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第13話:共に手をとりて

目が覚めたとき、千秋はただぼーっと天井を見上げていた。

妙に身体がだるかった。でも、それでいてすっきりした感じもする。

「……白いなあ……」

……あー……なんにも考えられないや……ばかみたい……あはは……。

……もう九時近いや……今日は学校休みだね……。

その時部屋に母親が入ってきた。

「あら、起きてたの」

そう言って彼女は千秋に近づくと、手を額に当てた。

「熱は……あんまり無いみたいね」

「うん……」

「でも今日は休みなさい。身体、動かないんでしょ?」

「うん……ごめんなさい……」

「なにあやまってるの」

母親は笑いながら言った。

「でももう無理しちゃ駄目よ?さ、お腹減ったでしょ?今なにか作ってくるから」

「うん、ありがとう……」

母親が出て行った後、千秋は再び天井を見上げた。相変わらず白いままだったが。

……学校か……どうしているかな……芹沢君……また……迷惑かけちゃうね、みんなに……。


和広は、座る者の居ない席を見つめていた。授業中彼がよそ見をするなどあり得ないはずなのだが、現にそれは起こっている。何度か教師に目撃されたが、珍しすぎてかえってなにも言われなかったほどだ。

しかしそれを無視できない者たちもいた。彼女たちにはその理由が痛いほどわかっていた。わかっていたが、なにもできなかった。ただ見守ることしかできなかった……ただ一人をのぞいては。


昼過ぎにもなると、すっかり回復した千秋は、久しぶりの休暇を楽しんでいた。

……転入したてで、実行委員なんかになったりするから……疲れがたまってたのかもね。

ベッドの上に寝ころんで本を開きながら千秋は思う。読んでいる本は、ローゼンクロイツの『薔薇十字の秘密』だ。

……神秘な力、か……そんなものがあればなんでも簡単なんだろうけど……。

……見果てぬ夢、か……永遠の命、全知全能なるもの……完全なる存在……人は、自らがそうでないことをわかっているからこそ、それが得られないとわかっていても、求めようとする……あたしも同じか。

千秋は本を閉じると、大の字になって天井を見上げる。朝見たのと同じ白い天井。

……まっしろ……ああ、何もかも真っ白にできたら……そうすれば……。

……ああ、なに考えてるんだろう……そんなになったら……何もかも忘れてしまう。それまでにあったことを忘れ去ってしまう……無意味だ。結局は過去からは逃れられない……。

