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第1話:聖なる夜に散る雪は

天城みどりは学園への道を一人歩いていた。

いつもより早いせいか、おなじく登校する生徒の姿は少ない。かといってクラブの朝練に行く時間でもないので、極端に少ないわけでないが。

「やだなあ……こんな日に限って当直なんてさあ……」

みどりは歩きながらあくびをした。吐く息は真っ白で、季節は確実に冬に向かっていることを現していた。

「うーさむ……」

……だれかあっためてくれないかな。

そうしているうちに乙夜学園に通じる坂道に着いたみどりは、知った人間を見つけ、声をかけた。

「おはよう、先生!」

「おう、天城か」

振り返ったのは彼女の担任の長谷川だった。今年で三十一歳の、ヒョロっとした感じの優しげな男で、眼鏡をかけている。

「早いな、今朝は」

「早いは余計です!」

しかし、遅刻常習のみどりが言ってもあまり説得力はない。特に沙織が仕事に行くようになってからそれがひどくなった。とはいっても由布よりはましだが。

「放送部のか?」

長谷川は笑いながらそう言った。

「ええ。今朝の放送の担当なの」

「そうか。そういうのはきっちりしてるな」

「どういう意味ですか、それ!?」

「どうもこうも、そのままだよ」

「なんか、他はずるしてるみたいでやです」

みどりはほほを膨らますと、長谷川は苦笑する。

「まあ、そうハムスターみたいに膨れるな。褒めてるんだぞ」

「褒め言葉には聞こえなかったけどっ」

「なにもしないで時間だけを浪費するのとは訳が違うからな。そう言う人間は、全てが無駄になってしまう」

笑いを押さえ、真面目な表情で話す長谷川。

「うーん……でも、なんだか納得いかない」

「なにが納得いかない?」

「時間を無駄にしなくても、やったことが無駄になったらどうしようもないと思うけどなあ……」

「だから、その辺りも含めてだよ。その時点では無駄だったとしても、そうだと気付けば、それは無駄にはならないからね」

「うう……なんかよくわかんない。あたし、理屈こねるの好きじゃないから」

「理屈をこねるか……」

それを聞いた長谷川は、くっくっと笑った。

「先生?」

「いや、すまん……しかし、天城らしいなあ」

「ひっどーい!あたしって考え無しってこと!?」

抗議するみどりに、長谷川は笑いながら言う。

「そう言うわけじゃない。考え込まないに越したことは無いんだ。下手な考え休むに似たりっていうだろう?どうしても思考は堂々巡りしがちだ。悩みごとなら下手をすれば精神を病んでしまう。考えるんじゃなくて、直感的に感じることのできる方がすごいことなんだよ。天城ならそう言うことができるんじゃないかと思ってるんだ」

「直感的に……感じる?」

怪訝な表情をするみどり。

「そうだ。直感的に理解できると言ってもいい。パーソナリティやってて、相手の雰囲気にあわせてしゃべったりするだろう?その時考え込んだりするか?」

「ううん。そんな暇あるわけないじゃない」

「だろう?じゃあ、どうしてそんなことができるんだと思う?」

「うーん……わかんない。そんなこと考えたこともなかった……」

「それでいいんだ」

「え?!」

みどりは立ち止まって長谷川を見つめる。顔中にクエスチョンマークが書かれている、そんな表情で。

「いいんだって……わからなくてもいいってこと!?」

「ああ、少なくとも今はね……おい、遅れるぞ」

「あ、ああ、うん……」

再び歩き出した二人。しばらく無言だったが、みどりがおもむろに問いかけた。

「あの……さっきの続きは……」

「ああ、そうだな……人はいつか壁にぶちあたる」

「壁?」

「挫折と言い直してもいい。今までできていたことができなくなって、それで悩むときがきっと来る。でも、そんなことはその時になってから考えればいいんだ。先のことを気にしたって仕方がない。それこそ下手な考えなんだよ」

「でも……その時悩みっぱなしで答えが出なかったらどうするの?前々から考えておいた方がいいんじゃないの?」

「その時がどういう時かわからないままにかい?」

「う……」

「だから下手な考えなんだ。結局の所、その場になってみないとどうしていいかわからない。だからさ……」

長谷川はにやっと笑って言った。

「いろんなことを体験するといい。そのうちのほとんどは役に立たないだろう。でも少しくらいは経験にすることができるに違いない。そしてそれは……いつか困ったときに、なにかの役に立ってくれるかもしれない……そう考えて生きていけば、大抵のことはなんとかなるさ」

「うーん……」

みどりは長谷川の言葉がよく分からなかったが、忘れないで覚えておこうと心に思った。

「じゃあさ……先生はどうなわけ?」

「え?」

「そういうこと言うんだったら、悩みごとなんて無いんでしょうね?」

反撃とばかりにみどりは長谷川を睨み付ける。

「ははは、まいったな」

長谷川は頭に手をやりながら笑った。

「言うは安し、行うは難し、だよ。何事もね」

「ずるーい!」

「大人だからね。そう簡単に弱みは見せないのさ」

「ぶう」

「それに、若いうちの苦労は買ってでもしろ、という格言もあることだし、天城には苦労してもらわんとな」

「勝手なんだ!それで苦労して馬鹿やっちゃってさ、今どきの若いもんは、とかいって説教するつもりなんでしょ!?大人ってずるい!」

「年を取ってくるとわかるさ、説教したくなる気持ちが」

「わかりたくなーい!」

「なにしろ紀元前から言われ通しなんだ。もはや人類の伝統と言ってもいい」

「そんな昔のことなんて知らない!」

「たかだか数千年ののことなのに、そんな昔はないと思うけどなあ……人類発祥から考えれば文明化なんてそれこそごく最近なんだけど……」

「充分古いです!」

「うむ……それはそうと、お前、歴史大丈夫か?」

「へ!?な、なんですかいきなり……」

「もうすぐ中間考査があるな?このままだと、担当教官として合格は出せんぞ」

「そ、そんな〜」

「苦手なのはわかるが、もう少し頑張ってもらわないとな」

「うう、意地悪〜」

「意地悪なもんか。そういうカリキュラム選択したんだから、やるしかないだろう?」

「それはそうだけど……」

「わからないことがあったら教えてもらえ。クラスメイトとかに……芹沢に聞くのが一番いいな。あいつはただ教えるようなことはしないからな……」

和広の名前が出た途端、それまでそこそこ楽しそうな顔をしていたみどりの表情が暗くなった。

「実際あいつの教え方はうまいよ。サークル活動でだって……どうした、天城?」

「ん……なんでもないです」

「ああ……あ、すまん」

長谷川は、クラス内での恋のさや当ての噂を思い出していた。

「なんであやまるんですか?!」

少し怒ったようにみどりは言った。

「いや、その……」

「まったくもう、みんなして……」

「み、みんな?」

「そうですよ!そんな落ち込んでなんかいられないんだから、まったく……」

ぶちぶち愚痴るみどりに、いつもの元気な彼女を見いだして、長谷川はふっと笑みを浮かべた。

「わからなかったから聞きに行きますからね!」

怒ったような顔でそう宣言するみどりに、長谷川は笑って答えた。

「ああ、いつでも来い」

「本当ですからね」

「そのかわり、きついからな」

「げ……きついのはちょっと〜」

「なにを言うか。自分からああいう宣言しといてだなあ……」

「あ、あたし、もう行かなきゃ!それじゃっ!」

みどりは逃げるように、というか走って逃げ出した。

その姿を見つめながら、長谷川は呟くように言った。

「……がんばれ」


『はーい!それじゃ今朝もいってみよー!』

校内にみどりの元気な声が響き渡る。

『最近は寒くなっちゃってベッドから出たくなくなっちゃうよね〜。いや、じつはあたしも今朝は遅れそうになっちゃってさ〜……』

「みどりらしいわね」

めずらしく早めに来た由布が言った。

「おまえが言うかね?」

由一が呆れたように突っ込みを入れる。

「うぐ……最近は違うもん!」

「違うってなあ……それが普通なんだろうに。おい、春日、デートとかで遅刻したりしないのか?」

「え……いや……」

すがるような、にらみつけるような由布の視線に圧倒されてなにも言えなくなる明。

「遅れたりしないもーん」

「よくもまあそういうこと言えるな……このまえの日曜なんかはなあ……」

『……でさ、もうすぐ中間考査でみんな大変でしょ?そんなみんなのためにこの曲を……秋吉沙織で"螺旋"……』

流れ出す曲。最初はスローテンポに、次第にアップテンポになっていく。ねじり上がるように……まさしく螺旋。

「おはよう」

その時和広がやってきた。そしてそばには、千秋……もうすっかりおなじみの光景になってしまった。

「やあやあおそろいで」

由一はちゃかすように言った。

「ときに、我らが楽しい年末を迎える準備はできたかな?」

すると和広は若干頬を赤くしながら言った。

「その前に障害物があるみたいだけどね」

「予約の方はなんとか終わったわ」

こちらも赤い顔で千秋は言った。

「あとは、中間考査を待つばかりね」

「そんなの待ちたくないよー」

由布が渋い顔でうめいた。

「どっかいっちゃはないかな……」

「おまえ、試験前だといっつもそう言ってるなあ……ろくな人間にならんぞ」

由一あきれた口調で言った。

「どういう意味よ!?」

「人に頼ってばかりだろう?いっつも芹沢に泣きついてるじゃないか」

「だ、だって〜」

「もう芹沢だって暇じゃないさ……なあ?」

意味深な視線で和広と千秋を見る和広。

「いや、そんなことないけど……」

「いいっていいって、むりすんな。生徒会の仕事だってあるんだしさ。わかったな、由布?」

「うー……わかったわよぉ」

不満たらたらの顔ながら肯く由布。

「いや、なにもそこまで言わなくても……」

「ちょうどいい機会さ。自分でする癖をつけなきゃな」

『……はーい!どうだった?沙織ねー、こんどまたアルバム出すんだって!例のシーズンシリーズね。今回は"冬"ってわけで、いろいろ新曲考えてるらしいよ!出たらみんなで買ってよね!それじゃあ今朝はこの辺で……See you tomorrow!』


時は進む。自動的に。全ての存在を置き去りにして。

「ねえ……なんでこんなこと覚えなきゃなんないのかなぁ?」

みどりは机に顔を伏せながらぼやいた。

「過去を振り返ることは、未来を見ることだと言われている……って、おい、顔を上げないか」

長谷川はしかめっ面をしながら言った。

図書館の中は勉強する者達で一杯だった。静かに、そして熱心に勉強に励んでいた。

しかし、みどりはその例外らしい。

「俺を呼びつけておいてその態度はないだろう」

「だってさあ……こんなの役に立つなんて思えないよぉ」

顔を上げて、教科書を蝶々のようにひらひらとさせながらみどりは言った。

「一千八百六十九年、版籍奉還……戊辰戦争……こんな百年以上も前のこと、一体なんの役に立つの?」

「話の種になる」

「そ、それだけ!?」

「みんなに尊敬されるぞ」

「それはいいかも……って、そう言うことじゃなくて〜」

「学問に、直接的な利益なんてほとんどないのさ。ある意味、無駄だな」

「そんなこと、先生が言っていいわけ?」

「無駄こそ文化なんだよ」

「なにそれ?先生の自説?」

「いいや……いろんな人が言ってるよ。文化人と言われる人間のほとんどがそう思ってるだろうね」

「無駄ねえ……じゃあ、あたしのやってることって、やっぱり無駄なわけだ!」

そう言ってみどりは椅子の上で仰向けになってだらんとした。

「馬鹿言ってるんじゃない。ほら、ちゃんとしろ」

「うっせと……だってさ……」

「無駄なことをやった数だけ、人間というのは大きなっていくんだ。この程度の無駄では、まだまだだな」

「むう……じゃあ先生くらい無駄を積めばいいわけ?」

「無駄を積むってなあ……まあ、俺でもまだまだだろうなあ……」

「そうか……でもいいじゃない、それくらい若いってことで」

「……褒めてるつもりか?」

「そう聞こえない?」

「……まあ、いい」

少々憮然とした表情で長谷川。

「それよりさっさと先に進めろ。時は金なりだぞ」

「ぶう。折角いい話して上げようと思ったのに……」

「いい話?なんだそれは?」

「若さのお話……先生結構人気あるんだよ」

「結構っていうのが気にかかるが……なんだ、人気って?」

「女の子に決まってるじゃない。バレンタインの時、相当もらったでしょ?」

「さあな……それに義理だろう」

「そうかもねえ……でも、人気あるってことには変わりないじゃない」

「そりゃそうかもしれないが……」

「……ねえ」

みどりは頬杖をつきながら長谷川を見た。

「先生って、付き合ってる人とかいるの?」

「……生徒が先生に聞く質問じゃないぞ、それ」

「いいじゃない、べつに」

「べつにってなあ……」

「朝昼の放送で暴露するとかそう言うことじゃないんだから、教えてくれてもいいじゃない?」

「暴露ねえ……そりゃ怖いな」

「まさか、生徒と付き合ってるとか?」

「おいおい、止めてくれよ……それこそしゃれにならんぞ」

「禁断の恋って燃えるんだよね」

くすくす笑うみどり。

「何人かはそういう子、いるみたいだよ」

「まあ、一人や二人はなあ……」

「先生にはいない?」

「あいにくとね」

「ふうん……で、彼女、いるの?」

「……いないよ」

しぶしぶと言った感じで長谷川。

「へえ、そうなんだ。ふうん……」

目をつぶってうんうん肯くみどり。

「今ままでは?」

「今ままで?」

「そう。まさかこれまで手もつないだことないなんて言わないよね?」

「それはいくらなんでも……って、なんでそんなこと話さなきゃいけないんだ?勉強は一体どうなったんだ?」

「う、気付いたか」

舌を出すみどり。

「時間稼ぎしてどうするんだ。人のこと聞いてる暇があったら、自分のことに集中しろ……ほら」

長谷川はそれまで手元で書いていた紙をみどりに渡した。

「なにこれ……うげ、テストじゃない!」

「時間は十分だ。しっかりやれよ」

「そんな〜」

「なにがそんなだ。はい、はじめて」

仕方なくみどりは問題に取りかかった。

設問:明治維新はなぜ起こったのか論ぜよ。

……漠然とし過ぎてるよ〜。

半分泣きそうになりながら、みどりは必死になって考えた。でもわからない。捕らえ処のない設問に、みどりは頭を抱えた。

……ああ、あと五分ない……なぜなぜなぜ……どうでもいいじゃない、そんなこと!

