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第12話:もどかしさと、せつなさと

時は容赦なくスケジュールを押しつぶし、人を駆り立てていく。もはや遅延は許されず、ただひたすら努力を要求される。それが責任を課せられた者の使命であり、義務である。

そしてその全ては、和広の双肩に委ねられているのだった。


「だめだよ、この値段じゃ」

資材担当の委員に向かって和広は言った。

「去年よりも二割も増えている。業者任せにしすぎてやしないかい?」

「そんなことありませんよ」

一年生の担当男子は動揺を隠すように言った。

「ちゃんと市場調査しました」

「ふむ……なら業者を変えるとか、相見積もりを取るとかした方がよかったね」

和広の言葉は優しいが、態度そのものは厳しかった。

「見積もり、再提出させてね」

「はい……」

不満な顔で担当は答え、自分の席に戻っていく。

「ふう……」

最近、ため息をつくことが多くなった。

……いけないな……もう時間がないというのにこの状態では……もっと気張らないといけないか……。

「芹沢君……これできたわ」

千秋が恐る恐ると言った感じで書類を差し出した。

「あ、ああ、ありがとう……」

「……疲れてる?」

千秋は心配そうな顔をして言った。

「いや、どうということはないよ」

和広は事も無げに言った。

「僕は大して働いていないからね……みんなよくやってくれているから……仁科さんにも助けられているしね」

「そんな……あたしだって大したことは……」

余計に不安な表情になって千秋はうつむいた。

「そんなことは無いさ」

ぎこちなく笑みを浮かべながら和広は言った。

「さて、まだ仕事があるよ。早いところ終わらせてしまおう」


そして時は進み、委員たちは仕事を終えたものから三々五々と帰っていく。その一人一人に声をかけつつ、和広は黙々と作業を続けた。

ふと気がつくと、部屋の中には彼と千秋の二人だけになっていた。

最近はこんな調子だった。そのため千秋を送って帰るのが和広の任務のようになっていた。

……いけないな。

千秋の方をちらと見ながら和広は思った。

……彼女に……負担をかけてるじゃないか。まだ慣れていないのに……でも……そんなに仕事、あったかな?……自分で、探し出してるってことか……でも、なぜそこまでして……。

また千秋を見る。眠たそうな顔をしていたるが、手はちゃんと動いている。

……なぜなんだ?

……『それはやっぱり……(……)……って事なんだろうな』

……なに!?

突然割り込んでくる別の思考……いや、和広自身の思考に他ならない。

……『それはあれだよ……(……)……ってことだろ?それしかないよ』

……ああ、そうだろう。そうかもしれない……でもそう思うのは思い上がりだ。いけないことだ。傲慢は身を滅ぼすぞ。

……『抑圧された思考は行き場を失って、いつかは外に出てくるぞ。形を変えて……いびつに、歪んで』

……そうはならない。これまでもそうだった。

……『これまでは、だ。いつまでも同じでいられると思うのか?同じでいたいのか?今のままでいいのか?』

……今のままで……。

……『そう、今のままで。変わらないままで。ここから見ているだけの状態で。それでもいいんだな?』

……ここから見ているだけ……。

千秋は相変わらず眠たそうな目をしながら手を動かしていた。壁にかかった時計はもう九時を指そうとしている。

……見ているだけ、か。それでいいのかも……そうすれば誰も……誰も……哀しまなくて済むかな?僕も……彼女も……。

そう思うと気が楽になってきた。

和広はゆっくり立ち上がると、千秋に声をかけた。

「仁科さん、今日はもう切り上げよう」

「あ……」

すると千秋は顔を上げ、和広の顔を見つめた。どことなく寂しげな表情に、和広には見えた。

……あ……なんで……なんでそんな顔をするんだろう……なんで……。

耐え難いほどに、胸が締めつけられた。

……なんでこんなに苦しいんだろう……なんでこんなに……切ないんだろう……。

「また明日に……すればいいよ」

やっとの思いで和広はそう言うと、顔をそらして後片づけを始める。

その姿を、千秋はますます寂しげに見つめるのだった……。


二人は重い足取りで帰り道を歩いていた。千秋のとなり、若干引き気味に和広が歩いてる。

その姿を、横目でちらちらと千秋は見ていた。

和広は周囲を監視するように見回していた。時折千秋と目が合うのだが、すぐに視線は別の方向を向いてしまう。

……嫌われてるのかな?

