千秋は久美子に先導されて校舎の外に出た。
「校舎の中は見たのよね?」
歩きながら久美子は尋ねた。
「ええ、大体……」
「外に出歩く授業無かったものね」
久美子はそう言って笑った。
「敷地が広いから全部は回れないけど……まあ授業に関係する辺りにね」
そうして最初にたどり着いたのは図書館だった。
「おっきいのねえ」
千秋は建物を見て目をまわした。
「ここら辺では最大級の蔵書があるわ……といっても、ここは高等部の分だけなんだけど」
「高等部だけ!?」
「そう……」
そうして二人は中に入っていった。
「中もすごいのね」
「外見なりのものはあるってことで……あ、春日君」
「あ、田崎さん」
カウンターの中で明が挨拶する。
「教室で会ってるわよね?春日君」
「ええ。図書委員なんだ」
「う、うん。わからないことがあったら聞いてね」
そう明は、なにか調子が狂っているという感じで言った。
「しかし……ほんとに似てるなぁ」
「ああ……春日君にしてみれば悩ましいわよね」
「春日君、由布ちゃんと付き合ってるんだよね」
そう千秋が言うと、明は頭をかきながら言った。
「うん……そのおかげで由布ちゃんには変な釘さされちゃうし……」
「変な釘?」
「う、うん……見間違えたら許さないから!……とか」
そう言って明は苦笑い。
「いくらなんでもわかるよって言ってるんだけどさ……」
「確かに顔はそっくりだけど、雰囲気とか違うわよね」
「でも……同じ格好して同じ髪型にしたらどう?」
千秋は両手で髪をちょっと持ち上げて言った。
「う、そ、それは……」
かなり困った表情になる明。
「うふふ……ごめんなさい」
千秋は舌をぺろっと出して笑った。
「大丈夫、そんなことしたりしないから」
「あ、ああ……ぜひそう願いたいよ」
「悪いことしちゃったかなあ」
千秋が首をかしげた。
「春日君、困った顔してたし……」
「ちょっと意外だったかも……」
久美子が呟くように言った。
「え?」
「あ、いえ……千秋さんって、おとなしい人かと思ったものだから……」
「ああ、さっきの?」
千秋はにっこりと笑って言った。
「確かに普段はそうはしゃぐ方じゃないけど……人を驚かせるのは好きかな?迷惑な性格かもしれないけど」
「そう……」
「あたしね……」
千秋は吹いてきた風に髪を飛ばされながらも、吹かれるに任せたまま話し出した。
「普段難しいことばかり考えがちで、昔はよくむっつりだのなんだのって言われてて、一時ふさぎ込んでたことがあるの。でもね、やっぱりそんなんじゃいけないなあと思って……まあ自分だけの力で出来たわけじゃないけど……自分を変えたいと願った……でもなんか変な方向にいっちゃったみたい」
千秋は久美子の方を振り返って、照れ笑いを浮かべた。
「あ、でも安心して。その場の一発芸みたいなものだから。そうでもしないと……自分の方から話を切り出すのって、まだ苦手で……」
「そんなことないと思うわ」
久美子は優しい笑みを浮かべながら言った。
「クラスのみんなと、ちゃんと話してたじゃない」
「それは……由布ちゃんがいてくれたからよ」
千秋は髪をかき上げながら言った。
「最初ぶつかったときはほんとにびっくりしちゃって……でも彼女、とっても気さくで話しやすかったから、すぐ友達になれてとてもよかった。それに友子さんとか、けっこう話しやすくって……みんな、いい人ね」
「ええ……それは請け負うわ。私も含めてね」
そう言って久美子は笑った。
「じゃ、次行きましょうか」
そう言って久美子がやってきたのは運動部の部室が立ち並んでいる場所だった。
