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第10話:揺れる想い

夏休みが終わるとすぐに期末試験の足音が聞こえてくる。休み中に準備をしておけばとても楽になるのだが、わかっていてもできないのが世の習いというもの……。

案の定、ここにも一人そういう人物がいた。

「ねえ、みんなで勉強会やろうよ〜!」

由布が教室の中で言った。

「別にいいわよ」

みどりが嫌そうな顔で言った。

「なにもそこまで勉強しなくたってさあ」

「ええ!?自信あるわけ?」

「なによ、その驚いたような顔は……あたしだってやるときはやるのよ」

「そんなあ……みどりだけは友達だと思ってたのに〜」

「なんなのよ、その言い方!」

「あ、そうだ、千秋ちゃんはどうなるの?試験受けるの?」

千秋はつい最近転入してきたばかりだ。

「一応受けることになるけど……参考記録と言うか、自分自身の確認のためになるわね」

「いいなあ……」

「いいわけないじゃないのよ!愚痴ってる暇があったら次の授業の予習でもしたら?」

みどりに釘を刺されて、由布はがっかりしたように首をうなだれた。

「うああ……あたし一人だけ……沙織はまだ帰ってこないし、友子はどうせ由兄と一緒だし……」

「あんた……春日君はどうしたのよ?」

「え?ああ、また品種改良モードで……」

「ああ、また温室にお籠もりなわけね」

「もしよかったら、あたしと一緒にする?」

千秋がそう言うと、由布は抱きつかんばかりの勢いで千秋に近づいた。

「ほんと!?」

「え……あ、う、うん、ほんとだけど……」

ちっと冷や汗を流しながら千秋。

「授業の進み具合とか知りたいし……」

「うん、やろうやろう!」

「転入早々大変だねえ……」

みどりは双子のような二人を見ながらそう呟いた……。


場所は図書館。そこかしこに勉強グループと覚しき集団がテーブルを占拠していた。その中に由布と千秋のペアもいた。

「へえ、かなり厳しいのね」

教科書をめくりながら千秋。

「うん。選択はかなり細かく指定できるんだけど、選択した内容自体は結構厳しいの。それも必修項目が大変でね……特に英語……」

そう言って、由布は涙目になった。

「あ、あの、別に泣かなくても……」

「ぐすぐす……多少は良くなったんだけど、ちょっとサボっちゃったらつい……」

「普段使わないと……このカリキュラムじゃ大変かもね」

乙夜のカリキュラムは会話重視で、学年が上がる事により高い会話能力、たとえば簡単なディベートを行えるくらいの会話力が要求されるのである。

「とっさの判断能力も必要だし、いろんな表現方法を知ってないといけないものね」

「なんだよ〜。しゃべるのに困らないんだけど、イディオムとか弱くって……」

「話す度胸があるんだったら大丈夫よ。あとは英語の知識そのものよね」

「そうなんだけど、うまくいかないのよね……」

「まあ、やるしかないよね。あと……一週間?」

「うん……うわあ、もうどきどきしてきたよ〜」

「まあまあ、そう慌てないで。んーと、英語の基礎力アップということは……なにか本を読むのがいいわね」

「本?」

「そう、それも比較的専門的なもの……由布ちゃんだったら、美術史なんかどう?」

「美術史ねえ……」

「興味の無い分野じゃないと読む気しないでしょ?」

「あんまり本好きじゃないんだけどなあ……」