千秋はそんな風に考える自分を疎ましく思った。

……自意識過剰だ……まるで気にされていないのかも……でも、だったらなんで避けるようなことを……気にはなってる。だけど、気にしたくない?……ああ、また自分勝手な想像を……ほんとうのところは、どうなんだろう……。

……頑張ってはいるつもり……仕事にも大分なれてきたし、分からない部分はみんなが教えてくれるから平気……これで少しは楽になっているといいんだけど……でも、実際はどうだか分からない……聞けばいいんだけど……聞けない。だってそんな厚かましいこと、言えるわけない……それに……聞きたくない……自分が役に立っているって自信、持てないから……。

……いつまで経っても堂々巡りね……わからない、わからない、わからない!そればっかり……人から教えてもらわなければ、なにもできないの?自分から何かをしようとはしないの?あたしは何を……すればいいの?

しかし答えは見つからぬままに、千秋の住むマンションにたどり着いた。

「あ……ありがとう、また送ってくれて……」

千秋は申しわけなさそうに言った。和広の方はといえば、こちらはかたっ苦しく型通りのことを言った。

「いや、遅くまで頑張ってもらってるんだから当然だよ」

そして、じゃあまた明日と言って、きびすを返してもと来た道を引き返していった。

「……行っちゃった」

和広の消えた方向を見ながら、千秋は呟く。

……もう少しそばにいられたら……そうしたら、少しだけでもわかることができたかな……?

思わずため息をつきそうになるのをこらえて、千秋はマンションの中に入ろうとしたその時、思い出したことがあった。

「あ!?……帰ったらやろうと思ってたのに……資料忘れちゃった」

直前まで作業していた調べ物のことを思い出したのだった。一瞬どうしようか悩んだ後で、千秋は学校に向かって走り出した。

……別に急がないけど……今走れば……もしかして芹沢君にあえるかも……。

しかし、そんな淡い期待は叶えられなかった。ほんの少ししか時間が経っていないのに、和広の姿は見えなかったのだ。

……そうよね……そんな都合のいいことあるなんてね……早く行って帰ってこよう……。

走れば十分もかからずに学校に着くことができた。ちなみに学校内への時間外の立ち入りは通常認められていないが、実行委員たちには特例が認められていて、IDカードでチェックすれば中に入ることができる。

千秋はカードをかざしてゲートをくぐると、さっきまでいた実行委員会室に向かった。

暗い廊下を一人で歩くのはあまりいい気分がしなかった。辺りはまったく静まり返っていたし、外の灯りが作り出す陰影は、化物の巣に見えてならなかった。

……人気のない学校って、気持ちのいいものじゃないわね……はやく用事を済ませて……あら?

誰も居ないはずの実行委員会室から、明かりが漏れているのが見えた。

「……守衛さんかな?」

ちょっと忍び足気味に千秋はゆっくりとドアに近づいた。部屋の中からは誰かの話す声がしている。

……電話してるのかな……でもこの声……まさか。

千秋はドアに耳を押しつけて、中の音をよく聞き取ろうとした。

「……別にいいんですよ、こちらはね……いえ、なにもそこまでは言ってませんよ……」

それはやはり和広の声だった。

怖い声だなと、千秋は思った。言葉遣いは丁寧なのだが、その口調には威圧するなにかが含まれていた。

「ただ少し高いんじゃないかと……もちろん一年たてば事情は変わるでしょうけどね……」

……もしかしてこれ……昼間やってた見積もりの……でもあれは担当に差し戻したはずなのに……。

「……なに、いま話を決める気はありません。明日また問合せすると思いますので、その時決めていただければ……ああ、そうですか?……そういうことなら……いや、まあ明日ということで……はい、失礼します」

