オンリー・フリー・シンカー)」
 と答えてやったというが、この一語にこそ彼の自画像の最も簡略に正確な素描であろう、何んらの権威にも煩わされず、思う存分、我儘勝手にそうして長生きをしたのがわが伊作さんである。
----
[1960年10月、文化学院新聞第二十九号『わが伊作さん』より現代仮名遣いに換え、抜粋した]

ことば
はしなくも(端無くも)…思いがけず
知遇…………………………人格や識見を認めた上での厚い待遇
世上一般……………………世間一般

※2
----
 ――文化学院には作家志望の人が多いだろうか。
佐藤 昔は相当あったようですが、今はどうでしょうか。あまり沢山はいないと思いますが。
 ――先生は文学部に対して、これからどういったお考えをお持ちでいらっしゃいますか。
佐藤 今のところ、学生がどんなつもりで這入って来ているか判らないから、対策も瞭りしないが、作家になるつもりでいる人には同人雑誌とまで行かなくても同好の集会なり、クラブから推奨して良いものを出すようなことにして、つまり選手をだね……それが一人二人なら僕が直接養成してもいいし、そのグループでするのもよかろう。
――文化学院のいわゆる、自由教育という点に関しては如何ですか。
佐藤 自由に教育することは無論よいが、自由が放縦に流れていては困るね、自由を享有する視覚のない連中に、これを与えると、とかく結果はこれになりがちである。学院の学生は果たして有資格者なりや否や、行ってまずこれを見なければなるまい。僕も厳格な規律の精神は持ち合わさないけれど、必要に応じては一奮発出来るだけしっかりやらなければなるまい。あの学校の学校の建前としてそう幻覚にもやり兼ねるかとも思うけれど。学校に出席しないで自宅で自分勝手にやるというなら、最初から学校の必要もあるまい、何のために入学したか。打ち捨てて置けない次第だから自宅で果たして何事をいかになしつつあるか位ははっきり知って置きたいものである。少々面倒でも出席しない学生は、特別な方法で監督せねばなるまい。具体案は考究して見よう。
――先生の御講義は、精神講義は一週一度あると伺いましたが、その他に……。
佐藤 それと別に文学論のようなものを、文学常識を与える目的で、作家を志す人々も批評か、感傷かにも共通に役に立つと信ずる講義をやって、一年から三年まで一遍に聞いてもらおう思っている。自分で編纂した教科書を使うつもりだが、それをプリントするか、直ぐ印刷するか経費と時間の都合上、今はまだ決定せぬ。文学の勉強は要するに如何に読むべきかということ、如何に書くべきかという二点に帰することだと思うが、まず読むことから始めるのが教えやすいらしい。それも各自の勝手にして置くと、だらしなくなりがちだから、作家としての必要は教材を決めて、それを感傷的に批評的に読む方法を具体的に教えたい。
これは僕の方のことだが、学生が三年で卒業するころには、その教材を本にして前の学生にはこういうことを教えたということを後進の学生や社会全体に知ってもらう。そうすれば無責任な講義にもならないだろうと思う。……教科書はこういう風に時間後とに追々に編む訳だ。教科書なしに勝手に読む方法でも相当なまけやすいと思うから、教える方でも方針を立ててなまけにくいようにしようと思っている。まず自分で勉強して見せないと学生も叱れない。
(中略)
 ――今までの経験によりますと、例えば劇グループなどの場合でも、どうも学生が団体的行動をとるのはうまく行かないようです。そうした個人的な精神についてはよいところもあるかわり、欠点もいろいろあると思いますが……。

 佐藤 そんな時でも、欠点があると判っていれば直してもらうよ、何しろ志を同じくしていた人が集って、その道の話を楽しむことも出来ず、自分ひとりでも何事もせずにいるとすれば、その志を認めることがむずかしい。諺に『馬に水辺に導くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない』というではないか。いろいろ具体的な方法も考えては見ると、それでもなおなまけて困る学生は、結局屑だから僕の手ではものにならないだろう。学校にそういう学生ばかりしかいないとなれば、僕が就任の第一事業として、そういう学生全部を放校してもらうか、それが出来ない相談なら、僕が直ぐ学校を出るばかりだね。(哄笑)
 とにかく勉強、広い意味の仕事に興味を持つことをまず学ばせたい。学業および自分の志す仕事に対する興味なりを持つことがね、ともかくやってみよう。どうぞ、僕のこの親切と熱意とがいくらでも役に立てばいいが。僕の心持を学生全体に通じて、僕の理想の一端を実現してもらってくれたまえ。
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[『新部長佐藤春夫氏との一問一答』前田知哉 より抜粋し、便宜的に書き換えた]

