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第7話:犬も食わぬといいにけり

由布は美術室で白いキャンバスを前にぼけっとしながら椅子に座っていた。

今日は部活の無い日だった。当然由布以外の人間はだれもいない。

昼休みの明との争いの後、由布は何も考えていなかった。ただ取り返しのつかないことをしてしまったという思いが胸の中で渦巻いていた。

と、その時。ドアが開いてその隙間から友子がひょいっと顔を突き出した。

「あ、やっぱりここにいた!」

友子はわざと陽気に言うと、由布のそばに近寄っていった。

「……友子?」

「まだ学校にいると思ってたから、ここじゃないかと思って……探してたんだから」

友子は優しく言う。

「みんな心配してるよ?一体何があったの?」

「みんなが……心配……」

由布はうつむいた。

「ごめん……」

「いやそんな、別に謝らなくても……あたしたち、友達じゃない」

友子が笑いかけて言った。

「だからほら、話してみて。春日君と何があったのか……ね?」

しばらく由布は無言だったが、しばらくしてぽつぽつ話し始めた。

明とGW中の相談をしようとしたが連絡がつかなかったこと。そしてその理由が花の品評会なこと。それが明にとって重要なものであること。そして……。

「それであたし……ひどいこと言っちゃったんだ……」

「ひどいこと?」

「うん……あたしと花とどっちが大切なの!?……って」

「う……」

友子は言葉につまった。

「そ、それは……それは言っちゃいけないよぉ……」

「うん……だよね」

由布はいまにも泣き出しそうな顔で言った。

「わかってたのに……言っちゃいけないことだってわかってたのに……言っちゃったんだ、あたし……」

「……由布」

友子はしばらくじっと由布の顔を見つめていた。はた目に見てもわかるほど、由布の顔は暗く沈んでいた。今にも、どこかに行ってしまいそうな雰囲気……。

「ねえ……あのさあ、由布」

友子は意を決して声をかけた。

「原因、わかってるんじゃない」

「え?」

由布は顔を上げて真っ赤な目で友子を見た。友子は背一杯優しそうな目を向けて言った。

「なんで喧嘩みたいになっちゃったか、わかってるんでしょ?」

「う、うん……」

「だったら、簡単じゃない。素直に話して、あやまればいいんじゃない」

「あやまる?」

一瞬戸惑った表情を見せた由布は、首を振って答えた。

「だめだよ……」

「どうして?」

「だって……あんなひどいこと言っちゃって……おまけに大っ嫌いなんて言っちゃって……もうきっと嫌われちゃったよ……」

ついに由布の目から大粒の涙がこぼれ出した。

「もう、会わせる顔無いよ……」

「由布……」

しばらく由布の涙が流れるのに任せていた友子は、落ち着いた頃合いを見計らって話しかけた。

「じゃ、春日君のこと、嫌いになっちゃったの?」

「うぐ……そ、そんなこと……そんなことないよ……でも……」

「だったら、迷ってちゃ駄目でしょう?」

諭すように友子は言った。

「今すぐにでも謝りに行かなきゃ!自分が悪かったって、あやまらなくちゃ!このままお別れだなんていけないよ。行きづらいんだったらあたしも一緒に行ってあげるから……ね?」

「で……でも……」

「今日じゃなくったっていいんだよ?明日学校ででもいいんだよ?でも……ちゃんと謝らなきゃ……後悔しちゃうよ、きっと。……ね?」

「う……」

由布は鼻をぐずぐすさせながら友子の顔を見た。少しは落ち着いているように見えるが……。

「でも……やっぱり怖いよ……だめだよ、友子〜」

「ああ、もう……由布ったら……」

友子は由布の頭をそっと抱き締める。

「自分が悪いってわかってるんだもの……わかってたら、ごめんなさいすればいいのよ……告白することより簡単だと思うけどな。行き違いがあったとしても、お互い好き同士なんだし……ね?」

