……ふああ。
ん?なんかジリジリ音がするなあ……なんだろ?
でもあたしは眠いんだもんね〜。まだ寝てるぞぉ……。
……けど、なんか忘れてるような気がする。今日は確か大事な日だったような……。
大事な日!!
あたしはふとんをはねのけた。まだ鳴り続く時計を見る。
「げげもう九時……まったく……せっかくのお正月だってのにぃ」
……ん?なんかこのパターン、前にもどこかで……ま、いいか。
とにかくおきよっと。
あたしは由布。森村由布。今年……じゃない、去年の春に高校に入ったばかりの高校一年生!……って、いばるほどのものでもないか。
でも高校に入ってからいろんなことがあったんだよ!いろんな人とお友達になれて、それに……素敵な彼氏もできて……でも楽しいことばかりあったわけじゃない。というか、あたしの方が迷惑かけちゃったんだけど……まあ、それもうまくおさまって……というか、余計に事態がこんがらがってと言うか……まあ、でも、それほど悲惨な事じゃないんで……まあ、とにかく。
今日はみんなで初詣でに行く事になってるの。本当は年越ししたら行くもんなんだけど(と、和広君は言っていた。あ、和広君ってクラスメイトで、すごいひとなんだ)、今では別に何時に行ってもいいんだそうだ。それはともかくとして……まずは朝御飯よね。
「あけましておめでと〜」
うーん、やっぱりみんな起きてる……よねえ。
「なんだよ、新年早々寝坊か?」
そう憎まれ口を叩くのは、双子の兄の由一。普段は由兄と呼んでる。でもさ、最初に出てきたからって兄貴面されるのって、なんだかしゃくにさわる。
「いいじゃない、べつに〜」
「おめでとう、由布」
優しそうに笑うのはお母さん。あたしの理想の女性だ。背は高くって綺麗で黒髪がとても素敵な人……。
「おめでとう。しかし、寝坊は感心しないな」
そして言葉とは裏腹に、とろけるような優しい顔で言うお父さん。かなり名の知れた画家なのだ。
「ごめんなさい……」
「さあ、早くご飯食べちゃいなさい」
「うわあ、やっぱりすごいねえ」
テーブルに並んでいたのは、もちろんおせち料理!お重は四段重ねもあるやつで、豪華と言うほかない。
「菜穂子さん、今年はあまりよくできなかったって言ってたけど……」
菜穂子さんっていうのはお隣さんで、母さんたちの昔からのお友達。で、菜穂子さんの作るお料理はすっごくおいしいの!
「ううん、ぜんぜんそんなことないよ!とってもおいしい……」
「あとでお礼言っとくのよ」
「うん……あ、そだ!晴着の着つけ……」
「ちゃんと頼んでありますよ」
「ああ、よかった!」
「着てどうにかなるもんじゃないだろうに……」
由兄がぼそっという。
「なんかいった!?」
「べつになにも」
くう……いつもこれなんだから!
ああ、こうしちゃいられない。おせちは後からでも食べられるから、お雑煮お雑煮っと……くう〜、これがめちゃうま!これはお母さんの作ったやつ。やっぱりおいしい……菜穂子さんのとは味付けが違うというか、別のおいしさってのがあって、そう、いわばおふくろの味ってこういうんだろうなって言えるような、懐かしさと温かさを感じる……なんかこう……愛されてるって感じがするの……。
晴着の着つけをしてもらってる最中、菜穂子さんがふしぎそうに言った。
「あら……由布ちゃん、サイズ変わった?」
「え?どこどこ?」
「背が伸びたんじゃない?」
「そう?」
「なんか、格好良くなった」
そう言って菜穂子さん、帯の位置を調整する。
「まだまだ成長期だもんねえ……」
「あ、でもね、背だけじゃなくて……こう……プロポーションとかよくなってくれる方が嬉しいんだけどな……」
「ちゃんと運動してる?」
「あ、あんまり……」
「だめよそんなんじゃ……無理して後からダイエットするより、今のうちからちゃんとしておかないと……はい、できたわよ」
「あ、ありがとう」
鏡に映った自分お姿を見てみた。たしかに、言われたみたいにちょっと背が伸びたのか、去年とはバランスが違う感じ。
「きれいよ、とっても」
「えへへ……」
褒められるのって、やっぱり嬉しい。
「やっぱり……恋してると変わっちゃうものなのね」
「へ!?」
「いるんでしょ、恋人さん?」
「え、ええ……まあ……」
顔が真っ赤になる。そう言う風に言われると、めちゃくちゃ恥ずかしい……なんでだろう?