 尚、上記にはフォローがある。
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 前の言葉はまだ話が決まったばかりで学院へ出てみない以前に学生の希望によって筆記させた記事であったが、学校の実情を見た今日もう一度改めて言い直してみる。学院の文学部には自分が入っても今更格別改める必要のあると気の付く点はなかった。あまり教室へ顔を見せないという学生のうちから理由の不明な者を数名自分の私信として出し、職員室へ呼び出したら決め手置いた日がたまたま大雪の荒天であったのに大半は当日定めた自国に出てきた。他の学生もその後一両日のうちにはほとんど皆な集まった。これで見ると学院のなまけものというのは悪質のものでないことがわかるから当局者の注意さえ行きとどけばこの悪風も直ぐ治るものと思う。
----
[『もう一度』より抜粋]

※3
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 わが郷土の先輩で今は亡き西村伊作大人は既に知名の士で、今さらこの人を改めて伝える必要は何もあるまい。しかし奇人伝中の一人のように宣伝されているこの人が、実は奇人ではなく真の意味での進歩的で自由な大常識人であったのを知る人は少ないからこの一事くらいはここに特筆して置かずばなるまい。
 彼が奇人のごとく思われたのも実は、彼が真に進歩的でまたあまりに大常識人であったためなので、彼は日常、心理を追求して習俗には拘泥せず、一切の事実に大して独自な見解を述べるに当たって独自な表現をもってするがために、世俗一般の人々は彼の真意を解し得ずに奇人と称したのが世俗の間に流布したのであった。とはいえ、それは心理とは何ものであるかをさえ考えたこともない通俗人、もしくは低俗な常識人が、この哲人的大常識家に対する評語であって、当然あまりに無内容に過ぎるのを改めたいのである。
 わたくしは少年時代、しばしば西村家の炉辺にあって主人伊作さんの談敵として、時にはひるすぎから夕方に及ぶことさえもあり、その談論から多く教えられるところのあったのを忘れないが、彼はまことに能く、そうして面白く楽しげに語る人であった。
 その同じ頃、彼は地方の新聞に「異錯の理窟」と題した単文の雑記を時々発表していたものであった。「文は人なり」で、これらの断片的単文もまたその表題の示すような警抜に謙虚にユーモラスな表現の底に大常識を蔵したものであった。
 思えばあの「異錯の理窟」などがこの書の萌芽ででもあろうが、もはや半世紀を経てさんいつ散逸し去ってここに見ることのできないのは惜しい。
 聞けばこの書の主要部は、すべて新聞紙折り込みの広告の裏などの紙片に書き散らして雑然と篋中に投げ込まれていたものであるとか。多分は折にふれて思い浮かんだところをあたりにあり合わせた紙片に記して学院の学生たちに聞かす講話の資料にもと篋中に収めて置いたのであろう。見かけは即興的な放談のように見えた学院での講話にもこれだけの用意があったのを、懐かしみ尊んでか、学院の学生有志が相謀り相会して松尾氏の指導の下にこれを編纂したというのは、また、現代には稀な美しい志であるが、これも故人の遺徳の現れとも見るべきものであろう。
 故人には別に著述があって、本書が必ずしもその代表的述作というわけではないが、その無造作に何ら身構えもなく雑然と書き流したところに、かえって故人らしい風格のハツラツとして親しむべき珍重すべきものをおぼえるのは決して遺友たるわたくしばかりではあるまい。
----
[西村伊作人生語録『われ思う』叙文(現代仮名遣いに改変)]

