のぢしゃ工房 Novels

You!

第4話:デビュー

「はあ……反省してます……」

沙織の家でもある喫茶店『エクレア』のカウンターに、みどりは突っ伏していた。

「まったくもう……ほんと、口が軽いんだから」

由布がちょっと怒って言った。

「ごめん、沙織……」

「いいのよ……言ったあたしが悪かったんだし……」

沙織はちょっと疲れたような口調で言った。

「それにしても、もう世界中に流れちゃうなんてねえ……」

由布はそう言ってメロンジュースをすする。

みどりが発信源となったうわさ話は、ネットワークに乗って瞬く間に世界中に広がっていた。そのせいでアコンカグヤには問い合わせが殺到し、噂の否定に躍起になっているそうだ。

「怒ってませんかね?」

由布がカウンターの中にいる沙織の父親、達雄に声をかけた。

「大丈夫さ……あいつはそんなこと気にしないから」

昔ドラマーだったからかどうかはわからないが、ちょっと太めの体格をした達雄は笑いながら言った。

「むしろ喜んでるんじゃないのかな?」

「喜んでる?」

「そう……いい宣伝効果だと思うよ」

「確かに、隠しすぎても話題にならないですもんね。……だってさ、みどり?」

「そ、それって慰めてるつもりなのぉ?」

「そ」

「ま、おれが怒られるだけだからいいんだけど」

「ご、ごめんなさい!」

みどりは頭をこすり付けるようにして謝った。

「まあ大丈夫だよ」

「それにしても、もう明日なんだねえ……」

由布がしみじみと言った。

「ほんとにほんとなのかな、その話?」

「だったらあたしがまぬけだよぉ……」

みどりが嘆く。

「そうね。世界中の笑い者よね」

くすくす笑いながら沙織は言った。

「もう、沙織ったら……元はと言えば、沙織が話さなきゃこんなことにはならなかったんだよ!」

「うふふ……そうよね……あたしからちゃんと謝っておくわ」

「明日は何時に発表なの?」

由布が言った。

「お昼だよ、噂によればさ」

半ばなげやりにみどりは言った。

「放送自体は夕方みたいだけど……それにしても全世界一斉中継って、ほんとだとしたらすごい話だよねえ」

「そうね……なんだか信じられないわ」

由布がそう言ってため息をつくと、沙織がスツールから立ち上がった。

「沙織?」

「ああ……今日は疲れちゃった」

「大丈夫?」

「うん、平気平気……さて、明日も頑張らなくちゃね」

沙織はそう言って背伸びをした。

「じゃあたし、一旦部屋に戻るから……また明日ね」

そう言って、沙織は店内から出ていった。

「また明日か……」

「ああ、学校行きたくない〜」

「ごねないの、みどり!さ、あたしたちも帰りましょ」

そう言って由布はみどりを引きずるようにして立ち上がると、達雄に挨拶をして店から出ていった。

達雄は彼女たちの食器を片付けると、二階の、沙織の部屋の方を見上げながら呟くように言った。

「しかしなあ……こんなことまでするかね……ちょっと悪ふざけが過ぎるとおもうんだがな……」


さて、問題の日の当日、朝。

「あれ……沙織いないの?」

由布が教室を見回しながら言った。

「うん、それがさあ……また用事だとかで学校休むって」

みどりが机の上で頬杖をつきながらおもしろくなさそうに言った。

「またなにかたくらんでるみたい……」

「それは考えすぎだって」

「だといいけど……」

「とにかく、お昼まで待ちましょう」


そして昼休み。放送部は噂の検証と称して、各報道機関の動きと校内放送システムでリアルタイムで報道した。もちろんキャストはみどりである。

「お、聞こえてきたね」

教室でお弁当をつつきながら由布が言った。

「噂通りかなあ……」

友子が興味津々という感じでみどりの声に耳を傾けた。

『はーい!あたしが発信元の噂話で持ち切りだって言うじゃない?あたしの情報網もまんざら捨てたもんじゃないでしょ?ま、それは噂が本当だって証明しなきゃしゃれになん無いけどね……だがしかし!本当だったんだよねえ〜!!』

「みどりったら嬉しそう……でも本当だった?」

「うんうん……それで?」

わくわくしながら友子は言うと、

『じゃ、その発表聞いてみよう!』

音声が切り替わる。記者会見の中継音声らしい。

『……ここに突然の発表をすることをお許しください。我がアコンカグヤ・レーベルは、本日新人アーティストのデビューを宣言します。名前等の詳細情報は今は明かせませんが、本日日本時間午後5時より専用チャネルにてデビューライブを放送します。全てはそこで明らかになるでしょう……』