「そんなこと言わないで、さ、本を選びに行きましょ」

「ふえええ」

千秋に引っ張られて仕方なく、由布は本棚の前に立った。

「この辺りね……じゃ、あたしは別の所を探しているから、また後で」

「はあい……」

千秋は由布を残して移動する。その場所は、各国の言語で書かれた社会学の専門書が並んでいる棚だった。

「わあ、結構充実してる」

千秋は嬉しそうに本棚を見回しながら歩いた。すると、目の前に見知った人間が現れ、思わず彼女は声を洩らした。

「あ……」

その声に気付いたその人物は、驚いたような、そして怯えたような表情をして千秋を見つめる。そして千秋もまた、和広の顔を見つめる。

まるで時間が止まったかのような……。

「こ……こんにちわ」

最初に自分を取り戻したのは千秋だった。彼女が笑いかけると、和広はちょっとだけ微笑んだ。

……あ……こういう顔するんだ。

千秋は思わず和広に見とれた。

「やあ……捜し物?」

「え、ええ……由布ちゃんの付き合いで、英語の本をね」

ちょっとどぎまぎしながら千秋は答えた。すると和広は困ったような顔になった。

「ああ、やっぱりそこか……」

「え?」

「いや、由布ちゃん、そこが一番弱くてね……」

「そうなの?」

「うん。前にも同じような方法を取ってみたんだけど……うーん、移り気だからね、彼女」

「サボったって反省してはいるみただから、大丈夫だと思うけどね」

そう言って千秋は笑うと、和広もほっとした表情で肯いた。

「そうだね……」

「うん……あ、この辺りの本はよく読むの?」

千秋は和広の手にある本を見ながら聞いた。

「うん、まあ……大体はね」

「え、全部?」

驚いた表情を浮かべる千秋に、困ったような表情で和広は言った。

「まさかそこまでは……目を通してみただけだよ」

「それでもすごいわよ!あたしだったらちょっと見るだけでもめげちゃいそう……一体何冊あるの?」

「さあ、ざっと見えるだけで数百はあると思うけど」

「数百ねえ……」

「でも書庫にはもっとあるよ。下手すると原書の初版本まである」

「すごいのね、この学校って……」

「なんでもとある旧家の書庫も兼ねているらしくて、入れないところもあるらしいんだけどね」

「芹沢君は入れないの?」

「まさか……その家の人間以外、たとえ権威ある学者でも入れないそうだよ。許可は下りないらしい」

「すごいのね……」

そう言って、千秋は和広の顔を見た。なんでもないような会話だったが、なぜだか千秋は嬉しかった。

「だから雪絵さんなんかは……ああ、雪絵さんというのは、歴史サークルの先輩なんだけど、入りたくても入れないって怒ってて……あ、あまり関係ない話だったね」

申しわけなさそうに言う和広に、千秋は首を振って笑った。

「ううん。お話聞くの、あたし好きだから」

その表情を、和広はぼーっとした目で見つめた。思わず千秋も和広を見つめ返す。

「あ……そ、そろそろ行かないと……」

が、その視線を外すように、和広は後ろを振り返った。

「あ、ごめんなさい。変に引き留めたりして……」

「いや、そんなことないよ……それじゃ」

そうして和広は本棚の森から出ていった。

残された千秋は、まるでそこが本当の森のように思えた。幼い時、迷いこんでしまったドイツの森のような、仄暗く、鬱蒼とした森に……独りぼっちではとてもいられないような感覚……。