「ここは運動部の集合住宅みたいなものね」
「乙夜は強い運動部とかってあるの?」
「弱くはないけど、突出はしてないって感じね。ああ、陸上部は別格かも。あそこは個人競技強いから」
「由一君や友子ちゃんね」
「他にも十種競技とかね」
「なんだ、久美子じゃないか」
部室の窓から、始が顔を出して声をかけてきた。
「ああ、今日は柔道部だったわね」
久美子のセリフの通り、柔道着を着ている始。
「あ、えと……飯坂君、だったっけ?」
千秋はちょっと引き気味に尋ねた。
「そうよ。私とは中学時代からのつきあいなの」
「よろしく……しかし、本当に似てるなあ」
ただでさえ細い目を更に細めて始は言った。
「って、もう言われ過ぎて聞きたくもないよね」
「え、ええ……やっぱり、他の人みたいに見られるのはいい気分しないし……」
「だよな、やっぱり……」
始はそう言って空を仰ぎ見た。
「あ、悪い、引き留めちまって。じゃあな」
そうして始は道場の中に引っ込んだ。
「でっかいねえ……柔道部員なの?」
「あ、違うのよ。助っ人みたいなものね」
「え?」
「言ったでしょ、特別強い部は無いって。でも実力のある人がいないわけじゃないの。始は……格闘技系とか強いけど、特別部に入ってるわけじゃないのね。だからたまに練習とか大会とかに引っ張り出されるの」
「へえ……すごいんだ。中学からって、付き合い長いの?」
「え?ええ、一年生の時からだから……」
「ふうん……付き合ってるの?」
千秋は探るように聞いた。
「そうねえ……いい友達、かな」
久美子はそう言って空を見上げた。その表情は、千秋には見えなかった。
「そっか……ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いいのよ、別に」
久美子は千秋を振り返って笑った。
「それとも、始のこと好きになっちゃった?」
「え!?あ、いや、そういうわけでも……」
千秋は苦笑いした。
「それとも……もう彼氏とかいるの?」
「え?いやぁ……残念ながら、いないの」
照れ笑いを浮かべながら千秋は言った。
「だから由布ちゃんと春日君が付き合ってるっていうの聞いて、なんだか悔しくて……あっ、これは内緒の話ね。同じ顔して自分と違うっていうのも、なんだか変な感じでね……勝手なこと言ってると思うでしょ?さっきは同じに見られるの嫌だと言っておいて……」
「……ううん、そんなことないわよ」
久美子は優しく言った。
「他人には見えないのよね……ほんとうにそっくり……」
そう言う久美子の目が千秋に釘付けになった。切ないような、哀しいような、それでいて燃えるような、そんな目だった。
そんな視線を受けて、千秋は困惑したような表情を浮かべた。
「あ、あの……」
「……あ、ご、ごめんなさい」
久美子は慌てて視線をそらした。
「あの……」
千秋は言いにくそうに、だが視線から感じたことを素直に口にした。
「もしかして……他に誰かあたしとそっくりな人を知ってるんですか?」
「え!?」
久美子は顔を上げて千秋の顔を凝視した。
「あ、いや……そんな感じがしたもんだから……」
そう言う千秋をしばらく見つめたままの久美子は、なんとか気を取り戻した。
「あ、いや……うん、まあ……昔に、ね」
「そ、そうなんですか……」
千秋は気になって仕方なかったが、久美子の話辛そうな雰囲気を感じてそれ以上聞くのはやめにした。
「さ、今度はトラックの方に行って見ましょ」
「はい」
……なんかすごく……悪いこと聞いちゃった気がする……なにがあるんだろう?