大人……敬称
拘泥……こだわること。執着すること
警抜……優れて抜きんでいること。着想が優れていること。事実を鋭く突いていること
篋中……箱の中のこと。筺中とも

その2へ続く

Posted at 2006/02/26(Sun) 12:05:37

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文化学院の歴史;佐藤春夫編 その2


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    佐藤春夫氏の人となりについて……

――春夫先生はいつまでも新宮なまりのアクセントで話された。少年の日の思い出は、新宮の山や川や海とともに春夫先生にとって一番強い懐かしさを持つものだったろう。
――私が小さい子供の頃、新宮の父の家によく先生が見えられた。登坂の佐藤病院の春夫さん、と母たちも呼んでいたし、春夫青年も父のことを伊作さんといっていられた。子供ながらも春夫さんは芸術家でとても素敵なんだと思い、タバコの煙が何段にもたなびいて掛かっている父の書斎兼応接間の隅などに身をひそめて、父や他のお客様などと盛んに話してはときどき爆笑するのを、これは大変高尚でしゃれたことなのだと感心して眺めていた。
――文学部長としては戦雲の暗くなって行くあの時代によく学生のめんどうを見られ、優れた作品を書いた者には春夫賞を与えられたり、ご自宅に読書グループを作って男女の学生を可愛がって育てていられた。
――文化学院に迎えた春夫先生はもう老人の姿をしていられた。といっても右の文にあるように就任された当時は新宮時代の文学書生風なところもまだ残っていたのだから、だんだんに老人風に鳴って来られたのであろう。
 父があるとき文化学院の職員室か何かで、「春夫さん、あんたは私より若いのに爺さんみたいな風をしているが……」と嗤っていったことがある。それに対して春夫先生はおもむろに口許をほころばして、例のいたずらっぽい笑顔になって答えられた。
「老人の境地というのは、人間の一番いい状態だから私はわざとその態度をとっている」
 けれどもそのころは本当の老人ではなかったので、実際には若い女子学生などの柔い二の腕を大きな手でがっしり握んで引きよせたり、頬っぺたに口を寄せて「舌を出してペロペロ舐めて」(これは父が見て半ば羨ましげに、半ばあきれ顔にあとで何度も私たちに話したことであったが)見たりもしたのだろう。しかし東京っ子の女子学生たちは、お爺ちゃん大家の先生を適当に尊敬し、適当にいたわり、適当に体をかわしてめんどうなことなどには一つもならなかった。
 春夫先生も「老いてますます」というような噂はいろいろあったが、そうした相手には学生はちゃんと除外していられたようだった。
――春夫さんは父と一緒に油絵を描いたり、陶器を作ったり、粘土でたくさん大人のオチンコを作ったりした。よく伊佐田の家で解きを過ごされた。この家の洋風な生活も大正のころの日本では珍しく新鮮な想像力を養ったことだろう。
 そして父の話し上手なのをいい事にいくらでも聞き出し、自分も話したりして寄るをふかすことも多かった。彼の作品「FOU」※iは「おれもそう思う」と副題がついていて、父の弟のフランスでの話をほとんど父の話すままに小説にしたもので、パリの町の様子は春夫さんの親友の堀口大学氏に詳しく聞いたのだという。
 も一つの作品「小妖精」※iiは、まだ春夫氏が文学部長になられる前の文化学院にいた美しい少女のことで、与謝野晶子さんはその小説が雑誌に発表されたときには「あれは伊作さんが書いて春夫さんの名で発表されたんでしょう」といわれたくらい父の話し方の通りで、その少女のことが実にこまかく描かれているという。
――去る三月六日私の長女利根の結婚式に、春夫先生はご夫妻でおいで下さった。この娘の生まれたときも大変よろこんで下さって、十号位の油絵で鯛と蛤を描いて下さり、そのカンバスの裏には、のしと松竹梅とを描き、
   めでたいをかいてみたいとゆうめしにくいたいととをたべずゑにして
                                  はるを
と油絵具で走り書きしてあった。
----
[『「春男さん」と「伊作さん」』石田アヤより]