思わず千秋は身を震わせた。

……まだひきずってるだなんて。

そうしてふと顔を上げたその先に、本の背表紙があった。ドイツ語だった。

……若きウェルテルの悩み、か。これも巡り合わせなのかも。


「うー……うー……わーん、よくわかんないよ〜!」

由布は本を机の上に放り出して喚いた。周りから鋭い視線が突き刺さり、彼女は首をすくめて縮こまった。

「うう……」

「もうめげちゃったの?」

千秋がちょっと呆れたように聞いた。彼女が戻って来てからものの数分と経っていない。

「うん……専門用語が多すぎて」

「あー、そういうときは辞書を引かないと」

「うう、やっぱりぃ?」

「千里の道も一歩からって言うしね」

「あーあ」

由布は椅子の上でそっくり返った。

「でも千秋ちゃんってすごいよね……ドイツ語の本まで読んじゃうんだから」

「まあ……ドイツが一番長かったから」

「そうなんだ。でもすごいよねえ、ちゃんと読み書きできるんだから」

「……ねえ、由布ちゃん」

「ん?なあに?」

「芹沢君って……どういう人なのかな?」

「へ!?」

由布は一瞬身構えて千秋の方を見た。しかし、本に隠れて彼女の顔は見えない。

「どういうって……どういうふうに?」

「あ、その……さっき書棚の所で会って……ここにある本に目を通してるって聞かされたから……すごいなと思って……」

「そう……」

由布はそれほどシリアスな話じゃないと分かってほっとした。

……正直核心つかれたらあたしじゃ対応できないしねえ……。

「なんでも暇なときは図書館にいるみたい。そんで速読とかするみたいで、館内の本は全部読んだとも言われてるわ」

「ええ!?」

さすがに驚いたのか、千秋は本から顔を上げた。

「でもさっきは目を通しただけって……」

「まあ、速読って、流し見してれば読めちゃうんでしょ?」

「それはそうだけど……ほんとにここの本全部?」

「さあ……本人から聞いたわけじゃないから。明君の目撃談と久美子の推測ね。ま、和広君らしい話と言えば話だし……」

「あたしがさっき直接聞いたのは、社会学あたりの数百冊って話だったけど……」

「で、目を通しただけだって言ってた?」

「う、うん……」

「和広君らしいなあ……」

呆れたような感心したような、複雑な口調で由布は言った。

「まあ彼しか知らないことなんだけど……あたしは、全部読んだって話信じるなあ」

「……どうして?」

「明君が見たって言うから」

照れくさそうに由布は言った。

「それはまあおくとしても……少なくとも全部の本のページをめくったのは確実なんだって。おまけに並ぶ順番まで整理されてたんだって。それが全部の書棚だって言うんだから……信じるしかないわよ」

「はあ……」

なんともすごい話だと、千秋は思った。しかし、より根本的な疑問があった。

……でも、なんでそこまでするの?

「ねえ、読んでる本、なに?」

「え?ああ……ゲーテの若きウェルテルの悩み、よ」

「ふうん……どんな話?」

「あー、ある青年が好きになった人は他の人の許婚で、それを忘れようとして街を出るの。でも夢破れて街に戻ってみれば、人妻となった彼女は彼を優しく慰めてくれる……でも彼は彼女への恋を忘れることはできなくて、悩み、苦しみ、そして……自ら死を選んでしまうの……悲しいお話よ」

それを聞いた由布は、やるせない表情で千秋を見つめ、そして言った。

「ふうん……あたしも読んでみようかな。できれば日本語で」

「だめよ、せめて英語で読んでね」

「ええ〜!?」

「ほんとならドイツ語で読んで欲しいけど、試験科目には入ってないからね」

「とほほ……しゃーない、探しに行くかぁ」

席を立った由布を見ながら、千秋は思う。

……なんかすっきりしない。由布ちゃんの反応。そして……芹沢君の反応……わかんないことだらけ……。

そうしてそっと、千秋はため息をついた。


「勉強進んでる?」

体育座りで男子のバスケット競技を見ながら、友子は尋ねた。

「まあなんとか」

苦笑いを浮かべながら、千秋が答える。

「泣きながらやってるって感じね」

「あははは、由布らしいや」

ころころと友子は笑う。

「土壇場にならないと肝が据わらないのよね……あ、入った!」

シュートを決めたのは和広だった。そのそばでは悔しそうな顔をした由一がいる。

「あちゃー、また負けちゃったか……」

「また?」

「そ!和広君、すごいんだよね」

試合が再開される。

和広チームは和広の的確な指示を受け、見事なまでに統率された動きで相手の動きを封じ込めていた。一方の由一チームは、行く手を遮られて苦しいパス回しを強いられていた。

「由一君も下手じゃないんだけど……どうやっても勝てないというか……」

「あ……抜かれた」

ドリブルであっさりと和広に抜かれる由一。

「んー、天敵だね」

そしてまたシュート。スリーポイントだ。軽く左手を上げてチームメイトに応える和広。邪念のない笑顔。さわやかな、じつにさわやかな。

思わず千秋は見とれた。初めて見る顔だった。

……あんな……あんな顔ができるなんて……なのになんでいつもは、つらそうな表情をするんだろう?

和広を見つめる千秋を、友子は興味深げに眺めていた。

……ふうん……これはもしかしてもしかする?