……黒船が来たからかなあ?みんな幕府が嫌いだった?そんな簡単なことじゃないよねえ……ああ、あと四分……。

……誰もがそうなることを願っていたわけじゃない。嫌だった人もいるし、そうじゃなかった人もいる……人間って、なんて勝手なんだろうな……。

……勝手に好きになって、勝手に好きになってくれると思い込んで……それでふられたんだから、しょうがないよね……仕方ない……でも……あたしのしたことって、無駄なことだったの?

……もう二分を切った……ほんと、無駄なことだらけ。こんな質問に答えられたからって偉いわけじゃない……でも……答えようとする努力は無駄だろうか?もしそうした答えが間違っていたら?それは全くの無駄?

……ううん、考え無しにやったわけじゃないもの。努力が全て報われるなんてのはうそっぱちだろうけど、少なくとも他人に褒められなくったって、いいじゃん。自分で自分を褒めてあげれば……そしてもっと頑張れば、それでいいじゃん。

……残り一分……これでどうだっ!?

一息でみどりは答えを書き上げると、長谷川の前にばんとたたきつけた。

「先生、できた!」

「ほう……どれどれ」

長谷川は興味津々と言った顔で答えを読み始めた。

その横顔を、みどりは真剣な表情で見つめる。

やがて、長谷川はみどりの方を向いた。苦笑している。

「こりゃまた……えらいこと書いたなあ」

そうしてみどりに見せた設問用紙には、こう答えが書いてあった。

『昔の人の身勝手』

「間違ってますか?」

「いや……間違ってない。間違ってないが……直接的すぎるよ」

「直接的?」

「あまりにも核心を突きすぎている。これじゃ、点数はやれんなあ」

「ええ〜、そんな〜」

とても落ち込んだ表情を浮かべるみどりに、長谷川はにやりと笑いかける。

「だが……単位はやれるかもしれんな」

「え!?それって……テスト受けなくてもいいってこと!?」

「ばか、逆だっ」

「ひええ」

「こんな答えで他の先生を納得させられるか!今からみっちり明治維新のことをたたき込んでやるから覚悟しろよ」

「そんな〜」

「ほら、さっさと教科書を開く!」

「とほほ……聞きに行くんじゃなかった……」

そうして図書館が閉館になるまで、二人の勉強は続くのであった。


「かんぱーい!」

十数名の男女が、コップを片手に乾杯している。パーティ会場のようにも見えるが、広い部屋に適当な飾りつけをした急ごしらえの物らしい。

「みなさん、お疲れさまでした」

白いワンピースの女性が深々と頭を下げる。秋吉沙織……今や日本を征し、世界へ雄飛せんとする期待のシンガーだ。

「おかげさまで無事レコーディングも終わりました。あとはリリースを待つだけですね」

万雷の拍手。

「それから、今年一年お疲れさまでした。また来年もよろしくお願いしますね」

「来年のこというのはまだ早いんじゃないの?」

そう言ったのは、専属スタイリストのユカリだった。彼女自身に派手なイメージはあまりないが、奇抜な発想のスタイリングはジャケットに鮮烈な印象を残すのである。

「まだ12月になったばかりだしさ」

「まあそれは……わたしこれでオフですし、しばらくはみなさんともお別れですから」

「寂しいこと言ってくれるねえ」

バックバンドでベース担当のケンタがビールの缶を片手に言った。こちらはいかにもミュージシャンといった風体である。

「ほんとのお別れじゃないんだからさあ」

「はいもちろん。でもけじめはけじめですから」

沙織ににっこりと笑われると、この場にいる誰もが幸せそうな表情になる。

「さあみんな、大したものは準備できなかったが、どんどんやってくれ」

プロデューサーの森下が手をはたきながらそう言った。沙織の父親の後輩であり、沙織をデビューさせた男だ。まだ三十代半ばだが、敏腕として業界中に名を知られている。

「彼女はオフになるが、他のみんなにはまだまだ仕事があるからな!」

「ひでえなあ」

ケンタがぼやくように言うと、みんなはどっと笑った。

それからしばしの歓談。沙織はまめに挨拶し、日ごろの労をねぎらう。このきめ細やかさと全く偉ぶらないところが、彼女の愛される理由になっている。もちろんそれだけでスタッフの信頼を勝ち取ったわけではないが、基本的にはそうだということだ。

……だが、すこし気を使いすぎじゃないかな?

森下はそんな沙織を見ながら思った。

……いい子なのは間違いない。これからどんどんメジャーに成っていくだろう。しかし……どうにも、後向きだな。歌に影響しなければいいが……だが、そんな風には見えないよな。

「どうしたんですか?難しい顔しちゃって」

いつのまにかそばに来ていた沙織が、シャンペンの入ったグラスを差し出しながら言った。

「いや、ちょっと考えごとをね」

グラスを受けとりながら森下は言った。

すると沙織はちゃかすように首を傾けながら言った。

「次のアーティストのことですか?」

「まさか……今のところ予約は一杯だよ。休みが欲しい位だね」

「まあ、それは大変ですね。どうすればいいんでしょう?」

「そうだね……それには引退できるくらい稼がせてくれないとね」

「人に頼るのは良くないと思いますけど……」

「だよねえ、やっぱり」

「なに難しい話してるんですか!」

森下と沙織がその声の方に向いたとき、ぱしゃっとフラッシュがたかれた。

「せっかくのパーティなのに」

「ユカリさん!」

ユカリはもう二三回シャッターを切った。

「お、いいねえ、その顔……今度のジャケットに使おうっと」

沙織をサポートするチームは少人数で構成されていて、本職がスタイリストであるユカリは写真担当でもあるのだ。

「やだなあ、それは。もうちょっといい顔のときに撮ってくれないと……」

「えへへ、自然な姿を撮るのがあたしの流儀だからね」

そう言って,ユカリは持っていたカメラをゆらした。

「ねーみんなー、写真撮るよー」

そうユカリが言うと、全員が沙織のそばにやってくる。

「集合写真、みんな並んでー」

すると我先にと沙織の隣や前に並びたがる。

「こら、それじゃとれないでしょがー」

「いいじゃんかよ!」

真っ先に沙織の隣の場所をキープしたケンタが叫んだ。

「みんなそうしたいんだからさ」

「だからってねえ……まったく、これだから男どもは……」

「あはは」

沙織がおかしそうに笑った。

「みんな楽しければ別に構いません」

「さすが!」

「優しいねえ」

「いい子だよなあ……」

「勝手なこと言ってないで!ほら、撮るよ!」

どうでもよくなったユカリはそう叫ぶと、連続してシャッターを切った。

「はい、おしまい!ほら、離れな〜」

そう言ってユカリが沙織の周りから人を遠ざけ始める。

「いいじゃねえかよ」

ケンタが抗議の声を上げる。

「減るもんじゃなし」

「減るわよ。あんたたちなんか相手になんないんだから……ねえ、沙織?」

「いいえ……そんなことありませんよ」

「へえ、じゃあ俺でもいいのかい?」

沙織の肩に手をかけながら、ケンタはきざっぽく言った。

「やー、それは……どうでしょう?」

「あら」

ずっこけるケンタを、みんなは大笑い。

「ほら見なさい」

勝ち誇ったようにユカリは言うと、ケンタを突き飛ばした。

「どわ!」

「大体、もっといい男なんて沢山居るわよねえ。こんな先の見えたような奴じゃなくてさ」

「なにおう!?俺だってまだチャンスはあるさ!お前だってなあ、まだ先生の腰巾着じゃないかよ!?」

「言ったわね〜!?」

「ふ、二人とも止めてください!」

沙織は間に割って入った。

「けんかしちゃだめですよぉ」

「ほら、怒られちゃったじゃない」

「誰のせいだよ!?」

「だから止めてくださいってば!」

沙織は腰に手を当てながら言い切った。

「もう……いっつもこれなんだから」

怖い顔で二人を睨む沙織に、ユカリとケンタはしゅんとなった。

「ご、ごめんなさい……」

「すまん……」

「いいんです、わかってくれれば」

そう言って沙織は笑った。誰しもその笑みに引き寄せられる……。

……これが彼女の力なんだな。

森下はそんな光景を見ながらそんなことを思った。

「でもさあ……」

ユカリが探るような目で沙織を見た。

「実際のとこどうなの?つきあってる子とかいるのかなあ?」

「そんなに知りたいんですか?」

みんながうんうんする。思わず森下までそうするところだった。

沙織はちょっとだけ首をかしげると、笑顔のままでさらりと言って退けた。

「そうですねえ……ふられたんです、つい最近。見事なまでに、ですよ」

一瞬場が凍りついた。

「あ、あの……沙織?」

ユカリが恐る恐ると言った感じで声をかけた。

「ふられたって……沙織が?」

「はい」

笑顔を変えずに沙織は答えた。

「ひ……ひでえやつだなあ」

ケンタが怒り混じりの声で言った。

「沙織ちゃんみたいないい子をふるなんて……」

「仕方ないんですよ……」

「時間がないから……とか?よくある、すれ違いとかなの?」

「そうでもないです……あたしは大好きだったけど、その人はあたしのことを好きにはなってくれなかった……ただそれだけなんですよ」

「それにしたってひどい奴だぜ」

「告白は……したの?」

「ええ……だから、ふられた、なんですよ」

相変わらずの笑顔……しかし、森下には沙織が本当に笑っているようには思えなかった。

……なぜこんな話をする?なぜ……笑える?

「ご……ごめん……ごめんね、変なこと聞いて……」

ユカリはちょっと涙ぐみながら言った。

「余計なこと聞いちゃって……」

「いいんですよ。ちょっと、話してみたかったんです」

沙織はそう言って、あははと笑った。

「もういいんです……終わってしまったことなんですから」

……程なくして、パーティは散会となった。


沙織は車の助手席から窓の外の風景を眺めていた。

暗闇の中に浮かぶ街灯り……流れては消え、消えては流れる。単調だが、決して飽きは来ない……それは街の息吹なのだ。

「……煌めき、鼓動、街のいのち……流れては消え、消えてはまた流れ……まるで蜃気楼……」

「新しい曲かい?」

そう森下が尋ねると、沙織は窓から視線を移して彼を見た。

「単なる詩です……見たまま……思ったままを口に出しただけ……」

「そうか……元々詩人だものな、君は」

「そういうわけじゃないです……昔は、そうすることが私の唯一の表現方法だったんです……今は違いますけど」

「……ふられた彼にも、詩を書いて上げたのかな?」

「ずいぶんと……直接的なんですね。めずらしく」

沙織は目を細めて森下を見つめた。

「いつもは私のことなんて聞かないのに……」

「そりゃ……気になるさ」

森下は前を見たままで言った。

「心のケアは、私の仕事の範疇だからね」

「自殺するとでも思ったんですか?……失恋して。それとも、歌手としてやっていく気がなくなってしまったんじゃないかって、心配になったとか?」

「それはないな」

断定的に森下は言った。

「君は強い子だ。そんなことくらいでは……そうか……初めて会ったあの時が……そうなのか?」

「……あの時が始まりだったのです」

沙織は顔を伏せながら言った。

「そして終わったんです……でももう、なんともないですよ」

沙織は顔を上げて笑った。それを横目で森下は見る。

パーティ会場で見せた笑顔と同じ……中身のない笑顔……。

「……感情を殺していては、人の心は動かないよ」

森下は前を睨み付けながら言った。

「え……」

「感情に溺れるのは確かによくない。だが、感情を殺すのはもっとよくない……歌手というものは、様々な気持ちをみんなと共有するための存在なんだ。素のままの、そのままの感情を……だれもが持っているはずの、淡い感情を……誰もが感じたはずの、喜びや怒り、哀しみや楽しさ……それらを歌詞に託し、歌声にのせ、伝える……その君が、自分の気持ちに素直になれないでどうするんだい?それじゃ……」

森下は視線を沙織に向けて、ぎょっとしたような表情を浮かべる。

沙織の横顔に、涙の跡があったのだ。またひとつ、ふたつ……涙がこぼれ落ちる。

そして彼女は完全に横を向いてしまうと、呟くように言った。

「……素直だと思います……でも……でもそんな気持ちは……一人の時だけですよ……」

そうして、沙織はなにもしゃべらなくなった。森下も、なにも語りかけようとはしなかった。

しかし、車は進む……時の流れの如く……。

やがて、沙織の家の前に車は到着した。

「今日は本当にありがとうございました」

沙織は運転席に座る森下に頭を下げた。

「いやなに……今からオフなわけだが、あまり無茶はするなよ」

「無茶ってなんですか?」

「悪いこととか、さ」

「できたらやってみたいですね」

「悪い冗談だ」

「冗談だと思いますか?」

「……信頼してるからね」

「うふふ……ありがとうございます。それじゃ……」

沙織は一旦行きかけて、もう一度森下を振り返った。

「あの……」

「なんだい?」

「……ありがとうございました」

森下は沙織の顔をじいっと見つめた。いまにも泣き出しそうな顔をしている……森下がそれを見るのは二度目だった。

「沙織……」

「それじゃあ……また今度」

沙織はにっこりと笑顔になって家に戻ろうとした。

「沙織!」

「なんですか?」

沙織が振り返る。いつもと同じ、さわやかな笑顔。

森下はつらそうに彼女を見つめると、絞り出すような声で言った。

「……つらいことがあったら……なんでも言ってくれ、よ」

「森下さん……?」

「じゃ、よい年を」

そう言い残して、森下は車を発進させた。

沙織は車が視界から消えてからも、じっとその先を見つめ続けた。

「……あんなこという人だったかな」

首をかしげながら沙織は呟いた。

……心配してくれたのかな……でもあの表情……なんだろう……ひどく、ひっかかる……。

……森下さん……父さん母さんの後輩……あたしを芸能界に引き上げてくれた人……あの海であたしを見つけてくれた人……それ以来ずっと、あの人と一緒だった……和広君より長くいるのかもね……。