「じゃあ、もっともっときれいにならなきゃね。心も身体も」
「はい……」
まあ、身体は順調だとして……心の方はどうなんだろう?今年はもう少しこう……他人の心がわかるように成りたいって思ってるんだけど……出来るのかなあ……。
「おい、早くしろよ!」
「急かさないでよ〜」
どたばたと、双子の兄妹はあわただしく家を出て行った。その姿をちょっと心配そうに亜衣と菜穂子が見送る。
「なんかいつもあわただしいわねぇ」
「ほんと……誰に似たのかしら」
亜衣は心配そうに首を傾けた。
「まあ、それはやっぱり……この人なんじゃない?」
リビングに戻った菜穂子は、新聞を読んでいる一郎を指差して言った。
「聞こえてるよ……それはあんまりじゃないか?」
双子の父親は苦い表情で言った。
「あら、否定できて?」
睨み付けるように亜衣が一郎を見ると、首をすくめて彼は言った。
「かなうわけないんだよな……」
三人は一緒のテーブルについて話し始める。
「しかし、旦那も大変だな……正月から仕事なんて」
「仕方ないわ。カンファレンスの理事じゃね」
旦那、つまり菜穂子の夫である秋月信宏は、言語学の国際会議でアメリカにいる。
「仕事熱心なのは結構だけどさ……」
「あの人の好きなことだもの。やらせとくしかないわよ……それよりも、信雄が迷惑かけてないかどうか……」
「言葉で世界を一つにする……か」
一郎は遠くを見るような目で言った。
「身体もでかいが、心もでかいってか」
「止めてよそんな言い方」
菜穂子は苦笑する。
「ただでさえ最近肥えてきちゃって……」
「料理がおいしすぎるからよ」
亜衣が笑いながら言った。
「でも信雄君はスマートだからいいんじゃない?」
「そうねえ……あの子、あたし似だから」
「そういえば、由布、変わったでしょ?」
「ああ、かわったかわった」
「やっぱりねえ……」
「スキー以来ずっと感じてたんだけど」
「顔つきもすっかり変わっちゃって……」
「……どういうことだい?」
女性二人の盛り上がりについていけず、怪訝な表情の一郎。
「男親は知らなくてもいいの」
「つめたいなあ……」
「あ、それはそうと……お礼にはうかがったの?ほら、芹沢君……だっけ?」
「ああ、スキー場の一件ね……」
亜衣はため息をつきながら言った。
「それが先方の親御さんがお忙しくて……これからうかがう約束をしているの」
「あら、どういうご職業なの?」
「なんでもお父様は小説家で、お母様の方はプロデューサーだとかでお忙しいみたいなの」
「本人には会ったのね?」
「ええ!由布が帰ってきたときね。まったく……顔から火が出そうだったわ。でもね……」
「でも?」
「その子……とっても不思議な感じがしたの……」
亜衣の目がすうっと目が細くなった。
「不思議な感じ?」
「そう……なんていうのか……昔の一郎とも違う……別の何かの力を……」
「……君がそう言うのなら、そうなんだろうな」
一郎は真剣な目をして言った。
「今の君が感じとれるくらいの力なら……もしかしたら、なにかあるのかもしれないね」
「そうね……とにかく、お礼にうかがいましょ」
亜衣はそう言って椅子から立ち上がった。
「早く支度してくださいね、あなた」
「ったく、またおまえのせいで遅くなったじゃないか!」
「しょうがないでしょう、着つけに時間がかかったんだから!」
いつもながらの口げんか……なんか進歩しないなあ……。
しかも着物だから速く走れないし……。
「もうみんな待ってるぞ」
そう言って由兄は先に行こうとする。
「あ、待て!」
くそ〜、由兄のばかぁ!