「……へえ、そうなのかぁ」

由布は感心したような声で言った。

「5時だって……今日は練習無いから見なくっちゃ!」

はしゃぐ友子。

『……というわけで、噂は本当だったね!さあ今日はなにもかもすっ飛ばして、専用チャネルにゴーだっ!』


そういうわけで……由布の家には、由布と明、由一と友子、それにみどりとこの春乙夜に入る信雄が集まった。

「あと五分かぁ……早くやらないかなあ」

みどりは待ちきれないと言った感じで言った。

「そんなにすごいことなの?」

信雄が興味なさそうに聞く。

「それをこれから見届けるんじゃないの!」

びしっと指を信雄の鼻先に突きつけながらみどりは言った。

「わかってないなあ君は……それにさ、大手レーベルがここまである意味めちゃくちゃなデビュー形式をとるってことはだよ、よっぽど自信があるってことじゃん。その自信がどれほどのもんか確かめるのは、音楽ファンとしては当然の行動よ!」

「そ、そんなこと言われても……僕は興味ないし……」

「じゃあなんでここにいるのよ!?」

「まあまあみどり……もうすぐ始めるよ」

友子に言われてみどりはテレビ画面に集中した。あと一分で始まる。


和広はリビングのソファに座りながらテレビの画面に目を向けていた。

それ自体に特別興味があったわけではない。噂話に躍らされるほど彼は愚かではなかったし、音楽関連は疎い方だったからだ。

しかし、和広はなにか引っかかるものを感じていた。それはある突拍子もない想像に結びついているのだが、それを積極的に肯定することができなかった。

「まあ、見ればわかるさ……」

そして、いよいよ放送が始まった。


「あ、始まる!」

友子の声で、みんなは一斉に画面に向かった。アコンカグヤのロゴタイトルが現れる。そして画面は暗転……。

「あれ……事故?」

みどりは眉根を寄せてうめいた。

「……違うみたいだぞ」

由一の指摘に、みどりは目を凝らして画面をのぞき込んだ。

そう、暗転したと思われたその部分、というか画面全体は、どうやら真っ暗闇な部屋を映し出しているようだった。しかし何があるのか全く見えない。そして全くの無音だった。

「まさかやっぱりうそだったなんていうんじゃ……」

明が呟く。みどりの顔がちょっと青ざめた。

「そ、そんなことないわよ……ちゃんとした発表だったんだから……」

と、そのとき……微かだが、音が聞こえてきた。張り詰めた空気のような、微かな音。それは徐々に大きくなっていき、それにつれて暗闇も晴れてきた。

やはりそこはスタジオの内部のようだった。中央にはステージ、その背後にバックバンドのスペース。だが誰もいないように見える。

「もう、じらさないでよ……」

みどりが呟いたその時……前奏が始まった。ゆったりとしたメロディ。プイ前奏らしい。それは次第に速度を早めると、スタジオ内部がライトアップされていく。依然としてステージ中央は真っ暗だったが、それでもそこに人が立っているのが見える。

「わあ……髪長い……女の人かな?」

友子が呟く。しかし確証はない。

そうして前奏はヒートアップしていき、そして……はじけた。

一気にライトアップされるステージ。そしてそこに現れた姿に、部屋にいる者全員は声を失った。

軽快に前奏は続く。その女性ヴォーカルはポーズを取りながら前奏に乗って踊る。そのたびに黒のロングヘアが揺れる……。

ようやくその衝撃から回復した由布は、画面の中にいる彼女の姿と、自分の知っている彼女の姿とを見比べてみるが、どうしても結びつかなかった。

「……そういうことだったの……まったく、やってくれるわよ」

そうして彼女は歌い始めた……それは歌手秋吉沙織の誕生の瞬間だった。


やりたいこと見つけたくて
さまよう street
街の明りは奇麗だけど
虚ろな mirage

消えそうな自分を
つなぎとめるものが欲しい

そんなあたしの心を
つかまえるのは まぶしい your smile!
忘れたい でも忘れられない……
その罪は許されないわ

You!!

あたしを見つめる あなたの瞳は
ためらうあたしを導く starlight
追いかけて 捕まえて 放しはない
あなたはあたしのものよ...

今気づいた恋だけど
さまよう labyrinth
抱き締められたら素敵だけど
不安に broken

消えそうなあなたを
つなぎとめるものが欲しい

だってあたしの涙を
ぬぐえるのは やさしい your kiss!
伝えたい けど伝えられない……
その想いは許されないわ

You!!