友子の言葉が聞こえているのか、由布はうんうん肯きながら小さな声で泣いていた。


久美子が商店街についた頃は既に日が傾き始めていた。

明の家は商店街の中程にある。だが久美子がその前にたどり着いたとき、店は閉まっていた。

その前で少し考え込んだ後、久美子は店の裏手にまわった。店舗兼住宅なので、裏に自宅入り口があるのだ。

玄関先のチャイムを押してみるが、返事はない。

「……ごめんください!」

声をかけるがやはり返事はない。仕方なく久美子は玄関の中に入っていった。

そこは庭のようになっていた。かなり広い。そしてかなり大きな温室が二棟あった。ガラス張りの本格的なものだ。だが中はよく見えない。

久美子はその中でも一番奥にある温室の方に近づいた。そして入り口を探して中に入っていく。

中はかなりむっとした空気で満ちていた。そしてたくさん置かれた棚には植木鉢がところ狭しと並べられている。

「こんにちは!誰かいませんか?」

しかし、やはり返事はない。

久美子は更に奥に行くことにした。天井から降りている枝を払い、一番奥まった所までやってきた。すると……。

そこには机を椅子が置かれていて、明が座りながら突っ伏していた。

「春日君……起きて」

久美子は結構強引に明の身体を揺さぶった。するとうなり声をあげて明は顔を起こした。

「うう……あ?!た、田崎さん?!」

心底驚いたという顔で、明は久美子の顔を見つめた。

「よかった、生きてて」

久美子は笑いながらそう言った。

「ごめんなさい、勝手に入り込んじゃって。でも話したいことがあったから……」

「あ、うん、別にいいんだけど……話って、なに?」

「うん、由布のことなんだけど」

そう久美子が言うと、明はうつむいて苦い表情になった。

「あ、な、なんで?」

「けんかしたでしょ?」

「う……うん」

怪訝そうな表情をする明。

「あ、別にそのことで責めるとかそういうつもりは無いの。ただ……どうして喧嘩になっちゃったのか聞きたいだけなの……ね?聞かせてくれない?」

久美子は優しげな目で明を見たが、明は相変わらずうつむいたままで口をもごもごさせた。

「い、いや、その……」

「由布と……仲直りしたいんじゃないの?」

ちょっとトーンを落とした、胸に響くような声で久美子は言った。

明ははっと顔を上げて久美子の目を見つめた。その目は重々しく輝いていた。

「したいのなら……話してみて」

「……うん」

そうして明は話し出した。

内容は由布の話と大して変わらない。そして、悩んでいるところも……。

「……その時、品評会のことを知らされた時は、完全に気を取られちゃって……確かに由布ちゃんの言うとおりなんだ。連絡すればよかったのに……だから言い訳なんか出来ないんだ。確かにお互いの事をちゃんと理解し合っていたとは言えないから、そのせいだって言えるかもしれないけど……でも、由布ちゃんのことを忘れていたのは事実で……ああ、もう駄目じゃないのかな……だいっきらいっていわれちゃったし……」

そう言って明は頭を抱えた。その様子を冷静に見つめていた久美子は、ため息をふーっとひとつついた。

「そんなの、由布が悪いわよ」

「……え?」

明は怪訝な表情で久美子を見た。

「由布のは単なる思い込みだもの。わがままなのよ」

「そ、そんなことは……無いと思うけど……」

「いいえ、そうなのよ。あの子、自分の思い通りに春日君が動くものだとばかり思ってたんだもの。そのくせ春日君のせいにして……自分勝手もいい所だわ」

そんな久美子の言葉を聞いていると、なんだか由布のせいに明は思えてきた。

……そうだよな……約束してたわけじゃないのに……僕の都合なんて聞きもしないで……。

「だけど春日君だって悪いのよ!」

「え!?」

そんなことを考えていたら、今度は矛先が明の方に向かっていた。

「どうして自分のやりたいことだけ考えちゃうの!?ちょっと考えれば由布が文句言ってくると分かってたはずよ?」

「あ、え、そ、それは……」

「それに!……どうして御昼休みの時に誤解を解こうとしなかったの?なんで強引にでも由布を引き留めて謝らなかったの!?その場で二人で話し合っていれば、今頃こんなことにはならなかったはずよ、違う!?」