陸上トラック周辺では、陸上部や他の運動部がトレーニングをしていた。
「うわあ……すっごく広いのね」
「まあ、国際大会が二つ同時にできるくらいあるから……」
二人がトラック沿いを歩いていると、見慣れた顔が見えてきた。
「あ、久美子!千秋ちゃん!」
走行フォームを確認していた友子が声をかけてきた。その隣には……和広がいる。
「あ、もしかして入部?それとも見学?」
「あ、いや……ちょっと久美子さんに案内してもらってるの」
「なあんだ、がっかり……」
言葉のわりにはがっかりしたような感じはしない。
「フォームチェック中?」
久美子が聞いた。
「うん。近々予選会があるから、和広君にお願いしてるの」
「へえ、そうなんだあ。あ、芹沢君も陸上部なの?」
どことなく嬉しそうに、千秋は尋ねた。
「あ、いや……そうじゃ、ないんだ」
何かがはさまっているような話し方で和広が答えた。
「友子ちゃんに頼まれて、ちょっと……」
「そうなの!和広君、すごいのよ。和広君に教わるようになってから記録上がったし……やっぱり頼んでよかった」
「ちょっとアドバイスしただけ。後は友子ちゃんの実力だよ」
「またまた、謙遜しちゃって……そのくせ直さないと駄目だよ」
「それはまあ……」
などと話していると、ロードワーク中の由一がやってきた。
「なんか楽しそうだなあ」
「あ、由一君!」
友子は由一に近付くと、何やら話し始めた。
「さて、お役御免かな」
和広はほっとしたように言った。
「正直、人に教えられるほどの力は無いからね……」
「でも友子ちゃんは、記録が伸びたって……」
千秋は何故か抗議するかのように言った。
「いや、僕が練習全般を見ているわけじゃないから……ほとんどは彼女の努力の結果だよ。僕のおかげで……なんて言えたものじゃないさ」
なげやりにも聞こえる和広の言葉に、久美子は一言文句を言おうとしたのだが、その前に千秋がちょっと怒ったような顔をして言った。
「それは友子ちゃんに失礼だと思うわ」
「え?」
突然の千秋の言葉に、和広は驚いたような表情で彼女の顔を見つめた。
「だって、友子ちゃんは芹沢君を信頼してお願いしてきたんでしょ?それなのに自分はなんの役にも立ってないだなんて……それじゃ、友子ちゃんが教えてもらってる時間って無駄なわけ?だったら教えなければいいじゃない。でもね……友子ちゃんは芹沢君のアドバイスが役に立ってるって思ってるわけでしょ?だったらその言葉は素直に受けとるべきよ。それは、確かに小さい変化なのかも知れないけど……それでも確実に効果があった。それは自慢してもいいと思うの」
千秋は言い終わると、和広と久美子の視線に気がついて、はっとなって口元を押さえた。
「あ……ご、ごめんなさい!えらそうなこと言っちゃって……」
すると、久美子は千秋に寄り添ってその肩を二度三度軽く叩いた。
「いいのよ……これくらい言ってやん無いと直らないのよ、この性格は」
「え……?」
千秋が久美子を見ると、とっても哀しそうで、とっても嬉しそうな、そんな目をしていた。
「で、でも……」
申しわけなさそうに千秋は和広を見ると……彼はぼーっとした、夢でも見ているかのような表情で千秋を見ていた。
「あの……芹沢君……?」
「え!?あ、い、いや……」
和広は千秋の視線を外すように下を向いた。
「うん……そうだね……君の言うとおりかもしれない……」
そう言って、和広は友子のいる方に歩き出した。
その背中を千秋は、心配そうな表情で見送った。
「……それじゃ、行きましょうか?」
「え、ええ……」
そうして二人はトラックを後にした。
しばらく無言で歩いていた二人だったが、やがて千秋がぼそりと呟いた。
「……あたし……迷惑だったよね」
「……なにが?」
久美子は立ち止まって千秋を見つめる。
「ほとんど初対面なのに、あんなえらそうなこと言って……」
そう言ってうなだれる千秋に、久美子は近づいて言った。
「そんなことないわ。和広だってわかっているのよ」
「わかってる……?」
「そう……わかってるの」
久美子の目はどこか遠くを見ているようだった。
「あ、でも……なぜそういう風に感じたの?」
久美子の問いに、千秋は少し考え込むような顔をして、ゆっくりと話し出した。
「えっとその……特にこれという理由はないんだけど……なぜかね、芹沢君の雰囲気が寂しそうにしてて……これじゃいけないんじゃないかって、そういう気がしたものだから……その……うん……よく、わからないや……」
「そう……」
「それに……授業中にね」
「授業中に?」
「う、うん……あたし、授業中に先生に当てられてたでしょう?その時ね、答えわからなくて、そしたら芹沢君が教えてくれたの。で、その後でね、お礼を言ったんだけど……その時もね……自分のしたことなんて何の意味もないみたいな、そんな感じだったの……それがなんだか哀しくて……だからあんなきつい言い方になっちゃったのかな……」
そう言って、千秋は肩を落としてうつむいた。
久美子は安心したような、それでいて悔しそうな表情を浮かべて、その姿を見つめていた。
やがて……久美子は千秋に話しかける。