……ああ、なに考えてるんだろう……うだうだ考えてたってしょうがないでしょ……考えるよりも、行動あるのみよ。

千秋はがっばっとベッドから起き上がり、通学鞄を手に取ると、中からファイル入れを取り出す。そして机の上のノートパソコンの電源を入れてなにやら調べ始めた。

「……できることをやるだけよ……そうすれば……道は開けるかも……」


放課後、昨日に引き続いてみどりが千秋の代役を務めることになった。

「むむ……なんでこんなに大変なのよ……」

みどりは頭を抱えた。昨日よりもめんどうな仕事がまわってきたからだ。正直言って、この手の作業は苦手中の苦手だった。

……アドリブなら大得意なんだけどな。

ちらっと和広の方を見る。昨日と同じように、元気がないように見える。

……ちくしょー……負けるもんか……まけるもんか……でもその前に仕事に負けそ……。

「どうしたの?汗だくよ」

「く、くみこ!」

みどりの後ろで久美子が笑っていた。

「大変ね、実行委員の仕事は」

「もう、大変だよぉ。あたし、絶対立候補しない!」

「ふふふ……ねえ、相変わらず?」

久美子は和広の方を見て言った。

「うん……昨日と同じ」

「そう……」

しばらく和広を見つめていた久美子は、唐突にみどりに向かって言った。

「あたし、替わるわ」

「え?なにを?」

「委員の代役」

「ほんと!?……あ、でも……」

一瞬嬉しそうな顔をしたみどりだったが、和広の方を見ると表情を曇らせる。

「まかせてもらえる?」

みどりを見る久美子の目は、何かを決心しているようだった。

「ん……わかった」

みどりは肯くと、椅子から立ち上がった。

「ごめんね……」

その背中に久美子がそっと囁くと、みどりは振り返らずに言った。

「和広が……元気になれば、いいから……」

そうしてみどりは部屋から出ていった。

久美子は和広のそばに近寄った。しかし気がつかないのか、ちょこちょこを手を動かして作業を続けていた。

「和広」

久美子は和広の肩に手を置いて声をかけた。

「あ!?……なんだ、久美子か……」

幽霊でも見たような顔で和広は久美子を見た。

「なんだとはずいぶんとご挨拶ね。せっかく手伝いに来てあげたのに」

「手伝いって……あれ?みどりちゃんは……」

「替わってもらったの。みどりはこういう作業苦手なんだから、ちゃんとフォローしてあげなきゃ」

「ああ、そっか……ごめん」

顔を掌でもみながら和広は言った。

「ちょっと、休まない?」

「え……でも今は……」

「少しくらいいいじゃない」

そう言って久美子は和広を立たせると、背中を押して部屋から連れ出した。

向かった先は屋上だった。日がかなり落ち込んでおり、かなり寒く感じられた。

「もう秋だもんね……」

手すりにもたれながら千秋は空を仰ぎ見た。

「なんとかなりそう、文化祭?」

「ああまあ……一時は遅れそうだったけどね」

居心地の悪そうに身体をゆすりながら和広は答えた。

「みんな頑張ってくれたからね……」

「和広はどうなの?」

「僕は……大したことはしてないさ」

「またそんな嘘を……」

久美子は和広の目前に立つと、背伸びをして彼のシャツの襟をつかまえて顔をずいっと突き出した。

「あたしが知らないと思ってるの?夜夜中まで仕事してるの、わかってるのよ?」

「そ、それはまた……よく調べたね」

和広は冷汗でも流しかねない表情でそう言うと、久美子はにっこりと笑った。

「惚れた女の執念って奴かしらね」

そうして更に顔を近づける。鼻先がくっつきそうになった。

「みんな必死なんだから……本気で和広のことを心配してるのよ」

「……わかってる、さ」

喉から絞り出すようにして和広は言った。

「わかってないわよ」

久美子は襟を掴む手に更に力をこめた。

「わかっていればこんなところでうだうだ……いや、わかってて、しないのね。それはなぜ?」

しかし、和広は答えない。相変わらず表情はこわばったままだ。

「……わかってる」

久美子は静かにそう言って、和広から手を放した。

「あなたがそういう性格だってことは、ようくわかっていたことなのにね」

そうして後ろ手に組んで辺りを歩き回り始めた。

「あなたは変ってない……洋子に出会う前から……出会ってから変ったかと思ってたけど……由布とのことが決着着いてからもそう思ったんだけど……違ったのかな?」

くるりと、和広の方を向いて言った。その顔は……朗らかだった。

「昔の和広のままなの?なにも、変ってないの?」

「さあ……僕は……」

「わからない?」

「……」

「わからない、わからない、わからない!」

突然久美子は両手を広げてわめき出した。ぎょっとして彼女を見つめる和広。

「あなたはいつもそればっかり!いつまで繰り返すつもりなの?わからないふりをするのは止めなさいよ!」

挑発的な目で睨み付けながら久美子は叫ぶ。そして一転してたとえようのない程の慈愛に満ちた表情で、彼女は続けた。

「……あなたにはわかっているはずよ。どうすればいいのか……ううん、そうじゃないわね。あなたは……あなたの思った通りに行動すればいいのよ。ただ、それだけなのよ……」

「……思った通り、に……」

和広は夢の中でつぶやくような口調で言った。

「そうよ。我慢しすぎるのよ、和広は」

ようやく普段の調子に戻って久美子は言った。

「素直に自分の気持ち通りの行動すればいいの……変に考えすぎないの。あなたは自分で自分をコントロールしすぎなのよ。少しくらい羽目を外しているくらいがちょうどいいの」

「いや、しかし……」

躊躇する和広の手を取って、久美子は和広を見上げた。

「……あなたには、人の悲しみを感じることができる力があるわ。だから、決して人を悲しませるようなことはしない。だから、大丈夫」

「そう……かな?」

依然として自信無さそうな表情の和広に、久美子は笑いかけながら言った。

「そうよ。まずは……お見舞いにいかなくちゃね」

「お、お見舞い!?だ、誰を!?」

「わかってるくせに……あ、でもその前に、お仕事片付けなくちゃね」

そう言って久美子は和広の後ろに回ると、彼の背中を押し始めた。

「お、おい、久美子……」

「実行委員の仕事たまってるんでしょ?手伝ってあげるから、さっさと終わらせちゃいましょ!」

「そ、そんなに押さないでくれよ……!」

和広の背を押しながら、久美子は心の中で呟いていた。

……あたし、一体誰のためにこんなことやってるんだろう……和広のため?確かにそれはそうだ。そしてそれはあたしのためでもある……これは違うわね……あたし以外の誰かのためだ……いいのかな、こんなお人よしで……なんて損な役回りなんだろう……。