「すごいよねー、和広君ってさ!」

友子はわざとらしく声を上げた。

「え!?」

我に返った千秋は驚いた表情で友子を見た。それを横目で一瞬見て、友子は試合を眺めながら言葉を続けた。

「なんでもできちゃうもんねー。頭だっていいし、ルックスだって。あたしも由一君と会わなかったら好きになってたかもしれないなあ……いまでも学校の中じゃ一番人気なんだよ」

「そ、そう……」

「みどりや沙織も狙ってるし、久美子だってそう……みんな、必死なんだよね。それくらい、和広君が好きなの……でもね」

和広の試合が終わった。それぞれ待機場所に引き上げていく。

「和広君は、誰にも決められないみたい。確かにみんないい子だしね……さてと、つぎはあたしたちの番だね!」

そう言って友子は立ち上がって千秋を見た。彼女はまだ和広の方を見ていた。

「……気になる?」

「え!?」

驚いて千秋は友子を見る。友子の表情は真剣だった。が、すぐに表情を崩して言った。

「ううん、なんでもないよ……さ、行こう」

「う、うん……」

千秋はこわばった笑顔を浮かべつつ、コートに向かって歩き始めた。

……やっぱり、みんなの態度が変だ。なんで芹沢君の事になるとみんなは……みんな、真剣な顔をするんだろう……それにどうしてあたしに……。

……でも、彼が気になってるのは、確かにあたしだ。みんなそれに気がついて……でもだったら、なんであんな持って回したような態度を取るんだろう……ああ、わからないことだらけ……。

……芹沢君……いつもあんな顔をしてればとっても……素敵なのにな……。


「お前、そんなこと言ったの?」

部活動後の帰り道、由一は友子に向かって言った。

「かえって逆効果なんじゃ?」

「だからそう思ってそれ以上言うの止めたの」

口を尖らせながら友子は言った。

「でも彼女、和広君の方見てばっかりだったんだから」

「そりゃそうかもしれないけど……ああ、くそ、思い出したじゃないか」

「今日もこてんぱんにやられてたね」

くすくす笑う友子。

「こてんぱんはないだろう……それに今日もってのは一体どういうことだよ?」

「別に。事実を言っただけ」

「まったく……このままじゃ頭が上がらんな」

「でも……どうしたらいいのかな、あたしたち?」

友子は空を見上げながら言った。

「どうもこうも……成り行き任せしかないんじゃないのか?」

「成り行きぃ?ちょっと冷たくない?」

友子の抗議に、由一は静かな声で答えた。

「だってさ……結局は、芹沢の胸先三寸ってわけだろ?あいつが決断できなきゃいつまでたっても今のままだぜ。だがそれを……俺たちが奴に強制できるのか?」

「それは……そうかもしれないけど……」

「いいじゃないか……なにも考えないで動くよりは、悩んで、悩みきって動く方がさ。どんな結果になっても……納得はできるさ」

「だけど……」

不満そうにうつむく友子。

「ほかの人はいいわよ。でも千秋ちゃんはなにも知らないんだし……」

「それは……かえって好都合なんじゃないかな」

「え?」

「なにも知らない方が……より芹沢を理解できるんじゃないだろうか……少なくとも先入観無しに奴のことが見れるだろう?」

「ああ、まあ……」

「下手なこと、教えない方がいいだろうな。変に匂わせるようなことはするなよ。なんか由布より心配だな」

「なんで〜!?」

「お前、利害関係というか、何の関わりもないだろう、芹沢と?」

「友達でしょ?!」

「そうじゃなくて……ほれたはれたの話には関係ないってことだよ」

「ああ……そういうこと」

「部外者だろう、俺たち?せいぜいがひっそりと見守るしかないよ」

「……」

友子は尚不満そうに地面を見つめながら歩き続けた。

……ひっそりっていたって……千秋ちゃんは絶対和広君のことが気になってる。なのになんかふんぎりがつかなくて……だから助けてあげたいのに……それはいけないことなの?困ってるのに……悩んでいるのに……。