……そう……ずうっと一緒だった。曲作りのいろはは森下さんに教わったんだもの……アルバム作りは、あの人の支えなしにはできなかった……それくらい……大切な人……。

……大切な人?和広君よりも?……そんなこと……どうだろう……それは。

……つらいことがあったら、か……つらいんだろうな、やっぱり……泣いちゃった……それも人前で……みんなの前ではなんともなかったのにな……なんでだろう……やっぱり安心してたのかな……。

……安心……か……安らぎを求めているのか……どうすれば……この心の疲れは取れるんだろう……。

『……つらいことがあったら……なんでも言ってくれ、よ』

……森下さん……私……私は……人に頼りすぎは……でも……。


「ねえ、これはどうなの?」

友子は隣の由一に尋ねた。

「ああ……うー、芹沢、どうなんだこれ?」

由一は向かいの和広に声をかける。

「これはね……」

和広が的確なアドバイスを送る。

……見事に線ができてるのね。

千秋はその光景を見ながらそう思った。

ここは図書館のテーブルの一つ。そこかしこのテーブルでは似たような光景が繰り広げられている。

「でも和広君、なんでもわかるんだね」

友子がうれしそうな顔で言った。

「説明もわかりやすいし」

「それはよかった」

和広は、こちらもうれしそうな表情で言った。

「ほんと、芹沢が居てくれてよかったよ」

こちらはほっとした表情の由一。

「そうだよねえ……由一君もわからないところだったもんね」

意地悪そうに友子が言った。

「う、わ、悪かったな」

「あたし、乗り換えちゃおうっかな……ねー、和広君?」

「な、なにー!?」

「しーっ!声が大きいわよ」

「う、だ、だけど……」

「やだなあ、冗談よ……なにびっくりしてるんだか」

くすくす笑う友子。

「千秋ちゃんも、びっくりした?」

「え!?」

「乗り換えるってやつ」

「ああ、いや、そんな……」

「そっか……その程度じゃ動じないって訳かぁ」

「え!?や、そんな……」

顔を真っ赤にする千秋。

「いいっていいって……らぶらぶだもんね、今の二人」

……らぶらぶ……か。

千秋は和広の方を見た。和広も千秋の方を向いた。少し不安そうな表情をしている。

「ねね、今度さ、ダブルデートしようよ!おもしろそうな映画があるのよ!」

二人の様子に構わず、友子は元気一杯に言った。

「映画だって?試験前だっていうのにか?」

「後に決まってるでしょう!?やだなあ、由一君は」

「今からする話か、それ?」

「試験終わってからじゃ遅いんだもん。ね、いいよね?」

和広と千秋の顔を交互に見る友子。

「あ、あたしは……」

「いいね、それ」

和広はにっこりと笑って言った。

「ところでどういう映画?」

「うんとね、『ナイチンゲールのさえずり』って奴!パパの会社も出資しててね、プレ公開の券がもらえたのよ」

そう友子が言った途端、和広の顔色が悪くなった。

「そ、そう……その映画ね……」

「ん?どうかしたの?」

「い、いや、なんでもないよ……そう言えば、友子ちゃんのお父さんって、出版会社の社長さんだったっけ?」

「え?うん、そうだよ。でもそんなこととっくに知ってるよね?」

「うんまあ……ちょっと確認しただけさ」

「ふうん……」

なんだか千秋には、和広が話をわざとそらしたような気がした。

「おい、勉強の方はいいのかよ?」

「うるさいなぁ……わかってるわよぉ」

由一に言われて友子はノートに向き直った。

それからしばらくは静かに勉強会は進んでいったが、また友子がしゃべり出した。

「和広君さあ……」

「なにかわからないことが……」

「そうじゃなくてね……和広君って、将来なにになりたいのかなって……」

「将来……ね」

千秋は和広の横顔に目をやった。和広は考え込むような表情を浮かべている。

「よく……わからないな」

「決めてないってこと?」

「そうだね」

「ふうん……和広君ってさ、なんでもできるじゃない?だから迷っちゃうんじゃないの?」

ちょっと冗談めかして友子が言うと、和広はもっと深刻そうな表情になった。

「なんでもできるなんて買いかぶりだよ……できないことの方が多いさ」

「そんな……和広君に比べたらあたしなんて……」

「そんなことないよ。友子ちゃんは長距離走ですごい記録を持っている。僕にはとても真似はできない……由一君だってそうさ。ちゃんと目標があって、それに向かって頑張っている……僕にはそういうものが無いんだ……」

「芹沢君……」

心配そうな表情で千秋は和広に声をかけた。

「そんなふうに考えるもんじゃないわ。まだこれから時間はあるんだもの……ゆっくり考えていけばいいのよ。そのためにあたしが……」

「仁科さん……」

見つめ合う二人……。

「やっぱり、らぶらぶじゃない」

にやにやしながら友子が言った。

「え、あ!?」

「え、や、やだ……」

和広がうろたえる所など滅多に見れるものではない。そして千秋も顔を真っ赤にして友子を見つめた。

「でも、そういうのは二人っきりのときにやるもんよ」

「ああ、いや……」

「ふふふ、和広君って可愛い」

「お前……そんなことやってる場合じゃないだろう」

さすがに呆れて由一が言った。

「あはは……で、ここんんとこがよくわかんないんだけど……」

「あ?……うー、わかんねえ。芹沢……」

「ええと、これは……」

互いに教え合う光景を眺めながら、千秋は思った。

……なんだかとっても楽しそう……でも、なんか浮いてるな、あたし……まだ遠慮があるのかな……。

……らぶらぶ……それって、どういう感じなのかな……よく分からないや……。


秋山信雄は馴れ親しんだ森村家のドアを叩いた。

「おじゃましまーす!」

するとドアロックが解除され、勝手知ったる他人の家とばかり、信雄は中に入っていく。

そして由布の部屋までやって来ると、ドアをノックした。しかし、返事はない。

「由布姉、入るよ?」

信雄はドアを開けると、中の光景に目を見張った。

「ゆ、由布姉!?何してるの!?」

「うわ!なんであんたがいるのよ!?」

由布は勉強机に座って信雄の方を振り返った。

「ノックしたけど返事がなくて……って、勉強してた!?」

「なにおどろいてんのよ?」

ぎろっと睨まれ、信雄は震え上がった。

「い、いや……珍しいなって……」

「ふん、なんとでも言ってなさい」

由布は机の方に視線を移す。信雄は背後からのぞき込んで、二度びっくりした。

「うわっ、英語なんて勉強してる……」

「あたしだって……ちゃんとやれるんだから……」

ぶつぶつ呟きながら、由布はペンを走らせる……。

信雄はしばらくその後ろ姿を見つめていたが、小声で声をかけた。

「あのさあ、由布姉……」

「なによ……いま忙しいんだからね……それにもうすぐしたら明君来るんだから……」

「うん……今年も、スキーに行くの?」

「んー、どうかなあ……まだ予定立たないよ」

「そっか……」

「なに、去年いけなかったのがそんなに悔しいの?」

「いや、そう言うわけじゃないけど……」

「じゃあなんなのよ?」

「べつに……」

「……ははあん」

由布は椅子毎信雄の方に向き直ると、意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「な、なんだよ……」

「沙織、だな?」

「いっ……」

信雄は顔を真っ赤にした。

「さ、さ、沙織さんがどうしたっていうのさ!?」

「おーおー、うろたえちゃってぇ……」

「う……」

「いいじゃん、好きだって言っちゃえば」

「す、好き!?」

真っ赤を通り越してゆでだこ状態の信雄。

「す、す、好きだなんて、僕は歌が好きで、だからその、べつに、つきあってくれとかそういうことで好きって訳じゃなくて……」

「ほらほら、自分から言っちゃってるんじゃん」

由布は勝ち誇ったような口調で言った。

「え!?」

「もう……そんだけうろたえてたら誰にだってわかるわよ……沙織のこと、好きなんでしょ?」

じいっと由布に見つめられ、しばらくはもじもじとしていた信雄だったが、耐えきれなくなったのか、こくんとうなだれるようにして肯いた。

「やっぱりねえ」

由布はにやにや笑いを浮かべながらじろじろと信雄を見た。

「前々から気にしてたもんねえ……で、沙織の予定を聞き出そうとしてたわけだ」

「うん……」

「情けないなあ……直に聞けばいいのに。別に知らない仲じゃないんだし」

「ほら……仕事とかで忙しかったら迷惑じゃないか。だから……」

「ほう、一応考えてるんだ」

由布は満足げに肯く。

「だったら……教えて上げてもいいかなあ……」

「え!?なにを!?」

期待の表情を浮かべる信雄。

「沙織の今後の予定……知りたい?」

「うんうん!」

「んー……」

期待を込めた目で見つめられた由布は、ちょっとじらすように黙り込んだあと、おもむろに言った。

「確か沙織は今日からオフよ」

「オフ?ってことは……」

「おやすみってわけね。年明けもしばらく休みだってこのまえ言ってた。チャンスは一杯あるってことかな」

「そ、そうなんだ……」

うれしそうな表情を浮かべる信雄に、由布はぽつりと呟いた。

「……どこが気に入ったの?」

「え?」

「沙織のどこが好きになったの?」

「え……いや、その……」

「いいかげんな理由じゃないでしょうね?」

ちょっと怖い顔で由布は言った。

「いい加減って……ど、どんな?」

「人気歌手が身近にいたから、とか、きれいだから、とか……そういうミーハーな理由」

「そ、そんなんじゃないよ」

憮然とした表情で信雄は由布を睨み付けた。

「じゃあなんなのよ?」

「それは……」

ちょっと考えるようにして、信雄は言った。

「最近さ……なんか歌い方、変ってない?」

「沙織の?」

「うん」

「そうかな……気がつかなかったけど……」

「変ったよ」

信雄は確信的な口調で言った。

「なんて言うのかな……迫力が無くなったというか、気が抜けてるというか……とにかく今までと違うんだ」

「ふうん……で、それがあんたの告白がどう関係するの?」

「こ、告白なんかじゃないよ……ただ気になって……それで前みたく元気になってほしくて……それで話をしてみたかっただけなんだ……」

そうして信雄は黙り込んでしまった。

由布には沙織の変化の原因についてよく分かっていたが、そこまで話してしまうのは誰にとってもよくないことだと思い、それについてはなにも言わなかった。

「それじゃさあ……会いにいきなよ。喜ぶと思うよ、沙織。でも、あんまりしつこくならないようにね」

「うん、わかってる。でも……一体どういう風に会いに行けばいいのか思いつかなくて……」

「あきれた……そんな度胸もないの?」

「そ、そんなこと言ったって……」

「わーった……しょうがないなあ。どうせ今年もクリスマスパーティやるから、その時まで待ってなさいよ」

「えーっ……」

「なによ、その不満そうな顔は……だったらさっさと会いに行けばいいじゃない」

「う……」

「まったくもう……」

その時亜衣の呼ぶ声が聞こえてきた。

「由布!春日君来たわよ〜」

「あ、はーい!」

うれしそうな声をあげて由布は部屋から出て行った。

一人取り残された信雄は、深々とため息をつき、そして呟いた。

「もう少し勇気があったらなぁ……馬鹿にされないで済んだのに……」

……でもそうだよな……いつまでも由布姉に頼るわけにはいかないし……よし!

そうして信雄は由布の部屋を力強い足どりで出て行った。


「あら、頑張ってるわねえ」

和広達の勉強風景に対して、久美子がそう声をかけてきた。そのそばには直立不動で立つ始の姿がある。

「久美子……なんか余裕って感じねえ」

友子がうらやましがるような口調で言った。

「そんなことないわよ。家に帰ってからするつもりなの」

「今まで部活かい?」

和広が尋ねる。部活とは、彼自身も参加している歴史同好会のことである。久美子や始もそのメンバーになっている。

「ええ。久しぶりに雪絵さんも一緒にね」

「論文書いてるんだとよ。それにつきあわされちまった」

憮然として始は言う。

「へえ、何の論文だい?」

「邪馬台国がどうのこうの……俺にはさっぱりわからん」

「後で和広にも読ませろって言ってたわ」

「ふうん、楽しみだね」

……なんか楽しそう。

三人のやり取りを聞きながら、千秋はふと思った。

……中学の時からの知合い……あたしの知らない世界だ。そして……昔の彼女のことも……でも、芹沢君は話してくれない……聞けば教えてくれるだろうか?うん、隠そうとするような人じゃない。でもあたしは……それを聞く勇気があるんだろうか?告白の返事の時にはあんなこと言ったけど……本当はとってもとっても気になっている……嫉妬、なのかな……なんか嫌だ……そういう自分も……そして、芹沢君のことも……そんな風に感じてしまう自分が哀しい……情けない。そんな気持ちじゃいつまでたってもあたしは……あたしたちは……。

「仁科、どうした?」

「え?」

由一が千秋のことを心配そうに見つめていた。

「あ、ううん、なんでもない……」

「そうか……なあ、そろそろ切り上げようか」

由一は友子にそう言った。

「なんかだれてきたしな」

「そだね……そうしようか」

友子が同意すると、それまで話し込んでいた和広達が話をやめた。

「それじゃあ、あたし達はこれで」

そう久美子は言い残し、始と共に去っていく。

「最近あの二人ずっと一緒だね」

友子は二人の後ろ姿を見ながらなんの気なしに言った。

「いつもは芹沢を入れて三人だったよな」

と、由一。

「でも今は千秋ちゃんと一緒だもんね、和広君」

友子はにこにこ顔でそう言った。

「え?ああ、まあ……」

少しはにかみながら和広は千秋の方を見た。だが、当の千秋は浮かない顔をしている。

「どうか、したの?」

「え!?あ、な、なに?」

「いや……大したことじゃないんだけど……」

「そ、そう……あ、もう引き上げるのよね。支度しないと……」

慌てるようにして千秋は机の上を片づけ始めた。それを不思議な表情で見つめる和広。

「それじゃあ、あたしたちも……」

「そうだな」

「ああ……そうだね」

そうして四人は図書館を引き揚げることにした。

外ではすっかり日が落ちて、歩く生徒もまばらになっていた。

「すっかり日が落ちるの早くなったねえ」

友子は暗くなった空を見上げながら言った。

「もうすぐ今年も終わりかぁ……」

「なにいってんだ。そんなこというのは気が早すぎるって」

由一の突っ込みに、友子はふくれっ面になった。

「ぶー、わかってるわよ……」

「なに、もう少し頑張ればいいからな」

「そうだよね」

笑顔を交わし合う由一と友子。そして友子はじゃれるように由一の腕につかまった。かなりの身長差があるので、まるで大人と子供のようだ。

だが和広と千秋の方は、なにも話さないまま歩いていた。互いの距離もなんとなく離れている。

……どうしてこうなっちゃうんだろう。

千秋は和広の横顔を見つめながらそう思った。

……もっと普通にできたらいいのに……友子ちゃんみたいに……もっと恋人らしく……。

……恋人……そうなんだろうか……つきあってるのは確かだけど……なんかしっくりこない……遠慮してるのかな……一体なにに?