電話を切る音がした。そして再び電話をかけたらしい。先程と似たような会話を始めた。

……まさか……業者みんなにかけるつもりなのかしら……でもどの業者に決めるわけじゃないのね……根回ししてるんだ……担当の子がやりやすいように……そんなことまでしてるなんて……そんなところにまで気を配ってるなんて……すごい……すごすぎる……それに比べたらあたしは……あたしは……。

千秋は和広に気づかれないように、後ずさるようにしてドアから離れた。そして向きを変えると、何度も後ろを振り返りつつ、廊下の暗闇にへと消えていった……。


……あたし、いったいなにしに戻ったんだろう……。

湯船に顔を沈めるようにしながら、千秋は心の中で呟いた。

……ばかみたい……結局なにもできなかった…… 声をかけることすらできないで……。

……あんなに頑張ってるんだなんて考えもしなかった。まさか毎日ああやって……今日だけじゃなくて、いつも残って仕事してたんだ……なんでそんなに頑張れるんだろう……。

……おまけに、わざわざあたしを送ってから、それから戻ってる……毎日……そう、きっと毎日……。

……あたし、かえって邪魔になってない?あたしがさっさと帰っていれば、変な手間とらせることなかったのに……変に頑張らない方がいいのかな……。

ぴちゃん……。

水のしずくの垂れる音がする。もうひとつ、ふたつ……。

……溺れないうちに、上がらなくちゃ。

千秋はゆっくりと湯船の中で立ち上がった。やはりのぼせているのか、ふらふらとした動きだ。

「……あー……今度からもうちょっとぬるくしよう……あたしには……」

……あたしには……なんだろう?あたしには……あわないのかな……。

「なにしてるの?はやくでないとまだのぼせるわよ!」

母親の叱る声に、千秋には我に返った。

「あ……はーい、いまでるとこ」

のろのろと湯船から出る。

……自分のめんどうも見れないのかしらね……。


……結局あたしは……なにも分からずに、自分勝手に動いて、人様に迷惑かけてるわけか……。

パジャマ姿で、千秋はベッドの上に寝ころがっていた。そして幾度か、ごろごろしてみる。

……そういえば……天城さん、手をあげてたっけ……なにも知らないあたしより、よっぽど適任だったのかも……でもなんで鈴本さんはあたしを推薦してくれたんだろう?……んー、わからない……。

ごろん。

……そう、分からないことだらけ。

……自分のことまで分からなくなっちゃった……なに考えてるんだろう、あたし……なにをしたいんだろう……?

ごろん、ごろん……。

……でも一番分からないのは……芹沢君のこと……とっても揺れている……見るたびに態度が違う……多重人格?まさかそんな……でも、とっても不安定……そう、それはまるでなにかに怯えているみたいに……。

……ナニヲコワガッテルンダロウ?

……あたしが……こわいのかな……そんなにこわいかおしてたっけ?……ああ、鈴本さんの時のことがあるか……嫌われちゃったのかな、あたし……やだな……嫌われたくないな……だってあたしは……あたしは……彼のことが……す……。