あたしにささやく あなたの言葉は
怯えるあたしを包む sunlight
忘れないで 覚えていて 嘘じゃないの
あたしはあなたのものよ...

忘れたい でも忘れられない……
その罪は許されないわ

You!!

あたしを見つめる あなたの瞳は
ためらうあたしを導く starlight
追いかけて 捕まえて 放しはない
あなたはあたしのものよ...

You!!


……最後に歌のタイトルが画面に表示され、作詞・作曲秋吉沙織とクレジットされた。そして再びステージは暗転……そして、放送は終了した。

「……しっかし、とんでもないな」

全く正直な意見を言ったのは由一だった。その隣では友子が首をかっくんかっくんさせながら肯いている。信雄は画面に目が釘付けになったままだった。由布も床にへたり込んでいた。

「まったくよね……あの子、このためにお稽古事頑張ってたんだ……」

「……気にくわない」

ぼそりとみどりは呟いた。

「え?なにみどり?」

「気に入らない!」

みどりはすっくと立ち上がって吼えた。

「やっぱり気に入らない!」

「ちょ、ちょっとみどり……」

「なによ!やっぱりたくらんでたんじゃないのよ!」

「た、たくらんでたぁ?」

「そうよ!聞いたでしょうあの歌!?……あれって、どう考えたって和広君への告白じゃないのよ!!」

みどりは顔を真っ赤にして、いまにも泣きそうになって言った。周りのみんなは何も言うことができない。

そしてみどりは突然走り出す。

「ちょっとどこいくのよ!?」

「和広君とこよ!」

そうして部屋から出て行った。遠く、ドアの開く音が聞こえる。

「……みどり」

由布は不安そうな顔で部屋のドアを見つめていた。


「……まいったね」

和広は放送の終わった暗黒の画面を見ながら言った。

沙織の歌手デビュー……なんとなく予感のあった和広だったが、いざ現実のものになってみると戸惑いは否めなかった。ましてそのデビュー曲が、どう考えても自分に対するものだとわかっては……。

「しかし……世界中に公開されてしまうっていうのは……さすがにくるものがあるな……」

和広は立ち上がるとコーヒーをいれにキッチンに向かった。かなり広いキッチンだった。シンクは二つも三つもあるし、大型の食器棚もある。

コーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぐ。ちょっと香りを楽しんでから口に運ぶ。ほっとするひととき……?

「ああ……ちょっと煎りが足りなかったかな」

そう呟くと、カップを空ける。そして下の方の棚からコーヒー豆の袋を取り出すと、煎る準備を始める。

豆の焦げるいい匂いがし来る。時間を見計らい、火から下ろそうとしたその時……激しくチャイムが打ち鳴らされた。

和広は火を止めて道具を置くと、ちょっと小走りにリビングに戻る。そしてセキュリティのモニタをのぞき込む。そこには不安そうに佇むみどりの姿があった。

和広は急ぎ足で玄関に向ってドアを開けた。

「みどりちゃん!?どうしたの?」

みどりは息を切らしながらそこに立っていた。

「走ってきた……の?」

「……和広君」

みどりは不安そうな目で和広を見つめていた。

「と、とにかく上がって」

和広がそう言うと、みどりはこくんと肯いて玄関に入った。

リビングに通してみどりをソファに座らせる。

「今コーヒー入れてくるから……」

「……待って!」

「みどりちゃん……?」

「いいから……」

みどりの向ける切ない視線に、和広は行くのを止めてみどりの隣に座った。

「あの、ね……放送見た?」

「ああ……沙織ちゃんのね……見たよ」

「知ってたの、出るの?!」

「知ってはいなかったけど、なんとなく予感があった……最近変だったからね」

「……知ってたわけじゃないんだ」

少しほっとしたように言うみどり、だがすぐ硬い声になって言った。

「それで……聞いてどう思った?」

「どうって……すごく上手だったね」

「そうじゃない!」

「……」

「そうじゃなくて……」

言い淀むみどりに向かって、和広は言った。

「歌詞の意味についてだったら……わかってるつもりだよ」

「……そ、そうだよね。わからないはずないよね。……それで、どう思った?」

「それは……やれたっていうか……参ったっていう感じかな……」

「参った……?」

「まさかああいう形でぶつけてこられるとは思っていなかった……大したもんだよ、まったく」

少し微笑みを浮かべて話す和広に、みどりの不安は増大した。

「そ、それって……まさか……沙織のことが……」

「え?なに……?」

「沙織のことが……いいってこと?」

「そういう意味じゃ、ないけど……」

しかしみどりは安堵することなく、うつむいたままぼそぼそしゃべり始めた。

「でもきっと……これからずっと沙織は……ああやって和広への想いをぶつけるんだ……あたしにはあんな風にはできない……あんな風に自分の想いを表現するだけのものは持ってない……だからあたし……沙織に負けるんじゃないかって……ただそれだけが不安で……不安でたまらなくて……だから……だから!」