あたしが神社に着いたときには、もう息も絶え絶え……。
「はあはあ……み……みんなは……どこ……はあ……」
「由布ちゃん!」
あ……春日君だあ……。
「大丈夫、由布ちゃん?」
心配そうな顔してあたしを見る春日君……。
「うん……もう……大丈夫……」
「ほんと?」
「うん……あ、あけましておめでとう」
「あ、うん……あけましておめでとう。今年もよろしく」
にっこり笑う春日君……なんか幸せな気持ちになる……。
「あ、晴着……よく似合ってるよ」
「え!?……ほ、ほんと?」
「ほんとだよ」
ちょっと赤くなった顔で春日君。
「とっても綺麗だ……」
「あ、ありがとう……」
あたしもテレテレで……顔が熱くなった。
「おーい、早くおいでよ〜!」
向こうで手を振るのは……みどりだ!
「あ、いこ」
あたしは春日君と一緒にみんなの方に近づいた。
「わあー、由布、すっごく綺麗だよ!」
みどりがうらやましそうに言う。
「へへ〜、いいでしょ?」
「あたしも着せてもらえばよかったぁ」
「どうせ面倒だからって逃げてきたんでしょう?」
「えへへ……」
「でもあんただけだよ、晴着って」
「え?」
確かに……沙織も久美子も友子も外出着だなあ……ま、おろしたてなんだろうけど。
「そのせいで遅れちゃってさあ……」
由兄が愚痴る。
「なによ!置いてけぼりにしたくせに!友子、こんな奴と別れた方がいいわよ!」
「え?そ、そんなこといわれたって……」
困る友子に由兄はぬけぬけと言った。
「由布なんてほっとけばいいさ」
「なによぉ!?」
「まあまあ……」
その時和広君が間に入った。
「あ、和広君……」
「せっかく初詣でに来たんだから、いきなりけんかはよくないと思うよ」
「う、うん……」
なんだか……雰囲気が違ってる。なにかな……自信に満ちているというかなんというか……。
「そうそう、和広君の言う通り!」
みどりが和広君の腕に掴まりながら言った。
「はやくお参りに行こうよ〜。ただでさえ混んじゃってるんだからさぁ」
「あ、そうか」
「じゃあ行きましょう」
和広君のそばにいた沙織の言葉で、みんなは歩き出した。勿論あたしは春日君の隣。
「でもすごい人だね」
「うん……迷子にならないようにしないと……あ」
その時、春日君がそっとあたしの手を取ってくれた。
「あ、えと……その……」
「ちゃんと握ってるから……離れないで」
しょっと照れくさそうに春日君……。
「うん……」
あったかい手……。
人混みをかきわけるようにして進むと、ようやく賽銭箱のとこについた。みんなとはもうはぐれてるし……。
「じゃ、お参りししよっか」
「うん、そうだね」
あたしはお賽銭を取り出すと、賽銭箱というか賽銭布目がけて五百円玉を放ると、手を合わせて目をつぶり、そうしてお願いごとをする。
……もっともっと……春日君に親しくなれますように……そして……今年一年がみんなにとてよい年でありますように……。
よし、これでおっけー!
