「沙織!おはよ!」
天城みどりは親友の姿を見つけて駆け寄った。
「あ、おはよう」
いつもの通学路での、いつもの会話。なんということはない、一日の始まり。
だが今の沙織にとって、それは停滞を意味している。
「なにつまんなさそうな顔してるのよ!」
それを知ってか知らずか、みどりはぽんと沙織の肩を叩いた。
今日のみどりは、いつものように胸元を着崩したような格好で、額にまかれたバンダナの色だけが昨日とは違っていたが、それだけで昨日までとはまるで別人のような雰囲気があった。その黒いバンダナは、栗色の髪に引き締った印象を与えており、彼女のボーイッシュな魅力を引き立たせていた。
「まだ部活のことで悩んでるの?」
「う、うん……」
「でも一つははいんなきゃいけない決まりだからねえ。でも、やる気が無いわけでは無いんでしょう?」
「うん……それは、そうだけど」
沙織は小さい頃から詩を書くのが好きな子だった。昔同じバンドで知り合った両親の影響もあったに違いないが、あまり外で遊ぶということをせずに、一人で過ごす時間が多かった。大きくなるにつれて、他の子供や大人たちと接触することが増えてきたが、基本的にそれは変らなかった。むしろ、およそ積極的な部分は彼女からは除かれていたと言ってよい。自分の世界に入り浸るという、閉塞の中に彼女は存在していた。
しかし、それは彼女の表層部分でしかなかった。彼女は自らの世界の中だけに留めておくことのできない、貴重な宝物を内側に育て上げていた。それは閉塞は望まない。むしろ解放を望むのだ。
内向きの力と外向きの力……そのせめぎ合いの狭間に、沙織はいた。
「ま、おいおい考えていけばいいよ。人生先はまだまだなんだから!」
みどりは気楽に言うと、にっこりと沙織に笑いかける。
ある意味、沙織と対極するのがみどりなのかもしれなかった。外向的、それもかなりの積極派の彼女は、悩むということを本能的に回避する術を身につけており、後先を考えないこともしばしばであった。沙織とうまくいっているのもそのせいだろう。
二人が知り合ったのは中学に上がってからで、一人でぽつんとしている沙織を見かねて、みどりの方から積極的に近づいていった。それだけなら単なる知り合い程度で終わっただろう。が、偶然にもみどりは沙織の書く詩に触れ、それに感動したみどりが、自分の番組(みどりは昔からこういう目立つことが大好きだった)で紹介したことで(沙織の名は伏せられていたが)、二人は理解し合う者になったのだった。
「それにしてもいろんな奴が寄ってくるよねえ……あたしがいない間、大丈夫だった?」
みどりが尋ねる。
「ええ、なんとか……」
入学当初に比べれば、男子のお誘いの回数も減ってきてはいたが、まだまだ油断できない。そう、みどりは思っている。
「あたしもいっつもそばにいれるわけじゃないし、これからは一緒に帰ることも減っちゃうだろうから、男子の撃退方法ぐらいは身につけておいてもらわないとねえ……」
「ご、ごめんなさい……迷惑かけ通しで」
「あ、なにも沙織が謝ることなんて無いよ。軽薄な連中が多すぎるからいけないのよ!……でも仕方ないのよねえ……沙織、かなり目立つから」
沙織の容姿はされも文句のつけようが無かった。緑なす黒髪、雪のような肌、すらりとした体つき、それでいてめりはりのきいたプロポーション……沙織自身はそれほどの関心を持っていなかったが、他の生徒には持つなという方が無理な相談だった。
「はやくステディな彼氏でも見つけてさ、あたしを安心させておくれよ」
おどけたようにいうみどりの言葉に、沙織は一瞬顔を真っ赤にさせた。
「ちょ、ちょっとみどり……」
「うっふふふ!さあ、早く行かないと遅刻しちゃうよ!」
みどりは数歩先に駆け出す。慌てて沙織が追いかけた。
部活の勧誘はまだ続いていた。たいていの生徒は希望のクラブに入部を終えているので、それほど多くのクラブが活動しているわけではない。
沙織が気になっている文芸部は数少ないクラブの一つだった。
今日も一人で勧誘している先輩の姿を見て、沙織の心は揺り動かされている。文芸部はあまり人気がないのか、勧誘するのも必死な様子で、なぜかとても痛々しかった。