みどりは急に顔をあげると、いきなり和広の首にしがみついた。

「みどり……ちゃん……」

あっけに取られる和広に、みどりは顔を寄せてその唇を奪った……。

一体どれほどそうしていたのか……みどりはようやく和広を解放した。潤んだ目で見つめるみどりに、和広はなんとも言えない厳しい目を向けた。

「みどりちゃん……」

「あたし……和広のためだったら、なんだってできるよ……和広のことが好きだから……」

そう言ってみどりは、自分の服のボタンに手をかけて外し始める。

「みどりちゃん……だめだよ」

和広はみどりの手を掴んで止めさせた。

「でも……でもあたし……」

涙ぐむみどりを、和広はどうしていいかわからず、泣きそうな顔になった。

その時、ドアのチャイムが鳴った。

しばし硬直していた二人だったが、和広は立ち上がるとみどりの肩をぽんぽんと叩いていった。

「出てくるよ、いいね?」

みどりは胸元を押さえたままそっと肯いた。

和広がモニターを見ると久美子が立っていた。和広はゆっくりと玄関に向かうと、ドアを開けた。

「あ、和広、放送見た?……あ、誰か来てるの?」

みどりの靴を見ながら久美子が言った。

「ああ、うん……みどりちゃんがね」

「……ふう。なんかあったのね……あたし、いない方がいい?」

「いや……」

「そう」

久美子がリビングに入っていくと、みどりはおとなしくソファに座っていた。

「久美子……!」

「はろー。みどりも沙織のライブ見たの?」

久美子は陽気に声をかけると、みどりの隣に座った。

「う、うん……見たわ」

「そう……それで不安になっちゃったのね」

「ど、どうしてそれを!?」

「だって、今ここにいるじゃない」

「……」

「あれは衝撃的よね……しかもどう考えたって和広への恋唄だもんね……でもさ」

久美子はじっとみどりの顔を見つめた。

「なにもあたしたちがそれに合わせる必要なんてないのよ?」

「え……?」

「みどりはちょっと圧倒されちゃっただけなのよ。うらやましいわ……確かにあんなパフォーマンスはあたしたちにはできない。沙織の和広への想いは、それくらい大きいと言えるのかもしれない……でもね、人の気持ちに……その想いに差なんてあるのかしら?そしてその表現方法で違いなんてあるのかしら?」