「ねえ、千秋ちゃん!」

友子が突然振り返って声をかけてきた。

「は、はい!?」

「今度のデートの予定どうする?」

「ど、どうするって……」

「映画の後とか、どっかいきたい場所ある?」

「うーんと……と、特にはないけど……」

「そう……んじゃさ、ちょっと今からつきあってくれない?」

「え?ど、どこに?」

「いいからいいから!」

「ちょ、ちょっと、友子ちゃん……」

そう言って友子は強引に千秋の手を引っ張ると、街の方へと歩き出した。

「あたしたち寄るとこあるから、ここでバイバイね〜!」

由一と和広は成す術無く二人の姿を見送った。

「なんだありゃあ……」

「さあ……なんだろうね」

「友子の奴、なんか妙に浮れてるんだよなあ……すまねーな、芹沢」

「いや、君が謝るようなことじゃないよ」

ちょっと暗い表情で和広は言った。

「うーん……なあ、芹沢」

由一にしては珍しく、少し言いにくそうに彼は言った。

「仁科と……その……うまくいってないのか?」

「え?」

「いや……なんか、話が弾んでなかったみたいだし……な」

「ああ……うん……そうかもしれない……いや、そうだろう」

余計に暗い表情になって和広は言った。

「なんだか……どう相手をしたらいいかわからなくてね……」

「普段何話してる?」

「ええと……最近は勉強のことが多いかな。時期的にもなんだし……」

「他には?」

「うーん……」

「おいおい、世間話はしないのかよ?テレビで何見たとか雑誌で何読んだとか……友子なんて毎日すごいぞ」

「そういうのは全然……どういう話がいいかわからなくてね」

「うーん……あのな、わからなかったらとりあえず話しちまえよ」

「でも……気を悪くされたら困るし……」

「うーん……」

由一はしばらく和広を見ていたが、ため息交じりに彼は言った。

「あのよ……それじゃいつまでたっても仲よくなれないぜ」

「え?」

「最初はお互い良し悪しがわからないのは当たり前だよな?だから話し合ってお互いを知るわけだが……その途中じゃ、気まずくなったりけんかしたりすることもあるだろう?」

「ああ……」

「でもそのおかげで今まで見えてこなかった部分が見えてくる。もしかしたら相手に嫌らわれるかも知らん。だがそういうことを避けてばっかりじゃ、いつかしっぺ返しをくらうぜ。会話のない夫婦が離婚なんてのはそこら中にある話だしな……あ、だからさ、とにかく話をしてみることだよ。嫌われるようなことを積極的にしろとは言わないが、それでも何もしないよりはましさ。このままじゃ気まずくなって、はいさようなら、なんてことになりかねないぜ。そんなのは嫌だろう?」

「ああ……嫌だな……」

「だったら、もちっとさ、うまくやれよ。なに、世間話でいいんだ。大したことじゃないって」

「うん、そうだね……頑張ってみるよ」

ようやく少しだけ元気を取り戻した和広を見て、由一はにやっと笑った。

「しかし……そこまで奥手だとはねえ。それじゃあ飯坂とか苦労してたのがよく分かるよ」

「うーん……」

「芹沢も人の子だってことだな」

「ひどいなあ……まるで僕が人じゃないみたいじゃないか」

「俺を負かせたやつがよくいうぜ」

「君だって似たようなもんじゃないか」

「言ってくれるねえ。そう言う奴が、女の子一人満足に扱えないなんてなあ……」

「そ、それは全然話が別じゃないか」

「おんなじさ」

由一は自信ありげにそう言った。

「できることとできないことがある……それが人間って奴じゃないかな?」


「ど、どこまで行くの?」

友子に手を引っ張られながら千秋は言った。

「あ、ごめんごめん」

友子は手を放した。

「ここまで来ればいいかな……」

「ここまで……って?」

「いや、別にいくとこなんか無いんだけど、二人っきりで話がしたくて」

「話?二人きりって……あの場じゃ話せないようなこと?」

「和広君の前じゃちょっとね……あ、ここ座ろうよ」

適当にあったベンチに二人は座った。

「それで……話って何?」

「うーん……今日見てて思ったんだけどさ……もしかして、二人、うまくいってない?」

「え?」

友子の問いに、千秋は怪訝そうな表情を浮かべた。

「あ、だからその……和広君と喧嘩でもしちゃったのかな……なんて……」

「そ、そんなことないけど……どうしてそんなこと……」

「あ、いや、そうじゃないんだったらいいんだけどね」

友子は慌てて手を振った。

「ただ……」

「ただ?」

「うーん……しっくりしてないって言うのか、あんまり話してなかったから……それで心配になって」

そう言って友子は千秋の目をじっと見つめた。すると千秋は視線をそらすようにしてうつむいてしまった。

「……なんだか、共通の話題がないって言うのか……どういうことを話したらいいのかわからなくて……それで最近、変なの」

「共通の話題かぁ……同じ趣味とかあればいいんだろうけど……なんかないの?」

「それがよく分からなくて……」

「うーん……ねえ、そう言うこと二人で話してる?」

「え?そう言うことって?」

「だから、その、趣味がわからないってことを、二人で話し合ったの?」

「え……ううん、話してない」

「あちゃー、それじゃ駄目だよ!」

友子は怒ったような顔で千秋に詰め寄った。

「わからないことはしつこいくらいに聞かなくちゃ!そりゃ、過去の蒸し返しになっちゃうかもしれないけど、それでも聞かなくちゃ……でないと、お互い知らないことばかりで、ただつきあってるってだけで終わっちゃうよ……そんな風にはなりたくないんでしょ?」

「う……うん。そうだけど……」

「だったら、もっと積極的にならなくちゃ。折角あんないい人と恋人同士になれたんだもん」

友子はそう言って千秋の手をとった。

「だからそんな顔しないの、ね?」

いまにも泣き出しそうな顔になっていた千秋は、その言葉にぎこちない笑みを浮かべた。

「よしよし……でも、和広君にも問題ありよねえ」

「え?」

「こんないい子ほっとくなんてさ……普通だったら、毎日デートものよ。何してたって楽しいはずなのに……」

「……」

「ああ、いや、別に和広君が悪いって言ってるんじゃないわよ」

悲しそうな目をする千秋に、友子は慌てて言った。

「でももう少しうまくできたらいいのにね。なんかこういう一般的なことになると駄目なのよねえ……変な人なんだから」

そう言って友子はくすっと笑った。

「きっと、照れてるのね」

「照れてる?」

「そ。なんでもそつなくこなしているけど、それは実は照れ隠しなのよ。そこそこにしていれば目立たなくてすむものね。それで自分をアピールすることに馴れてないんだわ。その反動でうまく話せないのよ。それを無くすためには……」

「無くすためには……?」

「千秋ちゃんも照れ隠しは止めないとね」

「え?」

虚を突かれたような表情で千秋は友子と見つめた。

「千秋ちゃん、男の子とつきあったこと、あんまりないでしょう?」

「う……う、うん」

「やっぱりね……そうでなきゃ今頃怒って喧嘩の一つや二つはしてるもんねえ。あたしだったらとっくにくってかかってるわよ」

「はあ……」

「まあそれはおいといて……まずはスキンシップを取ることから始めるの」

「すきんしっぷ?」

「そう……声かけるときに肩叩いたりとか、歩いてるときに腕掴んだりとかね」

「腕を掴む!?」

すっ頓狂な声を上げる千秋。

「な、なにびっくりしてるのよ!?」

友子は驚いて目を白黒させた。

「あ、いや、その……」

「ま、まさかだと思うけど……」

探るような目つきで友子は言った。

「手をつないだこともないなんて言わないよね?」

「……ない」

「え?」

「手をつないだことなんて……ないの」

恥ずかしそうにうつむきながら、千秋は小声で答えた。

「うわちゃー、そこまで奥手だなんて」

友子は髪を掻き毟らんばかりに頭を抱えた。

「こりゃ、相当手ごわそうだねえ……」

「あ、でも……」

「でも?」

「でも……告白の返事したときは……だ……抱き締めてくれたから……」

そう言って千秋は顔を真っ赤にした。

友子はそんな千秋を微笑ましく見つめる。しかし、その心の中は少々複雑だ。

……そりゃまあ、初めて女の子とつきあった訳じゃないもんねえ、和広君。だから……やっぱり、まだ尾を引いてるんだろうな……でも……。

「よしわかったわ!」

友子は突然立ち上がると両手を握りしめながら叫んだ。

「もっと普通の恋人らしく振る舞えるようにして上げる!」

「ゆ、友子ちゃん?」

「ううっ、燃えてきた〜!」

困惑する千秋を無視して、友子は一人で盛り上がるのだった……。


「おはよう」

久しぶりに、本当に久しぶりに、沙織は教室にやってきた。

一通り教室の中を見回すと、そこかしこで明日から始まる試験の対策が行われているのが見える。

「あー、さおりぃ!」

由布が泣きそうな声で声をかけてくる。その隣では明が頭を抱えていた。

「たすけてよぉ」

「い、一体どうしたの?」

「わかんないところがあってさぁ……ぐすっ」

「僕にもわかんないところで……選択違うし」

「明君にも……だったら和広くんに聞けば……」

そう言って辺りを見回すが、和広の姿は無い。

「いやさあ……由兄にあんまり面倒かけるなって言われてて……」

「面倒、ね……」

沙織は千秋の席に視線を滑らせた。彼女の姿は、無い。

「みんな……忙しいんだ」

「沙織は大丈夫なの?明日から試験開始だって言うのに……」

「まあそれはね。由布とはここが違うからね」

沙織は頭を指でこつこつとつつきながら言った。

「ひっどーい!!」

「うふふ……冗談冗談。どれどれ……」

そうして沙織は由布のノートをのぞき込んだ。

「うん、これならわかるわ」

「おしえておしえて!」

「これはね……」

沙織は由布に説明しながら心の中で思う。

……変っていく……みんな変っていく……あまりに急な変化についていけない……あたしだけが取り残されて……あたしは変らないのだろうか……変えられないのかな?