「はあ……なんとか読み終わった!」

由布は両手を上げて背伸びをした。机の上には「若きウェルテルの悩み」の英訳本があった。

「すごいじゃない、頑張ったね」

千秋は微笑みながら言った。

「うん、我ながらよくやった。なんか読んでるうちに引き込まれちゃった……」

「どの辺りが?」

「まあ色々と……主人公が悩む下りはねえ……なんだか身につまされちゃって」

「身につまされる?誰か……そんな人知ってるの?」

「へ!?」

由布は椅子から跳び上がりそうになって驚いた。ひどく動揺している。

「い、いや、知らない知らない、あはは……」

「……」

いかにも苦しそうな言い訳に千秋は思えた。しかし、それ以上追求しようにも確証がなかった。

「でもおかげでなんとか試験乗り越えられそう」

嬉しそうに笑う由布。

「千秋ちゃんのおかげだよ」

「そんな……由布ちゃんが自分でやったんだよ」

「そっかな……えへへ」

「その調子で他の教科も頑張ってね」

そう千秋が言うと、由布の表情がぴきっと凍りついた。

「……どうしたの?」

千秋が心配そうに問い掛けると、由布は壊れたロボットのように首を回して、泣きそうな顔で言った。

「うう……他の勉強のことすっかり忘れてたぁ」

「え……?」

さすがの千秋も唖然として由布を見つめた。

「ぜんぜん……手をつけてないの?」

「うん……どおしよ〜」

目をうるうるさせながら手を合わせる由布。

とその時、由布の背後から声がした。

「一体どうしたの?」

「芹沢君!」

「和広君!」

由布と千秋はそろって声をあげた。その切実な声に、思わず和広は

「え……あ、いや……」

「どうしよ〜!」

由布が和広にしがみつく。

「わ!」

「勉強が進んでないのぉ」

「え?だって一緒に勉強してたんじゃ……」

和広の戸惑う視線に、千秋はちょっとドキドキしながら答えた。

「それが……ちょっと偏りすぎたみたい、あたしの教え方……」

「……なるほどね」

事情を察したらしい和広は、呆れ顔で由布を見ながら言った。

「だからあれほどまんべんなく勉強するようにって言ってあったのに……」

「うう、ごめんなさい〜」

「仕方ないなぁ」

まるで子供をみる親のような目で由布を見つめる和広。

「あんまりいいことじゃないけど、傾向と対策とかなら手伝えるよ」

「ああ、助かった!」

安堵の表情を見せる由布。

「これで赤点はなんとか避けられるぅ……」

「今安心されても困るよ。早速始めるからね」

そう言って笑いながら、和広は由布と千秋の間に座った。

「ええ〜、もう?」

「だって、時間ないしね」

「それはそぉだけど……」

「赤点とりたい?」

「う……」

押し黙る由布に向かって、和広は笑いかけながら言った。

「わかったら、さっそく取りかかろうか」

「はぁい」

素直に由布は鞄から別の教科の資料を取り出した。それを手にとって、和広はあれこれと指示を出す。うんうんと肯く由布。

それを見た千秋は、胸がもやもやする感じがして、机の下で手をぎゅっと握った。

……なんでこんな……むかむかするんだろう……。

なんだか二人が楽しそうに話をしているように千秋には見えた。

……芹沢君……あんな顔して……なんであんなに……なんか、いらつく……。

