朝、会社について居室に入ると、僕の自席の電話が鳴っていました。慌てて取ると、電話口からはかみさんの沈んだ声。病院から二人で来てくれと呼び出しがあったとのこと。いつかは来ると覚悟していました。正直に言って、なっちゃんが生まれてから、家の電話が鳴るたびに冷や冷やしていたのです。僕はそのまま席に座ることなく、会社を出ました。秦野行のバスを待つ数分が待ち遠しい。この間に事態を少しでも把握しようと思って病棟に電話をかけました。電話口に出た当直医の説明では「昨晩から調子が悪く血便も出た。現在の状況を説明したい」とのこと。分かったような分からないような気持ちで、とにかく事態が良くないことを感じつつ、病院へ直行しました。
病院に着いたのは9時半。病棟に入るとなっちゃんのベッドの周りは人だかりが出来ていました。夏心美の主治医NW先生、担当医のNN先生、プライマリーナースのKさんがいて、そこに何故か4月から他の病院に移った元担当医のHS先生の顔も見えます。更に何人かの看護婦さんが取り巻くように立っていて、その取り巻きの中に、かみさんが目を真っ赤にして立っていました。パルスオキシメーター(呼吸の苦しさを測る機械)の警告音が鳴っています。サチュレーション(血中酸素濃度)も心拍も低く、それをNN先生がバギング(手動で強制的に空気を肺に入れること)で回復しようとしている最中でした。先生の目からも事態が深刻であることが窺えます。訳がわからないままなっちゃんの傍に寄って、手を握って応援しました。先生がどういう処置をしたか分かりませんが、とにかく状態が落ち着いたので別室でNW先生から話を聞くことに。NN先生とKさんも一緒です。
かいつまんで言うと「これまでも調子の波はあったが、昨夜からの状態の悪さは今までとは違う。血液検査の結果も炎症反応が上がり、白血球が増えているので点滴を始めた。状態の回復が思わしくないので、呼吸器の設定を強くして薬も使っているが、何度も繰り返すと効き目がなくなる。数時間から一日の内に最悪の事態も覚悟して欲しい」ということでした。そして僕らに出来ることは「そばに付いてあげる」だけ。祖父祖母に連絡した方がいいですかとの問いに、NW先生は一瞬迷って「そうして下さい」と短く答えました。
ベッド脇に戻ると、HS先生が様子を見ていてくれたようでした。他の病院に移った先生がどうしてここにいるのか。そりゃ頼もしいけれど。そしてよく見ると、なっちゃんのプライマリーナースのKさんも、勤務中に履くスニーカーではなく、非番の時のようにサンダルを履いているのでした。とにかく僕らは交代でそれぞれの両親になっちゃんの状態が悪いから来て欲しいと連絡しました。実を言うと僕は電話口で言葉を詰まらせてしまって、その様子を察した親父がすぐに行くからと言ってくれたようなものです。
なっちゃんは相変わらず心拍こそ100を切るくらい低いものの、サチュレーションはそれなりに安定しています。時々それも落ちかけるのですが、わずかなバギングで上昇します。その様子にこちらも落ち着いてきて状況が把握できてきました。HS先生は今日は週に一度大学病院に来る日で、たまたまなのかどうなのか、いつもより早く病棟に顔を出して、この事態に出くわしたそうです。そしてプライマリーナースのKさんは今日は休日だったのだけれど、僕らと同じように朝から電話で呼ばれたそうです。この時間の本当の担当はMMさんなのだけれど、シフトに入っていないKさんがつきっきりで様子を見てくれているのです。偶然に偶然が重なって、なっちゃんにゆかりの深いスタッフが勢揃いしているのです。
病棟に来たときは苦しそうで真っ黒な顔色をしていたなっちゃんは、お昼過ぎには顔色が戻っていました。最近お得意の舌ペロペロも始めて、そんなに調子が悪そうには見えません。僕らもちょっとホッとして、このまま回復してくれれるかもしれないな、なんて思い始めました。両親を呼んだのは早計だったかとも。ただ体温の割に手足は冷たく、急きょ入れたガストリックチューブからは、コアグラ(血の固まり)混じりの胃液が逆流してきています。最近ドライアイで閉じられなくなった目がカッと見開いているのも、なっちゃんが何か訴えているようです。僕らは両側からなっちゃんの手を握り、頑張れ頑張れと声援を送りました。
そのうち、間欠的にサチュレーションがストンと下がるようになりました。その度にNN先生が駆けつけてきてバギングを始めます。NW先生はその様子をみながら、矢継ぎ早にKさんに薬の指示を出しています。血圧を上げる薬や強心剤を濃くしているとのことでした。不安が心の中に大きく広がります。両親が早く着かないと間に合わないかもとも考え始めていました。
1時過ぎになって、かみさんの母親と妹、僕の両親が病棟に着きました。状況を簡単に説明しているうちになっちゃんは個別面会のための多目的ルームに移動です。そこなら他の子の面会の親の目に付かないからです。ただし本当に危ない子供がそこに運ばれることも知っていました。だから元のなっちゃんの定位置に場所に戻れるように。ただただ祈っていました。