「い……あ……」

久美子に睨まれて、明は縮み上がった。普段の彼女とは思えないような声だった。

しばらく怖い目で見つめていた久美子は、ふっと力を抜いて優しい表情になった。

「……難しいわよね、付き合うのって」

「え!?……あ、う、うん……」

「どんなカップルだってけんかくらいするわよ。それが普通なの。赤の他人だものね、どこまでいっても……でもね」

ちょっと首を傾けながら、久美子は言った。

「だからこそ、話し合わなくちゃ。話しづらいのはわかるけど……勇気を出して。だって……由布のこと、好きなんでしょ?その気持ちには、変わりはないんでしょ?」

久美子の目をじっと見つめていた明は、ちょっと戸惑い気味に、だがはっきりと肯いた。

「う、うん……好きだよ。由布ちゃんのこと……嫌いになんかならないよ。だけど……」

「もしかして、けんかするのって、初めて?」

「う、うん……」

「そう……だからどうやって仲直りしたらいいのか、わからないのね?」

こくんと明は肯く。

久美子はまたため息をついた。

「はあ……なんか先が思いやられるけど……とにかく!ふんぎりつけて素直に話に行きなさい!それしか方法無いんだから」

「う、うん、そうするよ。でも……」

「……でも?」

「ここから離れるわけにはいかないし、それに……」

なんか愚痴り出す明に、久美子は心の中で深々とため息をついた。

……これは……なにか考えないと駄目ね。


その夜。

「二人ともだめだめねえ」

みどりがそう言ってせんべいをぼりぼりとかじる。

居間には友子と久美子もいた。みんなで和広の家で対策会議を開いているのだ。

「二人とも苦しんでるのにそれは無いんじゃない?」

友子が抗議する。

「でもさあ……」

「ごく普通の反応だと思うわ。まだまだ付き合いが浅いってことなのよ」

久美子の説明に、しかし、みどりは眉を寄せた。

「そうかもしれないけど……なにもあたしたちを巻き込まなくてもさあ……」

「仕方ないじゃない。このままじゃ気まずいんだから……」

友子の言葉に、みんなしーんとなる。

「でも、もう筋道は出来てると思うけどな」

黙って話を聞いていた和広は、明るい調子でそう言った。

「お互いの気持ちは確認できたわけだし、あとは二人を会わせればいい」

「だけど……二人とも怖がってるんだよ?変なことにならないかなあ……」

みどりは最後のせんべいを手にしながら言った。

「売り言葉に買い言葉みたいになっちゃわない?」

「そうだよね……変な言葉一言でもあったらそれこそ修羅場に……」

友子は思わず身体を震わせた。

「さりげなく……といってもいまの状況ではね」

久美子は考え込むような顔をした。

「明日学校で……というのはちょっと早すぎるのかしら?」

「確かにちょっと早いかもね」

和広は久美子の意見に同意した。

「でもあまり間を空けることはできないな。なげやりになられても困る。謝りたいのにちょっと勇気が無い……というのは、一番いいタイミングだと思う」

「じゃあ……やっぱり明日?」

「うん……出来れば放課後かな。昨日の今日で、朝だとまだ心の整理が出来てないだろうし。でも誰に背中を押させたらいいかな?春日君は由一君が適任だと思うけど、由布ちゃんの方は誰に……」