だが、沙織は動けなかった。心の奥で何かがささやきかけ、彼女を無言のまま通りすぎさせた。
みどりはその様子を見て、ちょっとだけ眉をしかめた。しかし、そのことでは何も言わなかった。
「……さあて、今日も当番だあ」
「え……ああ、朝のDJ?」
「そ!新人に任されるポジションなんだってさあ。メインはお昼の番組なんだと。なんか乗り気がなくなっちゃった!」
「それでも二日連続でしょ?すごいじゃない」
「まねえ……あ、あれ!」
突然みどりがある方向を向いた。沙織もつられてみると、別に特別なものは見られなかった。
「なに?どうしたの?」
「ほら、あの子だって!」
みどりが指しているのは、三人連れの生徒の中の一人だった。名前は確か……。
「ああ、芹沢くんが、どうかしたの?」
「う〜ん、今日もかっこいいなあ」
なんかうっとりした目でみどりが言う。
「え?」
一瞬何が言いたいのか分からない沙織は、双方の顔を見比べた。
和広はいつものように飯坂始と田崎久美子と並んで歩いていた。その憂いを含んだ横顔が、なぜか自分の顔に重なって見える。
「ね、沙織もそう思うでしょ?」
「そ、そうかしら」
「んもう!沙織ってば見る目がないのね」
みどりは口をとがらせながら、沙織をにらみ上げた。
「あのクールな感じがたまんないのよ!彼女とかいるのかなあ?あの田崎さんって、なんかあやしいよねえ〜」
「そ、そう……」
そんなことを言ってると、なんとなく三人に追いついてしまった。
「おはよう芹沢君!」
みどりが元気に声をかけると、三人は振り返ってみどりたちを見た。
「あ、おはよう……天城さんと秋吉さんだったね?」
「あは!名前覚えてもらってるなんてうれしいな!」
みどりは飛び上がって喜ぶと、和広の腕につかまった。
その行動に沙織は驚き、そして……胸が鳴った。
「ねね!昨日のあたしの放送、どうだった?」
周りの反応を全く気にしないでみどりが聞く。沙織はそんなみどりに圧倒されていたが、始と久美子は特別な反応は示していない。
「そうだね、元気だけが取り柄って感じがするけど、時間も短いし、朝の番組としてはちょうどいいんじゃないのかな?」
和広は静かな口調で言った。
「そう?ほんとはね、深夜番組のDJみたいなのがやりたいんだけど、それはお昼の放送や、何かのイベントでも無いとだめなんだって。それにまだ入ったばっかりだから、そんなのは任せてくれないのよ」
「でも天城さんなら、近いうちにそういう機会が巡ってくる気がするな」
「ほんとに?!そう言ってくれるなんて、みどり、うれしい!!」
……あたしの時と、話す感じが全然違う。
沙織は嫉妬じみた感情を覚えた。いや、彼女自身はそういう認識にとどまったが、それは嫉妬以外の何者でも無かった。
……どうしてみどりは、あんなに簡単に話しかけられるんだろう?それに腕まで……腕まで組んじゃって。
……飯坂君と田崎さんもなんか変な感じがするわ。何かほほえましく見ているというか、安堵しているみたいな……ほっとした顔してる。みどりが話しかけるまでは、二人とも暗い表情だったし……。
そして、あの人……。
沙織の視線は和広に釘付けになった。
……楽しそうに話しているように見えるのに、見えない……不思議な感じがする。自分というものが感じられない、そんな捕らえどころのないような感覚が。
一体何処を見ているの、あなたは?
一体何を隠しているの、あなたは?
一体あなたは、何を想っているの?
「……一体何度繰り返せば気が済むんだよ」
由兄がうんざりした口調で言った。
「でもでも!その部長さんってのが、すっごくかっこいいんだもん!」
美術部に入部した翌朝、由兄と一緒に登校中、あたしは入来部長の事ばっかり話してた。
「でね、お父さんのファンなんだって。こんどうちに呼んであげたら、きっとうれしいだろうなあ……」
「それはお前が、だろ?」
「い、いいじゃないのよ〜」
「ま、好きにしろよ。俺は付き合いきれん。第一、親父のファンであって、お前のファンじゃないんだからな」
「わ、分かってるわよ!」
ふんだ、なにさなにさ!きっと先輩に振り向いてもらうようになってやるんだから!