多目的ルームに移ってからも、なっちゃんはまだ安定していました。心配して来た両親も最初は状況にビックリしたものの、徐々に落ち着いたようです。交代で遅いお昼ご飯を食べたり、休憩を取ったりし始めました。時々サチュレーションと心拍が下がっても、NN先生を呼んで薬を投与すればまた回復する。この薬は即効性があるけれど、切れるときも急激なんだそうです。それでも薬があれば大丈夫。この繰り返しがしばらく続きました。ウンチをしているようなので、オムツも替えてあげました。ただし出ていたのはやはり血便でした。
気がつくとNN先生を呼ぶ間隔が短くなってきていました。KさんもMMさんも出入りも頻繁です。いつからかNW先生もやってきて、そんな様子を窺っていました。ある時、それまでは薬を入れると130以上まで上がった心拍が110を切るところまでしか上がりませんでした。しかもそれもすぐに下がってしまう。続けて投与しても結果は同じ。NN先生から「効き目が短くなってきました」との宣告が。
呼吸器の設定は目一杯。酸素の混合比も昨日までは40%だったのに、今日は朝から100%です。そして薬も効かなくなっている。実は気になっていたことが一つありました。月曜日から新しい機種の呼吸器を使っていて、たまたまかもしれませんが、その日以降調子が悪いような気がしていたのです。機種を新しくしても設定自体は同じにしているから、なっちゃんに対する効果は同じというのが先生の見解です。でもどこかしら、なっちゃんには設定が強すぎるような気がしていました。このまま黙っていて後から後悔したくなかったので、先生に思い切って聞いてみました。「今から前の呼吸器に戻すことはできませんか」
先生は「今はこの機種の最高の能力で使っています。前の機械ではそこまで上げられませんので、状況はさらに悪くなると思います」と。もう何も言い返せませんでした。
正確な時間は覚えていません。きっと4時を過ぎたころでしょう。もうバギングをして回復させようとはしてくれなくなったNW先生は、薬を投与してその効果を見てから言いました。「もう薬の効果はありません。打てる手が無くなりました。どうしましょう」
どうしましょうと言われたって何をお願いすればいいのか。諦めますなんて口が裂けても言えません。ベッドの上で心拍がどんどん下がりつつあるなっちゃんをただ見つめて黙ってしまいました。なっちゃんは顔も唇も真っ白。それでも心臓はまだ動いている。それを最後まで応援してあげよう。
ベッドの反対側ではかみさんとKさんが寄り添うようになっちゃんの手を握っています。Kさんは看護婦の立場と親と同じ気持ちでなっちゃんを心配する立場と半々だったのではないでしょうか。ただ看護婦として事態がどう進んでいるかは僕らよりずっと把握できている。Kさんも、刻一刻と状況を記録していたMMさんも、先生が選択する処置を見ながらすでに涙ぐんでいたのです。
ふと気づくと、病室に人が増えています。婦長さんもいつの間にか入っていました。心電図を取っているモニターは、心臓の鼓動の間隔がだんだん長くなっていることを示しています。あとはただ最後の時を待つだけなのか。一方でパルスオキシメーターのサチュレーションは、何故か90以上を示しています。「これは?」と聞くと、先生は「血流が少なくなっているので正確な値が取れなくなっています」といって、パルスオキシメーターを止めてしまいました。いよいよ心電図が最後の綱。よくテレビで見るように、あの波形が真っ平らになっちゃダメなんだ。そう思いながらなっちゃんに話しかけました。
「がんばれ、がんばれ、心臓を動かすんだ」という励ましたい気持ちと、「もう充分頑張った、つらいことはやめて楽になっていいよ」という気持ち。その間で心が揺れ動きました。目は見開いて唇はなお一層真っ白。あんなに足やわきの下を触られるのを嫌がったのに、もう手足を動かす力さえない。こんなに頑張っているのにまだムチ打つのか。でも時が経つのを待つだけの先生になっちゃんの底力を見せてあげたい。悔しいくらいに呼吸器は淡々と正確に、なっちゃんの胸を膨らませます。気がつくと「大丈夫。まだ(心臓は)動いてる、ほら、もう一度、ほら頑張れ」となっちゃんの耳元で応援している自分がいました。
実際にはどれくらい経ったのでしょう。ふと見上げた心電図の波形が、いつからか真っ平らになっています。NW先生が進み出て、胸の音を聴診器で聴き、瞳孔を確認し、心電図をもう一度確認しました。「ご覧のように、心電図に反応が無くなりました。胸の鼓動も聞こえません、ただ今の時間で死亡いたしました」午後4時42分。その宣告と同時に、1年10ヶ月、なっちゃんを支えてきた人工呼吸器の電源が落とされました。