ごろ、ん……。

幾度目かの寝返りをうったあと、千秋の意識は吸い込まれるように途切れていった……。


翌朝、千秋の目が覚めたとき、彼女は異変に気づいた。

「うあ……なにこれ……のどが痛い……」

昨夜は布団をかけないで寝入ってしまったので、かぜをひいてしまったらしい。喉はがらがらで、妙に体がだるい。

「うわ……最低……あたしって……駄目すぎ……」

痛む頭を抱えながら、千秋はベッドから起きた。そして部屋の鏡に自分の顔を映してみる。

……ひどい顔……うう、寒気までする……学校行けるかな?休んだ方がいいんじゃ……でもそれじゃ実行委員の仕事が……そうよ、休むなんてとんでもない……。

「行かなくちゃ……」

千秋はぐすっと鼻を鳴らすと、鏡の前を離れて着がえを始める……。


「大丈夫なの、千秋?」

玄関先で、千秋の顔を見ながら母親は言った。

「熱あるんでしょ?無理することないのよ?」

「大丈夫よ、母さん」

千秋はひきつった笑みを浮かべながら答えた。

「ちょっとのどが痛いだけだってば」

「それにしたって……今日あたし家にいないから、迎えに来てっていってもできないんだから……」

「そこまで心配しなくたって大丈夫よ……じゃあ、行ってくるね」

「気をつけるのよ」

「うん、分かってるって……」


家を出たのはいつもより遅い時間だった。少し急がないと遅刻してしまう。

「はあ……ちょっとだるいな……」

マンションのホールを歩きながら、千秋はため息をついた。

そこへどたどたと現れたのは由布だった。遅刻常習の彼女にしてみれば早い時間だ。

「あれ?こんな時間にどうしたの?」

こんな時間もなにもないものだが、由布はいたって気楽な表情できいた。

「いや、ちょっとね……」

つらそうな表情を見せる千秋に、由布は心配な顔をした。

「もしかして風邪?!」

「うん……」

「だめだよ、無理しちゃ!つらいんだったら休んだ方がいいよー」

「うん、ありがとう……でも大丈夫だし、それに実行委員のこともあるし……」

「そっか……あ!だったらはやくしないと遅刻しちゃうよ!?」

「え!もうそんな時間?!」

「急がないと……!」

走り出した由布のあとを、苦しい息を吐きながら千秋は必死になって追いかけた。

……朝からこんな調子で……あたし、大丈夫なのかしら……。


こちらも遅刻の常習であるみどりは、今日は余裕の表情で教室に入ってきた。そして教室の中を見渡すと、目当ての人物の姿を見つけ、喜び勇んで駆け寄っていった。

「おはよう、和広!」

「やあ、おはよう」

和広は読んでいたノートから顔をあげて答えた。

「実行委員の?」

みどりはノートをのぞき込みながら尋ねる。

「うん」

「大変ねえ、朝から」

みどりは和広の背後に回ると、抱きつくようにして彼の顔に自分の顔を近づけた。

「でも無理しちゃ駄目よ?まあ、和広のことだから大丈夫だとは思うけど……」

ほんとうに心配そうな声に、和広は小さく肯いて答えた。

「うん……多分ね」

和広の視線が隣の席の方を向いた。つられてみどりが見ると、そこは千秋の席だった。本人の姿はまだない。

みどりは自分の顔がひきつるのを感じた。

……な、なによ!?こんなに近くにいるのに……なんで……こんなに遠くに感じるの?やだ……やだよ……。

みどりは思わず和広の首に巻きつけている腕に力を込めた。

「みどりちゃん……!?」

「え!?あ、ごめん!」

みどりは飛び跳ねるように和広から離れた。

「あはは……」

曖昧に笑うみどりに、和広は怪訝な表情を浮かべた。

その時予鈴が校内に鳴り響き出した。校門を通っていなければ遅刻ということになる。

その時教室の入り口に由布が駆け込んできた……ショートカットなので、多分そうだろう。

「はあはあ……せーふ……」

息も絶え絶えという感じだった。その後ろから、こちらはいまにも死にそうな顔をした千秋が、ふらふらと入ってくる。

「ごほごほ……疲れた……」

「大丈夫?顔真っ赤だよ?」

「う、うん……大丈夫……」

千秋は大丈夫そうには見えない顔で肯くと、ふらふらしながら自分の席に向かって歩き出した。そして和広の席の前で止まると笑顔を作って挨拶した。

「おはよう……」

「あ、お、おはよう……」

和広は心配そうな表情を浮かべて答える。

千秋はほっとした表情を浮かべると、自分の席に座って、深くため息をついた。

その姿を、なんとも言えない表情で見つめる和広。さらにその和広の姿を、みどりは思い詰めたように見つめていた。