「なにをお願いしたの?」
あたしは来た道を戻りながら春日君に聞いた。
「ん……まあ、いろいろとね……由布ちゃんは?」
「えと……あたしもいろいろ」
「はは」
「うふふ」
まあ、言わぬが花って言うか……ね。
鳥居の所まで戻ると、みんなが待っていた。
「ああ、来た来た!」
みどりが手を振る。
「おっそいよ〜!」
「人混みがひどいんだから、しょうがないじゃないのさ〜」
「これで全員そろったね」
そう和広君が言うと、沙織が言った。
「これからどうしよっか?」
「特に行くと来ないよねぇ……」
「あ、じゃあ……あたしのうちに来る?」
「沙織のうち?」
「いいじゃん、いこいこ」
みどりの言葉にみんな肯く。
沙織の家は喫茶店をやってる。なんどか来たことあるけど、こんな大勢で来るのは初めて。
「いらっしゃいませ!あらら、大人数ねえ」
出迎えてくれたのは、沙織のお母さん。昔はバンドのボーカルやってたんだって。ほれぼれするようなハスキーボイス。
「みんな連れてきちゃった……」
「うちはいつでも大歓迎よ」
「おじゃましま〜す」
みんなでぞろぞろと二階に上がる。ここは二階まである大きな店なのだ。
「すごい人だったねえ、神社」
「うんうん……でも悪いことばっかりじゃなかったなあ……」
にやにやしながらみどり。
「なにそれ?」
「え?だって……和広君のすぐそばにいれたんだもん」
おーおー、嬉しそうにしちゃって……。
「ずるいのよ、みどりったら」
珍しく、感情的に言う沙織。
「彼の背中の方にいるもんだから、頭しか見えないんだもの……」
「あたしは周りの人以外見えなかったし……」
ため息をつきながら久美子。
「だから俺が肩車してやるって言ったのに」
始君がまじめな顔で言った。すると久美子は露骨にいやそうな顔になり、
「そんな、子供じゃないんだから……」
「そりゃそうだよねえ」
その場はみんな爆笑。……ああ、なんかいいなあ、こう言う雰囲気。
……あれ?
「由兄と友子は?」
「ああ……あっちにいるね」
和広君が少し離れた席にいる二人を指差した。
「ああ、いつの間に二人きり!」
「いいじゃん別に……由布も春日君とそうすればぁ?」
いいかげんにみどりが言う。
「人のらぶらぶなとこ見せつけられたくないしぃ〜」
「そんな言い方しなくたって……」
「でもいいなぁ……由布はずっと春日君のそばだったんでしょ?」
と、沙織。
「うん、まあ……」
思わず春日君と顔を合わせてしまう。うわ、なんだか恥ずかしい……。
「手なんか握ってたりして〜」
「え!?」
「い、いやその……」
みどりの言葉に、春日君と二人してうろたえてしまう……ばればれじゃん。
「あ〜あ、やってらんない……ねえこんど二人っきりでデートしようよ?」
そうみどりが和広君に言うと……。
「あ、抜け駆け!」
「これは聞き捨てならないわね……」
うわ……なんか険悪なムード……。
「どうにかするんだな、和広」
始君がからかうように言った。
「ああ、うん……どうしたもんかな……」
困ったように呟く和広君そっちのけで、みどりと沙織と久美子はあーだこうだ言い合っている。
その時、沙織のお母さんが注文の品を持ってきた。
「あらあら……なんかすごいことになってるわね」
「お、お母さん」
沙織、真っ赤になってお母さんを見る。
「あなたが和広君?聞いてるわよ、冬山の武勇伝!」
「や、やだ、お母さん!」
「この子ったら自分のことみたいにもう、べらべらと……」
あーあ、沙織……完全にゆでだこ状態。
でも意外……沙織、いつの間にそんな明るくなったんだろう。最初は引っ込み思案だったのに……やっぱり恋してるからなのかな?
