「わあ、すごい人」
背伸びするように前を見ながら千秋は声を上げた。
「そりゃあ、初詣でだからねえ」
そんな彼女が倒れないように、巧みにポジション取りしながら和広が言った。
「人混みは嫌い?」
「好きな人いるのかしら?」
「時と場合によるんじゃないのかな?」
「そうね……芹沢君と一緒なら、我慢できるかな」
そう言って千秋は和広の腕に掴まった。
「えへへ……」
「そうだね……仁科さんと一緒なら」
和広には珍しい、照れたような表情をしながら彼は言った。
「でも……それでも人混みは苦手かな」
「うふふ……さあ、行きましょう。早くしないとどんどん混んできちゃうもの」
そうして二人は社殿の方に進んでいった。
社殿の前のスペースは人で溢れてる。それをかきわけながら二人は進み、ようやく拝観できるところまでやって来た。まず和広が賽銭を投げると、手を合わせて何かを祈った。千秋もそれに習って賽銭を投げ、手を合わせる。
そうして二人は人混みから離れて、落ち着ける場所までやってきた。社殿裏手の雑木林のそばだった。不思議と人影はまばらだ。
「わー、すごい人だった」
少し息を切らしながら千秋は言った。
「初詣って、全然廃れてないのね」
「そうだね。なんだかんだ言っても、伝統というのは無くならないらしいよ」
社殿を見ながら和広は言った。
「歴史の重み……か」
「ま、それほどしゃちほこばらなくても。結局はいつもの生活の延長、積み重ねなんだ」
「そうね……でも不思議だわ。それが何百年も続いてるなんて」
「そうだね。何もかもか同じと言うわけじゃないけど、その心は昔からずっとつながっているんだ……すごいことだよね」
「ほんとね……」
「さて、そろそろ行こうか?寒くなってきたし」
「ええ」
そうして二人は神社に向かう人とは逆方向に歩き出した。
「これから時間はあるの?」
和広が尋ねる。
「ええ、もちろん」
うれしそうな顔で千秋は答えた。
「家の人とはいいの?」
「うん。挨拶はしたし、お年玉はもらったしね。それに親戚回りとかできないし」
「どうして?」
「散らばりすぎてるのよ、二本以外に。国際結婚してる人も多いしね」
「そりゃにぎやかだね」
「そうなの。でも日本に帰ってきたおかげで、かえって会えなくなっちゃって……」
「それは寂しいね」
本当に寂しそうな顔になって和広は言った。
「でも……いいの」
だが、明るい表情で千秋は言った。
「ちゃんと顔見てお話しできるしね。それに……」
「それに?」
和広の問いかけに、千秋は照れたような笑みを浮かべ、言いにくそうにこう言った。
「それに今は……芹沢君がいるし……ね」
「仁科さん……」
二人はお互いの顔を、冬の寒さ以外のなにかで赤く染めながら、見つめ合った。
と、その時。
「明君、こっちこっち!」
どこか聞き慣れた声が近づいてきた。
「ま、待ってよ、由布ちゃん!」
どうやらカップルらしい……いや、和広と千秋には二人が誰か分かりすぎるほど分かっていた。
「ほらー、人いないよー!」
晴着姿で駆け出して来たのは由布だった。後ろの方へ手招きしていた彼女は、振り返って和広達の姿を見つけると、すっ頓狂な声をあげて二人を指差した。
「あー!和広君に千秋ちゃんだー!」
そして二人に駆け寄ると、妙ににこにこした顔で話しかけてきた。
「あけましておめでとー!新年早々あつあつだねー、お二人さん!」
「ゆ、由布ちゃん……」
照れと戸惑いで顔を真っ赤にした千秋は、由布の顔も真っ赤になっていることに気がついた。
「いいなー。こんなところで何してたの?二人っきりであやしいんだー」
「べつになにもしてないけど……」
「ほんとに〜?」
「ほ、ほんとうよ」
「でも〜、二人とも顔真っ赤だよ〜」
あははと笑う由布の方がもっと顔が赤いのであるが……。
その時ようやく明が姿を現した。
「ゆ、由布ちゃん!」
「あー、明君、おっそーい!」
由布は千秋から離れると、今度は明に絡み出した。
「明君が遅いから先越されちゃったじゃない〜」
「ご、ごめん。でも由布ちゃん急に走り出したりするから……」
「なによー!明君が悪いったらわるいのー!」
「参ったなもう……」
どうにも処置無しといった風情で明は天を仰いだ。
「一体どうしたんだい?」
さすがに呆れた様子で和広が尋ねた。
「それが……参道で売ってた甘酒を飲んだらこの有り様で……」
「なによー!あたしが酔っ払ってるとでも言うの!?」
「……それでさっきからこうなんだよ」
「由布ちゃんって、お酒に弱いのね」
「だから酔ってなんかないってばー」
「甘酒って、結構アルコール度高いからね。でもこれはちょっと……」
「和広君までー!あたしはぜんぜん……」
「わかったから、さあ由布ちゃん帰ろう」
最近少しは強くなってきた明は、そう言って由布を引っ張っていく。
「やだやだー、まだこれから行きたいところがあるのに〜」
しかし酔っ払って力が入らないのか、いとも簡単に由布は明に引かれて去っていった。
「なんだか……すごかったわね」
「うん……あれじゃあこの先思い遣られるねえ」
呆れ顔で和広と千秋は見つめ合うと、弾けたように大きな声で笑い出した。
「……うふふ……はーあ……でもなんだか楽しそうだったわね」
「ほんとだね」
「あたしたちも……ああなれるのかな?」
千秋はちょっとだけ不安を除かせる顔で和広を見る。そんな千秋の肩をそっと抱き寄せて、和広は言った。
「それはわからないけれど……でも、二人で楽しくいれたらいいなと思うんだ。どうすればいいかは、少しずつ考えていければ……」