そう言って、和広はみどりの方を見た。それにつられたのか、久美子と友子もみどりを見る。

「そうね、押し強そうだし……」

「あたしは一回由布とお話ししたし……」

「な、な、なによ!?」

みどりはびくついた表情でみんなの顔を見回した。

「あ、あたしにやれっての!?あ、あたしは最初で疲れちゃったわよ、もう!」

「いや……変に小細工を労するよりは、みどりちゃんの明るさで押し切った方がいいかなと思ったんだけど……」

「で、でも……」

「いつものように振る舞ってくれればいいんだよ」

「い、いつも通りってどういう意味!?」

「あ、いやべつに、そのまま……というか……」

困る和広を久美子が助ける。

「みどり、人の背中押すの得意でしょ?由布にずけずけ物言うのはいっつもみどりだし……」

「ちょっと、それぜんぜん褒め言葉になってないじゃない!」

「いいからいいから、明日頼むわよ」

友子までに言われて、みどりはふてくされたような顔になった。

「ふん!わかったわよ!やればいいんでしょ、やれば!まったく……和広君のお願いだからやるんだからね、もう……」

「お願いするよ……早く終わらせて落ち着きたいからね」

「ねえねえ、落ち着いたらどこか遊びに行こうよ?ね?ね?」

みどりがここぞとばかり和広の首に抱きついた。

「もう、現金なんだから!」

友子が呆れて言うと、隣で久美子は苦笑いを浮かべていた。

その時、窓になにか打ちつけられるような音がした。

どうやら雨が降っているらしい……。


……結局、何も出来なかった。

由布は学校に行く道を歩いていた。昨夜の雨はすっかり上がり、初夏の日射しが戻っている。

友子に言われて謝る気になった由布だったが、昨夜は電話の一本も入れることが出来なかった。そして、明からも電話は無かった。

……やっぱり、怒っているのかな?ほんとに嫌われちゃったのかな……。

考えれば考えるほど、悪い方向へと悪い方向へと想いが空回りする。

……行きたくないや、学校なんて。

しかし、それでも由布は学校に向かっていた。


由布が教室に着いたのはHR直前だった。恐る恐る教室に入っていくと……明は昨日と同じように机を枕にして眠っていた。それを見た由布はなんだかほっとする。

……あ。いけない、そんなんじゃ……今日こそちゃんと謝って仲直りするんだ……。

HRが終わって明の方に行こうと思った由布だったが、時間が限られていることから、昼休みまで待とうと思った。それが後向きな、逃げの感情であることはわかっていたが、怖さが先に立ってしまうのだ。

そうして時間は過ぎていった。その間、由布は針のむしろに座っているような感覚で授業を聞き流していた。

……大丈夫……大丈夫だって……今日こそ絶対、仲直りするんだ……絶対……。

そう心の中で何度も何度も呟きながら、昼休みを待つ。

そしてやっとのことで昼休みを迎え、意を決して由布は立ち上がり、後ろを振り返った。

「あ、あの……あ……いない……」

しかし、明の姿は無かった。

由布はがっくりと肩を落としてうなだれた。

……やっぱり、嫌われちゃったのかな……。

思わず泣きそうになる由布。

「なにしょぼくれてんのよ!」

「あ……みどり……」

みどりはむっとした表情で由布を睨み付けていた。

「まったく……謝るなら謝るで、さっさとしなさいよ!」

「だ、だ、だって……」

「だってじゃない!」

びしっと人指し指を突き出してみどりは言った。

「いつまでもこのままじゃみんなが迷惑するのよ!さっさとはらくくんなさいよ!」

「え、でも……」

「でもじゃない!」

「うう……」

みどりに迫られて由布は顔を引きつかせていたが、やがて耐えきれなくなってその場から走り出してしまった。

「あ、こら、にげるな!」

……だってだってだって!

由布は走りながら心の中で叫んだ。

……こわいだもん……嫌われたってわかるのが嫌なんだもん……だから……怖い……。


一方の明は教室に居辛くて、中庭の方に出て暇を持て余していた。

……なんでこんなに臆病なのかな、僕って……。

日に当たりながら、明は思う。

……素直に謝ればいいのに……そして一緒に花作りを手伝って欲しいって言えばこんなことには……。

「こんなとこにいたのか」

そのとき由一が明の前に現れた。にこやかな表情の中に、何か厳しいものを含んでいる。

「いつまでそうしているつもりなんだ?」

「え?……ああ、良くわかんないよ……」

「駄目だなあ」

そう言って由一は明のとなりに座った。

「けんかしたくらいでそんなこと言ってさ。これから何回でもするんだぜ、きっと」

「……そうかな?」

「そうさ。結構ささいなことで言い争いになったりしてさ、次の日にはけろっと忘れて仲よくするもんだよ。……そういうこと、あんまり無かったのか?」

「うん……けんかしたの、初めてだし……」

「うーむ」

……そりゃまたずいぶんうぶというかなんというか……。

「しかし、わからんなあ。あいつさ、俺や信雄相手だとむちゃくちゃ攻撃的だぜ?春日の前だと猫かぶりになるとは……許せないよなあ。なあ、そう思わないか?」

由一は呆れたような顔で明を見た。

「い、いや……どうって言われても……」

「それだけお前が好きだってことじゃないのかな」

顔を引き締めた真剣な顔で由一は言った。一瞬明はたじろいだ。

「好きな奴に可愛く見せたいとか、嫌われたくないとか思って、必死になって好かれるように頑張ってるんだろう……でもなあ、それって無理があると思うんだ」

「無理……?」

「そう……だって、疲れるじゃないか。四六時中嘘ついてるみたいなもんだからな。それにそれって……詐欺だろう?本当の自分を見せてるわけじゃない。本当の自分を好きになってもらうわけじゃない……それでいいのか?」