……なにか……きっかけが欲しい……きっかけが……。

それからしばし由布の勉強を見てやった。

そのうちホームルーム開始の予鈴が鳴り、生徒たちが教室に続々集まって来る。

沙織は知らず知らずのうちに和広の姿を探している自分を発見した。

……駄目だな……まだ吹っ切れてないみたい……しょうがないな……。

その時、教室に和広が入ってきた。由一や友子、そして千秋を伴って。

それを見た沙織の頬が自然とほころんでいった。

……ああ、和広君だ……やっぱりいいな……ただ見るだけだったら……いや……やっぱり……切なすぎる……でも……。

「おはよう、和広君」

不思議と、自然と声をかけられた。

「やあ……おはよう」

和広も、自然の笑みを浮かべてそれに応える。

「ずいぶんぎりぎりでの登場だけど……準備は万全?」

「ええ、もちろん。由布より手際はいいつもりだもの」

「ひっどーい!!」

由布が抗議の声を上げる。

「まえみたくひどくないもん!」

「へえ、少しは進歩したんだ」

「うう……えーん、沙織がいじめる〜」

「よしよし……」

泣きついてくる由布を慰める明。

「大丈夫、由布ちゃん、がんばったもんね」

「明くぅん……」

「由布ちゃん……」

手を取り合って見つめ合う二人に、沙織は呆れ顔だ。

「あーあ、朝っぱらこんな……いいわよねえ、まったく。ま、どうでもいいけど……ねえ、和広君?」

「なに?」

和広が沙織を見る。

沙織はちらっと千秋の方を見た。ちょっと不安そうにしている千秋に、沙織はふっと微笑む。

「ううん、なんでもない。さ、勉強しないとね……」

そう言って沙織は自分の席に向かった。

「うーん」

沙織の意図が読めずに、和広は唸った。

「じゃあ、僕たちも席に戻ろうか」

そう言って和広は千秋を見て、落ち込んだようなひどい顔の彼女に驚いた。

……そ、そうか……だから沙織ちゃんは……。

「さあ、行こう」

和広は千秋の肩をぽんと叩くと、彼女の手をそっと握った。

「え!?」

突然のことでびっくりする千秋に、和広はそっと微笑みかける。

「心配しなくても、いいよ」

「芹沢……くん……」

千秋もようやく顔をほころばせた。そして和広の手をそっと握り反す。

「うん。さ、座ろう」

「うん」

そうして二人は手をつないだまま、歩き出すのだった。


試験日程は予定通り開始された。

誰もが机に向い、必死になって回答に励む。試験の結果が全てではないが、与えられた状況の中で全力を尽くすことが、この学校では求められるのだ。

だからみどりも、歴史の試験に全力を注いでいた。元々筋道だった思考が苦手な彼女にとって、記憶力や論理構成力を必要とされる歴史は、これまで苦手も苦手だった。

それが何故か、最近、ほんの少しだが楽しく感じる瞬間があった。

……ええと、蛤御門の変か……このころはまだ攘夷論が幅を利かせいたんだけど……。

これまで単なる年表の一部でしかなかった歴史的事実の背後に、多くのエピソードが隠されていることを教えてくれたのが長谷川だった。

……これを機に単純な攘夷論は顧みられなくなり、倒幕運動へそのベクトルを……。

歴史を見ることは、その流れを読むことだと長谷川は言っていた。個々のトピックは沫のようなものだと。流れの交錯したところに沫が生じる……それと同じだと。

……だったら……だったら、アナウンスや司会とかと変らないじゃん。場の空気を読んで、時々起きる客の反応で確認しながら話を進めていく……同じなんだ。

そう思ったら、思いの外歴史の授業は楽しくなった。試験が楽しいなどという状況は今までで初めてだった。

……これも先生のおかげかもね……なんかお返ししないとな……。

そう思いながらも、ペンを走らせるみどりだった……。


様々な思いを飲み込みながら、試験は進む。スケジュールはかなりつまっているので遊んでいる暇はない。ひたすら日ごろの研鑚を発揮するのみ……。

そうして、長いようで短かった日々は過ぎ去り、開放感(あるいは絶望感)に満ちる時……試験終了の時は訪れた。


「わーい、終わったぁ!」

最後の教科、英作文を終え、もろ手を挙げて喜びを表現する由布に、周りのみんなも異口同音の雰囲気でそれに答えた。誰しも自分が試されていると分かっておもしろく感じている者はいない。

「どうだった、出来は?」

明が心配そうに声をかけると、由布は涙目になって振り返った。

「うう……どうだと思う?」

「え!?……ど、どう……なの……やっぱり、その……」

どう反応しようかと悩む明に、由布は突然にかっと笑うと、いきなり明に抱きついた。

「えっへへーん!今回は大丈夫だよー!」

「わわ!!由布ちゃん、ちょ、ちょっと!」

その光景に周りのみんなは失笑した。このカップルの微笑ましい光景はクラスの誰もが知っていた。最初は周りの反応を気にしていた、というよりは勝手に恥ずかしがっていた明だったが、その内特別なにも感じなくなっていた。ただ、由布とそういうスキンシップを取るということがいまだに恥ずかしいという程度にまで変化している。由布に至っては……あまり考えていないように見える。

「最近は羞恥心ってものは無いのかね」

その光景を呆れ顔で見ながら由一が言った。

「いいじゃないの。でも明君も変ったわねえ……昔だったら教室から逃げ出してたかも」

くすくす笑いながら友子が言う。

「違いない。変な意味で馴らされちまってるよなあ」

「いいじゃないの。結構幸せそうじゃない、あの二人」

「ああ……それはまったくもってその通り」

しかし、単純にそれをおもしろく思えない人達も居るようだ。

「あーいいなー、もうっ!」

みどりは両の手を握りしめながらじだんだを踏んだ。

「なにもこんなところで見せつけなくってもいいじゃない!」

「それだけうれしかったんでしょ?」

沙織が微笑を浮かべながら言う。

「あの由布が、英作文で自信が持てたくらいだもの」

「そうだよねえ」

沙織の言葉に、みどりは苦笑するしかない。

「ははは。それにしてもさ……悔しいじゃない」

「悔しいっていうか……うらやましいわよね」

沙織の視線の先に、楽しそうに話す和広と千秋の姿があった。

「沙織……」

不安そうな声を出すみどりに、沙織は振り返って明るく言った。

「でも大丈夫……負けてらんないもんね」

「ああ、うん、そりゃそうよ!これで試験もお開きだしさ、どっか行ってぱーっとやろ、ぱーっと!」

そこかしこで放課後のことを相談しあう中、これまでのことを反省する者達もいる。

「慣用表現は押さえめにした方がよかったのかしら?」

千秋がそう言うと、和広は英作文のテーマを思い出しながら答える。テーマは、故郷について、だった。

「テーマが個人的な物に近いから、何に力点を置くかで変ってくるんじゃないのかな?」

「そうよね。体験的なことであれば口語的になるでしょうしね。それに……」

「もう、何話してんのよ!」

友子が二人の間に割って入ると、二人の肩を両手で抱き抱えるようにした。

「もう試験終わったんだからさあ、明日の話しようよ、明日の話!」

「あ、明日?」

「そう、明日よ!忘れたの?」

「映画、よね……忘れてない忘れてない」

千秋はぶんぶんを首を振った。

「よろしい。では早速、明日の計画を立てるわよ」

「でももう決めてあったんじゃ……」

和広がそう言うと、友子がきっと睨み付けた。

「いーえ!念には念を入れるのよ。さ、行きましょ!」

そうして和広と千秋は強引に引っ張られながら、教室を後にするのだった。


そしてダブルデート当日。

和広は約束の時間通りに玄関の呼び鈴を押した。すると中から確認するような雰囲気がして、ドアが開いた。

「あら、いらっしゃい、芹沢君」

中から出てきたのは千秋の母親、めぐみだった。娘によく似た顔立ちではあるが、かといって亜衣とそっくりというわけではない。不思議なものである。

「こんにちわ」

和広が挨拶すると、めぐみは家の中に向かって大きな声で呼びかけた。

「千秋、芹沢君が見えたわよ!」

「す、すぐ行く!」

せっぱ詰まったような千秋の声がすると、どたどたと走ってくる音が聞こえた。

「しょうのない子ね……」

呆れたような声のめぐみに、和広は苦笑を浮かべる。

「ついさっきまで着ていくものが決まらなくて」

「仕方ないですよ……僕も迷いましたから」

見ると、和広の服装は、丈の短いコートの中にシャツとチノパン姿というラフなものだった。

「うふふ、ばしっと決まってるって感じじゃないわね」

めぐみはそう言って笑った。

「ごめんなさい、遅くなって!」

その時ようやく千秋が玄関に顔を出した。ちょっと息を切らしている。

「ほらほら、髪乱れてる」

めぐみがほつれた髪を直してやる。

「あ、ありがとう」

「さあ、芹沢君待ってるわよ」

「うん!あ、ごめんなさい、ばたばたしちゃって」

「いや……そんなことないよ」

そう答える和広の目は眩しそうだった。

「それじゃあ行こうか」

「うん。じゃあ、母さん、行って来ます!」

「気をつけてね」

めぐみに見送られつつ、和広と千秋は並んで歩いていった。これから由一を迎えに行くのだ。

「あの……」

歩きながら、千秋が言いにくそうに和広を見る。

「なに?」

「あ、いや、その……」

まだ何かをためらう千秋に、和広は、こちらもどこか恥ずかしげに言った。

「似合ってる……よ」

「え!?」

「その服……とても似合ってる」

今日の千秋の服装は、セイラー服のような白地に紺のストライプで縁取りされたワンピースを着ていて、その肩に黒のショールをかけていた。

「ほ、ほんとう!?」

「う、うそなんて言わないよ……うそなんか……」

そう言って和広は前の方を向いてしまった。

……だったらもっと早く言ってくれてもいいのに……。

歩きながら、千秋はそう思ってしまう。だがすぐさま考え直して、

……駄目よ、そんな風に思っちゃ……でも……。

……まったく、気が利かないよな。

和広もまた、心の中で己を叱責していた。

……似合ってるなんてすぐ分かっていたのに……すぐ言って上げれば気まずいことになんか……でも……。

二人は無言のまますぐ下の階に降りていった。由一を迎えに行くのだ。

森村家の前にさしかかったとき、その玄関が開いて由一が現れた。

「よう、さすが時間通りだな」

由一のスタイルは、ロングコートを羽織り、黒のスラックスに黒のジャケット、そして白のシャツといった具合。

「こっちは大変だぜ」

「どうしたんだい?」

と和広が尋ねると。

「友子のやつ、まだ衣装選びに手間取ってるだと」

「まあ、女の子はそういうことらしいし」

「あたしは……違うと思うけどなあ……」

『ん?』

思わず顔を見合わせる和広と千秋。

「あ、あたしは、ちゃんと間に合ったわよね?」

「う、うん。もちろん」

そんな二人を、由一はにやにやしながら見ていた。

「いいねえ君たちは、初々しくて……」

「いや……」

「そんな……」

視線をさまよわせる二人に、由一はあきらめたような口調で言った。

「ま、とにかく友子の家に行こうぜ。それまで終わってくれるといいんだけどな」


「なーんて……露ほどにも思っちゃいなかった、さ」

鈴本邸の前で由一は愚痴った。

「今日は一体どういう格好で行くつもりなんだ?」

「さあ……色々有るみたいだからねえ」

「他人事みたいに言うなよ。このままじゃいつまでたっても先に進まないぞ」

「きっと由一君のためにおしゃれしてるのよ」

慰めるように千秋が言うと、由一は首を傾けながら唸った。

「そりゃどうかなあ……あれはどう見ても自分のためにしか思えないんだが……」

その時、玄関が開いてようやく友子が現れた。

「ごめんごめん、遅くなっちゃって!」

その姿を見た由一は頭を抱えた。

「勘弁してくれよ……」

「まあ……可愛いじゃないか」

和広が苦笑しながら言う。

「彼女にそう言う趣味があったのか。知らなかったな」

「かわいいー!!」

千秋は手をたたきながらはしゃいだ。

「でっしょう?」

友子が駆け寄ってきて、得意げにその場で一回転してみせた。するとピンクの白のフリルが宙に舞った。友子が着ているのはいわゆるピンクハウス物と言われるもので、その名の通り、ピンクを基調とした、フリル一杯の服だった。

「なのに由一君ったらやだやだっていうのよ?」

「えー、どうして?」

「いや……ただなんとなく……」

歯切れの悪い答えに、友子は憤慨する。

「これだもん!あったまきちゃうわよね!ねえ、どう思う?」

水を向けられた和広は、腕組みしながら答えた。

「それは良くないと思うけどねえ……」

「でしょう?こんな人置いといて先に行っちゃいましょ!」

友子はそう言って和広の腕を取ると街の方へと歩き出した。

一瞬顔を歪めた千秋は、慌てて後を追った。

「……ばか、やりすぎた」

それを見た由一はそう呟くと、三人の後を追った。


試写会場は街で最大のシネマコンプレックスだった。すでに会場の周りには列ができており、人気の高さを現していた。

「うわー、一杯いるのね」

千秋が感嘆の声を上げる。

「これじゃ良い席座れないね……」

「ふっふっふ……大丈夫だって。そのための招待券なんだから」

そう言って友子はチケットをひらひらさせた。

「はい、二人の分」

そして和広にチケットを二枚渡す。

「あいにくと席が離れてるのよね。終わったら出口で待ち合わせということで」

「わかったよ。それじゃあ行こうか?」

「あ、うん」

ちょっとうれしそうな顔をする千秋。

そして二人は手をつなぎながら先に進んだ。

それを友子が難しそうな表情で見つめる。

「うーん……まだぎこちないなあ」

「なにがだ?」

「千秋ちゃん。まーだ、なんか遠慮してんのよね」

「遠慮ってなあ……」

「一緒にいるのがうれしくて仕方ないのに、それをもっと素直に表現すればいいのに」

「素直にねえ……」

「抱きつくくらいでちょうどいいのよ」

「おいおい……」

「もーっとムードを盛り上げないといけないようねえ……」

自分の世界に入ってしまった友子を見て、由一の胸に不安がよぎる。

「こりゃ後が怖いぜ……」


会場に入った和広と千秋は、チケットの座席番号を頼りに仄暗い館内を歩いていた。

「この辺りだと思うけど……」

そう言って和広が席番号を確認する。

「ああ、あそこだ。仁科さん、こっち……」

そう手を上げたとき、後ろからきた人にぶつかってしまった。

「わっ!」

「あいた!」

「芹沢君!?」

和広にぶつかったのは真っ赤なスーツ姿の女性だった。肩をぶつけたらしく、反対側の手でさすっている。

その姿を見た和広は……。

「げ……か、母さん!」

と、千秋が今まで聞いたこともないようなすっ頓狂な声を上げた。

「お母……さん?」

「まったくもう……」

亜梨沙はしかめっ面をしながら和広を睨み付けた。

「なんだってここに居るのよ?あんたこういうとこには来たがらないくせに……って、あら?あらら?」

亜梨沙は千秋の姿に気付くと、おもしろそうな顔で千秋を見つめた。

「あ、あの……」

「ふうん……もう、デートならデートだって言えばいいのに。もっと良い席取ってあげたのにさ」

にやにや顔で和広を見る亜梨沙。和広は声も無く母親の顔を見つめるばかりだ。

「あ、ごめんなさい」

亜梨沙は千秋の方に向き直ると、深々と頭を下げた。

「和広の母の泉亜梨沙です。初めまして」

「は、初めまして!」

慌てて千秋も頭を下げる。

「わ、私は……」

「仁科千秋さんでしょう?いつもお話は息子から聞いていますわ」

「は、はあ……」

「もう何かあればあなたの話ばかりで……」

「か、母さん!」

顔を赤くしながら和広が話を遮った。

「もうすぐ始まるんだろ?ここで時間つぶしてる暇なんかないんじゃ……」

「大丈夫よ。あたしが舞台の上に立つわけじゃないんだから」

「あの、舞台って……」

恐る恐る尋ねる千秋に、亜梨沙は実に簡単に言い放った。

「ああ、あたしこの映画のプロデューサーなのよ。それで舞台挨拶に引っ張り出されそうになって、ここまで逃げてきたの」

「に、逃げてきた……ですか?」

「そうよ。だってかったるいじゃない、ああいうのって」

「まったく……大の大人がすることじゃないよ、それ」

和広が呆れ顔で言うと、亜梨沙はむっとして言い返した。

「そう言うあんただって、彼女に説明してないことがあるんじゃないの?」

「な、なにをだよ?」

強がってみせてはいるが、どことなく自信なさげな和広。

「別に隠さなくったっていいじゃないのよ。自分の父親の作品が映画になったっていうんだからさ」

「え!?芹沢君のお父さんの作品!?ほんとに?」

千秋が驚いた顔を和広に向けると、照れたような表情を浮かべながら和広は肯いた。

「うん、まあ……そうなんだ……」

「それってすごいことだと思うけど……どうして?」

「いやあ……なんとなく恥ずかしくて、それで……」

「ちっとも変らないわねえ」

亜梨沙は大げさにため息をついた。

「昔っからこうなのよ。変でしょう?」

「ええ……あ、ご、ごめんなさい!」

和広に向かって謝る千秋に、亜梨沙は首を横に振りつつ言った。

「いいのよ、あやまんなくたって。この子がみんな悪いんだから。そういう引っ込み思案なとこ、さっさと直しなさいよね。まったく、こんな奴のどこがいいのかしら……ねえ?」