「少しずつ……そうね。そうよね」
千秋は満面の笑みを浮かべると、そっと和広の身体に腕を回して抱きついた。
「今年もよろしくね……和広、くん……」
「千秋……ちゃん……」
「あーあ、参ったなあ」
天城みどりは参道の途中で途方にくれていた。由一達と初詣でに来たのはいいのだが、人混みのせいではぐれてしまったのだ。連絡は取ろうと思えば取れるのだが。
……いいわよね、他の人達は。ちゃんと一緒にいてくれる相手がいてさ。
由一に友子、久美子に始という組合せでは、みどりはどうしても余ってしまう。そんな事実が余計にみどりを落ち込ませていた。
……帰ろっかな。どうせおもしろいことないし……でもなんであたしだけ……あたしだけ……。
そうしてみどりが参道を人の流れに逆らって移動しようとしたその時、突然前の方から声をかけられた。
「天城じゃないか。今帰りか?」
「は、長谷川先生!?」
みどりは長谷川の姿に驚いた。
「その格好、なんですか?!」
「なんですかって、別に変じゃないだろう?」
不満そうな表情で長谷川は自分の姿を眺めた。古式ゆかしい男子の正装である。
「でも今どき紋付きはかまはちょっと……」
一方のみどりは、パンツスタイルのカジュアルウェアに、羽毛ジャケットを羽織っている。
「貴重だろう。今どきだからこそ、余計に価値があるんじゃないか」
「また年寄りくさいこと言って〜」
「ひどいこと言うなあ、お前は。で、?もう帰りか?」
「あ、うん……帰りというかなんと言うか……」
「なにもわざわざ逆方向にいかなくてもいいだろう。それこそ迷子になるぞ」
「あ、うん、そうですね……」
歯切れの悪いみどりを見て、なにを思ったのか、長谷川はみどりの手を引っ張って境内の方に向かい始めた。
「あ、ちょ、ちょっと先生!」
「まったく、世話が焼けるなあ、天城は」
みどりは長谷川に手を引かれるまま、流れに乗って先に進んだ。
つかまれている手が熱かった。
……やだ、どうしよう!?
みどりは胸が苦しくなるのを感じた。走っているわけでもないのに息が切れる。
……なんでこんなことに……こんなにドキドキするなんて……あたし、どうしちゃったんだろう?
そんなみどりの同様を余所に、長谷川はみどりの手を引いて賽銭箱までやって来た。
「ほら、ついたぞ」
長谷川はようやくみどりの手を放すと、特別表情を変えずに言った。
「あ、でも……」
気持ちの整理がつかないみどりは、ちゃんとした受け答えができない。
「なあに、何回お願いしたって罰は当たらないよ。ほら」
長谷川に促されて、みどりはポケットの中に用意していた賽銭を手に取った。長谷川も同じように紋付きのそでから賽銭を取り出し、賽銭箱に放って手を合わせる。慌ててみどりも賽銭を放ると、同じように手を合わせて目を閉じた。
……なにをお願いしよう……なにを祈ろう……家内安全、交通安全、安産祈願……違う違う!そんなんじゃなくて、もっと……もっと、あたしのための、お願い。
……あたしを……あたしだけを見てくれる人が欲しい……あたしだけを思ってくれる人が……欲しい……。
どれくらい祈っていたのか……みどりが顔を上げると、周りを見回した。そして、自分を見つめる長谷川に気がついた。
「ずいぶんと長いお願いだったな」
「そ、そ、そうですか?」
まともに視線を合わせられなくて、みどりはうつむく。
……な、なんで……あたしの方見てるのよ……。
「じゃあ行こうか」
そして長谷川はまたみどりの手を取ると、祭壇の前から離れた。
「ちょ、ちょっと先生!子供じゃないんだから、手、放してよ!」
「あ、ああ、そうだな」
みどりの抗議に、長谷川は素直に彼女の手を放した。
「もう!あたし、迷子かなんかじゃないんだから!」
「すまんすまん……ただ、なんかどこか流されそうな気がしてなぁ」
長谷川はそう言うと、空を見上げた。
「流される?」
「……上の空で人混みの中を歩くのは危険だよ」
「上の空って……あたし、そんな風に見えました?」
そうみどりが聞くと、長谷川は彼女に顔を向けながら言った。
「ああ。さっき階段で見かけたときは特、にね。これでも教師だからね……生徒の変化に気付かないほど愚かではないつもりだ」
「……」
「まあ、悩むなと言っても無理だろうから、気をつけろとしか今は言えないが……どうにもならなくなったら、相談しにくるんだぞ」
そう言って、長谷川はにっこりとみどりに笑いかけた。
「せ……せんせい……」
みどりは口に手をあてて、今にも泣き出しそうな顔で長谷川を見つめた。
「ああ、もう、そんな顔するな」
長谷川はみどりの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「せっかくの正月だって言うのに……笑う門には福来たるって言うだろう?ん?」
「う、うん……」
みどりはなんとかこらえると、突然、長谷川の袴の裾をつかんだ。
「お、おい……?」
戸惑う長谷川に、みどりはうつむいたまま、ひどくかすれた声で、言った。
「……いまはまだ……なにも考えられないから……でもなんとかしてみせるから……だからちょっとだけでいいから……あたしのこと見てて……」
「天城……」
そうして二人は硬直したまま、その姿はいつしか人込みに紛れ、見えなくなってしまった……。
「意外と小さいところなんですね」
秋月信雄は、様々な機材で雑然としている通路を歩きながら感想を述べた。
「予算はケチるのが我が社の基本方針だからねえ」