ん?あれ、前にいるのは……わあっ、入来先輩だあ!……って、あれ?だれか女の人と一緒だ……。髪をポニーテールにして、眼鏡をしてる。理知的で物静かな感じの人。
……やだな、先輩に似合ってる。
「先輩、おはようございます!!」
でも、待ってるのが嫌いなあたしは自分から声をかけることにした。すると先輩とその女生徒が振り返ってあたしを見た。
「ああ、おはよう、森村君」
さわやかな笑顔で、先輩。
隣にいた女性はあたしを見ると、納得した様子でこう言った。
「ふうん、あなたが森村一郎氏の娘さんなのね」
「ええ、そうですけど……」
今度は由兄のほうを向いて言った。
「すると、あなたがお兄さんなわけね」
「え?まあ、その……でもよく知ってますね?」
「ええ!この人、そんなことまで何度も話してくれるからね」
からっとした感じの笑みを浮かべると、彼女は軽く会釈をした。
「はじめまして。あたしは吉村雪絵。歴史研究会の会長をしているの。よろしくね」
「は、はあ……」
「念のため言っとくけど、達哉には手を出さないでね」
そう言って吉村さんはウィンクする。
……はぁ〜あ、やっぱりそう言うことなのか。
「おい、そういう言い方はやめてくれよ」
入来さんは照れくさそうに笑うと、
「幼なじみと言うほどじゃないけど、付き合いが長くてね。まあ……そんな感じになってるんだ」
「そうなんですか……」
むむ。由兄ったら、くすくす笑いしてる!くっそ〜。
「ま、よろしく頼むよ」
「あ、そうそう。もし歴史研究会に入ってくれそうな人がいたら教えてね!今部員がいなくってピンチなのよ。あ、早く行かないと遅刻しちゃうわよ」
「ほんとだ。じゃあ、また部活でね」
そう言い残して、先輩たちは校舎に入っていった。
「……くくく……あははは!」
こらえきれなくなったのか、由兄、ついに声に出して笑い始める。
「な〜に〜が〜お〜か〜し〜い〜」
「いやあ、あまりにお約束過ぎて、なあ?」
「そういう由兄はどうなのよ!?」
「俺は、いまだにこれといった人に巡り会えないだけさ」
「良く言うわよ。これまで付き合ったことのある子なんていないくせに!もてるなんてうそっぱちじゃないのぉ?」
「むむ、失敬な。バレンタインのチョコだっていっぱいもらうし、それからラブレターだって毎日のように届くし、それに……」
「ええい、この女たらし!」
「もてないよりましだね」
「だあっ!ああ、腹立つ、その言い方っ!!」
「悔しかったら、彼氏でも家に連れてくるんだな」
そう言い残して、由兄は校舎に入っていく。
……ううう。ぜったい、近いうちに見返してやるんだから!!
って、言ってもな〜。敵は手ごわいぞ〜。現に今も……。
「由一く〜ん、頑張って〜!!」
「由一君、素敵ー!!」
なんて、黄色い歓声が上がってるくらいだもの。
今は体育の授業中。男子はバスケ、女子はバレーというわけで、プレーしてない女子は男子の試合の方を見てる子が多かった。
うーん、入来さんはかすりもしなかったし、だれかいい人いないもんかしらねえ。
「和広く〜ん、頑張ってぇ!!」
およ、あのひときわ目立つ声は……ああ、やっぱり、みどりちゃんか。
「ねえねえ、みどりちゃんは芹沢君がターゲットなんだ」
「うん、そ!だけど誰も気にしないなんて変だよ!」
みどりちゃんはそう言って、また歓声をあげた。
「すごいすごい!!由一君をとっめたあ〜!」
「ええ?!由兄を?」
由兄のチームはとにかく由兄にボールを集める作戦みたいなんだけど、芹沢君がマンツーマンで守っているのでうまく行かないらしい。だったらやめればいいものを……結構由兄も意地っ張りだから。
「でもすごいなあ、芹沢君。由兄が完全に押さえ込まれちゃってる」
「うん、うん、やっぱり思ったとおりだわ」
みどりちゃんが自信気に肯く。
「なにが?」
「沙織とおんなじ……隠しきれない才能って言うのか、何かを押さえつけるみたいな、そんな感じがするって言うのかな。もっともっとすごいことができそうな感じがするんだ」
「ふうん……そんなものなの?」
「そう!それにさ、由一君も捨て難いけど、和広君ってノーマークでしょ?だから楽かなあ、なんて。あはは」
「あ……ああ、そういうこと」
「でも……」
ふと、みどりちゃんは真剣な顔になって和広君をじっと見つめた。
「でもまだなんか違うんだ。沙織とは違う……もっと押さえつけられた何かがあるような気がするんだけど……」
あたしは和広君の姿を見た。普段とは違う、生き生きとした感じがした。
これが本当の姿なんだろうか?それとももっと違う顔を、彼は持ってるんだろうか?