「あんまり、気にしない方がいいわ」
「え?」
「あなたの感じたことは正しい……だから、言いたいことがあったらどんどん言ってあげるといいわ」
「で、でも……」
「昔からそうなの、和広は」
そう言って久美子は空を見上げる。
「中学の時から一緒だからわかるんだけど……自分に自信が持てないのね。本当は、すごい力を持っているのに、それを活かそうとはしないの。だから、あたしも始も色々けしかけてるんだけど、うまくいかなくてね……。でも最近はね、ちょっとずつだけど良くなってきたの……あともう一息なのよね。でも最後の一押しが、出来ないの……何かが足りないの……でも……」
久美子は千秋を見つめた。つらそうな、でも決意に満ちた目で。
「でも、あなただったら、もしかして……」
が、そこまで言いかけて、久美子は頭を振って右手で頬を押さえた。
「あ、ううん、なんでもない……気にしないで」
無理やり作ったような笑顔で久美子は言った。
「さ、もう帰りましょうか。結構時間経っちゃったし……」
「え……ええ、そうですね」
千秋もぎこちない笑みを浮かべながら肯いた……。
久美子は校門で千秋と別れると、駆け足でトラックの方に戻って来た。しかし、もう和広の姿は無かった。
「あれ、久美子じゃない」
そばを友子が通りかかった。
「あ、友子!和広は!?」
「へ!?」
久美子に迫られて一瞬目を丸くする友子。
「どこいったの!?」
「え、えと……さっき電話が鳴って、校舎の方に戻っちゃったわよ」
「で、電話って!?」
「えー、みどりちゃんからだったけど……」
それを聞くが早いが、久美子は校舎の方に走り出した。
「ちょっとー!……なんなのよー!」
友子の声も無視して、久美子は走った。
……みどりなら……放送室?
校舎に駆け込むと、まっすぐ放送室に向かった。そしていきなり部屋のドアを開ける。
「だからね……って、久美子!?」
ちょうど部屋を出ようとしていたみどりは、目の前にいきなり久美子が現れて文字どおり跳び上がって驚いた。
「ちょっと、どうしたのよ!?」
「久美子?」
久美子の背中越しに和広が見ていた。
「和広……!」
それを見た久美子は、ほっとしたような表情をする。
「ねー、どうしちゃったのよ?」
みどりは困ったような顔をして二人の顔を見比べる。
「え!?あ……う、ううん、なんでもないの」
久美子は慌てて手を振った。
「あ、そ、それで、なんで和広に電話したの?」
「え?なんでそんなこと知ってるの?」
みどりが怪訝そうな顔をして久美子を見つめた。
「あ、そ、その……友子に聞いたから……」
「あー、そっか……でもそれでここまで走ってきたの?」
「え……う、うん……」
ばつが悪そうな表情をする久美子に、みどりは何かに気がついたような表情になった。
「そういや、仁科さんを案内してたんだよね?」
「え!あ、うん……でももう、帰ったわ」
「そう……和広とも会ったの、彼女?」
「う……うん……」
「そっか……だから?」
「え?」
「……不安になったんでしょ?」
「あ……」
みどりに言い当てられて、久美子はしゅんとしてうつむいた。
「うーん、そっか……」
みどりは自分も似たような顔になって言った。
「じつはさ、あたしもなんだよね……」
「え?」
「最初は気にしないようにしてたけど……やっぱり不安でさ。だから電話して今日一日中連れ回しちゃおうかなって……」
そう言ってみどりは和広の方を振り返った。
「ごめんね。大した用事じゃなくって」
「ああ、いや……」
和広は居心地の悪そうな表情になる。
「こっちこそ……迷惑かけてごめん……」
「そんなこと言わないでよ!あたしが勝手にやってることなんだから」
みどりは務めて明るい顔でそう言うと、頭のバンダナをつつきながら呟いた。
「ちょっと相談しといた方がいいかもね……」
「ふう……」
湯船の中に身体を浸しながら、千秋はため息をついた。
転校初日ということもあり、疲れるのは当たり前だと思っていたし、何度も経験していたので気にもしていなかった。だが……。
……今日はほんとうにつかれたな……。
千秋は顔を半分お湯の中に沈めながら心の中で呟いた。
見慣れない人たちとの会話は楽しい反面、億劫なものだ。千秋は人見知りはしない方だが、一度に大勢の人間に囲まれれば戸惑いは隠せない。
だが今日は由布がいてくれたおかげで面倒は最小限におさまった。その他の友達も千秋のことを気遣ってくれて、とっても楽だったのだ。
それでも……千秋は疲れを感じずにはいられなかった。
……芹沢君……か。
隣の席に座っている時の、和広の横顔を思い出す。真剣で……いや、真剣過ぎて余裕のないような表情。
……でも……それだけじゃないんだ……哀しそうな背中……それに……。
『僕のおかげで……なんて言えたものじゃないさ』
和広のセリフを思い出して、千秋は思わず頭を振った。お湯の表面にばしゃばしゃと波がたつ。
……なんであんな言い方するんだろう?……だからあたし、思わずあんな言い方しちゃって……嫌われちゃったかな……でも、あのままじゃいけないような気がして……。
……でも、なんでだろう……なんでそんな風に思ったんだろう……?