信雄の先を歩く、スタイリスト兼写真担当の磯辺ユカリは、バッテリーをひょいっと避けながらそう答えた。
「がっかりした?」
「いえそんな!それに、せっかく招待してもらったのに……罰が当たりますよ」
「うふふ、それはそうよねえ。あの秋吉沙織のライブをすぐそばで見られるんだから」
今日は秋吉沙織のニューイヤーライブが開かれることになっていた。そのスタジオに、信雄は外部の人間としてただ一人招待されているのだ。
「沙織さんはもう?」
「ええ、準備万端。後は開始を待つばかりよ」
「そうですか……」
「でね、その前に君を連れてきて欲しいって言われてるの」
「えっ!?そうなんですか?」
「さあこっちよ」
ユカリに促されて、信雄は控室のまでやってきた。
「沙織、入るわよ」
ユカリがノックして中に入っていくと、鏡の前でステージ衣装に身を固めた沙織が二人の姿を見つけて笑顔を返した。
「あ、来た来た!」
「やほー、連れてきたよ〜」
「待ってたよ、信雄君」
そう声をかけられて、信雄は体を硬直させて返事をした。
「は、はい!すみません、道が混んでて……」
「ああ、そうよね。お正月だものね」
「じゃあ沙織、あと五分だからね」
そう言って、ユカリは沙織と信雄を残して控室を出ていった。
いきなり二人っきりにされて、信雄はどぎまぎして沙織を見た。
沙織は真っ白なドレスに包まれるようにして、椅子に座って信雄を見つめていた。
「ん?どうかした?」
「い、いや、なんでもないです!」
「そう?でもよかったわ、ちゃんと来てくれて。もうすぐ始まるところだったのよ」
そう言って笑う沙織は、いつも通りの明るい沙織だった。
……クリスマスパーティの時と全然違う……元気になったんならそれはいいんだけど……でも……。
「あ、あの……どうして、僕だけ呼んでくれたんですか?」
そう信雄が尋ねると、沙織は胸元に手をやって首にかかったネックレスに触れた。
……あ、あれは、僕がプレゼントした……。
「まあ……みんな色々やることあるだろうし……それに……クリスマスの時、信雄君になにもお返ししてなかったしね」
そう言って沙織は、少し哀しげに微笑んだ。
「ごめんなさい……今のあたしには……これくらいのことしかできないから……」
「い、いえ、そんなことありませんよ。かえってこっちが迷惑かけてるみたいで……」
「そんなことないわ。こうしてここにいて歌を歌えるのだって、信雄君のおかげだもの。でも……まだなにも決められない……どうしていいのか分からない……だから今は……この気持ちを歌に歌うの。それが、今できる唯一のことだから」
そう言って、沙織はなにもかも吹っ切ったような笑顔を浮かべた。
「沙織さん……」
「さて、もう行かなきゃ」
沙織は立ち上がると、控室を出て行こうとした。
慌てて信雄がその後を追って部屋の外に出ると、いきなり腕を掴まれた。
「え、あ!?」
「君はこっち」
信雄を止めたのはユカリだった。
「沙織、頑張ってね」
そうユカリが沙織の背中に声をかけると、沙織は背を向けたまま手を振ってみせた。
「あ、頑張ってください!」
信雄も声をかける頃には、沙織の姿は通路の暗闇に消えていった。
「……でね、由布ったら、押し込みすぎてむせちゃって、もう大変!」
「相変わらず落ち着きのない奴だな、あいつ」
森村由一と鈴本夕子は仲良く腕を組みながら繁華街を歩いていた。
「我が妹ながら情けない……」
「ああ、その妹ってやつね、いつも言ってるよ。そんな不公平なことは認めないって」
「そんなこと言ったってなあ……俺の方が先に生まれたんだからしょうがないじゃないか。昔あいつさ、母親によく文句言ってたぞ。なんであたしを後に産んだんだって」
「あははは、由布らしい……ああっ、そうだ!!」
いきなり友子は立ち止まると、ショーウィンドウの中をのぞき込んだ。
「どうした、いきなり?」
由一が同じように中をのぞき込むと、そこには大型モニターが設置されていて、コンサート風景のような場面が映し出されていた。
「あれ……沙織ちゃんか?」
「そうよ!すっかり忘れてたぁ……誰か記録してないかなぁ」
「しかし、正月早々大変だな」
「そうだよねえ。また学校に来なくなっちゃうのかなあ……」
「仕方ないさ。なんてったって、世界中で人気急上昇中だもんな……すごいよまったく」
「でもなあ……」
「なにか不安でもあるのか?」
「うんまあ……歌っている理由がね……今でもあるのかなって……」
「理由……か」
由一と友子は、一様に暗い表情になった。
秋吉沙織が歌を歌う理由。それはただ一つであるはずだった。そしてそれはもはや……。
「あれ、始君、友子ちゃん」
そこに通りかかったのは、和広と千秋だった。
「あ、ああ、和広君!」
ぎこちない表情の友子を和広は怪訝そうな顔で見たが、ショーウィンドウの中の沙織に気がついて、少し傷ついたような表情を浮かべた。
「そうか……今日ライブだったね」
その表情を不安げに千秋は見上げた。
「あー、どこか行くところなのか?」
由一があやしい雰囲気を察して妙に明るくそう言った。
「ああ、いや、特に行くところが会ったわけじゃないけど……」
「ふうん……一緒にいるだけで幸せってとこかぁ」
友子がにやにや笑いを浮かべながら和広と千秋を見た。
「ずいぶん進歩したね、二人とも」
「し、進歩っていったい……」
「ゆ、友子ちゃん!」
「あはははは、照れない照れない」
「なあ、どっか行こうぜ。このままじゃこごえそうだ」
由一の提案に、皆は一斉に肯いた。