「……ええ〜!こんなとこ出るなんて聞いてないよ〜」

「また寝てたんじゃない?最近気が抜けすぎだよ」

「そんなことないよぉ……」

「でも他の勉強のこと忘れてたじゃない」

「でもそれは……英語の勉強の事ばっかり考えてたから……」

「勉強はまんべんなくしないとね」

「はぁい……あ、千秋ちゃん、ご、ごめん」

「え!?」

我に返った千秋は由布を見た。心配そうな顔で由布は千秋を見ていた。

「あたしから教えてもらうようなこといっておいて、今無視しちゃって……怒った?」

「え、あ……」

千秋は思わず顔を手で押さえた。

「い、いえ、そんなことは……でもなんで?」

「いや、ちょっと不機嫌そうだったから……」

千秋は和広の方に視線を滑らせた。こちらも不安そうな顔だが、どことなく怯えているような表情が浮かんでいた。

……やっぱりこの目……なんでそんな目をするの?なんで……。

「だ、大丈夫よ。なんでもないわ」

千秋は無理に笑顔を作った。

……あたし、変だ……情緒不安定もいいとこ……芹沢君が気になってしょうがないのに……わからないことだらけで、いらついて……なんで由布ちゃんにまで……し……嫉妬なんだろうか、やっぱり……楽しそうだったから?そう、芹沢君が……あたしにいつも見せる彼じゃないから……なぜあたしだけそんな目で見るの?一体何に……怯えているの?ねえ、教えてよ?答えてよ?……ああ、もう!

千秋は突然立ち上がった。驚いた表情で千秋を見つめる由布と和広。

「あ、ど、どうしたの、千秋ちゃん?」

「……用事、思い出したの。先、帰るね」

そう言って千秋は荷物をまとめると、まるで逃げるようにそそくさと図書館を後にした。

その姿を、呆然と二人は見送った。

「あう……やっぱり怒ってたのかなぁ?」

泣きそうな顔で由布は言った。

「ど、どうしよう、和広君?」

「……いや、怒ってなんかないと思うよ」

和広は居なくなった彼女の席を見つめながら静かに言った。

「大丈夫だよ、きっと」

「和広君……」

そんな和広を、由布は不安そうに見つめた。

……千秋ちゃん……もしかして、和広君のことで帰っちゃったのかな?あたしが……取っちゃったから?でもそんなわけ……あったのかな?なんか……むちゃくちゃ複雑な感じ……。


ぴしゃん……。

シャワーの先端からしずくがたれる。

……あたし、何やってるんだろう?

湯船に浸かりながら、千秋は思った。

図書館から飛び出してから、千秋は行く宛も無く校舎をさまよい、落ち着いたところでようやく家に帰った。その間、なにを考えていたかよく覚えていない。

……なにやってるんだろう……由布ちゃんに焼きもち焼いて……そうだ、あれは焼きもち……あたし……ああ……芹沢君のこと、好きなんだ……。

ぶくぶくぶく……。

顔を湯に沈めて千秋が息を吐くと、表面に沫がたった。

……でも……それって違う気がする。気になるのは確かだし、彼のことを知りたいのは確かだけど……あー、もやもやする!

……一体なにがしたいの、千秋?彼のことを知って……どうするつもりなの?でも……やっぱり知りたい。あの瞳の意味……おびえた子猫みたいな悲しそうな目……ああ、あたし、完全に参っちゃってる……自分を……重ねて見ているからなのかな?あのドイツの森で出会ったお化けに怯えてたあたしに……よし!