……うう……やばい……こりゃやばいよ……だめ……そんな眼で彼女を見ないで……。

始業のチャイムが鳴り始める。みどりは我に返ると、しぶしぶ自分の席に座った。

……だめだよ、和広……。


最初の授業が終わると、和広は千秋の前に立って声をかけた。

「どうしたの?具合悪そうだけど……」

「ああ……大したことないのよ」

顔を上げて笑みを浮かべる千秋。だが、赤く上気したその顔は普段通りでないことを現していた。

「きのうちょっと湯冷めしちゃって……でも大丈夫。授業とかには影響無いから」

「そう……」

しかし和広は彼女の説明を信じてないような表情だった。

「でも無理はしないで。具合が悪くなったらすぐに……」

「うん、大丈夫だから……」

千秋は和広の言葉を遮って、精一杯の笑顔を見せる。

……心配……してくれてるの?なんて……不安そうな顔……いけない……心配なんかかけちゃいけない……そうよ。あたしにはそれくらいしかできないもの……。

「心配しないで」


しかし具合はますます悪くなっていった。午前中はのどの痛みと軽い発熱だけだったのが、午後になると頭痛や震えや悪寒が千秋を襲い始めた。

……うう……寒い……いや、暑いの間違いかしら?……ああ、頭が痛い……でも頑張らなくちゃ……今日もお仕事あるんだもの……がんばらなくちゃ……。

そうして……ようやく放課後を迎える頃には、息も絶え絶えという感じでなんとか椅子に座っている始末だった。

「うう……気持ち悪い……」

「大丈夫、千秋ちゃん?」

由布がそばにやってきて心配そうにのぞき込んだ。

「ううーん……」

「あー、すごい熱いよ!帰った方がいいよ!」

由布が千秋の額に手を当てて言う。しかし、千秋は首を振った。

「だめだよ……もうすぐ学園祭なんだから……」

そうして千秋は和広の姿を探す。

和広は入り口の近くで久美子と話をしていた。それを見た千秋はいきなり立ち上がると、二人に向かって歩き出した。

「千秋ちゃん!」

由布が声をかけるが、かまわず千秋は歩いていく。

「芹沢君……!」

千秋が呼びかけると、和広は思い詰めたような表情で彼女を見つめた。

思わず千秋は後ずさりしそうになった。しかしなんとか思いとどまって、彼女は言った。

「もう委員会の方行くんでしょ?あたしもすぐに……」

「いや、今日は帰るんだ」

それは有無を言わせない口調だった。

「……え?」

千秋の表情が凍りついた。

もう一度、和広は言い含めるように言った。

「今日は出なくていいから、早く家に帰って休むんだ」

「で、でも、あの、仕事が……」

千秋はよくまわらない頭で必死に言い訳を探そうとした。しかし和広はそれを押しとどめるように言った。

「具合の悪いときに無理する必要は無いよ。まだ先は長いんだから、ここで倒れられては困るよ」

「あの、で、でもね……」

「久美子、頼む。早く帰るんだよ」

そう和広は千秋の肩をぽんと叩いてその場を離れた。その背中を千秋が泣きそうな顔で見る。

「みどりちゃん、ちょっといいかな?」

「え、あたし?」

みどりは和広に声をかけられて意外そうな、困ったような表情を浮かべた。

「仁科さんが具合悪いそうだから、代わりに手伝ってくれないかな?」

「う、うん、いいけど……」

千秋はそんな光景を青ざめた顔で見つめていた。

……ああ……やっぱりあたしって……役立たずなのかな……。

気が抜けて思わず倒れそうになるのを、久美子がしっかりと支えた。

「だいじょうぶ?早く帰って休まないと……」

「あ……でも……」

「だめよ。和広に言われたでしょう?これ以上悪くなったらどうするの。さ、帰りましょう」

久美子に促されて、千秋はしぶしぶ歩き始めた。後ろを振り返ると、和広を話をしているみどりの姿が見えた。なんだかとっても嬉しそうに見える。

……いいな……ほんとならあたしがあそこに……なんで……なんでこんなになっちゃったの?あたしって……ほんとばか……。


気が抜けて症状が悪化したようだった。久美子が支えるのもやっとという感じで、仕方なく家までタクシーを使わなくてはならなかった。

家にはあいにくと誰もいなかった。事前に知っていたとはいえ、とても寂しく千秋には思えた。

そうしてなんとか部屋のベッドまでたどり着いたときには、相当息も苦しく、発熱もかなりのものになっていた。

「……ごめんね、面倒かけちゃって」

ふとんにもぐりこんで、申しわけなさそうに千秋は言った。

「いいのよ、そんなこと気にしなくても。お薬の場所分かる?」