「ああ、でも……俺達には、あまり熱いものはいらないか」
飯坂始は、堅苦しい表情で目の前の豪邸を睨み付けていた。
一見して古くからの旧家と分かるその日本家屋は、街の一区画を占有するほどの敷地を備え、築地塀でその周囲を囲っていた。そして塀の向こう側には、威厳に満ちあふれた建家が始を静かに見下ろしていた。
……いつ見てもいやな家だな。人を馬鹿にしてるみたいだ。
始がこの家を見るのは初めてではないが、見るたびにそういう思いにとらわれる。
……いけねえよな、こんなんじゃ。家なんかに罪はないのに。まして……。
その時、大仰な正面の門構えの脇の、通用口の扉がついと動いた。そしてそこから晴着に身を包んだ若い女性が現れた。
彼女は始の姿を認めると、小走りに駆け寄ってくる。
「ごめんなさい、待たせちゃって……」
田崎久美子はそう言って慎ましやかに微笑んだ。
「いや、待ってねえよ。気にするこたねえよ」
始はぶっきらぼうにそう答えると、久美子は口許を手で押さえてくすくす笑った。
「うふふ……始の方が気を使ってるんじゃないの」
「う、うるさいな。行くぞ!」
始は顔をそらすと街の方に歩き出した。しかし、いつになくゆっくりとした足取りだ。
久美子はちょっとだけ走って始に追いつくと、そっとその腕に自分の腕を絡めた。
「お、おい」
「いいじゃない……あたしがこうしたいの……」
しばらく二人は無言で歩き続けた。
由一と友子のカップルほど凸凹ではないが、熊に連れられる鮭のような二人の姿は、微笑ましさに溢れていた。
「……なあ、久美子」
沈黙に耐えきれなくなったように、始は声をかけた。
「なぁに?」
久美子が見上げると、始は前を向いたままで言った。
「……本当に俺で良かったのか?」
すると久美子は、表情を強張らせて、だが始の顔を見つめたままで答えた。
「始こそ……あたしなんかでいいの?」
「前から言ってるだろう……ずっと前から……俺の気持ちは変っちゃいない」
その声には、なんの迷いも感じられなかった。
「でも……あたしはそうじゃなかった……」
「久美子……」
始は久美子の顔を見つめた。その表情には迷いが生まれていた。
「今だって……そうだって言いきれる自信は……ほんとうは無いのよ……ずるいよね、あたしって……あたしだけ、逃げてる……あたしって、ほんとう、卑怯者だわ」
「久美子、それは違う!」
いきなり大声を出して立ち止まる始を、久美子は驚きの目で見た。
「は、始……?」
「ほんとうに卑怯なのはあいつだ!自分じゃなにも決められない、あの軟弱男のせいだ!あいつはいつだって他人を不幸にする。そのくせてめえも不幸になって、それで余計に他人を不幸にしやがるんだ!だから一番悪いのはあいつなんだ!だから久美子が悪く思う必要なんてないんだ!わかったか!?」
そう言ってしまってから、始は罪悪感に苛まれた。
「す、すまん……お、俺はただ、お前はなにも悪くないって言いたかっただけで……別に和広が憎いわけじゃ……」
「……わかってる」
久美子はそっと始の顔に手を伸ばすと、そっと頬を撫でた。
「わかってるわ。みんなわかってる。誰も悪くない……ただ、うまくいかないだけ……でもみんな頑張ってる。だから……あたしも頑張るの。だってそうじゃなきゃ……そうじゃなくちゃ……前に進めないもの……」
そうして久美子は始の身体に身をもたせかけた。
「でも……進めなくなっちゃったら……あたしなんか置いてっちゃっていいからね……始は……あたしに付き合う必要なんてないんだから……」
「ばかやろう」
始はいきなり久美子を抱き締めた。力強くて、優しくて、あったかくて、すべてを包み込んでしまうかのように……。
「その時は、俺が尻ひっぱたいてでも進ませてやる。俺は……お前じゃなきゃ嫌なんだ」
「は、始……」
久美子は始の腕の中で恥ずかしそうに顔を赤らめると、そっと呟くように言った。
「……ほんとにもう……わがままなんだから……でも……ありがとう……」
『みなさーん、新年、あけましておめでとうございます!』
TVモニターの中で、秋吉沙織は元気よく声を出していた。
『去年はどんな年でしたか?いいことも、よくないことも、いろいろあったと思います。わたしにも、いろいろありました……でも、こうして今、みなさんの前で歌を歌うことができます。一年の始まりに、これほど幸せなことはありません。それでは、今年一年の平安を願って……"Believe"』
するとバックミュージックが流れだし、沙織の歌声が流れだす……。
信雄はそれをじっと見つめていた。
ここは調整室の隣にしつらえられたモニター室。そこで彼はユカリと共に沙織のコンサーと風景を見ていた。
透き通るような歌声があたりに響く……それを注意深く聞く信雄を、ユカリは冷ややかな目で見つめていた。
一曲、二曲と進んでいっても、まだ信雄は黙って聞き続けていた。
そして三曲目に差しかかったとき、ユカリが口を開いた。
「……ずいぶんと、厳しい目で見ているのね」
「え?!」
「もっと楽しんで聞いたら?」
すると信雄は画面を見つめたまま言った。
「いや、その、ちょっと気になることがあったから……」
「気になること?」
「ええ……ユカリさん達が気付いてたかはわからないですけど……最近の歌い方、おかしくなかったですか?」
するとユカリは感心したような表情を浮かべて信雄を見た。
「あら……どんなところが?」
「いや、声とか技術とかじゃなくて……はっきりした変化じゃないんですけど……なんか違和感があったんです」