「……よくないよね、やっぱり」

明は深くため息をついた。

「僕も……ほんとの自分は出してこなかったように思う。いつも由布ちゃんに合わせてばかりで……自分のことをあんまり話してこなかったから……」

「そうか……ま、丁度よかったんじゃないか?」

由一はちょっとだけ笑って言った。

「あいつがわがままだってわかっただろ?」

「い、いや、それは……」

「いいって、無理しなくても。あいつの性格はこの俺が一番よく知ってるよ」

そう言って由一は立ち上がった。

「最初はお前と合わないんじゃないかって思ってたんだ。それが意外とうまくいくんで、あんな奴でも彼氏が出来るんだなんて変な感心してたんだが……別に、由布の事が嫌いになったわけじゃないんだろう?」

「そ、それは……好きだよ、もちろん」

そう言う明の目を、由一はじっと睨み付ける。そして。

「……よし。なら、早く仲直りしてくれよな。あいつの情けない顔見るのはもう嫌だからさ。だけど……」

「だけど?」

「自分でやるんだぜ」

そう言い残して、由一はその場から立ち去った。

取り残された明は、由一に言われたことを頭の中で反芻した。

……じぶんで、か……でも……まだなんだか……ふんぎり着かないな……なんでなんだろう……自分が、情けないよ……。


結局、放課後になっても由布と明は話し合うことはなかった。

「まずいんじゃない?」

教室を出て行く明を見ながらみどりは言った。

「うーん」

和広はひとうなりして、

「明君は自宅に帰るから、頃合いを見計らってそのあと由布ちゃんを連れてくんだ」

「直接対決なわけ?」

「うん。でも、あくまで二人が会うようにするだけで、その場にいちゃいけない。変に合いの手入れてこじらせても仕方ないし……」

「でも話進まなくなっちゃうかも?」

「うーん……」

「やるしかないだろ」

いつのまにか来ていた始が言った。

「先延ばししたって堂々巡りだ。その馬鹿馬鹿しさはお前が一番知ってることだろう?」

「……ああ、それはそうだな」

「じゃあ……」

「うん。作戦決行だ。みどりちゃん、任せたよ」

「うん、任せて!」


由布はとぼとぼと坂を下っていた。放課後しばらく図書館でぼーっとした後、それにも耐えられなくて、ようやく下校の道を歩いていた。

……はあ……今日も話せなかった……こんなんじゃいけないのに……今夜こそ、電話でもいいから話しなくちゃ……でないとこのまま……。

と、そのとき。いきなり後ろから肩を掴まれた。

「由布!!」

「うわわぁあ!びび、びっくりさせないでよ!?」

掴んでいたのはみどりだった。ものすごい顔で由布を睨み付けている。

「さあ、来なさい!」

みどりは由布の腕を掴むとぐいぐい引っ張り始めた。

「ちょちょっと!どこ行くのよ!?い、痛いったら、離してよ!」

「つべこべいわないで、きりきり歩く!」

「や、止めてよ!一体なんだっていうのよ!?」

「もう、我慢できない!」

後ろを振り返りながらみどりは叫んだ。

「じれったいのよ!いまから春日君ちいくから、きっちりと落とし前つけなさい!」

「え、ええ〜!?そ、そんな!」

突然のことにパニックを起こす。

「や、やだよ!まだふんぎり着いてないのに〜」

「あのねえ、つけるもなにも、もうわかりきってるでしょうが!」

「やだ!わかんないよ!」

「とにかく!春日君に会って話をするのよ!」

「こ、こころの準備が〜!」

「さっさと歩きなさい!」

結局明の家まで由布は引きずられてきてしまった。

「はあはあ……さあ、ついたわよ!」

「う、うう……」

由布は花屋の店先で唸った。

今日も休業中の札がぶら下がっていた。

「裏から行こう」

また由布の手を取ってみどりが歩き出した。