※i
 佐藤春夫「F・O・U」より冒頭部分
----
   F・O・U
    一名「おれもそう思う」
 彼は立ち上がり際に、もう一度、マドレエヌ寺院の大円柱の列と大階段と、またその側の花市場とに、影と日向とが美しく排列しているのを一目に見渡してから、旗亭ラリュウから出た。すると、表口に、素晴らしい総ニッケルの自動車が、彼の哀れなシトレインのそばに乗り捨ててあるのを見出した。
 さっきまでは無かった車だ。
 目のさめるようなロオルス・ロイス号であった。
 形は何というか未だ一度も見たこともない。
 どこもかしこもキラキラと耀いている。
 彼はそれへ乗って見たいと思った。そこで彼は乗った。それから把手をとって、車の向いている方向へ進めた。
 車は自とリュウ・ロワイヤアルの人ごみへ出た。コンコルド広場の方尖塔(オペリスク)を右へまわるともうシャンゼリゼだった。ロオルス・ロイスは少しも動揺しなかった。そればかりかちっとも音がしなかった。彼はもっと音のたつほど勢よくやった。しかし車は更に音を発しなかった。気がついて見るとタコメータアは百二十キロメートルを示していたので、彼は驚いて、速力をゆるめた。そんなことをしているうちに凱旋門(エトワアル)はもう通り過ぎて、ボア・ド・ブウロウオニュへ来ていた。しかし、この公園へ来てからロオルス・ロイスはどこか機嫌が悪いように思えた。そこで彼は車をとめて下りてみた。
 機械をあけて彼が見ていると、そばに一人のニッカボッカをはいた十二ぐらいの少年が見物していた。腹を突き出して、両方の腰骨のところへ両手の甲をくっつけて腕を花瓶の把手のような恰好に曲げ、実に仔細げな様子で立っているところは、見るからガマン・ド・パリの見本だった。
----
[新潮日本文学12 佐藤春夫集より(外国語のカナのルビは括弧書きにした)]


※ii
 佐藤春夫「小妖精伝」より冒頭部分
----
 小妖精伝
   (1)出色の新入学生
 その年、美術部へ入学したのは男女合せて四十人位であったろう。我々の女主人公Oはそのうちのひとりであった。嶄然出色なひとりであった。F女学校の四年を修了して入学したということであったが、同じ学校からもうひとり文学部へ入学したA女があった。――自分で試みた怪談に恐怖して自分が卒倒したりなどするような多少ヒステリイ的傾向のあるへんに陰気な少女であったがA女はOが何か家庭の都合で修学が一週間ほどおくれて欠席しているうちに自分と同じ母校からここへ入学する筈になっていたOが学校に来ないのを怪しむついでにOの容色やら操行やらについてさまざまに吹聴したものだからOの噂は忽ち全校へひろまった。この気まぐれとしか思えぬ宣伝が無用にも意外な効果を奏して人々の好奇心がそこに集中しているその視野の焦点へ何も知らぬOはひょくりと姿をあらわしたのであった。彼女は人々の注目を知って彼女の行くさきざきでは必ず渦巻の起ることを心私(ひそか)に期待し彼女は自分を学校のクインだと自負していた。或る朝N校長は登校して門から学校のなかを一とおり見まわしているとアトリエの前に見慣れないひとりの美しい女生がいるのを認めた。N氏は陽気な気持ちで片手を高く差し上げ指をひろげたりすぼめたりして見せると、先方でも同じ動作でそれに気がついたという合図を応えた。N氏はその女生のそばへ歩を近づけてあなたは今度入学したのですかと声をかけて見ようかと思ったが、それも気がさすほど美しい子であった。噂のもとも多分はそんなところから出たろうかと思えるが、入学願書によれば十八とあるこの少女は、大きな体つきで、ただ背が高くて脚が長いというだけではなく胸のあたりなど充分発育してもう成熟した婦人のような趣さえあった。手を差し上げて指をモジャモジャと動かす合図はその後習慣になって、彼と彼女との間には毎朝この動作は反復された。登校の時のみならず、学校をひけて出る時にもこの事が行われ、さながら相互に明日を約束するがごとき感があった。こんな仕方に於て暗黙の間に親愛が感じられていた。或る時校庭でダンスをしている学生たちを中心にして他の学生たちは大きな輪をつくって見物していたN氏とOとは偶然と相対していて彼等の視線は中心のダンス連のところをはなれて直接に結ばれ自然とこの二つの視線はこの円周中のN点とO点とを結んで円の直径を示していた。その最も遠い部分からOはわざわざ半円周をぐるりと歩いてN氏のそばまで近づいて来たこともあった。
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[新潮日本文学12 佐藤春夫集より(読めそうもないルビは括弧書きを付けた)]
嶄然……一段高くぬきん出ているさま
出色……他より際立ってすぐれていること。
([広辞苑第四版]より)