「違和感?」
「それで思ったんです……楽しくないのかな、って」
「楽しくないって……沙織が?」
「はい……でも今日は……大丈夫みたいです」
そう言う信雄を、ユカリは暖かく見つめた。
「ふうん……ずいぶんと沙織のこと、わかるのね。それてってもしかして……一途な想いって奴かしらぁ?」
「い、一途な想い!?」
声を裏返して信雄がユカリを見ると、にやにやしながらユカリが見つめている。
「だって、あたしたちの中でも気がつかないのがいるっていうのに、そんなことに気がつくだなんて……それにね。沙織が知合いを仕事場に連れて来るのなんて初めてだし……」
「は、はじめて!?」
「そぉよぉ。ご家族だってまだなんだから。ずいぶんと気に入られてるみたいね」
そう言われて、信雄は顔を真っ赤にしてモニターの方に顔をそらした。
ちょうど、前半部分が終わるところだった。
……沙織さん……ほんとうにそうなのかな……気にしてくれているのはわかるけど……ただそれだけじゃないのかな?それ以上の感情は……無いんじゃないのかな……元気になってくれるのは嬉しいけど……でも……なんか寂しいな……。
「ねえ、つぎはこっちこっち!!」
「お、おい!」
正月の人出でごった返すアミューズメントパークの中を、みどりは楽しそうに走っていた。その後を必死の形相で長谷川が追いかける。
「はやくはやく!」
「そんなこと言ったって……この人出じゃあ……」
おまけにひらひらした部分が多くて、長谷川はひどく動き辛かった。
しかしみどりはそんなこともお構いなしに、目標のゲーム機の前に急ぐ。
「はあはあ……」
息を切らした長谷川を見て、みどりは呆れた顔をして言った。
「だらしないなあ、これくらいで疲れるなんて」
「あのなあ……いきなり走ることは無いだろう?」
「やっぱり運動能力落ちてるんじゃない?もっと身体鍛えた方がいいよ?」
そう言ってみどりはゲーム機にかぶりついてプレーを始める。その様子を、長谷川はため息と共に見つめた。
ひとしきりゲームを楽しんだあと、みどりは満足げにゲーム機から離れた。
「ああ、これも面白かったー。えっと、次はっと……」
「おい、まだ回るつもりか?これでもう十機目だぞ」
「だめだめ!まだ遊び足りないんだから!」
「まったく……さっきまで泣きそうだったのが嘘みたいだな」
長谷川が嫌味っぽく言うと、みどりは顔を真っ赤にして大声を出した。
「ちょ、ちょっと、こんなところで言わなくってもいいでしょ!?」
すると周りから笑い声が聞こえてきた。
みどりはますます顔を真っ赤にすると、長谷川の袖を引っ張ってその場を離れようとする。
「お、おい、そんなに引っ張るなよ。高いんだぞ、これ」
「いいから行くわよ!」
そうして二人は近くの喫茶店に落ち着いた。
みどりはまだ顔を怒らせて長谷川を睨んでいる。
「まったくもう……なにもあんなところで言わなくったっていいじゃないのよ!?」
「そう怒るなよ。第一、事実じゃないか」
「駄目なの!そんなことみんなの前で言っちゃいけないの!わかった!?」
「はいはい、よーくわかったよ」
「はいは一回!」
「あ、はい」
と長谷川は答えて、そして、大きな声で突然笑い出した。その様子をきょとんと見つめていたみどりに、彼は笑いをおさめると面白そうに言った。
「ははは……はあ。これじゃあどっちが先生で生徒かわからないな」
それを聞いたみどりは、顔を真っ青にして口元を押さえた。
「ご……ごめんなさい!あたし調子に乗って……ごめんなさい!」
そう言って頭を下げるみどりを、長谷川は嬉しそうに見つめた。
「まあ、元気になったのならいいさ」
「先生……」
「それとも……まだ不安か?」
そう言う長谷川の表情は、真剣そのものだった。
みどりは思わずその顔を見つめてしまった。急に胸が苦しくなって、熱くなった。
「ん?どうした?顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないだろうな?」
そう言われて、慌ててみどりはぶんぶんと首を振った。
「な、なんでもない!ちょっと暑いだけ!」
「ならいいが……正月早々、あんまり無茶するなよ」
「う、うん……」
……なんで……なんで先生見るとこんなになっちゃうのよ……これじゃまるで……まるで……。
その時、飲み物が運ばれて来た。長谷川は紅茶、みどりはフルーツパフェ。
みどりはしばらくパフェの山を見つめていた。それは室温で次第に解けてゆき、上にのったバナナがずり落ちていく。
「天城……食べないのか?」
長谷川は心配そうな顔でみどりに言った。
「……え?あ、ああ、う、うん」
慌ててみどりはグラスから落ちそうになったバナナをスプーンですくった。
「しかし、よく真冬に冷たい物が食べられるなあ」
長谷川は感心したような信じられないような、複雑な声でそう言った。
「……」
しかし、みどりは答えずにパフェをつつくだけ。
「なんだ、食べないのか?もったいないことしたら、もったいないお化けが出てきてだな……」
しかし、みどりは長谷川の言葉を聞いていなかった。ただひたすら、パフェをつっつき続けた。
……あたし……まさか……先生のこと……ううん、ちがう……今のあたしは不安なだけ……不安でどうしようも無くて……だからちょっとしたことで心が揺れるんだ……だからこれは……これは……。
「……もうこんな時間か」
長谷川は腕時計を見て言った。
はっとなってみどりは長谷川を見ると、彼は優しそうな目でみどりを見ていた。