……あ、思わず目があっちゃった。
とたんに浮かぶ戸惑い。いつもあたしに見せる目だ。何かを訴えようとするみたいな、でもそれを必死になって押しとどめている、そんなやりきれない瞳が、あたしを見る。
きゅ……なぜか胸が締めつけられた。そんな苦しい瞳だった。
終業の鐘が鳴る。帰らなければならない。すべきことのない者たちは。
秋吉沙織は帰宅部と称される集団の中に埋もれていた。すでにみどりは放送室に向かってしまっている。
彼女の戻りを学校の何処かで待っていてもかまわなかった。図書館は常に解放されていたし、それ以外にも敷地内には暇な時間を食いつぶすための空間は存在していたのだから。
だが沙織はそのどれも望まなかった。思索にふける時間は詩の世界に翼を広げるために必要不可欠なものあったものが、今の彼女とって、それは拷問にも等しかった。
校門を通り抜け、坂を下っていく。下校途中の他の生徒たちよりも遅い足どり。
……どうして、たった一言がいえないんだろう。
沙織は心の中でそう呟いた。
……何を怖がっているんだろう?こうなるんだったら、詩なんて書かない方が良かった。
行く当ての無いように、沙織は歩く。学校を離れ、住宅地を抜けて、商店街の方へと向かう。彼女の家は喫茶店を営んでおり、家へは繁華街を通っていく必要があった。
街は若さであふれていた。学校帰りの学生たちで埋め尽くされた観がある。もっとも茶髪だ金髪だなどといった過去の遺物は影を潜めているが。まだ時間が早いせいか、不良連中は多く見えない。彼らの主な活動時間は夜なのだった。
しかし、いつもながら例外というものはいるものだ。それは沙織の目の前に現れた。
三人組の彼らは、だらしなく着込んだ服をひらめかせながら、彼女の前に立ちふさがった。そのうち、リーダー格らしい長髪の男が声をかけた。
「ひゅ〜!彼女、きれいだね〜。俺たちと付き合わねえ?」
「え、な、なんですか?!」
突然のことに道に立ち尽くすと、沙織は三人の顔を見た。
「だからぁ、俺たちとどっかにおもしろいとこ行こうっての!」
右側の男が軽い口調でいうと、左側の男がげびた笑い声をたてる。
「あ……あの、わたし、急ぎますから……」
沙織は振り返って後戻りするが、左側の男に道をふさがれた。
「な……いったい、何を……」
「だからさあ、行くとこ行こうっていうんだよ」
長髪の男はにやにや笑いをしながら沙織に近付く。
「楽しいぜぇ。病みつきになるよ」
「い、いや……来ないで」
しかし、後ずさりしようにも後ろの男が邪魔をして一歩も動けない。
……ああ、なんてこと。みどりだったらこう言うとき、どうしろって言ったっけ?
なにもこんな状況に陥るのは今日が初めてじゃなかった。だがその時はいつもみどりがそばにいたのだ。そして彼女はいち早く状況を見極めると、コースを変えるか急ぎ足で走り抜けるようにしていた。
「あ……あ……」
悲鳴でもあげれば良かった。助けを求めるのでもいい。しかしそれを恥ずかしい行為だと思ってしまうのが、沙織の性格だった。
「ほらよぉ」
長髪の男が沙織の腕に手を伸ばした。
……だめ!いや!!