千秋はもう一度放課後に起きた出来事を思い返してみた。何か気になることはなかっただろうか?
……図書館……春日君……柔道部で、飯坂君……そこで似てるって言われた……誰に似てるんだろう?確かその後で久美子さんもあたしを見て……由布ちゃん以外で誰か似ている人を知ってるのかしら?まあ、世界中で自分と似た人が三人はいるって話だから、偶然とは言えそれほど珍しくはないのかもね。それにしても……あの目はなんか普通じゃなかったような気がする……。
……そして陸上トラック……友子ちゃん……そして、芹沢君……あんな生意気なこと言っちゃって……でも久美子さんは、よく言ったみたいなこと言って……その時芹沢君は、とっても驚いたような顔をしてて、そして……。
『君の言うとおりかもしれない……』
……すぐ背中向いちゃったからよくわかんなかったけど……どう受け入れられたんだろう……気になる……とっても、気になる……。
千秋はなんだか身体が熱くなっているのを感じていたが、思考が渦を巻いて、そんなことはどうでも良くなってきていた。
……そして……久美子さんのあのセリフ……。
『あなたの感じたことは正しい……だから、言いたいことがあったらどんどん言ってあげるといいわ』
『昔からそうなの、和広は』
『自分に自信が持てないのね。本当は、すごい力を持っているのに、それを活かそうとはしないの』
『でも最近はね、ちょっとずつだけど良くなってきたの……あともう一息なのよね。でも最後の一押しが、出来ないの……何かが足りないの……でも……』
……でも……でもなんだろう……?
『でも、あなただったら、もしかして……』
……でも……あたしなら……あたしなら、なんなの?……あたしなら、芹沢君を……芹沢君を……。
その時、彼女の首ががくっと倒れて、お湯の中に頭を突っ込んでしまった。
「う、うひゃあ!!」
慌てて顔をあげると、千秋はぜいぜいと息をした。
「あ、あたし……うわわ、のぼせちゃったのね……」
そうしてふらふらしながらバスタブからでた。もう身体中真っ赤だった。
「なにしてるの!?早く出なさい!」
バスルームの外から母親の呼ぶ声が聞こえてくる。
「今出る〜」
千秋は手で仰ぎながらそう返事をして、バスルームから出た。
……はあ……あたし、どうかしてる……のぼせるまで考えごとするだなんて……。
一通り身だしなみを整えた後で、千秋は自分の部屋に戻って、明かりもつけずにそのままベッドの上に寝っ転がった。
「はあ……わからない……いっぱいありすぎて……わかんない……」
ごろん。
千秋は横向きになると、窓の外を眺めた。レースのカーテン越しに星の瞬きが見える。
……わかんないよ……久美子さんの言葉、態度……何かを伝えようとしているのに、なにかに戸惑ってる……。
……そして……芹沢君……なんであんなに自分のことを無視できるんだろう?どうでもいいはずないのに……自分自身のことなのに……なんであんな……あんな、哀しいことを言うんだろう……?