「……とまあ、沙織、あなたのことしか頭にないみたいでね」
「は、はあ……」
さすがに和広君も戸惑っている。
「そういうわけだから、沙織のことよろしくね」
「そ、そういうわけでとよろしくと言われましても……」
「え?まさか沙織じゃ駄目だとか……?」
「い、いえ、そうではなくてですね……」
「もしかして彼女いるの?」
「あ、いや、そういうわけでも……」
「じゃあなに?」
……そりゃまあ言いにくいだろうなあ、和広君の性格だと。
するとみどりがお母さんと和広の間に入った。
「ああ、えっとね、おばさん、その……ちょっといま争奪戦してて、あはは」
「え、そうなの?誰と誰が?」
「あー、あたしと、沙織と、あと久美子の三人……」
「あらあら、そうなの……沙織、大変ねえ」
ほんとに心配そうにお母さんは沙織を見た。
「あ、ええと……うん、まあそうなんだけど……負けるつもり、無いから」
わあ……大胆な発言だなあ……。
「それはこっちのセリフだわよ〜」
早速みどりが絡んでるし。
「あたしも負けないわよ」
久美子まで〜。
「あははは、もてもてねえ、芹沢君」
お母さんが豪快に笑いながら言う。
「うちの旦那も結構もてたけど、あんたそれ以上かもしれないね」
「い、いや……はは」
もう和広君、笑うしかないもんねえ。うふふ。
「ま、みんな頑張ってね。沙織もね」
「うん……お母さん」
そうしてお母さんは去っていった。ふう。
「なんか豪快なお母さんだよね?」
「うん……もう、あんなに言わなくたっていいのに……」
「沙織とは正反対だよねえ」
みどりがちゃかすように言う。
「でもそんな沙織ちゃんが男の子の話をするようになりましたか……」
「ちょ、ちょっと。止めてよそんな言い方!」
沙織ふくれる。
「なによ、せっかくほめてあげてるのに……」
「か、和広君の前ですることないでしょ」
ちらっと和広君の方を見ながら、沙織。
「あ、やべ」
ぺろっと舌を出すみどり。
「と、とにかくさ、あたし負けないからね!ねえ、和広君!」
「あ!」
近いことをいいことに、和広君に抱きつくみどり……うわちゃあ……。
「ずるい、みどり!」
「へーん、早いもん勝ちだもん」
「和広君困ってるじゃない」
「困ってるの?」
みどりが目をうるうるさせながら和広君に聞く。
「ええと……うーん、困っていると言えば困っているかな……」
ほんとに困った表情で和広君。
「自業自得だ」
始君がぶすっとした声で言う。それに久美子が答えて言った。
「まあまあ……正月早々慌てない慌てない……」
「ずいぶんと余裕ねえ……」
みどりが怪訝そうに言うと、久美子はさらっと言ってのけた。
「付き合い長いからね」
おお、確かに余裕だ。
「和広、無理することないんだから……ゆっくり、ね?」
そう久美子が言うと、和広君は落ち着いた笑みを浮かべて言った。
「ああ、わかってるさ……」
そんな和広君を、みどりと沙織はなんとも言えない表情で見ている。ほんと……好きなんだなあ……もしかして、早まったかも……なんてね。
あたしは春日君が好き……この気持ちはなにものにも変え難い感情……すっと大切にしていきたいな……。
さてあっと言う間に冬休みが終わって、嫌な学校が始まった。おまけに始まった早々、イベントがあるんだよねえ……。
それは、寒中運動会!