「仲直りしたいんだったら……直接話すしかないんだから……」

ぶつぶついうみどりの言葉を聞きながら、由布の胸はどくんどくんうちならされていた。

……ああ、仲直りできるかな……嫌われてないかな……ああ、どうやって話したらいいかな……ああ、もうついちゃうよぉ……。

そうしてついに、自宅側の入り口の前にたどり着いた。

「さ、あとはあんた一人で行くんだよ」

「え!?ついてきてくれるんじゃないの!?」

「そんなわけないじゃない!なんでそこまで面倒見なくちゃいけないのよ!」

「うう、でも……」

「でもじゃない!さあ、いったいった!」

「あ!」

そうしてみどりは強引に由布の身体を庭の中に押しつけた。

「じゃ、いってらっしゃい!」

手を振るみどりを恨めしそうに見ていた由布だったが、いよいよ決心がついたのか、温室の方に一歩一歩歩いていった。

「頑張れ……」

その後ろ姿に、みどりは励ましの声をかけた。


温室には何度か来たことがあった。手前にあるのが店用の温室で、奥が研究用の温室になっている。いるとしたら奥の方だ。

……ああ、春日君の顔を見たら……ちゃんとお話しできるかな?ちゃんと謝れるかな……。

温室の入り口の前に立つと、由布は深呼吸をした。心臓はまだどきどきしていた。

……謝らなきゃ。

由布はドアに手をかけて温室の中に入っていった。

「あの……春日君、いる?」

恐る恐る、由布は中に声をかけた。だが返事はない。

「春日君……由布、だよ?……いないの?」

どんどん奥に進んでいく。だが、誰かがいるような雰囲気ではなかった。

「春日君……」

とうとう一番奥まで来たが、机と椅子があるだけで、誰も中にはいなかった。

「なんだ……いないのか……」

由布はがっかりしたようなほっとしたような複雑な気分だった。

「もう一つの温室かな?それとも家の中……」

そう由布は呟くと、温室から出ようとして歩き出した。

その時……。

「……ん?なに、この臭い?」

なにかが焦げているような臭いが微かにした。

「肥料の臭いかな……」

それにしてはおかしかった。肥料の臭いなら常にしているはずで、今更になって感じるなどあるはずがなかった。

「じゃあ……なに、これ……」

その臭いは更に強くなっていった。

「やだ……焦げ臭い……なんか燃えてるの!?」

由布は辺りを見回した。臭いのする方を見る。そこには……。

「あ!?」

壁際におかれた植木の草が燃えていた。そしてその火は周りにおかれたプラスティック製の植木鉢に燃え移ろうとしており、プラスティック特有の嫌な臭いがした。

「か、か、火事!?」

そうこうしているうちに火はどんどん燃え広がり、壁の内側に張られたコーティングフィルムにまで燃え移り……。

「け、消さなくちゃ!」

由布は上着を脱ぐと、それで火を消そうとした。だが火は衰えない。

「げほっ……げほっ……」

むせながらも、由布は必死になって火を消そうとした。

……ここが燃えちゃたら……春日君の大事なものが無くなっちゃう……そんなのだめ!!

しかし火はますます燃え盛った。息苦しくてもはや火を消すどころではなかった。

だが由布は、それでもあきらめずに上着をあおった。

「げほ……だれか……お願い……ごほごほ……」

人を呼ぼうにも煙でむせて大きな声は出せない。

……や、やだ……あたしこのままじゃ……息ができなくなって……ああ……春日君にあえなくなる……話せなくなっちゃう……やだ……そんなのやだよ……。

「かすがくん!!」

由布は最後の力を振り絞って叫んだ。

……ああ……息が、苦しくて……。

と、その時

「由布ちゃん!!」

……あれ……春日君の声……みたい……。

由布はふっと意識が薄れた。

「由布ちゃん、そこにいるの!?」

……あ!?