「どうする?まだどこか行くか?」
「え……せ、先生はいいの?」
すると長谷川はうなずいて言った。
「約束したからなぁ」
みどりは神社でのことを思い出して耳まで真っ赤になった。
……あ、あたし、なんであんなこと言っちゃったんだろう?!見ててほしいだなんて……子供じゃあるまいし……。
「それで、まだ付き合うか?」
「い、いえ、もう大丈夫です!!」
みどりは首を横に振りまくって断った。
「ごめんなさい、変なことお願いしちゃって……」
「いやいいさ。結構楽しかったしな……」
「え?」
「それじゃあな」
そう言って長谷川は立ち上がり、
「それとも、家まで送ってってやろうか?」
と、おどけたように言った。
「な!?だ、大丈夫です!!」
みどりは思わず大声で怒鳴ってしまい、周囲の客から好奇の目で見られてしまった。
余計真っ赤になったみどりの頭を、軽く掌で叩きながら長谷川は言った。
「それだけ元気があれば大丈夫だな。じゃ、気をつけて帰れよ」
「あ……」
そうして長谷川はみどりに背を向け、店から出ていった。
その後ろ姿を、みどりはぼうっと見送った。そして彼女の前には、解けて崩れたフルーツパフェだけが残されていた。
……もったいないお化け、か。
みどりは再びパフェをつっつき出したが、意を決したように、一気にパフェを食べきってしまった。
……これでよし。
みどりは空になったグラスを満足げに見つめると、立ち上がって店を後にするのだった……。
「おつかれさまでしたー!」
沙織はライブの疲れも見せない元気な声で控室に戻って来た。
「お疲れさまでした!!」
それに負けないくらい元気な声で信雄はみどりに声をかけた。
沙織はユカリに渡されたタオルで汗を拭きながらにこりと笑った。
「ありがとう……ねえ、どんな感じだった?」
「はい。良かったと思います」
そう信雄が答えると、沙織は満足そうに肯いた。
「よかった……わざわざライブ開いた甲斐があったわ」
「え、わざわざって……」
「さあさあ、そういう話は後にして!」
ユカリが二人の会話に割り込んできた。
「沙織、はやく着替えちゃいなさいよ。風邪引いちゃうわよ」
「あ、うん」
「はいはい、男子は外で待つ!」
「あ、あの……」
信雄はユカリに背中を押されて控室を出されてしまった。
「沙織の支度ができたら呼ぶから、それまで散歩でもしてきなさい。じゃ!」
そう言って、ユカリはドアを閉めた。
「まいったな……追い出されちゃったよ」
しかし、ドアの前で待っているのは気が引けたので、仕方なく信雄は廊下を歩き出した。
スタジオ内では後片付けのためか、大勢のスタッフが色々動き回っていた。ケーブルや機材の移動、その他こまごました物を動かしている。それを邪魔しないように、信雄は歩き回った。
そうして、いつのまにか、さっきまで沙織が歌っていたステージのあるホールまでやって来ていた。
そこはモニター越し見えた派手派手しい舞台ではなく、白一色ののっぺりとした空間だった。わずかに天上だけが照明設備でごちゃついていた。
これはネットワークライブでよく使われる設備で、舞台演出の様々な効果をコンピュータで合成することにより、迫力のある画面作りをすることができるのである。
「……なんだか味気ないもんだなあ」
信雄がそう感想を漏らすと、突然背後から声がした。
「急だったからね」
「え!?」
信夫が振り返ると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。年の頃は三十半ばだろうか、グレーのスーツで身を固め、いかにもやり手のビジネスマンといった感じの男だった。
「本当ならちゃんとしたライブハウスでやりたかったんだが、あいにくと急な話しすぎて、こんな場所しか準備できなかったんだ。これでも大変だったんだよ」
「は、はあ……」
いきなり話しかけられて戸惑っている信雄に、男は言った。
「君が……秋山信雄君だね?」
「あ、はい。そうです。それで、あの、あなたは……」
「森下由紀夫だ。沙織の……彼女のプロデューサをしている」
そう言って森下は、優しげな笑みを浮かべた。
「そ、そうなんですか……あ、今日は招待していただいてありがとうございます」
そう言って信雄は頭を下げた。
しかし、森下は意外の言葉を口にした。
「いや、礼には及ばないよ。むしろ、こちらがお礼を言いたいくらいさ」
「え?そ、それって、どういうことですか?」
「それは……いや、自惚れるといけないから、理由は言わないでおくよ」
そう言って森下は不思議な笑みを口許に浮かべる。
「君は確か、彼女の一年後輩だったね?」
「え?あ、はい、そうです。幼なじみがクラスメイトなんです」
「そうか。それで今は同じ学校にいるんだね?」
「はい。あんまり会えませんけどね」
「それについては私にも責任があるな……彼女をこの世界に引き込んだのは私だからね」
「そうなんですか……あの時はみんなびっくりしましたよ。前触れも無くいきなりでしたから」
「あそこまで秘密にするつもりは無かったんだが、彼女がそう願っていたのでね」
「沙織さんが……なにか理由があったんでしょうか?」
そう信雄が尋ねると、森下はちょっとだけ信雄を見つめた後で言った。
「それは……デビュー曲をよーく、思い出してみるんだね」
「デビュー曲ですか?それってどういう……」
その時、スタジオにユカリが入ってきて二人に声をかけた。
「あ、ここにいたんだ!あ、プロデューサーも!」
「ユカリさん、どうかしたんですか?」