これは心身鍛錬とかいう名目で行われる陸上競技会なのだ。短距離や長距離、その他各種競技で個人・団体で競い合うんだって。
まあ、由兄や友子にはいいだろうけど、あたし、スポーツ苦手だしなあ……どうやって楽してやろうかなぁ……。
などとふらちなことを考えていたんだけど、ふたを開けてみると、そんなことはどうでも良くなっちゃうほどの展開になっちゃったんだよね、これが。
「はあはあはあ……」
ふええ、びりっけつ〜。
「よくやったわ、由布」
友子が迎えてくれたけど……。
「そんなのうれしくないよぉ、友子〜」
「まあまあ……相手が悪かったよ」
そうなんだよねえ……今の五十メートル走だったんだけど、ほとんど陸上部の子なんだもんなあ……詐欺だよぉ。
「あとは見学見学」
「あ、そうだ。みどり達は?」
「あ、うん、和広君の応援に行ったよ。もうすぐ決勝だしね」
「そっか。じゃ、あたしたちも」
「うん」
友子と一緒に男子百メートル走の会場に移動する。もうすぐ決勝が始まるの。
これが大波乱というかなんと言うか……。この大会、学年無視で競技単位に校内一を決めるの。で、男子百メートル走は下馬評じゃ由兄が優勝候補なんだけど(自慢じゃないけど、由兄は高校短距離走のホープなのだ)、これに突如として対抗馬が現れたのだ。予選タイムで由兄に並ぶ記録を出してみせたその人は……和広君なんだよなあ。ほんとびくり!そのこと知ったみどりなんかもう跳び上がって喜んでたもんね。
さてと……あ、いたいた。
「みどり!沙織!」
「あ、由布おっそい!」
みどりが腕をぶんぶん振り回しながら叫んだ。
「もう始まっちゃうよ!」
「ごめんごめん」
トラックの方を見ると、もう選手はスタート位置についていた。由兄に……あ、和広君だ。他には始君も残ってる。あ、新堂君もいるなあ、さすが。なんか半分知合いだ……ううむ、すごいんだろうなあ、やっぱり。
「だれが勝つかなあ……」
「そりゃもちろん和広君よ!」
と、自信満々にみどり。
「でも、相手が由一君でしょ?さすがにきついんじゃ……」
心配そうな沙織。
友子に聞いてみる。
「ねえ、どうなの、友子?」
「うーん、そうねえ……」
「友子は由一君の方でしょ?」
みどりがちょっと嫌み加減に言う。
「そ、そりゃ勝って欲しいけど……そうね、和広君抜きなら由一君なんだけど……でも、和広君が良くわかんないの」
「どんなふうに?」
「そう……由一君、ちょっと手を抜いてるんだと思うんだけど、その時のタイムと同じくらい出てるの。でも……全力じゃないなあ、あの走りは」
友子の顔はライヴァルのアスリートを値踏みするようだった。
「全力じゃないって、わかるの、そんなの?」
「うん……腕の振りとか腿上げとか、あとは筋肉の動きね。なんか隠してるような気がするのよ」
「ふうん……」
「ほら、友子だってそう言ってるんだから」
みどりが安心させるように沙織に言った。
「うん、だといいけど……」
「もう、暗くなっちゃ駄目だってば!もっと元気だして、和広君応援しようよ!」
「う、うん、そうだね」
「あ、始まるみたい」
友子の言葉に、全員選手の方に目がいった。全員クラウンチングスタイルになってスタートを待っていた。するとスターターの人……あ、春日君だ……が台の上に立って、スターターを構えた。そして掛け声の後、引き金を引く。
スタート!
全員放たれた矢のように走り出した。アウトコーススタートの由兄はぐんぐん先に行く。インコーススタートの和広君よりは先行してるみたい。
「いけー!和広ー!!」
みどりの絶叫が響く。お、由兄への声援もあるなあ……。
そしてコーナーを次々とクリアして、最後の直線に各選手は入ってくる。依然としてトップは由兄……あ、和広君も負けてない。負けてないというよりは……え!?
「あ、あ、あ、抜く!抜く!」
残り五十メートル、まだ由兄先行。でも加速力は……残り三十……ああ!?
「並んだ!!」
残り二十……由兄びっくりしてる!あ、ああ……力抜いてどうすんのよ!?