……知りたい……芹沢君のこと、知りたい……ああ、なんでこんなに気になるんだろう……あたし、変だ……全然、全く、本当に、変だ……でも……でも……。
……芹沢君のことが、知り、た、い……。
そうして千秋の目はゆっくりと閉じられ、軽い寝息をたてて眠りについた……。
「みんなそろった?じゃ、はじめよっか」
みどりはインカムを頭に乗せながらモニター画面に向かってしゃべった。
ここはみどりの部屋だった。ただ普通の部屋とは言えないだろう。
室内には調度品の他に、様々な機材がゴロゴロしていた。まるでディスコのDJボックスか録音スタジオみたいだ。
その中でみどりはパソコンの前に座っていた。かなり大型のモニターの中には、小ウインドウが幾つも開いていて、その中に知った顔が幾つも映っている。いわゆるテレビ会議というやつだ。
「友子〜?」
『はーい』
「久美子?」
『いいわ』
「由布?」
『ふあい……なんなのよ。こんな遅くにぃ……』
「文句言わないの!沙織は?」
『ええ……こっちも準備いいわ』
画面の中で、沙織は疲れたような顔をしていた。コンサートの合間をぬって、彼女はこの会議に参加していたが、それだけではない何かを、その表情に浮かべていた。
「じゃ、始めましょうか……これからの和広対策!」
みどりはそう宣言した。
『それなんなのよ〜』
由布が寝むそうに言った。
「どうせそうだろうと思ったわよ」
みどりは呆れたように言った。
「あんた、仁科さんのこと軽く見てるでしょ?」
『またあたしを莫迦にして!』
由布はぷんぷんと怒った。
『あたしだってわかってるわよ!和広君のことなんかこれっぽちも話してないし、変に気を回して彼のことに興味を持たせるようなこと言ってないわよ!』
「う……」
みどりが心配していたことが否定されて、みどりはなにも言えなくなってしまった。
『あ、でもそれってあたしが忠告するまで忘れてたんじゃ……』
『あ』
友子の突っ込みに、由布は白々しく笑った。
『あははは……』
「……やっぱりね」
『で、でも、あたし、なにも言ってないからね!』
「はいはい、わかってますよ……とまあ、こう言うわけよ、沙織」
『そうなの……やっぱり、いつもそばにいないと駄目ね』
沙織は寂しそうに言った。今彼女はツアーのために九州にいる。
『何かあってもすぐ会いに行けないし……』
「沙織……だめだよ、そんな弱気じゃ……電話でもなんでもすればいいのよ!」
『うん、だけど今回のは……』
そう言って沙織はうつむいた。
『ねえみんな……聞いて』
久美子が静かに言った。
『みんな、心配してくれてありがとう。そうね……和広の昔のことを仁科さんに話さないというのでいいと思うの。それ以上の気を使う使うことないわ。でも……由布や友子はそれでいいかもしれないけど、あたしや……沙織やみどりはやりにくいわよね……気にするなって言う方が無理だものね』
「あたしは……今までの自分のやり方を変えないわ」
みどりがはっきりと言い切った。
「今まで通り、積極的にアタックするだけ!仁科さんのことなんか気にならないもん」
『みどり……』
『あたしも……今まで通り、自分の気持ちを歌に込めて和広にぶつけるわ』
沙織も迷いのない声で言った。
『仁科さんに会ったことないけど……仁科さんのせいであたしの気持ちが変わるわけじゃないから……』
『……結局あたしが一番迷っていたってわけか……』
久美子は疲れたような口調で言った。
『あたしは……二人ほど自信がない……仁科さんに変な期待をしてしまうの……』
「……期待って?」
『……彼女が和広を好きになってくれたら……彼女なら和広の力になってくれるんじゃないかって……』
全員が黙り込んでしまう……。
『……勝手よね。和広の気も知らずに、仁科さんの気も知らずに……なのにあたしったら、仁科さんに洋子のことをほのめかすようなことを……あ、別に昔の彼女がどうこうなんてことは言ってないけど……でも……彼女もなにか感じていたみたい……』
「何かって?」
『和広のこと……はっきりとはわからないけど、なにか興味を持っているような感じだった……だから余計に期待しちゃったのかもしれない……ごめんなさい。変なことばっかり言って……』
「……仕方ないよ。和広のこと一番長く見てきたんだし……色々考えちゃうんだよね」
みどりは慰めるような口調で言った。
「まあとりあえず……気にするなってことよ。でも……」
そう言ってみどりは考え込む表情になる。
「和広が自分から動いたときは……その時は……」
全てを言うことのないまま、みどりが沈黙した。
そんなみどりを、みんなは思い思いの表情で見つめていた……。