「うん、沙織の帰り支度できたから呼びに来たのよ」
「ご苦労さん。それじゃ送っていってくれるかな?」
「はい、森下さん。それじゃ行こう!沙織待ってるよ」
「あ、はい」
ユカリに促されて、信雄はスタジオを出た。出る間際、森下に一礼すると、彼は軽く手を上げてそれに応えた。
「森下さんと何話してたの?」
沙織の許に行く間、ユカリが聞いてきた。
「いや、特別なことはなにも……なんだかよく分からないことばっかりだったような……」
「ふうん……ま、世の中そんなもんよ。なんでもわかったらつまんないって」
「それはそうかもしれないですけど……」
「煮え切らないなあ。もっとしゃきっとしなさいって!」
「ごほっ」
ユカリに背中を叩かれて、信雄はむせた。
「い、いたいですよ」
「男はもっとはっきりしなきゃ!」
「今どきそれはちょとどうかと思うんですけど……」
「女もね!ほらほら、沙織が待ってるわよ」
そうして控室の前までくると、沙織が壁にもたれて立っていた。
「遅ーい!」
沙織はちょっと不満そうな顔でユカリと信雄を軽く睨んだ。
「ごめんごめん、信雄君探すのに手間取っちゃってさぁ」
「す、すみません」
慌てて信雄が頭を下げると、沙織はくすくすと笑った。
「冗談よ……ちょっと退屈だっただけ。さあ帰りましょう」
そうして三人は、ユカリの車で家路に就くことになった。
「でも正月早々大変ですね」
後席の隣に座っている沙織を意識して体をこわばらせつつ、信雄は言った。
「でも、由布姉からは仕事はないって聞いてたんですけど……?」
「ああ、うん、その予定だったんだけど……なんだか、歌いたくなって……」
そう言う沙織はちょっとだけ吹っ切れたような表情をしていた。
「そのせいでスタッフは大変よぉ」
運転するユカリは疲れきった声でそう言った。
「もとから話はあったんだけどねえ。なにせそれ聞いたのがクリスマスの翌日でしょう?もう、大変だったんだから」
「ご、ごめんなさい!」
「いいんだって。どうせ暇だったしさぁ……」
「あら、クリスマスは誰かと一緒だったんじゃなかったの?」
沙織がそう聞くと、ユカリは妙にうろたえた。
「な、な、なに言ってるのよ!?」
「だって、ユカリさん素敵だし、誰もほっとかないんじゃないかなぁって」
「大人をからかわないの!まったくもう……あ、そうだ。信雄君はどうだったの、クリスマスは?」
突然話を振られて、信雄はちょっとしどろもどろに言った。
「え、あ、いえ、その、沙織さんたちのクリスマスパーティに参加してました」
「ああ、それって沙織のお友達同士でやってる奴ね。まあそういう和気あいあいのもいいけど、やっぱり恋人と二人っきりがいいわよねえ……」
思わず信雄と沙織はお互い顔を見合わせた。お互いに、はっとして言葉も無い。
……二人っきり……最後の瞬間は確かに二人っきりだったけど……でもあれは……。
「……あらぁ、なにかあったの?」
そんな二人をバックミラー越しに見ながら、茶化すようにユカリが言った。
「え!?な、なにがですか?!」
「だって……二人とも見つめ合っちゃっていい雰囲気だったんだもの」
「か、からかわないでください!」
「ごめんごめん」
ちょっと気持ちを落ち着けてから、信雄はちらっと沙織の方を見た。すると沙織は窓の外の暗闇を見つめていた。
……あの時のこと……気にしているのかな?やっぱり、迷惑だったのかな……。
そうして沙織の家に着くまで、誰も話すことがなかった。
「さあて、ついたわよー」
「……ああ、もうついたんだ」
沙織は残念そうにそう言って、車のドアを開けて外に出た。そして窓から中をのぞき込むと、信雄に向かって言った。
「急な話だったのに、来てくれてありがとう」
「い、いいえ、とんでもないです!僕だけ呼んでもらえて、本当に嬉しかったです!」
必死な様子で話す信雄に、沙織はちょっとひきつったような笑みを浮かべた。
「う、うん……そう言ってもらえると、あたしも嬉しいわ」
「沙織さん……」
「それじゃあ……またね。ユカリさん、お願いします」
「まっかせて〜!それじゃあね、沙織、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
「それじゃあ行くわよ、信雄君」
「あ、は、はい。おやすみなさい、沙織さん!」
「うん、おやすみなさい……」
沙織と信雄はお互い軽く手を振り合うと、ユカリは車を発進させた。
姿が見えなくなるまで沙織を見ていた信雄は、窓から離れてシートに深々と身体を沈めた。
……沙織さん……あんまり嬉しそうには見えなかった……無理しているのかな?僕が変なこと言ったから……。
「……疲れた?」
その様子を見て、ユカリはそっと声をかけた。
「あ、いえ、そういうわけじゃ……」
「それはそうね。今が一番力が有り余っているときだもんねえ。それじゃあやっぱり……沙織のことね?」
「え?!ど、どういう意味ですか?!」
信雄は思わず体を浮かせてうろたえた。その様子に、あきれたような口調でユカリは言った。
「そんなの見ればわかるわよ。二人ともお互いを意識してるんだもの」
「そ、そんな風に見えますか!?」
「うん、見える見える……特に君はもろバレ」
「は、はあ……」
「ふふ……いいなあ、そういう初々しいとこって。君、あんまり経験ないでしょう?」
「け、経験って……」
「恋の、け・い・け・ん、よ」
「恋の……?」
「そ、恋愛経験……それも、うまく自分の気持ちを言えないタイプ。損な性格ね」
「損、ですか」