 文中には、実際の人々を指していると思われるイニシャルがあり、また人物描写も実際にその通りのように思われるので、当時を知る上では大変興味深い内容になっている。尚、この後の梗概については、Oに関する噂が一人歩きするようになり、石井柏亭氏を思わせるI氏の提案によって、Oは暑中休暇中に除名されてしまう。I氏への偏見とも取れないようなものが文体から滲み出てくる辺り、物語の客観はあくまでもN氏の主観に依っている。この辺りが与謝野晶子女史をしてからが「伊作さんが書いて〜」と言わしめる部分でもあろう。
 そして除名処分の取り消しを求めたOは談判にやってくるが、その際、N氏や30人ほどの学生とともに銚子へ海水浴に出掛けることとなる。銚子にて、N氏はOと同じ横浜に住むM・Nという青年を紹介する。しかし、OとM・Nとがいつも一緒にいることに、N氏は次第に嫉妬を覚えるようになってくる。そして、M・Nに対抗するように、息子のQをOに紹介する。
 その後、二学期になり、通学してくるOについて、I氏がN氏へ抗議に来る。N氏は仲裁役をA女史に頼み、一つの切り札として、Oと息子Qとが両方で好きになったらしいと言う。A女史は了解し、I氏を説得し、Oは無事通学を続けられることとなる。
 OとQとは婚約することになったが、ある日、Oが生きていてもつまらない、とピストルを持ってやってくる。それを諭すと、今度はどこかへ行ってしまおう、とやってきて、その後神戸三宮へ行ってしまう。その後、N氏は関西へ行くことになり、Oとは再会する。OはKという男性の財布を自分のもののように使えていた。その後、甲子園ホテルでOとふたりきりになったN氏は家へ帰るようにと勧める。そして、N氏が東京へ戻ったところで、Oが先に飛行機で帰っていて、出迎える。Oは一人で帰ってきた、と言う。

<了>

Posted at 2006/02/26(Sun) 12:04:05

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文化学院新校舎


bunka_new_sh.jpg

 2/14日の説明会の中でプロジェクターの映像にて公開されたものを基に、描いてみました。殴り描きのメモが基ですので、細部はあいまいです。また、左右のビルとの比較は省略させて戴きました。
 当日のプロジェクター画像では上段にある縦長の構造物に窓はありませんでしたが、大きさの比と階数が解りにくくなるので、独断で窓を描き入れました。
 アーチは石か煉瓦構造の4階分の高さを確保し、二段の階段で構成されています。上の構造物は浮かせて、下の構造物との間に隙間を作っているようです。この隙間の部分と、下の構造物がせり出した部分を中庭として設置するようです。また、下の構造物が四階分の高さなのは、日照を確保するためだそうです。
 もしかするとアーチのある構造物は単なる門なのかもしれませんが、当日のプロジェクターでもよく解りませんでした。アーチと階段のアップ画像では、階段の向こう側にある構造物へ視線が通っていました。
 建物の手前にある木については、現在学院の前にある街路樹と、アーチの手前に引き込むそうです。ですから、学院の建物自体はだいぶ奥へ引っ込むことになりそうです。

 さて、建て替えが決まったのは1月の末頃。最初の説明会が2月6日、2月14日までには既に模型が出来上がっている――というのは通常では考えられない速度です。一体どんな話し合いがされ、どんな勢いで設計図を書き上げたのか想像も付きませんが、恐らくはあらかじめ構想があったのだと思います。どちらにせよ、四月の竣工なので、次回の説明会が三月にあったとしても、学生・卒業生・保護者から意見を集める時間は無さそうです。
 プロジェクター画像の公開は、恐らくは学生の気を惹くためでしょうが、一部は却って不信感を募らせたようです。

Posted at 2006/02/22(Wed) 05:06:40

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