和広はマンションの屋上で、鉄柵に寄りかかって星空を見上げていた。街灯りのせいで見えづらいが、たくさんの星が瞬いている。
……誰のせいにしたらいいんだろうな……自分を責めるのにはもう飽きてきたよ……これで三人目、か。
呆れたような表情を浮かべる和広。
……どうしてなんだろうな……どうしてこんなに現れる?それにどうして……どうして、惹かれてしまうんだろう……謎としか言い様がない……。
……確かに僕は彼女に……仁科さんに惹かれている……でもそれが洋子に似ているからなのかどうかがわからない……由布ちゃんの時もそうだった。あの時は余裕がなくてそんなこと考えられなかったけど……人を好きになるのって、よく分からない……。
……どうすればいい?大体まだ仁科さんのことはよく知らないのに……一体なにを悩んでいるんだろう……いったい、何を恐れているんだろう……そう……また失ってしまうのが怖いんだろうか……まだ自信がない……そう、自信が持てない……くそ。いつになったらこの堂々巡りを止めることが出来るんだ?いつになったら……。
『だったらその言葉は素直に受けとるべきよ』
……ああ。
『それは、確かに小さい変化なのかも知れないけど……それでも確実に効果があった。それは自慢してもいいと思うの』
……自慢だなんてできるものじゃないけど……だけどこんなに……こんなに気が休まるのは……どうしてなんだろう……。
その時、ポケットの中の端末が鳴った。
「もしもし?」
『あ……和広?』
「ああ、沙織ちゃん……どう、ツアーは?」
『うん……毎日一杯お客さんが来てくれてるわ』
沙織は嬉しそうに言った。
「そっか……良かったね」
『うん、ほんとに……』
そう答える沙織の声は、とても切なそうだった。
『ねえ……なにしてたの?』
「ん……星を見ていたよ。あまりよく見えないけどね……」
『そうなんだ……一人で?』
「もちろんだよ。一人で考えたかったら……」
『……仁科さんのこと?』
思い詰めたような沙織の声。
「そっか……もう聞いたんだね……これじゃ悪いことはできないな」
『そうね。誰か彼か見ているものね』
ちょっとだけ笑いを含んだ声で沙織が言った。
『でも……あたしは、和広の判断に任せるわ。もちろん……負けるつもりは無いけど』
「……そっか……うん、頑張れるといいな」
そう和広が自身なさそうに言うと、沙織は軽く笑って言った。
『ふふふ……"You're Invincible!"、よ』
きっとウインクしながら言ったに違いないそのセリフに、和広はほっとしたような表情を浮かべて言った。
「うん……頑張るよ」
『うん……じゃあ、また連絡するわ。おやすみなさい』
「おやすみ」
そして電話は切れた。
和広は端末をしまうと、再び空を見上げた。星空はさっきと同じままだった。
「……なにもしなければ変わりようは無い、か……」
そうして和広は歩き出し、屋上から去っていった……。
翌朝。
千秋はちょっと眠たそうに家を出た。
……なんで何度も起きちゃったんだろ……。
そうして階段を降りようとしたところで、由布とばったり出くわした。
「あ、由布ちゃん」
「おはよう、千秋ちゃん」
由布はにっこりと笑った。
「おはよう。どうしたの?」
「いや、一緒に行こうと思って」
「そっかぁ、ありがとう、心配してくれて」
「えへへ……」
そうして二人は連れだって学校へと向かった。
「昨日は疲れたでしょ?ゆっくり休めた?」
「それが……よく分からないんだけど、眠たいの……」
千秋はあくびしそうになるのをこらえながらそう言った。
「ちゃんと寝たはずなんだけど……」
「疲れすぎちゃったんだよ、きっと。でも今日はイベントとかないからゆっくりとしてればいいよ」
「そうだといいな」
そして校門前の坂道さしかかったとき……。
「あ、和広君だ……」
「え?」
由布の見ている方を千秋も見ると、横の方から和広を中心とした集団が見えた。
「おーい!」
由布が手を振ると向こうも気がついたらしい。
和広の視線が二人に向けられる……いや、ただ一人に。
その時、千秋が小走りに和広達の方に近づいていった。慌てて由布も後を追う。
千秋は和広の前に来ると、一瞬の間をおいて千秋は言った。
「おはよう、芹沢君」
和広は戸惑ったような表情を見せたが、すぐに普段通りの顔になって答えた。
「おはよう、仁科さん」
そうして二人は歩き出した。
学校につくまでの間二人が言葉を交わすことは無かったが、その光景がまるでこれまでずっと存在してきたかのような印象を目撃した者に与えた。
……夏は終わりを迎え、季節は秋へと移ろい始める。
穏やかな季節へ、と。