……皮肉よね。和広のことを一番よく知っているこのあたしが……でも、これでいいんだ。これで和広が幸せになってくれるのなら……これでいいんだ。そうだよね、洋子……あんたもそうだったんだよね……だから、そうなることになってたんだよね……うん……。


しかし、あいにくと久美子の意図通りにはならなかった。実行委員の仕事は思いの外手間取り、結局千秋の見舞いにいくことができなかったのだっだ。


いい加減することも無くなってぼーっとしていた夕刻、母親が千秋の元に来客を連れてきた。

「やっほー、元気になったー?」

「由布ちゃん!」

「お見舞いに来たよん」

そう言って由布は笑いながら手に持った紙箱をひらひらさせた。

「はい、これ。ケッセンのショートだよん」

「ケッセンって……いま評判の?」

「そう!お店混んでたから買うのに手間取っちゃった」

「わあ……ありがとう」

箱を受けとりながら、千秋はちょっと涙ぐんだ。

「おしいよ〜。さっき自分用の食べたんだけど、もうおいしくておいしくてねえ……」

ベッドの上で二人並びながらケーキ談義を繰り広げた。

それが一通り終わると、いつしか話は学園祭の話になった。

「そういやさ、ほんとはあたし一人で来るはずじゃなかったんだ」

「そうなの?」

「うん。でも折り合い着かなくてね。実行委員の方も忙しいらしくって……」

実行委員と聞いて、千秋の胸が鳴る。

「……で、あたし一人になっちゃったわけ」

そう言って、由布は千秋の顔をのぞき込んだ。

「がっかりした?」

「え!?」

思わず顔を赤くして千秋は由布の顔を凝視する。

「な、なにが?」

「ふうん……んん」

由布はちょっと考え込むように眉をひそめて、だがすぐににっこりと笑った。

「そっか……」

「ちょっと……何なのよ〜」

ますます不安になって千秋は言ったが、由布はにやにやするだけで確かなことは言わない。

「なんでもないって!それより、明日は学校来るんでしょう?」

「う、うん、大丈夫だけど……」

「じゃあいいや」

「なにがいいのよ〜!?」

「だからなんでもないってば〜」

「うう〜」

「それよりさ……もう学園祭まで間がないからもっと仕事大変になると思うけど……やってける?」

「え?うーん……やる!大丈夫!」

「そっか。頑張ってね!」

そう言って、由布は千秋の髪をぐしゃぐしゃにし始める。

「あ!ちょっとやめてよ!」

「うんうん、けなげだなあ」

「あーんもう!枝毛できたらどうするのよぉ〜」

「いいなあ、長い髪……あたしも伸ばしたいなあ……」

「伸ばせばいいじゃない?」

「いやその……お手入れとか面倒で」

「面倒って……しょうがないなぁ」

「えへへ……ま、とにかくさ」

「ん?」

「がんばろーね、お互い!」

「んー……うん」


翌朝の目覚めは最高だった。体が軽くてものすごく調子がよかった。

……これだったら、空でも飛べそうね。

なんてことを考えつつ、朝食をとり、元気に家から出ていった。

たった一日行かなかっただけなのに、何年も行ってないような感覚に襲われる。

……なんか懐かしい感じ……ああ、はやく着かないかな!

定刻よりはだいぶ早く、千秋は教室に入ってきた。来ている生徒の数はそれほど多くない。

すぐに彼女は和広の席を見たが、残念ながら彼の姿は無かった。だが、鞄がおかれていたので、来ていることだけはわかる。

……そうか、委員会室!

自分の鞄を置く暇も惜しんで、千秋は実行委員用の部屋に走りだす。そして入り口が近づいてくると、速度を落としてゆっくりとドアに近づいていく。

中からは特になにも聞こえてこない。

千秋は一つ深呼吸をすると、顔に手を当てて筋肉をほぐそうと頬を揉んでみる。

……よし!