「えっと、キッチンの戸棚の中に……」

「あと冷却剤とかは……」

「それも……同じ場所にあるはず……」

「わかったわ。ちょっと待っててね」

そうして久美子は部屋から出ていった。

一人になった千秋は天井を見上げた。何の変哲もない。

……今頃……仕事してるんだろうな……なのにあたしは……ちゃんと昨日寝てればよかったのに……ばかだ……ほんと、ばかだ……。

熱のせいで頭がぼーっとしてきた。まともに物事を考えられない。

……いいな、天城さん……たしか彼女も芹沢君のこと、好きなんだよね……いいな……ほんとならあたしがそこにいるはずなのに……不公平だよね……。

……ばか、あたし……あたしの方が不公平じゃない……独り占めしていたのはあたしで……独り占め?……あたし、彼のこと、そんな風にしたいと思って……そんなことない。あたしはただ芹沢君のことが知りたかっただけなのに……あの寂しそうな顔の意味が知りたかっただけなのに……あの笑顔が見たかっただけなのに……ただそれだけなのに……。


気がつくと、頭が冷たく感じた。枕の上に冷却シートがのせられているのだろう。

「あ……」

「あら、目が覚めちゃった?」

久美子が優しい笑みを浮かべながら言った。

「うう……今何時?」

「もうそろそろ5時かしら……」

「もうそんな時間……ごめんなさい、付き合わせちゃって……」

「いいのよ。そろそろお家の人も帰ってくるって言ってたし」

「そ、そう……」

「ちょっと、待っててね」

久美子は立ち上がって部屋から出ていった。そして戻って来たときには手に林檎と皿とナイフを持っていた。

「疲れたでしょう?なにかお腹にいれといた方がいいわ」

久美子はそう言って、林檎を剥き始める。

「ごめんなさい、そんなことまでさせちゃって……」

「気にしないの……はい」

フォークに刺した林檎の切り身を差し出され、千秋は首を伸ばしてそれを口に入れた。そしてゆっくりかみ締める。

「うん……おいしい……」

「まだ熱、つらい?」

額に手を当てながら久美子が言った。

「……結構下がったわね。これ以上つらくならないとは思うけど……今日は絶対安静ね」

「うん……ごめんなさい……」

「いいのよ。でも早くよくなるためには、待つことも必要よ。焦らないでね。そうしないと……」

言いかけて、久美子はちょっと黙り込んだ。

「そうしないと……って?」

千秋が促すと、久美子は後悔するような表情を浮かべた。

「ううん、なんでもない……」

それっきり、久美子は押し黙ってしまった。

……なにを言いかけたんだろう?

再び天井を見上げながら千秋は思った。

……早く直さないと……あたしは困る。折角のチャンスがどんどん減ってしまうもの……チャンス?何のチャンス?……芹沢君のことをもっとよく知るためのチャンス……でもあたしはそれをうまく使えているのかな?おまけに仕事の方も遅らせて……ぜんぜん役に立ってないじゃない……こんなんじゃ駄目だ……こんなんじゃ……嫌われちゃう……相手にしてもらえなくなっちゃう……。

……天城さん、今頃どうしてるかな……あたしより知ってるんだから、きっとうまくこなしてるわよね……いいな……芹沢君のことだって、よく知ってるんだ……田崎さんも……。

久美子の方をじっと見た。思わず目が合う。

「どうかした?」

「……芹沢君って……どんな人?」

一瞬、久美子の目が曇ったように千秋には見えた。

「どんなひと……ねえ。どういう意味で、かしら?」

「どういう意味って……その……人柄とか……」

「人柄ねえ……」

久美子は笑いを押さえるような顔をして言った。

「いいひとだとは思うわよ」

「いいひとって……」

「おもしろみがないって意味で、いい人」

「え?」

「つきあうんだとしたら、一般的な意味で楽しくはないと思うわね」

「つ、つきあう!?」

「あら、そう言う意味じゃなかったの?」

久美子はとぼけた口調で言った。

「そうね……他人を楽しませるような性格じゃないってことよ。じれったいというか、歯がゆいというか……それでみんな苦しめられてるのよね」

「みんなって……天城さんとか……ですか?」

恐る恐る千秋は尋ねた。

「他にも沢山ね……誰が話してたの?」

「鈴本さんが……」

「そう……」

遠くを見るように、久美子は視線を漂わせた。

「友子ちゃんもいい迷惑って訳だ。まったく!人に迷惑かけるのが得意なんだから、和広は……それでいて誰からも恨まれない。みんな和広を助けたいと思ってしまう……どこがいいの、あんな奴の?」