「……」

「それに……和広は表向きのことだけで物事を決めるような人間だと思ってるの?」

「表向き……?」

「そうよ。あたしは……そんなことないと思ってるわ。そんな人だから……好きになったのかもね。みどりは、そうじゃないの?」

久美子の言葉を心の中で反芻するように、口の中で何事か呟くみどり。

その時、コーヒーの香りがしてきた。みどりが顔をあげると、和広がコーヒーカップを手に持って佇んでいる。

「和広……」

和広は無言でカップを差し出すと、みどりは両手でカップを受けとった。熱くはなかった。立ち上る湯気が優しく映った。

みどりは一口飲むと、目を見開いて言った。

「おいしい……おいしいよ」

みどりは泣きそうになるのをこらえながら、一口二口と飲んだ。

「答えは……見つかった?」

久美子が優しそうにそう言うと、みどりはこくんと肯いて言った。

「うん……あたしは和広のことが大好き……そしてこの気持ちは……ちゃんと伝わってるんだよね……和広は、それをちゃんとわかってくれる……そう言う人なんだもんね……」

久美子は軽く肯くと、和広の顔を見上げた。そのほっとした表情に、自らも安堵したような表情を見せる。

「さてと……あたしにもコーヒー入れてくれる?」


その日の夜のこと。

和広はようやくゆっくりとした時を過ごしていた。両親は仕事の関連で家にはいない。昔はかなり堪えたが、今ではそういう気持ちになることは無い。

その時、またチャイムの音が鳴った。

一瞬顔を歪めた和広は、モニターをのぞき込む。そこには……沙織の姿があった。

ちょっとため息をついてから、和広は玄関に向った。

ドアを開けるなり、沙織は言った。

「あ……多分迷惑がるんじゃないかなって思ったんだけど……どうしても会いたくて」

「め、迷惑がる?」

「そう……みどり、来たでしょ?」

「あ、ああ……でもなんで知ってるの?」

「ここに来る前に電話があったから」

「ああ、なるほど……あ、上がってよ」

「ううん、いいのいいの!すぐ引き上げるから」

「そう……あ、今日のライブ、すごかったね」

「ありがとう。……いままで隠しててごめんなさいね」

「いや……成功するといいね」

「ええ、もちろん。そのためにいろいろ準備してたんだから」

「そうか……まあ、その辺りの話はいつかしてもらうとして……で、用事って?」

「ああ、まあ……ほんとは告白のやり直ししに来たんだけど……みどりの電話で気が変わったの」

「……変わった?」

「そう……あの子ね、やたら元気でね。あんなことしたって和広が振り向くわけない、だって勝つのはあたしなんだから覚悟しなさいよ……て」

沙織はクスクス笑いながら言った。

「まああの歌は、和広君への告白のつもりで作ったようなものだけど……それで駄目を押そうと思って来たんだけどね……でもやめたわ」

「……どうして?」

「だって……好きだ好きだって言ってみたところで、それ以上の意味があるわけじゃない。言うことに意味があるわけじゃないもの。そんなことを繰り返すよりも……もっと相手のことを想うこと……それが一番大切なことだって思わされたから……だからね」

沙織はにっこり笑って言った。

「あたしはそんな想いを詞に託そうと思うの。そして言葉よりも行動で……歌を歌う行為そのものに、あなたへの想いを込めるのよ……だから、あたしの歌、聞いてね」

「……うん、わかったよ」

和広は真剣な表情で言った。

「ありがとう……じゃ、あたし帰るわ」

「あ、送っていくよ」

「いいのいいの!下に車待ってるから」

「そうか……もう完全にその世界の人なんだね」

「いやだわ、そういう言い方!あたしは全然そんなつもりないんだから……」

「でもこれからいろいろ大変だね……学校とか」

「それは……色々考えたわ。でも精一杯頑張ろうと思うの」

「そうか……なにかあったら言ってよ。応援するから」

「ほんとに?じゃあ……」

沙織は和広にずいっと近づいた。ちょっと後ずさる和広に、沙織は囁くように言った。

「キスして欲しいな……」

「え?え!?」

「聞いてるんだから」

ちょっと拗ねたように沙織は言った。

「今日……みどりにキスされたでしょう?」

「う……う、うん」

素直に答える和広の、沙織はくすっと笑って、

「ふふ、正直なんだから……でもこれで二度目だって聞かされると、なんだか悔しくて……」

「あ、あの、その……」

「だからね……」

沙織は和広の顔を引き寄せると、和広の唇を奪った……。

「……ふう……これでおあいこね」

沙織は和広から離れるとウインクした。

「ああ……」

和広は顔をしかめて手で覆った。

「なんて日なんだまったく……」

「あら、美人二人にキスされておいて……それは無いんじゃない?」

「それはそうだけど……」

「……あたしの、ファーストキスだったんだから……」

沙織は恥ずかしそうにうつむく。

「あ、でもそれで責任取れとかそういうことは言わないわよ……今あたしは自分がしたいと思ったことをしただけ……ただ、それだけなの」

そうして沙織は玄関から出ると、振り返って和広に言った。

「じゃ、また明日!」

そうして沙織はドアを閉めた。

しばらく和広は立ち尽くしたままドアを見つめていたが、やがて唇に手をやるとそっとぬぐった。指先に、パール色のルージュがつく。

「……果報者だと思うべきなんだろうけど……まったく……情けない」

和広は戸惑いを隠せないまま、リビングの方に戻る。時計の針は十時を過ぎていた。

ソファに座り、深くため息をつく。

……僕はどうすべきなんだろう……このままなにも決められないまま、無為に時と過ごしていくんだろうか……。

沙織やみどりの顔が浮かんでくる。そして久美子も……。

……みんな……みんないい子なのに……どうして僕みたいな奴に……。

……だけど、そんなことばかり言ってるわけにはいかない……僕は決めたんだ。やれることを精一杯やるんだって……それが洋子への償い……いや、自分のためなんだ……そうなんだ……僕自身のためなんだ。

「……そうさ。僕はやらなければいけないんだ」

和広は立ち上がると、窓に寄ってカーテンを開けた。街の明かりがきらめいて、まるで宝石箱のように見えた。





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