心の中で気合いを入れると、千秋はドアに手をかけて勢いよく開けた。

「おはよう!」

すると、がたっと音がして、誰かが椅子から立ち上がるのが見えた……和広だった。

「あ……お、おはよう」

意外そうな顔の和広に、千秋は満面の笑みを浮かべてもう一度挨拶した。

「おはよう、芹沢君!」

ゆっくりと和広に近づいて行く。そして彼の前で立ち止まり、じっと和広を見つめた。ちょっと落ち着きのない表情をしている。

「おとといはごめんなさい。あたしが無理したせいで、迷惑かけちゃって……」

「いや、その……」

「おまけに他の人まで迷惑を……委員会の仕事、大変だった?」

「あー……まあ、普段通りだったよ」

「そっか……あ、あたし、もう今日からはばりばりやるからね!やることがあったらなんでも言ってね!」

「う、うん……」

妙にハイテンションな千秋に圧倒されたのか、和広は目をパチクリさせながらただ千秋を見るだけ。

「そうだ!昨日余裕があったんで、このまえの調べもの、調べておいたの」

そう言って千秋は持っていた鞄の中からファイル入れを取り出す。そして中身を広げて和広に説明し始める。

「あのね、調べてみたら一杯あって絞りきれなかったから、この条件を追加して調べ直したんだけど……」

適当に相づちを打ちながら聞く和広。

「……って言うことになったの。どう思う?」

「うん……いいと思うよ」

「ほんと!?よかった!」

本当に嬉しそうに笑う千秋を見て、不思議そうな表情を浮かべる。

「ん?どうかしたの?」

その表情をみて千秋は首をかしげながら尋ねる。

「あ、いやその……」

一瞬迷った後、和広は言った。

「せっかく身体を休めているのに……どうしてそんなに急いで調べたのかな……って。時間はまだあったはずなのに……」

すると千秋は反対方向に首をかしげてちょっとの間考えた後、こう言った。

「んー……ちゃんと区切りをつけないと嫌だったから……いつまで経っても終わらないのが嫌だったからかな……」

「そ、そう……」

「それに……」

「それに?」

「……いや、こっちの話」

千秋は後ろを向いてしまった。その姿を不安そうに見つめる和広。

一方で千秋の方も、うまくいえなかったことで不安に駆られていた。

……うー、もっとストレートに言えばよかったかしら……でもあんまり直接的なのも……ううん、まよっててもしょうがないのに……。

と、その時。ホームルームの開始を予告するチャイムが鳴り始めた。

「あ……も、もう教室に戻らないと!」

慌てて千秋は和広の方を振り返る。

「ああ、うん、そうだね」

そして千秋が先に行こうとするのを、和広が呼び止める。

「あ、仁科、さん」

「ん?なに?」

不思議そうに振り返る千秋に、和広はさっき渡された資料を掲げながら言った。

「これ……ありがとう」

千秋はその顔を見て……そっと、微笑んだ。

「あ……え、なに?」

変な声を出して千秋を見つめる和広。

千秋は笑みを大きくして明るい声で言った。

「やっぱり……笑顔が一番だよ」

「え……」

思わず呆気に取られる和広を置いて、千秋は先に部屋を出た。

しばらく呆然としていた和広は、ふと鏡のある方を見た。

……そう言えば前にもこんなことがあったような……。

鏡の中には不思議そうな表情を浮かべる自分の姿があった。

……笑顔か。

ちょっとだけ、口許を曲げて笑顔を作ってみる……かなり不自然な表情になった。

……やっぱり似合わないよな……。

かぶりを振りながら、和広は荷物をまとめて部屋から出ていこうとする。

ふと、もう一度鏡の方を振り返る。別段変ったものは写らない。

「……自分で自分の顔見てもね……」

部屋から出て戸締まりをする。そうして教室に向かおうとした時、目の前に、にこにこ顔で和広を見つめる千秋が立っていた。

……あ……うーんと、これは……この感じは……。

「早く行かないと先生来ちゃうわよ?」

邪気のない口調で千秋は言った。

……ああ、やっぱり……なんでこんなに……気持ちが安らぐんだろう……他のみんなとは違う……由布ちゃんのともぜんぜん違う感覚……。

「……芹沢、くん?」

今度は千秋が戸惑う番だった。

……なんかへん……なんだか固まっちゃって……じっと、見てる……見られている……でも恥ずかしくはない……なんだろう……。

はたから見れば見つめ合う恋人同士といった感じで、和広と千秋は立ち尽くしていた。