突然そんなことを聞かれ、千秋は戸惑った。

「そ、そんな……急に聞かれても……」

「ふん……でも、なにかはあると感じている……」

「な、なにか……?」

「そう、なにか……だからあなたは、よく知りもしない学園祭実行委員なんかに立候補しようとしたんじゃないの?……和広のそばにいたくて?」


みどりは自分を代理に指名してくれたことを嬉しく思う反面、千秋に対して多少罪悪感を感じていた。

……ほんとはそんなこと思う必要はないんだけどさ。ライバルなわけだし。でも……。

相変わらず実行委員の仕事は楽ではなかった。それが分かってたから、自分から積極的に立候補しようとしなかったのだ。和広がいればこそ、それができた。

……やっぱり大変だよ……よくこんな仕事やってられるわよねえ……その点では、彼女はすごいと思うけど……でもそうまでして和広のことを……うーん。

ちらっと和広の方を見る。机の上でなにか書き物をしている。何度かペンを止め、また書く。なにか動きがぎこちない。

……なんか……元気ないような……いやあ、そんなことないない!そんなこと……。

みどりは割り当てられた仕事を猛スピードで終わらせると、できた資料をもって和広の所に立った。

「和広!頼まれてた資料できたんだけど……」

しかし、和広は顔を伏せたまま返事をしない。

「和広ってば!」

「……え?」

ようやく和広は顔を上げた。みどりがすごく怖い顔で睨み付けている。

「資料、できたんだけど……」

「ご、ごめん……ありがとう」

慌てて和広はみどりから資料の束を受けとった。

「考えごと?」

そう聞くみどりの目は真剣そのものだった。

「なに、考えてたの?」

「いや、別に……」

「ふうん……」

まるで異端審問官のような目でみどりは和広を睨み付ける。

「あの……みどりちゃん……?」

和広が困惑した表情で言った。

しばらくそのまま和広を睨み付けていたみどりだったが、急に手のひらを返したようなさわやかな笑みを浮かべてた。

「次の仕事、なに?」

「え!?……ええと、この……」

またぞろ資料を渡され、みどりは席の方に戻っていった。それまでの表情はにこやかだった。

椅子に座ってみどりは資料を広げ始めた。その時そばを通りかかった女子は、みどりの横顔を見てぎょっとした。それはまるで鬼のようで、のちのち夢でうなされる原因にすらなったほどだった。

……ううう……ぜったいそうなんだ……ぜったい……彼女のこと考えてたんだ。それしか考えられないもん……。

……でも……ほんとにそうだったら……あたしは、どうすればいいんだろう……どうすれば。


「なにか……」

久美子の問いに答えずに、千秋は再び言葉を繰り返した。

……そう、なにかを……やっぱりそれは……。

「べつに答える必要は無いけどね。でも……」

「……笑顔」

「え?」

「……笑顔が……見たかったから……」

ふとんで顔を隠しながら千秋は言った。

「笑顔?」

「そう、笑顔……」

……もう我慢していても始まらない……はっきりさせなくちゃ……このままじゃ、前には進めない……。

「初めて見たときは、とくになんとも思っていなかった……どっちかっていうと、変な人だなと思った……みんなに信頼されてるのに、妙に臆病で自信無さそうに見えたから……でもね……」

「でも?」

「でも……すっごくいい顔してるときがあったの……体育の授業中でね。とっても素敵な笑顔だった……いつもそんな顔を見せてくれたらいいのに……でもね……でもすぐに……哀しい顔になっちゃうの……自分のことを否定しちゃうの……そんな顔見たくないのに……もっと笑って欲しいのに……でもだめなの……あたしじゃだめなのかな……あたしじゃ……あの人の気持ちを分かってあげられないんだろうか……それがくやしくて……ねえ……田崎さんだったら……わかる?どうしてあんなに哀しそうな表情するのか……」