「そう。ぐずぐずしてると、チャンス逃しちゃうわよ。もっと積極的にいかなきゃ」
「せ、積極的って……」
「まあそうね……押し倒すとか」
「お、おしたおすっ!?」
ユカリのとんでもない発言に、信雄は思わず車の中で立ち上がりかけた。
「そ、そ、そんなこと……で、できるわけ無いじゃないですか!」
「若気の至りって奴で済むかもよ?」
「わ、若気の至りってそんな……」
「まあ、そんなことしでかしたら、あたし、そいつを絞め殺してやるわ」
急に真面目な口調でユカリは言った。
「それくらいの勢いでいけってこと。もちろん、相手の気持ちは最大限に尊重しないとね。まずは、自分の気持ちを伝えること……すべてはそこからよ」
「自分の気持ち……」
……僕の気持ちは……そう、僕の……。
「ああ、そうそう」
一転して、軽い口調でユカリは言った。
「沙織に聞いたんだけど、来週友達同士でスキーに行くんだって?」
「え?あ、はい」
「君も行くの?」
「ええ、その予定ですけど……」
「ふうん……だったら」
「だったら……?」
そう信雄が問い返すと、ユカリはちょっとだけ信雄の方を見て言った。
「それこそ、チャンスって奴じゃないかな?」
ユカリの車でマンションまで送ってもらった信雄は、一人エレベータに乗って上の階へと登っていった。
さっきユカリに言われた言葉が頭の中で反響する。
『ぐずぐずしてると、チャンス逃しちゃうわよ。もっと積極的にいかなきゃ……』
……ぐずぐず……か。そんなことはわかってるよ……クリスマスパーティ以来、なにも話してないし……沙織さん、なにも言ってくれない……でも……僕ははっきりと、自分の気持ちを伝えたんだろうか?曖昧な言葉で逃げてたんじゃないだろうか?
……もっとはっきり……僕の気持ちを……。
エレベータは、指定階数で停止した。
信雄はおぼつかない足取りでエレベータを降りると、家に向かって歩き始めた。そして通路の角を曲がろうとしてちょっと顔を上げると……。
「……!?」
信雄は目を見開いてその光景を凝視した。
仄暗い明かりの下で、若い男と女が寄り添って、そして……キスをしていた。
別段珍しい光景ではない。道端でよく転がっている、日常的な光景に過ぎない。
しかし、今の信雄には衝撃的すぎた。
……由布姉……春日先輩……。
信雄の胸は苦しさで押しつぶされそうになった。心臓が恐ろしい音をたてて鳴った。
二人は信雄に気付くことなく、しっかりと抱き合ったまま唇を重ね続けた。
口許がうごめく様を、信雄はじっと凝視する。
……あれが……キス……あれが……。
信雄にとって永遠にも思える一瞬は、わずかに十数秒であったに違いない。
由布と明は口づけを終えたのか、ほんの少しだけ身体を離した。
……あ!?
とっさに信雄は影に身を隠した。まだ心臓は割れ鐘のように鳴り続けている。
「……えへへ。明君、最近ちょっと変ったでしょ?」
由布の甘えるような声が聞こえてくる。
「え、な、なにが?」
ちょっとだけ動揺を含んだ明の声がする。
「だって……まえと……キスの仕方が違うんだもん……」
「え!?え、そ、それは、その……色々と僕も……」
「うふふ……いいの。今の……とっても気持ちよかったから……」
「由布ちゃん……」
「明君……大好きだよ……」
「僕もだよ……由布ちゃん……」
甘い恋人たちの会話……信雄はそれを聞きながら、なんで自分はこんなところに隠れているんだろうと、思った。
……なんだよ……なんで僕が気を使わなくちゃいけないんだよ……あんなところであんなことしてる方が悪いんだ!
信雄は急に立ち上がると、わざと足音を立てるようにして通路を曲がった。
「あ、の、信雄!」
由布は慌てて明から離れた。明は真っ赤になって照れている。
「い、いま帰ったんだ」
そう言う由布の顔も真っ赤だった。
「そうだよ、だからなに?」
信雄は冷たい態度でそれに答える。
「いや、べつになにもないけど……」
「あ、じゃあ、僕、帰るよ」
なにか変な雰囲気を感じ取った明は、小走りにその場を離れた。
「またね、由布ちゃん。秋月君も」
「うん、またね!」
由布が嬉しそうに手を振ると、明もそれに応えて手を振り、そして通路の角に消えていった。その後ろ姿を、信雄は冷たい目線で追った。
「そういやあんた、どこに行ってたの?すぐいなくなっちゃってさ?」
森村家と秋月家では正月を共に祝うことになっており、最初は信雄もいたのだが、由布達が初詣でに行くよりも早く、家を後にしていたのだ。
「べつにいいだろう?由布姉には関係ないよ」
「ちょっと、なによ、その言い方?関係ないはないでしょう?」
つっけんどんな信雄の言い方に、由布はカチンと来てすこし強い口調で言った。
すると信雄は、じっと冷たく由布を見据えながら言った。
「関係ないよ。これは……僕の問題なんだから」
「の、信雄……?」
いつもの彼とは違う雰囲気に、由布は息を呑んだ。
……なにこの子?いつもの軟弱な信雄じゃない……いったいなにがあったんだろう?
「それじゃさよなら」
信雄はそんな由布を残して、すたすたと自分の家の前まで行き、ドアを開けて帰っていった。
取り残された由布は、突然吹き込んで来た寒風に身を震わせながら、秋月家のドアを見つめていた。
……なんか……親離れした子供みたい。あ、それは子供じゃないか……でも……変なことにならなきゃいいけどなあ……。
そうして由布もまた、自分の家へと帰っていく。
あとには、冷たい月の光に照らし出された怜悧な空間だけが、全てを支配していた……。