そして二人はどちからともなく近づいていき、そして手が触れそうになったその時……ホームルーム開始のチャイムが鳴った。

「あ!?」

二人は顔を見合わせた。

「い、行かないと……」

「そ、そうね……」

そして二人は急ぎ足で教室に向かって歩き出した。ずんずん、ずんずん……その間、無言。

教室に近づいたとき、和広が独り言のように言った。

「……学園祭を言い訳にすればいいか」

「え?」

千秋が和広の方を見る。その時彼女は不思議なものを見たかのような顔をした。

「いや、遅れた言い訳……ん、なに?」

そんな千秋に、和広は不思議そうな声で聞く。すると千秋は微笑みながら言った。

「やっぱり……そっちの方がいいな」

「え?」

「こっちの話!」

そうして千秋はさっさと教室の中に入っていく。

和広は首をひねりながら同じように教室に入ろうとした。その時、ドアのガラスに映った自分の顔を見て、彼は千秋の言葉の意味を理解した。

……そっか……そうだよなあ、やっぱり……。

その顔は、こらえきれないような笑みを口許に湛えていた。とても自然な笑みだった。

「……そうだよな」

そう呟きながら、和広もまた教室の中に入っていった。その足どりは、雲の上を歩くように軽やかだった。


それから、実行委員の仕事は順調に進んでいった。トラブルがなかったわけでは無いが、程なく問題は解決され、そして……いよいよ学園祭が始まった。

しかし、始まったとはいえ、実行委員の仕事がなくなるわけではなかった。むしろこれからが本番と言ったところなのだった。ある程度のことは生徒たちの仕事なのだが、人の流れや物の流れは実行委員の管轄で、その他もめ事や厄介事はすべて実行委員に持ち込まれる。片時も休まるときはない……催し物や展示会等を見ている暇もないのだ。

それでも、文句の一つも言わずに、千秋は仕事をこなしていた。和広が見に行ってきてもいいよと水を向けても、彼女は特別見たい物は無いからとそのまま仕事を続けていた。和広も、特に無理強いはせず、彼もまた黙々と仕事をこなしていく。

そうして一日経ち、二日経ちした学園祭は、秋晴れの許で、最終日の三日目を迎えた。


「あーあ……つまんない学園祭だったなあ……」

みどりはベンチに座って足を前後に揺らしながらぼやいた。

「そう?結構楽しかったけどなあ」

隣に座っていた由布が能天気に言う。ちなみに明は図書館関係でここには居ない。

「そりゃあんたはいいんわよね!いっつも春日君と一緒でさ!」

「ひがまないひがまない……和広君はどうしてるの?」

「それがさ……仕事が忙しくて、だめー!」

みどりは天を仰ぐ。

「さすがに実行委員長ともなると、なんにも見れないんだってさ……」

「そっか……じゃあ、実行委員になってればよかったねえ」

「そんな……あれめちゃくちゃ大変なんだから!よっくわかった!あたしにあの才能はないわ」

「ふうん……ということは……」

言いかけて止める由布。

「ということは?なによ?」

みどりは由布を睨み付けながら言った。

「え!?あ、いやその……」

「はっきり言いなさいよ!」

「ちょ、ちょっと!苦しいってば!」

みどりに首を極められてもがく由布。

「どうせそうよ!あの子と一緒ってわけよ!」

みどりは切れてそう叫ぶと、いきなり由布を放す。

「ふんだ……」

「はあはあ……き、きにしてたのね」

「当たり前でしょう!なんかさー、雰囲気変でしょ!?」

「変って……さっき会ったけど、普通って言うか、自然って言うか……」

「それが変だって言うのよ!」

「そ……そかな?」

「確かに変かもね」

いつのまにかそばに来ていた久美子がそう話しかけた。

「久美子、それってどういう……」

「あーもー、由布の鈍感!」

「鈍感鈍感いうーなー!由兄に散々言われてるのに!」

「鈍感じゃなきゃなんだってーのよ?!」

「まあまあ、二人とも……」

と、なだめる久美子。

「これまで、どこか逃げ腰だったじゃない、和広」

「逃げ腰?なにから?」

「仁科さんに決まってるでしょ!」

「そ、そんな怖い顔しなくっても……」

「仁科さんとは……あんまり近づかないようにしてたのよね、最初は」

久美子は腕を組みながら校舎の方を見つめる。

「それが、実行委員の件でどうしようも無くなって……最初は腰が引けてたんだけど、最近はそんなことないのよね。和気あいあいと言うか……二人とも、なんだか楽しそうなのよね……」