いたずらっぽく笑いながら亜梨沙は千秋の顔を見つめた。

「え……あ、ええと……」

顔を真っ赤にする千秋に、亜梨沙は彼女の肩をたたく。

「いいのよ……よろしくお願いね」

ウインク一閃、亜梨沙はじゃあねとその場を立ち去った。

「はあ……びっくりした……こんなところで会うなんて思いもしなかったわ」

「いつもそうなんだ」

苦り切った表情で和広が言った。

「突然現れるんだよなあ……今日は会わないですむと思ったんだけど」

「苦手……なの?」

「ちょっとね……でも、嫌いじゃないよ」

そう言って微笑む和広の顔に、先程の亜梨沙のウインクが重なり合って千秋には見えた。

「うん……わかるような気がする」

にっこりと微笑む千秋に、安堵の表情を浮かべる和広。

「あ、さあ座ろう……もうすぐ始まるよ」

「うん……あ、でもその前に」

「その前に?」

「映画のこと、もっと詳しく教えてくれる?」

「こ、これから見るのに?」

「うん」

「でもそれじゃおもしろくないんじゃ……」

しかし、千秋は和広のセリフは無視して、いたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。

「やっぱり、話したくないんだ」

「いや、そういうわけじゃなくて……やぱり、事前に筋を知ってるっていうのはおもしろみが減るっていうか……」

「うふふふ……違うのよ」

「え?」

「違うの……映画のストーリーの話じゃないのよ。いろんな話があったんでしょ?映画化についてとか、いろいろ。そういうことを聞かせて欲しいなって思ったの」

「あ……ああ、そうか。そうなんだ……」

ようやく納得がいったのか、落ち着きを取り戻した和広。それをおもしろそうな表情で見つめる千秋。

その時、試写開始を伝えるアナウンスが流れた。

「あ、始まっちゃうね……」

「じゃあ……その話は見終わった後でね」

「うん」

そうして二人は笑いあうのだった。


二時間ほどして、映画は終了した。

事前の打ち合わせ通り、会場の出口に二人が向かうと、

「やっほー、和広君、千秋ちゃん!」

友子がぴょんぴょん跳ねながら二人を呼んだ。

「ねーねー、どんな感じだった?」

「おもしろかったわよ、とっても」

妙ににやついた感じで千秋は言った。そしてちらっと和広を見る。ぎくっとした表情を浮かべる和広。

「いいことも教えてもらっちゃったしね」

「ん?どういうこと?」

「あとでみんなに話して上げる!」

「ええ〜、今教えてよ〜」

そうして友子と千秋は先に行ってしまう。

「……なんかあったのか?」

二人の後ろ姿を見ながら由一はぼそっと言った。

「まあ……ね」

力なく答える和広に、由一は同情するような口調で言った。

「ふうん……大変だな」

「そうだね……」

冷たい風が地面近くに吹きつけ、木の葉やゴミを吹き飛ばしていった。


「ええ〜!?」

休憩に入った喫茶店の中で、友子が大声を上げた。

「静かにしろよ」

「だ、だって……」

小声にしつつ友子は和広を睨み付ける。

「知らなかったんだもん。ひどいよ、教えてくれないなんて!」

「あはは……ごめん」

本当に申しわけなさそうに和広は頭を下げた。

「その……なんか気恥ずかしくてね」

「お父さんが原作者でお母さんがプロデュースねえ……なんかできすぎって感じ」

ずずっとコップの底に残ったジュースをストローですする友子。

「たまたま今回はそうなっただけだよ。それに母さん主導って訳じゃないし……」

「で、お母さんと会ってどうだったの、千秋ちゃん?」

期待に満ちた目で千秋を見つめる友子に、千秋は思わずたじろいだ。

「ど、どうって……」

「初顔合わせだったんでしょ?ちゃんと売り込みかけた?」

「う、売り込みって……」

「ああ、もう!気に入られる絶好のチャンスなのに!」

ばんっとテーブルをたたく友子。

「そ、そんなこと言われても……素敵な人だなって思ったけど……」

「あたしまだ会ったことないのよね〜。そんなにきれいだったの?」

「うん。それにとってもきびきびしてて、格好良かったの」

「へえ、きびきびねえ。和広君とはタイプが違うみたいね」

「なんか勢いに圧倒されちゃいそうで……」

「そりゃ大変だわね〜」

……などと女性陣が話をしているわきで、男性陣はもう疲れきっていた。

「大丈夫か、芹沢?顔色悪いぜ?」

「ああ……さあ、どうだか」

「ま、いろいろばれて大変だと思うが……隠す方が悪いよな」

「ああ……そうだろうね」

「でもな……隠しておきたいことってあるよな……」

「そうだねえ……」

「なに暗い顔してんのよ」

友子は和広と由一の顔を見比べながら言った。

「デートはまだまだこれからなんだからさ。ねえ、千秋ちゃん?」

「う、うん……でもこれからどこ行くの?」

「まずは夕食を食べて……それから取って置きのスポットがあるからそこに行って、それから……」

「そ、そんなにあるの!?」

「そうよ。これくらい普通だって。さ、次いこ次!」


レストランで夕食後、友子の先導で四人が向かった先は、"ヒュプノス"というバーだった。だが、バーと言ってもアルコールが出るわけではない。

その店内で、四人はカウンターに横並びに座っていた。

「こういうところ来るの初めて……」

店内をもの珍しそうに見回しながら千秋が言った。

「駄目だよ、そんなんじゃ。話題になったところはすぐいって確かめなくちゃ」

ブラッディマリー風ジュースを呑みながら友子は笑った。

「ここは飲むだけじゃなくて、ダンスもできるし、ゲームも置いて有るから結構楽しめるわよ」

実際、店内にはダンス系の音楽が流されていて、かなりの人が踊りに興じていた。ゲームコーナーもなかなかの繁盛ぶりだ。

「さて、飲んでばかりじゃつまんないし……ね、和広君、踊りにいこう?」

「え?あ、ちょっと!」

和広がまともな反応をする前に、友子は彼の腕を取ると踊りの輪の中へと消えていった。

「あ……ああ……行っちゃった」

それを呆然と見送ってしまった千秋。

「しょうがねえな、友子の奴……ごめんな、仁科」

由一が頭を下げる。

……いくらなんでもやりすぎだぞ。

「う、ううん、由一君が悪いわけじゃないよ……」

「仁科……」

「あたしが……はっきりしないからだよね」

ちょっとうつむいて千秋は言った。

「もっと素直に自分を出せていればこんなことにはならないのに……」

「こんなことって……芹沢と踊りたかったってことか?」

「う、うん……」

ますます恥ずかしそうにうつむきながら、千秋は肯いた。

「そういう場所だって聞いたとき、すぐそう思ったの。でも……」

「あの、馬鹿」

由一は顔を覆ってうめいた。

「逆効果にしてどうするよ……」

「え?逆効果?」

「ああ、いや、こっちの話……それじゃあ待ってる必要なんてないさ」

「え?あ!ちょっと、由一君!」

今度は由一が千秋の手を引いて和広と友子のそばに近づいていった。友子の方は楽しそうだが、和広は明らかに迷惑顔だ。

「はい、交代」

「あ!ちょ、ちょっとぉ!」

由一が抱き抱えるようにして友子を引きずっていった。

「じゃ、後はよろしく〜」

そのあまりの早業に、和広と千秋は唖然として見送るばかり。


「なによけいなことしてるんだよ!」

カウンターの方に戻った所で、由一が友子を叱っている。

「せっかく仁科の方がその気になってるってのに、確かめもしないで」

「え、え?千秋ちゃん、なにか言ってた?」

「ああ、言ってた……踊ってみたかったんだとよ、奴と。たく、もう少し様子を見るとかしろよな」

「ああ、ごめん……でもそうなら……」

「あん?」

「ちょうどいいタイミングだったかもよ」

にやつく友子を、不思議そうな表情で見つめる由一。


その頃和広と千秋は、まだ踊りの輪の中で見つめ合ったまま立ち尽くしていた。

周りには流行りの音楽に合わせて身を踊らせる者達で溢れかえっていたが、二人のいる空間だけが動きのない、それこそ二人だけの空間になってしまっていた。

……い、言わなきゃ、踊りたいって……そのためにここまで来たのに……でも……。

……こ、このままじゃ駄目だよな……はやく誘わないと……でもきっかけが……。

しかし、二人共に話しかけるきっかけを掴めないまま、刻一刻と時間は過ぎ、音楽は終わりを迎える……。

二人の間に流れる、ほんのちょっとした安心感と、たとえようもない挫折感。

……終わっちゃった……もう少し続いててくれたら良かったのに……そうすれば……。

……終わりか……戻った方がいいんだろうけど……でもまだ……。

と、その時。

かなりの人間がダンススペースに集まってきた。そのどれもがカップルのようだ。

呆気に取られて二人が見ていると、急に千秋の背中が押された。

「あ!」

体勢の整わない千秋は和広にぶつかりそうになるが、なんとか抱き抱えるようにして和広は彼女を支える……が、これまでにない近さに、二人は近づいていた。

ちょうど顔を胸にうずめる格好で、千秋は和広に張りついていた。早鐘のような和広の鼓動と頬で感じる。

……うわー!うわー!……こんなにぴったり……あ……すごい、音……ドキドキいってる……あたしとおんなじ……。

一方和広の方は誰が千秋の背中を押したのかと辺りを見回すと、由一と友子がちょっと引き気味に和広達に向かって手を振っていた。

「これは一体どういう……」

少し強い口調で和広が言いかけると、二人はぺこぺこ頭を下げながら、

「あともう少ししたらわかるから〜」

「すまんな、そう言うことだから」

などと意味不明の言葉を残して雑踏の中に消えてしまった。

「まったくしょうがないな……あ?」

ようやくここで和広は、自分が千秋を抱き締めていることに気がついた。

千秋は顔を胸に押し付けたままぴくりとも動かない。その身体に、和広の腕がしっかりと回されている。

和広の胸の鼓動はいままで無かったくらいに激しく打ち鳴らされていた。

……こ、このままじゃいけない……で、でも……。

服越しに感じる千秋のぬくもりに、和広は戸惑いと、そして、不思議な安らぎを覚えた。

……このまま……ずっとこのままでいられたら……。

それは、時間にしてほんの一瞬に過ぎなかったが、二人に心に大きな影響を与えたようだった。特に、千秋の心の中に。

……ずっとこのままで……芹沢君のそばにいたい……誰のためでもない……あたしが、そうしたいと願うから……。

千秋は胸から顔を離すと、ゆっくりと和広の顔を見上げる。そこには戸惑いやおびえの表情はなく、決意とひたむきさがあった。

「芹沢君……あの……」

千秋が口を開きかけたその時……店内に、再び音楽が流れ始めた。先程までかかっていたリズム感に溢れた激しい曲ではなく、メロウで、しっとりとした感じの曲だ。

するとカップル達は一斉に、お互いに向き合い、手を取り合って曲に合わせて踊り始めた。その様子は、まるで欧米のダンスパーティのようだった。

再びあっけにとられた和広と千秋の前に、由一と友子のペアが現れた。二人ともみんなと同じように抱き合うようにして踊っている。そして和広達を見ると、二人同時に見事なまでのウインクをした。

……そういうことか……何もかも仕組まれてたってことだな。ひどく心配させてしまったみたいだ。でも一番心配させてしまったのは……彼女の方だ。俺が腑甲斐ないばっかりに……。

不安そうに和広を見上げる千秋に、和広は微笑みかけ、そして言った。

「仁科さん……」

「う、うん……」

「僕たちも踊ろう」

すると千秋はぱーっと明るい表情になって、うん、とうれしそうに肯いた。

そこから二人のダンスが始まった。

最初はおずおずと、だが、次第に滑らかになっていくステップ……優雅なターン、にこやかな笑顔。それはまさに貴族達の行うダンスさながらだった。

「……やっぱり、すごいんだ」

踊りながら千秋が千秋が言った。

「え、なにが?」

「芹沢君、ダンスも得意だったのね」

「得意っていうか、馴らされたというか……」

「馴らされた?」

「母さんにね……社交ダンスに凝った時があって、練習相手にさせられたんだ。それで一通り踊れるようにはなったんだけど……」

「それにしては……とっても上手よ」

「ありがとう。じゃあ、仁科さんの方は?」

「え、あたし?」

「うん。かなり馴れているように思えるけど……」

「あたし、海外生活長くて、父さんが商社勤めだからパーティによく呼ばれるのね。それであたしもダンスを踊れるようにならなくちゃいけなくて、そのうち踊れるようになったの。あたしも芹沢君と似たようなものよ」