沙織は思わず目を閉じた。そのとき。
「いててててて!!な、何しやがるてめえ?!」
突然の男の悲鳴。沙織はおそるおそる目を開けた。
そこには腕をねじ上げられ、脂汗を流している男の姿があった。そしてその腕をねじりあげている者の顔を見て、沙織は心が落ち着くのが感じた。
「せ、芹沢君!」
芹沢和広は軽く肯いてみせると、長髪の男を放り出した。そして無駄のない動きで沙織を自分の背後に回すと、三人を無表情ににらみつけた。
「な、何しやがるてめえ!!」
意気込む長髪に、一歩近付くようにして、和広は言った。
「失せろ」
「なにを!?消えるのはてめえの方だぜ!おい!」
リーダーの言葉に、一人の男がファイティングポーズを取りながら和広ににじり寄った。
「お前なんか今すぐのしてやるから……」
脅し文句を言おうとした男は、全てを言い終わらぬ内に地にひれ伏した。あっけに取られる残りの男達もあっけなく同じ道をたどった。後には汗一つかいていない和広の姿があるだけだった。
沙織には何も見えなかった。それほどまでに和広の動きは素早かった。
彼は沙織の方へ振り向くと、ほっとしたような笑顔を向けて言った。
その笑顔に思わず見とれた彼女は、我に返ると倒れている三人を見て、早くこの場を去らないと大変な事になると気づいた。
「さあ、長居は無用だ」
「……は、はい」
和広に促され、沙織はいつもの道筋に向かって歩き出した。その後を和広が続いた。
「あ、ありがとう、芹沢君。助けてくれて……」
歩きながら、沙織は礼を言った。
「いやいや。でも良かったよ。あの手の連中はたちが悪いからね」
和広は本当に安堵したような表情をしていた。
「でもだめだよ。走って逃げるか人を呼ぶかしないと。どうかなってからじゃ遅いんだから」
「ご、ごめんなさい……」
思わず謝ってしまう沙織に、和広は優しく声をかける。
「頑張ればいいよ、これから。言われたことをすぐできる程、人は器用じゃないから……」
そういう彼の表情は、いつか彼女が見たものによく似ていた。
……この人は、何かにとまどってる。わたしと同じに。でもあたしとは違う。別の、何かだわ。
「そう言えば、秋吉さんは詩を書くんだって?」
沙織の視線を感じてか、話を反らすように和広は訊く。
「え?ええ……でも誰から……あ、朝、みどりから?」
「うん、そう……でももったいないな」
「ど、どうして?」
「昼休みに見せてもらったんだ。とても素敵だった」
沙織は思わず顔を赤らめた。
「み、みどりったら、勝手に……」
「でも、惜しいな」
和広は沙織の顔をじっと見つめた。心の奥底を見透かすような、まっすぐで、そして素直な瞳で。
どきん……沙織の胸が音をたてて鳴る。
……や。そんな目で、わたしを見ないで。心が……心が何処かへ行ってしまいそう……。
「もっと他の人にも知ってもらうべきだと思うよ。そうすることで、読んだ人は良い気持ちになれる。そして……君はもっと遠くへ、もっと大きな所へ行くことができる……そんな気がするんだ。より遙かな高みへ、と」
歩みの止まってしまった沙織を、和広は優しく見つめていた。
我に返った沙織は、見つめられていることに気づき、顔を背けて拗ねたようなしぐさをした。
「か……買いかぶりすぎよ、それは」
やっとのことで言葉を紡ぐ。
「わたしには……自分をさらけ出す勇気が無いもの。ほんとは、詩を書くのなんて嫌いなの。自分の気持ちを人に明かすだなんて、できないもの!だから、もう詩は書きたくないの……」
沙織は胸が締めつけられる思いがした。そうなの?本当にわたし、詩を書くのが嫌いになったの?ほんとうに??