「春日君!!」

幻聴ではなかった。確かに明の声だった。

「由布ちゃん、そこから離れて!!」

温室に駆け込んできた明は由布の身体を掴むと火から引き離した。

「ああ、春日君!!」

由布はたまらず明にしがみついた。

「ああ、よかった、春日君だ!」

「由布ちゃん、なんでここに!?」

「そ、そんなことより、燃えちゃうよ!」

「いいから早くここからでないと!」

二人が話している間にも火はますます燃え上がっていた。壁一面に炎が躍る。

「でも春日君の大事な花が……」

「死んだらなんにもなんないよ!さあ、早く!」

明は無理やり由布を立たせると、出口に向かって歩き出した。

「ごめんね……ごめんね……」

その間、由布はただそう繰り返していた。

二人が出口に差しかかったとき、外から人が入ってきた。

「和広君!?みどり!?」

それは消火器を抱えた和広とみどりだった。

「火は必ず消すから!」

そう叫んで和広は温室の中に入っていった。その後によたよたとみどりがついていく。

気が抜けたのか、明と由布は抱き合ったままその場にへたりこんだ。その傍らで、明の父が呆然と温室を見つめていた。

「こりゃまた……なんでこんなことに……」

由布と明はその言葉になんの反応も示さないまま、やはり呆然として温室を見つめていた。


火はなんなく消し止められた。幸い壁が焼けただけで、内部にそれほどの損害はなかった。ただ中の植物は煙くさくなってしまったが。

「間に合ってよかったよ」

和広は明と由布を見ながら言った。

「成り行きを見守ろうとして外で待っていたら……火の手が上がったのが見えてね。消火器を探すのにちょっと手間取って……なんとか間に合ったっというわけさ」

「どうして火がついたの?」

みどりがすすで汚れた顔を拭きながら聞いた。

「多分……昨日の雨のせいだね」

「あめ?」

「そう。温室の屋根に溜まった水がレンズの役割をして、日射しを集光して枯れかかった草かゴミに引火したんだと思う。中の花にはちょっと災難だったね」

「そっかぁ……あ、それであんたたち!?」

みどりは明と由布を睨み付けた。

「仲直りはしたの!?」

「あ、えと……」

二人は顔を見合わせ、そして同時に頭を下げて叫んだ。

「ごめん!」「ごめんなさい!」

『え?』

また二人は顔を見合った。

「えっと……その……」

「いやその……」

お互いの顔を見ると、どっちも煙のすすで顔中汚れてみっともない。

「ぷっ……」

「う……ふふ……」

たまらず二人は……はじけたように笑い始めた。

「あっはははは!」

「ふふ……ふふふ……あははは!」

その光景をみどりはあっけに取られて見ていた。

「なに……なんなのよ……」

それでも由布と明は笑い続けた。そして息が続かなくなって笑い終わると、二人は見つめ合った。

「……ごめんなさい、わがまま言って困らせて」

由布が先に話しかけた。

「おまけに大嫌いなんて言っちゃって……ぜんぜん、そんなこと無いんだからね!今でも……好きなんだから……」

「僕の方こそごめん。もっと自分のことを話しておけばよかったんだ。そうすればこんな変なことにはならなかったんだ。……嫌いになんて、なってないから」

「春日君……」

「由布ちゃん……」

そうして二人は互いに見つめ合い、そしてどんどん顔が近付いて……。

「あーあ、やってらんない!!」

「わ!」

「きゃ!」

我に返ったみどりがなげやりに言った。慌てて由布と明は離れた。

「あたしたちって一体なんだったわけ?」

「さあてねえ……」

さしもの和広もただただ苦笑するしかない。

「昔から、夫婦げんかは犬も食わないというから……」

「ふ、ふ、夫婦!?」

何故か動揺する二人。

「いいんじゃないのかな?八方丸く収まったということで」

「あーあ、いいなぁ」

みどりはちらっと和広に視線を向けてため息をついた。

「ねえどっかよってこ?疲れちゃったあたし……」

「そうだねえ……じゃあ、御二人さん、あとは仲よくね」

そう言って和広はウインクすると、みどりを連れだって春日家を後にした。

その後ろ姿を、由布と明は半ば呆然と見送るのだった……。





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