残り十……もう……もう……これは……これは……。
「いやったああああああああ!!!」
みどりが両手を広げてあたりを飛び回りながら叫んだ。沙織なんか感きわまって涙流してるし、友子まで一緒になって喜んでるし……あーあ。
でも……勝っちゃったよ、和広君。ここ最近負けたことなかった由兄を負かすなんて……やっぱりすごいんだなあ、和広君って。ほんと、すごい……。
由一は酸欠状態の身体に酸素を送り込むべく、ぜいぜいと激しい息をしていた。
……ちょいと……遊びすぎたかな。
確かに今日の彼は手を抜いていた。陸上部員には彼に勝てる者はいないし、おそらく同じ高校生の中にだって数えるほどしかいない。その彼を打ち負かしたのは、陸上部員でも陸上経験者でもない、ノーマークもノーマークの和広だった。
敗北は数少ない経験だ。小学生の頃は既に敵なしだったし、中学でもそうだったからだ。そしてこの敗北……。だが、くやしさよりも負けたことの爽快感の方が大きいことに彼は気付いた。それは彼にとって新鮮な感覚だった。
……いままで天狗になってたんだなあ……さっきのもちょっとだけ手を抜いた……そのちょっとだけが負けにつながったんだ。こんな教訓は、滅多に得られる物じゃない……負けてよかったじゃないか、まったく。
ようやく息の整った由一は、顔を上げて和広の姿を探した。和広はいろんな人間に取り囲まれて身動きできないみたいだった。そこへ由一は近づいて声をかけた。
「やあ、完敗だよ」
和広は振り返って由一を見た。その表情はなんだか誇らしげだった。
「まったく、ひどい話だ。能ある鷹はなんとやらだね」
「別にだますつもりは無かったんだけど……」
「とにかく、おめでとう」
由一はそう言って手を差し伸べた。それに和広ががっしりと握手を交わす。
「ありがとう」
「どうだい?陸上部に入るってのは?俺も強いやつ相手にやる方がやりがいがある」
「残念だけど、遠慮しておくよ。もっと自分を試してみたいんだ」
「なるほどね……ま、いつでも待ってるよ」
その時背後から変な声がした。
「へっへ〜、負けちゃったねえ……?」
「そのいやみったらしい言い方は……由布だな?」
「へへ。由兄でも負けることあるんだぁ?」
由布は相変わらず馬鹿にするような口調で由一に言った。
「鬼の霍乱というか、猿も木から落ちるというか、河童の川流れというか……」
「いいたいこといいやがって……ま、いいさ。今度は負けないからな」
「おーおー、負け惜しみ言っちゃって〜」
「由布、止めなよ〜」
友子が由一と由布の間に入って言った。
「由一君は今度は絶対勝つもん!」
「そりゃ友子がそう言いたい気持ちは分かるけどさ……」
「友子だけだよ、わかってくれるのは……まったく冷たい妹だよなぁ」
「なんですって!?」
「まあまあ」
兄妹げんかになりそうなのを和広が止めに入る。
「全力でやられてたら僕の方が負けてたよ」
「いいのいいの、和広君。気抜いた方が悪いんだから。でもすごいね、和広君!」
由布は本当に嬉しそうに言った。
「でもこれで週明けは大変だよ〜。なにしろ自称学園一の色男を負かしたんだから」
「そうそう!……って、やばいじゃん!!」
みどりがすっ頓狂な声をあげた。
「どうしてぇ?」
由布がまぬけな声を出す。すると、みどりはむちゃくちゃ深刻な表情でこう言ったのだ。
「……ライヴァル増えちゃうじゃん」
月曜日。由布は彼女らしくなく早起きして学校に向かった。
……眠い。なにも週の初めからこんな早起きしなくてもなぁ。
自分の体内時計を恨みつつ、由布は校舎への坂を上っていた。そして玄関に来ると、見知った背中を見つけて声をかけた。
「おはよう、和広君!」
しかし、和広は振り返らない。すぐ後ろなので気がつかないわけはないのだが。
由布はもう一度声をかけた。
「和広君……?どうしたの?」
すると今度はゆっくりと和広が振り返った。由布はその手に何かが乗っているのを見た。なにか封筒のように見えた。それが山のようになっていて……。
「な、なにそれ!?どうしたの?」
すると、和広は途方に暮れたような顔で言った。
「どうしたらいいかなあ……」
「まさかそれ……ラブレター!?」
どうみても三十通以上ある。
「うん……そうみたいだね……」
気の抜けた感じで和広は言った。
「今日坂を上っている途中あたりからなんか渡されちゃって……」
「ううむ……みどりの言う通りになっちゃったね」
腕組みしながら、由布はこの後を想像して怖くなった。
「こりゃ、当分は荒れそうだね」
まさかそれが半年以上も続くとは、そう言った由布も、そして当の和広自身も考えもしなかった。
それは新たな始まりの予感……。