千秋は勢いよく湯船から出ると、浴室の鏡映った自分の姿を見つめながら呟いた。

「……行動あるのみよ、千秋!」


定期試験はつつがなくスタートし、そして悲喜こもごもの結果を残しつつ、終了した。由布もなんとか合格できたらしい。

これで前期の授業はほぼ終了。後期に向けて様々な動きがある。学園祭実行委員会の設置もその一つだ。

「……というわけで、次は恒例の学園祭実行委員の選出だ」

教壇の上の長谷川先生はそう切り出した。

「二名選出するわけだが、誰か立候補者いるか?」

しかし、誰も手を上げない。それというのも、かなりのハードな仕事だからだ。

乙夜学園の生徒数は千名近い。その生徒たちが企画する様々な企画に対する手配りや交渉事を一手に引き受けるのだ。

「また無しか……だれか推薦するやつはいるか?」

「はぁい!」

勢いよく手をあげたのはみどり。

「天城!」

「はい、かず……芹沢君がいいと思います!」

「ああ、芹沢ね……芹沢、どうだ?」

「ええまあ……しょうがないですよね」

苦笑いを浮かべながら和広は承諾する。

「あと一人だな。誰か推薦者いるか?」

その時三人の手が同時に上がった。みどりに友子、そして千秋だった。

「あー……じゃあ、天城」

「はい!あたし、立候補します!」

みどりはにっこり笑う。

「お前、さっき手をあげなかっただろう」

「え、あ、いや……気が変わって……えへへ」

クラスのみんなは失笑する。みどりが和広が好きだということは全員知っているのだ。

「まあ、やる気があるのはかまわんが、後出しだからなぁ……関心はしないな」

長谷川も苦笑しながら、釘を刺した。

「鈴本、お前の意見は?」

「はい……あたしは、仁科さんがいいと思います」

「ええ!?」

みどりがすっ頓狂な声を出す。由一はぎょっとした目で友子を見つめ、久美子は無表情に和広の背中を見つめる。当の和広は、これと言った表情を浮かべてはいなかった。

「しかし、仁科はまだ転校してきたばかりだから、よくわからないんじゃないのか?」

そう長谷川が問いかけると、友子は軽く肯きながら答えた。

「確かにそうですけど……仁科さんなら、きっとやれると思います」

「うーむ……」

長谷川は腕組みして唸った。そして千秋に視線を向けて言った。

「そういえば仁科も手をあげていたな。お前はどう考えてるんだ?」

すると千秋は立ち上がって毅然とした態度で言った。

「あたしに、やらせてください」

その言葉に、和広は目を剥いて千秋を見上げた。が、彼女の目はまっすぐ前に向けられて和広を見ようともしていなかった。

「うーん……いいのか?かなりハードだぞ?」

「はい、かまいません」

「……よし、わかった」

「先生!」

みどりは抗議めいた声をあげるが無視された。

「じゃあ、実行委員は芹沢と仁科の二人だな……仁科、座れ」

「はい」

千秋は椅子に座った。その横顔を和広は凝視する。

……一体どうして!?一体なにをするつもりなんだろう?

と、千秋は急に和広の方を向いた。

ぎくっとなる和広に、千秋は天使の微笑みというにふさわしい笑顔で和広を見つめ、そして言った。

「一緒に、頑張りましょうね」

「あ……うん」

和広は吸いつけられるように千秋の顔を見つめ、こくんと肯いた。

そんな二人の姿を、みどりは悔しそうな顔で睨み付けていた。

……うう、なんなのよぉ。こうなるんだったら、最初立候補してから和広を推薦すればよかった……でも……なんで仁科さんはこうなっちゃったわけ?これは……どう考えてもあたしたちに対する挑戦よね……これは対策考えないと……。


「おいおい、一体何考えてるんだ?」

由一は部室に向かう友子を中庭で呼び止めた。

「なにが?」

すると友子は、振り返って不機嫌そうに言った。

「なにがって……実行委員の事だよ」

「別になにも」

ぷいっとそっぽを向いてしまう友子。

「なにもって……あれはないだろう。転校したての人間に委員なんて押しつけるようなことを……」

「いいじゃない、千秋ちゃんもそうしたかったんだし」

「あのなあ……ちょっかい出すなってあれほど……」

「いいじゃない!」

友子は突然大声で叫ぶ。

「お、おい……」

「いいじゃない……千秋ちゃんだって、そうしたいと思ったんだから……それでいいじゃない……」

思わず涙ぐむ友子を見て、由一はおろおろとするばかり。

「な、なんでそこまで必死になるんだよ?そりゃ芹沢はいい奴だけど……」

「だから言ってるじゃない……友達なら力になってあげたいって……ただそれだけなのに……」

「あー、わかったわかった」

降参という感じで由一は言った。

「わかったけど……あんまり露骨な真似するなよ?それでこじれたりしたらもともこもないんだし……」

「うん、わかってる……」

友子は涙をぬぐいながら言った。

「でも千秋ちゃん、もう自分で決めたみたいだから……もうあたしの出る幕無いと思う。これからは……ただ見てるだけだと思う……」

「そうか……うまくいくといいな」

「うん、それは……」

……でもそれは……誰かが悲しむってことなんだけど……どうしようもないのかな……それが、恋っていうものなのかな?なんか……やりきれないね……。

友子は空を見上げた。その心の内とは裏腹の、見事なまでの秋晴れだった。





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