しかし、久美子はなにも答えなかった。ただ時間だけが、二人の間を過ぎていく。

やがて……久美子が口を開いた。

「……だれも、他人の心をのぞけやしないわ。どんなに長くそばにいたってね。でも察することはできる……でも一番確実なのは……直接聞いてみることよ」

「ちょくせつ……聞く……」

「そうすべきなのよ。いつまで待っててもしょうがない……待っていてもなにも変わらない。なのにあいつは……和広は……いつまで引っ込んでいれば気がすむのかしら……みんなを苦しめ続けているっていうのに……でも誰も文句を言わないのよね……」

最初は非難するような声だったのが、最後の方では妙に愚痴っぽく千秋には聞こえた。

「なぜ……なんですか?」

「え?」

「なぜ誰も……文句を言わないんですか?」

少しだけふとんから顔を出して千秋は言った。

「それは……」

久美子は言いかけて、後悔の表情を浮かべる。

「惚れた弱み……ってやつかな……」

そう答えて、久美子はそっぽをむいてしまった。

千秋にはそれがちゃんとした答えになってないような気がしたが、またぶり返してきた熱のせいで頭がよくまわらなかった。

「そうですか……」

「だから……止めといた方がいいわよ」

久美子はちらっと横目で千秋を見ながら言った。そして彼女の額に手を合わせる。

「あ、また熱がぶり返してきたみたいね。ごめんなさい。長々と話し込んじゃって……これ以上悪くされたら和広に申しわけないし……」

「もうしわけ……?」

「え?あ!?」

しまった!という表情で、久美子は唇をかみ締めた。

「芹沢君が……なにか言ってたの?」

「う、うん……あなたのこと、よろしく頼むって」

「そう……」

……すこしは、気にしてくれてたんだ。

ちょっとだけ、千秋の顔に精気が甦った。

「さ、もうおしゃべりの時間はおしまいよ。今はゆっくり休んで、早く学校に来れるようになるの。わかった?」

「うん、わかった……」

千秋はおとなしくそう言うと、ゆっくりとまぶたを閉じた。

「……迷惑かけて、ごめんね」

「いいのよ。気にしないで……おやすみなさい」

「うん……」

しばらくすると、千秋は軽く寝息を立てて寝入ってしまった。

その寝顔を見ながら、久美子はそっとため息をついた。

……こんな役をあたしに押し付けて、まったく……信用されすぎるのも、損な役回りよね……それにしても……あんなに和広のことをよく見てるなんて……これはもしかしたら本当にあの子のかわり……あう、なんてこと考えるのよ、久美子!まわりでどうこうしようったって、うまくいくはずないのよ!これは……和広と彼女の問題なんだから……二人で答えを出さないといけないことなんだから……。

『俺が悪いんだ』

和広は思い詰めた表情で久美子に言っていた。

『無理に仕事をさせていたから……もっと早く帰るように言えば良かったんだ……家に送ってやってくれないか?』

……あの思い詰めた表情……もう、どうしようもないのかもしれない……あたしたちにはもう……。

久美子は、じっと千秋の顔をのぞき込んだ。つらそうな顔だが、これ以上悪くなることはないだろう。

……なんでこんなに似てるのよ……不公平よね、まったく……だから余計に悩んじゃうんじゃない……でもなんで……こんなに苦しめられなくちゃいけないのかしらね、和広……。

その時玄関のドアが開く音がした。多分母親が帰ってきたのだろう。

久美子は立ち上がって部屋から出ようとする。その時千秋が寝言を言った。

「せりざわ……くん……あたし……」

しかし、それっきり千秋はなにも言わなかった。

久美子はしばらく立ち止まっていたが、やがて静かに部屋から立ち去っていった。

「……あたしきっと……せりざわくんのこと……こと……」

千秋の呟きは、幾度か繰り返され、そしていつしか寝息に呑まれて消えていってしまったうのだった……。





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