くすくす笑う千秋に、つられて和広も笑った。

「でも、やっぱり上手だと思うよ」

「そういう芹沢君だって……本当は練習してたんじゃないの?」

「まあ少しは……」

「やっぱり……」

軽く睨み付けるようにして千秋は言った。

「ただ付き合わされたくらいでこんなに上手にはならないわよ。あたしなんか何年もかかったのに……」

「どのくらい?」

「ええと、五、六歳の頃からだから、かれこれ十年……かな」

「そりゃずいぶんと長いね。僕なんか足元にも及ばないな」

「うそ……うそばっかり」

千秋は和広の腕を掴んだ手にきゅっと力をこめた。

「年数なんか関係ないわよ。あたしなんかよりも、よっぽど上手よ。あたし、わかるもの」

「仁科さん……」

「お世辞なんかじゃないよ。芹沢君は……すごいよ……すごいんだから……」

そうして千秋はうつむいてしまった。

そんな千秋を見て、和広は思った。

……俺はなにを戸惑っているんだ?なにを格好つけてるんだ?彼女にそんな風によく思われているのに、なんでそれを否定するようなことを言ってしまうんだ?もっと素直にならないと……もっと、素直に……彼女の思いに応えることは……。

次の瞬間、和広は今までの彼とは思えないような行動に出た。千秋を……いきなり抱き締めたのだ。

「あ!」

あまりに突然のことで、千秋はただ天井を見上げるだけ……。

……なに、これ?なんで……芹沢君……ちょっときつい……でも……あったかい……。

そんな千秋の耳もとに、和広は呟くように囁いた。

「……好きだ」

「え?」

「……ほんとうに……本当に好きなんだ……だから……だから……」

「だ、か、ら……」

「……ずっとこのままで……いたいよ……」

「あ……」

千秋は目を閉じて和広の身体に頭を押し付けるようにすると、背中に回した手を組んで、そっと和広を抱き締めた。

「あたしも……」

「え?」

「あたしもね……ずっとこうしていたかったの……」

「仁科……さん……」

そうして二人は、音楽が鳴り終わるまで、ずっと抱き合ったままでステージの中央にたたずむのであった……。


「うわ……結構大胆なんだ、和広君」

カウンターでくつろぎながら、友子が目を丸くした。

「みんなびっくりしているよ」

「まあ、いいんじゃないか?これ以上余計なことせんでもいいだろう」

由一はほっとした表情でそう言った。

「そうだね……なんかちょっと残念だけど」

「おい……まだなにかやるつもりだったのか?」

「うん。あの公園行ってみようかと思って……」

「おいおい……あそこは刺激が強すぎるだろう」

「でもそれくらいしなきゃ駄目だと思ってさあ」

「やめとけやめとけ。今日はこれでおしまいにしようぜ」

「そうだねえ……」

そこへ和広と千秋が帰ってきた。二人とも顔が赤くなっている。

「おかえり〜、どうだった?」

友子がにやにやしながら聞いた。

「かなりあつあつだったみたいじゃない?みんなびっくりしてたよ〜」

「……ひどいよ、二人とも」

消え入りそうな声で千秋はうつむいてしまった。

「まったくだ。おかげでこっちはさらし者もいい所じゃないか」

抗議めいた声で言う和広に、友子と由一は慌てふためいた。

「お、俺は何もしてないぞ。全部友子がやったことだからな」

「ひっどーい!由一君だって乗り気だったくせに!」

「なに言ってるんだ!最初に言い出したのは友子じゃないか!」

「ふふふふ……」

「なによー!……って、千秋ちゃん?」

「うふふふ……」

うつむいたまま、千秋は笑っていた。肩を震わせながら。一方の和広も、意地の悪そうな笑みを口許に浮かべながら友子と由一のやり取りを見ていた。

「あ……やられたー!」

友子は頭を抱えながら叫んだ。

「もう……人が悪いんだから」

「一番悪いのはお前だろう」

由一が突っ込みを入れる。

「由一君だって同罪でしょ!」

「まあまあ。なんとも思ってないから、気にしないで」

顔を上げた千秋がくすくす笑いながらそう言った。

「あははは……」

ひきつった笑いを見せる友子。

「これからはこういうのは無しだよ」

更に和広にそう言われ、ただ脂汗を流すだけの友子だった。

「それじゃ、遅くならないうちに帰ろうぜ」

由一のその言葉に、みんなは肯いた。

「また……また来ようね」

「うん、そうだね」

そう言って、千秋と和広は笑いあう。

そして再び店内は激しい音楽に満ちあふれ、夜がまだ続くことを高らかに宣言していた。


終業式も終わり、待望の冬休みがやってきた。旅行にバイト、そしてデートとやることは山ほどある。

そして程なくして、年内最後のイベントともいえるクリスマスが始まろうとしていた。前夜祭としてもクリスマス・イブを前に、街では派手な飾りつけやクリスマスセールが行われ、気もそぞろな者達がそれぞれの想いを込めながら歩き回っていた。

そんな者達の中に、秋月信雄もいた。

彼は宝石店の前を何度も何度も歩いていた。時折ショウウィンドウをのぞいては、飾られている指輪やネックレスなどを眺めている。しかし、中に入ろうとはしなかった。

「あら……信雄君?」

その時通りがかった秋吉沙織は、不思議な行動をする信雄を見つけて首をかしげていた。

「信雄君、何してるの?」

「え……あ、ああ!!」

沙織が声をかけると、信雄はお化けにでもあったかのように大げさに驚いていた。

「さ、さ、沙織さん!?」

「はあ……びっくりした……どうしたの、そんなに驚いて?」

胸に手を当てながら沙織は聞いた。

「い、いやあ、べつに、なんでもないですっ」

「そ、そうなの……」

沙織は宝石店の方を見て、信雄の驚いた理由を想像してみた。

「あ、もしかして……プレゼント買いに来たんでしょう?ははあ……彼女にね?」

「ち、ち、違いますよ!ただどんなのか見てただけで……」

「その割には何度も見ていたみたいだけど……中に入って見ればいいのに」

くすくす笑いながら沙織はそう言った。

「あんまりうろうろしてると、変な人に思われちゃうわよ。一緒に入って上げようか?」

「い、いっしょに!?」

突然大声を上げる信雄に、沙織は目を丸くした。

「え……ええ。よければ、だけど……?」

「い、いや……いいです、失礼します!」

そう言い残して、信雄は脱兎のごとく駆け出した。取り残された沙織は呆気に取られた表情でその後ろ姿を見つめた。

……そんなに嫌だったのかな、見られるの。それはそうか……誰かへのプレゼントか。

……今年は……あんまり考えることないよね、あたしは……。


「由布、もう行くぞー!」

由一は由布の部屋に向かって大声で叫んだ。

「もうちょっとだからまってよぉ〜」

情けない声が部屋から聞こえてくる。

「まったく……いつも間際になってから騒ぎ出すんだからなあ」

もはやあきらめを通り越した表情を浮かべる由一。

「先行く!」

由一はそう宣言して玄関に向かった。背後から抗議の声が聞こえてくるが気にしない。

玄関を出ると、外では信雄が所在なげに壁にもたれて立っていた。

「よ、早いな」

「また由布姉どたばたしてるんだ」

嫌そうな顔で信雄は言った。

「早く行きたいのにさ」

「まあ待てよ。昨日今日のことじゃないんだからさ」

そういう由一も嫌そうな顔をしている。

そこへ和広と千秋がやってきた。

「やあ」

「こんにちわ」

「よ、お二人さん、悪いが由布が取込中だ」

「まだ早かったか」

和広が苦笑する。

「あたし、見てくるわ」

「ああ、上がってくれ」

千秋がぱたぱたと家の中に入っていく。

「わるいね、迷惑かけて」

由一が頭を下げる。

「いや……もう馴れたしね」

和広はそういって笑う。

信雄はそんな二人を見ながら、心の中で呟いた。

……この二人みたいになれるのかな……なれたら沙織さんは僕を見てくれるだろうか……。

その時ようやく由布が千秋と一緒に外に出てきた。

「ご、ご、ごめんなさい……」

息を切らしながら由布が謝った。

「まったく、しょうがねえな、毎度毎度……さあ行くぞ」

由一が先導しつつ、みんなはエレベータの方へと歩き出した。

今日はクリスマスイブ当日。これから沙織の家でクリスマスパーティが開催されるのだ。


沙織の家である喫茶店の中では、みどり達が飾りつけにいそしんでいた。

窓や天井に色とりどりのモールや紙テープが飾られ、雪がわりの綿がクリスマスらしさを強調していた。

「後もう少しだからガンバロー!」

天井近くの飾りつけをしていたみどりが元気よく叫んだ。

「わかってるわよー」

苦笑いしながら沙織がそれに応える。彼女はテーブルに座って何やら書き物をしていた。

「こっちの準備はできたわ」

友子が布製の横断幕を目の前に掲げた。

「あとは貼るだけ〜」

「……花はこんな感じかな?」

明はテーブルの上に置いた花瓶の花を見ながら腕組みをしている。

「友子、垂れ幕持ってきて〜」

「はあい」

友子が横断幕をみどりに渡すと、みどりはちゃちゃっとそれを壁に貼り付けた。そこにはクリスマスパーティの文字が踊っていた。

「これでよし!飾りは準備オッケーと!」

「わあ、けっこういい感じ……はやく由一君達来ないかな……」

「由布がいるからまた遅刻何じゃないの?」

「ありうるありうる」

そうして二人は大声で笑い出した。

その時店のドアが開いて、由布達がぞろぞろと入ってきた。

「よかったー、間に合った〜」

由布がうれしそうにそう言うと、明の姿を見つけて彼の所に駆け寄っていく。

それを見た由一は、深呼吸ともため息とも言えない息を吐きながら呟いた。

「まったく……あれじゃ春日がかわいそうだよなあ」

「それはどうだろうねえ」

由一の言葉を受けながら和広は言った。

「それでうまくいってるんだから、いいじゃないか」

「ま、そりゃそうだよ……おーい、友子!」

そうして由一は友子のそばに駆け寄っていく。

「なんだかわくわくしてきちゃった」

千秋が店内を見回しながらうれしそうに言った。

「楽しいパーティになるといいね」

「そうだね」

そう応える和広もうれしそうだった。

その時久美子と始が店にやってきた。これで全員が集合したことになる。

「それじゃみんな集まったことだし、ぱーっといくわよ!」

みどりの元気な声に、一堂楽しそうな笑みを浮かべるのだった。


パーティが始まってしばらくすると、みんな大きな声で楽しそうに話に興じていた。

だが沙織はその輪には加わらず、少し離れたテーブルでその様子をぼんやりと眺めていた。

その手元には書きかけのノートがある。詞を書き留めるための、いわゆるネタ帳だ。しかし、少ししか書き込まれていない。

……こっちの才能まで枯渇してきたのかしらね。

知らず知らずにため息が出る。

「そうだ。ねえ、みどり、長谷川せんせとどうなの?」

由布の突然の質問に、みどりは飲んでいたジュースを思わず吹き出しそうになった。

「ぶっ!な、な、なんなのよ、それ!?」

「図書館でさー、仲よさそうにしてたって明君いってたから、どうなのかなと思って?」

「勉強教えてもらってただけで、別になんでもないわよ」

「ほーんとう?」

「あたし、別に年上趣味って訳じゃないもん」

「ま、ほどほどにね」

「やめてよ、そういう言い方〜」

「あはははは……」

……ふうん……みどりが長谷川先生とねえ……本当かな……でも慌てふためきようは……何かあるわね。

沙織はノートに書きつける……年の差、背の差、心の差。

……いまいちかな?心に違いなんかないのにね……違うのは、その表現方法……。

「このまえのデートじゃ大活躍だったみたいじゃないか、え?」

始がちゃかすように和広に言った。

「一体何処からそう言う話になるんだ?」

とぼけたような表情で和広は言った。

「友子ちゃんでしょう、そういうこと言ってたの」

千秋が友子を軽く睨む。

「あ、あたしは、久美子にちょこっと話しただけだよ!だってしつこく聞いてくるんだもん」

「あたしにはそうするだけの権利と義務があると思うんだけどな」

落ち着いた表情で久美子はそう言った。

「ま、話聞いて一安心というところね」

「そりゃどうも」

和広は軽く頭を下げた。

「でもこれからはそういうことは無しにして欲しいな」

「はいはい……でも甘い顔しないのよ、仁科さん」

「え?」

「心配させておくくらいでちょうどいいんだから……でないと、ただのふぬけになっちゃうからね、和広は」

「おいおい……なんだよ、ふぬけって」

「安心しちゃうとさ、逆におろそかになっちゃうでしょ?釣った魚には何とやらで……だから甘やかしちゃ駄目よ?」

「うん……それはいいこと聞いたかも……」

「仁科さんまで……まったく、みんなおせっかいなんだから」

あきらめ顔で和広が言うと、始は和広の頭を叩きながら言った。

「そんだけ期待されてるんだぜ?感謝されこそすれ、文句言われる筋合いはないよな」

「それはどうも……誠にありがとう」

芝居じみた口調の和広に、座は盛り上がりを見せる。

……そうか……和広君と仁科さん、うまくいってるんだ……良かったね……。

自分でも心にもないこと言ってるなと、沙織は思う。

……でも……この胸のもやもやは何だろう?素直には喜べない……ふられたんだよ、あたしは。もう、関係ないことなのに……関係ない?いや、あたしにはあるか……今でも、意識してしまう……駄目だな、あたしって。