「……そう言うことだよねえ」

由布はうんうん肯きながら言った。

「あたしだって気付いてないわけじゃないわよ。ただあんまり言うと……みどりや久美子を逆撫でしそうでさ……」

「……された。逆撫でされた」

みどりがきつい目で睨み付ける。

「そんな〜」

「……そろそろ考え時なのかしらね」

ぽつりと、久美子は呟いた。

「まだ……まだよ!」

みどりは拳を握りしめて立ち上がった。

「後夜祭でフォークダンスやるじゃない?その時がチャンスよ!久美子、協力してくれるわよね!?」

「え、ええ、まあ……どうするつもりなの?」

「なんとか和広だけを呼び出すのよ!その後は……お互いの頑張りということで……」

「大丈夫かな……」

由布の呟きはみどりには聞こえなかったらしい。一人で盛り上がるみどりを見ながら、由布は心の中で思った。

……不安の裏返しなんだろうな、みどり……でもこれからどうなるんだろう……千秋ちゃんは、和広君のことをどう思ってるのかな……そして和広君は千秋ちゃんのこと……みんな幸せになってくれるといいんだけどな……。


日も落ちる頃になると、学園を訪れていた一般客の姿は途絶え、祭は終わりを迎える。

乙夜学園学園祭の締めくくりはキャンプファイヤーと決まっていた。なんでも開園当時からの伝統らしい。そしてキャンプファイヤーと来れば、フォークダンスというのが定番であろう。そしてそれが終われば……また再び日常が戻ってくる。

だが、和広と千秋はまだ非日常の中にいた。

「行けばいいのに……」

和広は今日何度目かのセリフを口にした。部屋の中には、遠く音楽が聞こえてくる。

「ううん……今からじゃもう間に合わないし……」

千秋も、何度目かの言葉を口にする。

「一緒に作業した方がはかどるでしょう?」

「うん……それはそうなんだけどね……」

実行委員会の事務室に、二人っきりで彼らはいた。他の委員達は後夜祭の整理やフォークダンスに参加しているはずだ。そのように和広は取り計らったのだ。もちろん留守番などの面倒事は彼一人が引き受けるはずだったのだが、千秋は彼のそばを離れようとはしなかった。

……強引にでも、由布ちゃん達に連れていってもらえばよかった……なにもこんなときまでいなくてもいいんだ……なのに……。

和広は千秋の方を見る。彼女は領収書や伝票の整理に余念がない。

……後回しでもいいのに……そんなに仕事が好きなのかな……なにを馬鹿な……彼女は……彼女は……なぜ……。

……いや……俺にはわかっているはずだ……わかっていて、気付かないふりをして……自分自身にすらそうであるように……。

……彼女は、俺のことを……気にかけてくれている……わかってたんだ……感じていたんだ……でも俺は……自分にまで嘘をついて……自分の気持ちに……。

……でもわからないんだ……本当は誰を好きなのか……彼女のことが好きなのか……それとも……今でも洋子のことが好きなのか、だからなのか……わからないから……はっきりしないから……でも……。

……でも……彼女と一緒にいると……心が落ち着くのは本当なんだ……そばに……そばにいて欲しいと……思ってしまう……。

……いけない……こんな中途半端じゃだめだ……でも、どうはっきりさせていいのかわからない……いったい……どうすればいいんだ……どうすれば……。

その時、フォークダンスの曲が、騒々しいジェンカからしっとりとしたオクラホマミキサーに変った。

「あ……」

千秋は顔を上げて窓の方を見た。

「どうかしたの?」

そう和広が問うと、千秋は立ち上がって窓の外を眺めながら言った。

「うん……好きな曲だから……」

そうして目を閉じて音楽に耳を傾ける。

……やっぱり踊りたかったのかな?

和広はその横顔を眺めながら思った。

……行けばよかったんだ……でもそれは俺のせいで……いや、そんな風に考えるのは傲慢で……いや、そんな問題じゃないんだ……彼女は自分の意思でこの場にいる。なら俺は……僕は……どうしたらいい?いや、いや、いや……どうしたいんだ?どうしたいと思ってるんだ?