「そんなこと無いよ」
「え?」
力強い和広の口調に、沙織は振り向いた。
「本当に勇気が無いんだったら、そんなことを他人の僕に言えるはずなんかない。君は、伝えたがってるんだ、自分を。だからこそ詩を書いている」
「……」
「そして常に閉じこもりがちな自分の心を、解き放ちたがっている。そうありたいと願っている。そうなった自分を夢見ている」
……そうよ。そうだわ。わたしの見る夢。でも夢は夢でしかない……。
「初めはそれでいいんだと思う。でも今は……それを現実のものにしようとしなければだめだよ。自分が変り続けるために」
「……!?」
「……君になら、それができる……きっとね」
そう言って和広は微笑んだ。
沙織はしばらく硬直したまま動かなかった。自分の全てが見透かされたような気がしていたが、なぜかそれが心地よかった。
……みどりはただ詩のきれいさを褒めてくれるだけで、わたしの心のことは話さなかった。でも芹沢君は……わたしのことを理解してくれた。うれしい……そう、素直に思える……。
「……あ……ありがとう」
やっとのことで、沙織はそう口にした。和広はそれにうなずくと、家まで送るよ、と言った。
家までの短い間、特別何も話さなかった二人だったが、沙織にはそれだけで十分だった。
……変り続けるために、か。いつまでも昔のままの自分でいられるわけでもないものね。変化することの方がよっぽど自然なのだわ。なら、より自分が望む方向へ、向かう方がいい。
そこでふと、沙織は和広のことが気にかかった。
……でも。芹沢君のあの言い方……わたしに話しかけているようには、何故か聞こえなかった。まるで自分で言い聞かせるような……。だとすると、芹沢君もわたしと同じと言うこと?でもそんな……わたしに答えを教えてくれるくらいなのに、どうして自分にまで言い聞かせなくてはいけないの?……解らない。やっぱり、最初に感じたとおり、彼にはなにかあるんだ。
それはなに?
沙織は和広の顔を見た。しかし、今はその表情から何も見つけ出せはしない。
知りたい。あなたの本当の気持ちを。解りたい……。
あなたは今、何処にいるのですか?
翌朝。いつもの時間のいつもの通学路。いつものようにみどりと坂を上っていく沙織の視線の中に、文芸部の部長の姿が見えた。今日はサークル勧誘の最終日。明日になれば、後は宣伝ポスターくらいしか勧誘の手段は無くなってしまう。
「そういや、今日でおしまいだっけ?どうすんの、沙織?」
みどりの問いかけに答えずに、沙織はその姿を見つめていた。
「ねえってば?」
みどりの問いには答えずに、沙織は部長の方へと歩み寄った。
「あら、なにか?」
彼女は沙織の方を不思議気に見つめる。
「あの、わたし、文芸部に入りたいんです。お願いします」
いつもとは違う、はっきりとした言葉で、沙織は頭を下げた。
「あらまあ、そうなの。うれしいわ」
部長はそう笑顔で言うと、名前は?クラスは何処?それじゃあ、放課後部室の方にいらっしゃいな、と言い残して、校舎の方に入っていった。
「あや〜、沙織どうしちゃったの?」
みどりは驚いた様子で沙織に近づいた。
「昨日とは大違い!なんかあったの?」
沙織がその問いに答えようとしたその時、和広達が二人のそばを通りかかった。
和広は沙織を見ると、笑いかけながらそっと肯いた。
「決めたんだね」
「ええ。前に進むことにしたの」
「そう。それは良かった」
再び笑みを返すと、和広は始と久美子を引き連れて校舎の方に向かった。
「ちょ、ちょっとなになに?今の会話ぁ?!」
みどりが沙織に詰め寄った。
「昨日和広君となにかあったの?どうなのよ!?」
「何かって……ちょっとお話しただけよ」
「うそだぁ。ちょっとにしては意味深な台詞だったじゃないの!……まさかあんた、抜け駆けしたんじゃないでしょうね!?」
「し、してないわよ。ただ……」
沙織は昨日あったことを話した。流石に自分の思ったことは言わなかったが。
最初は険しい顔つきだったみどりも、ちょっとだけ表情を和らげて言った。
「ふうん……そんな事がねえ」
「だから、別になんでもないのよ」
「……嘘ついてない?」
「え?そ、そんなこと……ないわよ」
みどりにじいっと見つめられ、沙織は目をしばたかせた。
「嘘だ。顔にちゃんと書いてあるもん。和広君が気になるって。さっきだって、彼のことずっと見てたじゃないの」
かなわないな。と、沙織はみどりの顔を見ながら思った。確かに、わたしは彼に心を引かれている。でも……
「ま、いいわ。今日からあたしたち、ライバル同士ってわけね」
「え?」
「ぜったい、負けないんだから!ね?」
見事にウィンクしてみせるみどりに、沙織は微笑みかける。
……この気持ちが、みどりの思ってるような感情かどうかは解らないけど……今は、彼のことを見ていたい。だからわたしは、一歩だけ、前に進んでみるの。
彼に近づけるように。