沙織はノートのページをぱらぱらとめくった。そしてあるページで止める。そこにはほぼ完成された詞が書かれていた。

……今日のために作った歌なんだけど……天気次第よね。

窓の外を眺めてみる。曇ってはいるが、それほど寒くはない。みんなが期待しているホワイトクリスマスは、東京ではほとんど奇跡のようなものだ。

「あの……」

その時、信雄が沙織のそばにやってきた。

「話に加わらないんですか?」

「ああ……今日はちょっとそういう気分じゃないの。ごめんなさい」

「い、いや、べつに謝らなくても……あ、それ、歌詞ですか?」

「うん……命の次の次くらいに大事かな……」

「命……ですか」

「歌手としてのあたしには、命の半分という所かしらね。残り折り半分はメロディかな……でも……その中にあるはずの本当のあたしはなんだろう……あ、ごめんなさい、変な話しちゃって」

寂しそうに笑う沙織に、信雄は真剣な顔で言った。

「最近、歌い方変りました?」

「え?」

「歌い方じゃなくて声かもしれないんですけど……前と違う感じがして」

「うーん……特に変えたつもりはないんだけど……どう、聞こえるの?」

「よくわからないんですけど……ただ、元気がないように聞こえるんです」

そういう信雄の表情はひどく思い詰めたものだった。

沙織は思わず圧倒されそうになった。

「そ、そうかな……そんなことないと思うけど……」

そう言いながらも、下手な芝居してるなと、沙織は思う。

……そうよ……あの日以来歌のテンションは落ちっぱなしよ……それもこれもみんな、あの人のせい……そうなのよ。それ以外に理由なんてないの。そして、それをどうしようもないこともわかっている……だけど……。

沙織の表情はどんどん暗くなっていく。

それを見かねた信雄は、ある決心をした。沙織と話す前はまだふんぎりがつかなかったが、今はどうしてもしなければならないと思ったのだ。

「さ、沙織さん……あの、これ……」

「え、あ、なに……?」

信雄は懐からきれいにラッピングされた細長い包みを取り出して沙織に差し出した。

「なにがあったのかはわかりません。でも、今のままじゃいけないと思うから……こんなもので気が紛れるとは思えないけど……でも、元気出してください」

信雄の真剣な目に、沙織はなにも応えられずに差し出された包みを見つめていた。

……これって……クリスマスプレゼント、よね?あの店の包みじゃないの……じゃあ、あの時、信雄君はあたしのために?……それに、ずっと気にかけていてくれたんだろうか?誰にもそんなこと言われたことなかったのに……そんなにあたしのことを……気にしていてくれてたの?

沙織はゆっくり手を出すと、信雄から包みを受けとった。すると緊張していた信雄の顔がほっとした表情を浮かべる。

「ありがとう、信雄君……開けてみてもいい?」

「は、はい!もちろん!」

丁寧に包装をはがし、沙織は箱の蓋を開けた。

中から出てきたのは、金色をしたネックレスだった。飾り気のあまり無い、ごくごく普通のネックレス。

だが沙織はうれしそうにそれを取り出すと、胸の前で広げてじっと眺めた。

「きれいね……ありがとう、信雄君」

そう言う沙織は、さっきまでの暗い沙織ではなかった。まだ完全ではなかったが、それでも精一杯の笑みを浮かべていた。

「は、はい!」

それを見た信雄も、安堵とうれしさで顔を一杯にしていた。

……よかった……少しは役に立てたみたいで。

と、その時、由布がすっ頓狂な声を上げた。

「わ、わわ!!」

「どうしたの、由布ちゃん?」

「明君、ほら外!外!雪!」

「雪?」

由布が指し示す窓の外、かなり暗くなった空の方から、何やら白い物が落ちてくるのが見えた。

「ほんとだ……雪が降ってる」

「ね?ね?」

「すっごーい、ほんとに雪だあ」

みんなはどやどやと窓に張りついて空の上を眺めた。

「ホワイトクリスマスなんて、珍しいねえ」

「ほんとだねえ……」

ほとんど全員が窓にかじりついて外の光景に見入っている。

「沙織さんも見に行きませんか……あ?」

信雄が振り返ったときには沙織の姿が消えていた。慌ててあたりを見回すと、店内に置かれたピアノのそばに沙織がいた。そしてその首には、ついさっき信雄がプレゼントしたばかりのネックレスがかけられていた。

沙織はピアノに座ると、一つ深呼吸した。背筋がぴんと張り、緊張感が漂う。そして、指を鍵盤の上に置くと、最初の一音を奏でた。

皆の視線が沙織に集中する。

沙織は次々と音を重ねていく。それは旋律となり、皆の心にさざ波を起こしていく。

そして、世界の始まりを告げるかのように、高らかに歌が紡がれた。


聖なる夜に降る雪は 融けて雨になってしまう
いくら降り続けても もみの木につもりようもない

あったかさよりもさむさを望むなんて
なんて贅沢なのかしら

それでも期待してしまう White Christmas
冷えた心を温めてくれる人を待ち焦がれて

さあ 手を広げよう
雪が融ける前に 雨になる前に
ありたっけの雪でツリーを飾ろう
心が寂しくないように
心が優しくなれるように


歌が終わったとき、誰からともなく拍手が巻き起こった。

沙織は拍手を受け、椅子から立ち上がって優雅に一礼をした。

「それって新曲だよね?」

みどりが尋ねた。

「うん……まだ作りかけだけどね」

「今ので?もうワンコーラスできてるじゃないの」

「まだ歌詞が途中なの。それに展開がべたすぎて……まだ納得いかないのよ」

「そんなことないよ。ねえみんな?」

みどりの問いかけに、一堂肯く。

「ありがとう、みんな」

にっこりと笑いながら沙織はそう言った。

「あ!沙織、いつの間にネックレスなんてしたの?」

由布が目ざとく指摘した。

「さっきまでしてなかったわよね?」

「ああ……ふふ、プレゼントなの」

ネックレスに手を触れながら沙織は言った。その近くでは信雄が青い顔をしている。

「ええ!?だれからだれから?」

「一ファンから……という所かしらね」

「へえ、一ファンねえ……」

由布は睨み付けるようにして信雄を見た。信雄は目で必死になって言わないでくれと懇願している。

「もてもてね、沙織は」

これでまた弱みを握ったとほくそえみながら、由布は矛を収めた。

「さあ、まだ時間はあるわ。続きを楽しんでね」

そう沙織がいい、パーティの夜は更けていくのであった……。


夜も遅くなったということで、今年のクリスマスパーティも終わりを迎えた。みんな総での片付けもほぼ終わり、後はそれぞれ三々五々と帰っていく。

「ねえ、由一君、あたしも送ってってよ」

みどりがつまんなさそうにそう言った。

「え?なんで……」

「理由なんか聞かないでよ!さあさあ、いこいこ!」

由一と友子の背中を押してみどりは店を後にした。これで残るは信雄と和広、千秋だけとなった。沙織は自分の家だから無論残っている。

「……そろそろ帰ろうか?」

和広がそう千秋に言う。

「そうね……遅くまでごめんなさいね」

「いいのよ、気にしないで」

沙織はそう答えたが、内心穏やかではなかった。自分をふった相手が選んだ者と対峙すれば誰しも同じ気持ちになるだろう。

……あたしじゃどうにもならないものを、この子は持っている……一体なにが違うというのだろう?想いは一緒なのに……なにが違っちゃったんだろう?

「じゃあ、良いクリスマスを……」

「沙織ちゃんもね」

そう言って、和広とその恋人は店を去っていった。

「クリスマスか……」

だれに言うとなく、沙織は呟く。

「一人だとつまんないものね……」

「沙織さん……」

心配そうに信雄が声をかける。

「ああ、ごめんなさい……折角のイブの夜なのにね。しんみりしちゃって……」

「……」

……なにに苦しんでいるんだろう……わからない……なんて僕は役立たずなんだ。

信雄はほぞをかむ思いで沙織の背中を見つめていた。

「さあ、信雄君も早く帰った方がいいわ。今夜は冷えそうだし……信雄君?信雄君、どうしたの?」

返事をしない信雄に、沙織は何回か声をかけた。

「具合でも悪いの?」

「……めですか?」

「え?なに?」

「……僕が……そばにいるだけじゃだめですか?」

「信雄君……!」

顔を上げた信雄は、真剣な目で沙織を見つめた。

沙織はその目をまともに見れなかった。ひたむきな、まっすぐな目。自分がいつしか見失っていた情熱的な何かを持っている。

……信雄君……あたしもこうだったのかな?必死で、余裕のない表情……でも、そんなに真剣になれるものがあるんだ……うらやましい……なんてうらやましいんだろう……。

その対象が自分であるのにも関わらず、まるで他人事のように沙織は感じていた。

部屋の温度が徐々に下がりつつある……まるで沙織の心のように。

もう季節は冬なのだった。


雪は地面にたどり着いた瞬間に溶けて消え去っていった。踏み締める間もない。

千秋はそれでもあきらめずに雪を追い続けた。そのせいで和広から少し離れてしまった。

「もう少し降ってくれたらいいのに……」

空を見上げながら千秋は言った。

「雪が好きなの?」

追いついた和広が尋ねる。

「うん、大好き!」

振り返った千秋がうれしそうに言った。

「芹沢君は?」

「好きだよ……父親の実家が北海道でね。昔はよく雪の中を駆け回っていたよ」

「そうなんだ。あたしは、ドイツで。スキーとかよくしにいったわ」

「じゃあ年明けのスキー旅行は楽しみだね」

「うん、とっても!芹沢君は?スキーとか得意?」

「まあそれはスキー場に着いてからということで」

「うふふ……それもそうね」

そうして二人は千秋のいるマンションまで到着した。

雪はいまだ降り続いている。流石に寒くなってきたのか、吐く息が白い。

「ありがとう、送ってくれて」

千秋は後ろ手に、ちょっと前かがみになってそう言った。

「どういたしまして。当然のことをしただけだよ」

「またそういう言い方して……」

不満そうな表情で千秋は言った。

「ご、ごめん……」

素直に頭を下げる和広に、千秋は苦笑する。

「いいのよ、別に怒っているわけじゃないから……わかってるつもりよ。心配してくれてるんだって。でも、常識とかマニュアルみたいなことじゃいやだから……」

「……うん、わかったよ。変に考えるのはやめにする……で、ごく普通に考えたんだけど……」

和広は内懐に手を差し入れながら言った。

「今日はプレゼント交換禁止!なんてみどりちゃんが言うもんだから、渡しそびれてたんだけど……これ、クリスマスプレゼント」

そうして差し出したのは、きれいにラッピングされた箱だった。

「わあ……ありがとう!」

千秋はそれを受けとりながらとっても楽しそうに笑った。

「開けてみてもいい?」

「もちろん」

丁寧に包装を外して箱を開けた千秋は、歓声を上げた。

「わあ!きれいなブレスレッド……」

それは銀色に輝いていた。表面には象嵌された複雑な模様が躍っている。千秋はそれを腕につけて街灯にかざしてみた。光が反射して虹彩を放つ。

「きれい……ありがとう、芹沢君!」

満面笑みの千秋に、和広もうれしそうにそれに応える。

「気に入ってもらえてうれしいよ」

「大事にするわ……あ、そうだ!」

千秋は手に持っていたセカンドバッグからこれまた箱を取り出すと、えへへと笑いながら和広に差し出した。

「こ・れ……あたしからもプレゼント!」

「ありがとう!へえ……なんだろう……」

和広は包みを開けて中身を手に取った。

それは、シルバーの指輪だった。ちょっと幅広で、少しだけ装飾が施されている。

「これは……」

何かを言おうとして千秋の方を見た和広は、彼女が左の手の甲を見せているのに気がついた。その中指には、和広の持っているものと同じ指輪が輝いていた。

「あたしとおそろいなの……いや?」

「そんな、嫌だなんて……」

「はめてみて」

言われるがままに、和広は指輪をはめた。それは彼の左手の中指にぴったりだった。

「よかった、サイズがあってて……手をつないだときの感じから当たりをつけたんで、あってるかどうか不安だったの……」

照れて顔を赤くしながら千秋が説明する。

「ありがとう……大事にするよ」

手の甲を見せながら、和広も照れつつ礼を言った。

「うん……」

ふと、会話が途切れた。

二人はただ見つめ合っていた。ただそれだけで満ち足りた気分になれた。

いや……それだけではおさまらない何かが二人の心の内に生じていた。

それを押し進めたのは冷たい寒風だった。そのあまりの冷たさにしかめっ面をした千秋に、和広は手を彼女の頬にあてがった。

「あ……」

彼女の頬はまったくもって冷えきっていた。それを和広の手が温めていく。指を動かす毎に千秋の肌に赤みがさしていく。

……あたたかくて気持ちいい……くすぐったい……。

ぽやーっとした顔で千秋は和広を見つめた。さっきより近付いている感じがする。

……こんなに近くにいる……もっと、近づきたい……もっと……。

知らず知らずに、二人の距離は狭まっていく。

その時、和広は千秋の名を呼んだ。いつもとは違う響き。初めての言葉。

「千秋……ちゃん……」

「せり……和広……くん……」

初めて名前で呼び合うことで、何かが変りつつあることを二人は感じた。そしてそれは二人の更なる接近を呼び、やがて……やがて……。

和広は頬に当てていた手を首の方にずらすと、反対側の手で千秋の身体を抱き締めるようにした。

千秋は顔を上げた。不安と緊張と、そして、期待に満ちた表情で。それからほんのちょっとだけ背伸びをすると、そっと、目を閉じる……。

そんあ千秋を限りなく優しさに満ちた目で和広は見つめると、身をかがめるようにして顔を近づけると、千秋の唇に自分の唇を、そっと重ねるのであった……。


雪はまだ降り続いていた。しかし、寒さなど感じはしなかった。身体も、そして心も、すぐそばに愛しき者の存在を感じていられる限り、なにも恐れるものは無かった。

聖なる夜に降る雪は、すべてを優しく包み込んでしまうものなのかもしれない……。





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