……それは……それは……。

一周目の音楽が終わった。続いて二周目の音楽が始まる。事前の計画によれば、一つの組は二十名づつの二重の輪になって踊ることになっていた。つまり二十回以上リピートされることになっている。先はまだまだ長い。

……意地張らなきゃよかったかな……でもあたし一人で行ってもつまらないし、別に踊る機会はいくらだって……。

そうして千秋が窓からはなれようと目を開けたとき……。

「え……!?」

彼女は死ぬほど驚いた。すぐそばに、和広が立っていて、じっと彼女を見つめていたのだ。

「えっ、え!?な、なに?」

これまでにないくらいの近さだった。心臓がタップダンスのように胸の中で踊っている。

和広は、すこし滑らかさに欠ける動きで手を差し出し、そして言った。

「あの……一緒に、踊ってくれないか……な?」

その時、音は消失し、時はその刻みを止めた。

「……あ……え?」

千秋が我に返ったときは一体何周が過ぎたのだろう……和広は、いまだ手を差し出したままの姿で千秋の前に立っていた。

「あ、あ、ええと……あ、あの……こ、ここで?」

やっとのことで千秋がそう言うと、和広は静かに肯いた。

「あ、でも……仕事が……」

「少しくらいは構わないさ。ちょっと場所は狭いし、音楽もよく聞こえないけど……離れるわけにはいかないからね」

「それは……そうね……」

「あ、と……その……返事は……」

「え!?あ、ああ……」

……馬鹿千秋!へ、返事しないと……でもなんで突然そんなこというの?踊ってくれだなんて……でも……でもでも……踊りたい……それは本当……彼も……芹沢君も……そうなん……だろうか……だったら……嬉しい……たとえそうじゃなくても……単なる好意だとしても……あたしは……あたしは……。

「……あんまり……あんまり上手くないけど……いいよ」

千秋は顔を上げて、そう答えた。すると和広は、本当に安心したように言った。

「……良かった」

その顔は、今までも見たことの無いような笑みを浮かべていた。

……あ……笑った……芹沢君……笑った……これが本当の……本当の笑顔なんだ……。

千秋も笑顔を浮かべると、和広の横にならんだ。

そうして二人は踊り出す。遙か彼方より来たる調べに身をゆだねながら……二人、共に手をとりて。


久美子は人気のない廊下を歩いていた。ほとんどの生徒は校庭に集まっているからだ。

実のところ、久美子は自分が引き受けた仕事をしたくなくて仕方なかった。いや、心のそこでは望んでいたのかもしれない。だから彼女は歩いていた。

『だめだよ、ふたりっきりだなんてー!何としても和広を連れてくるのよ!彼女を連れてくるのはほんとはやだけど、でないと和広動かないだろうから……頼んだからね!!』

……必死なのよね、みどり……あたしは……どうなんだろう……あたしは……あたし自身のことはどうでもいいのよ……和広が……和広さえ幸せになってくれるんだったら……。

……本当にそうなんだろうか?それであたしは幸せなんだろうか?

……始は……あたしのことを好きだと言ってくれる。いつまでも待つと言ってくれている……和広の幸せを願うのは、そうなってもあたしの逃げ場があるから……あたしは不幸でも何でもないんじゃないだろうか?ただ状況を楽しんでいるつもりなの?みどりや沙織は苦しんでるって言うのに……あたしは……卑怯者だ……ふふふ……あははは……。

久美子は目的地に到着した。ここまで来るとフォークダンスの音楽は微かにしか聞こえない。

委員室を見ると、ドアの隙間から明りが廊下に漏れていた。もっと近づくと、なにやら音が聞こえる。緩やかで、リズミカルな音……複数だ。

知らずに忍び足になっていた。久美子はドアに近づくと、その隙間から中の様子を眺めた。

音楽がより大きく聞こえた。窓が開いてるのか、空気が動くのを感じる。そしてその音楽に合わせるように、ステップを踏む音が聞こえた。

久美子はその音がする方向を見て、大きく目を見開いた。

踊っていた。狭いスペースの中、寄り添いながら、和広と千秋は踊っていた。軽やかに、そして優雅に……。

……そうか……そうなんだ……心配することなんかなかったんだ……。

気が抜ける思いがした。それは心地よいと同時に、心を鉛のようにもした。

……これで……これでいいのよ……これで……これで……。

久美子はドアの隙間をそっと閉じると、部屋を後にする。

彼女の姿が闇に吸い込まれたとき、音楽は終わった。

そしてまた、別の曲が流れ始める。陽気な音楽が。

それは宴の終末を告げる音楽だった。

これからはじまる、日常への。





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