由魅と由莉は、絵美の寝ているベッドのそばにひざまづくと、絵美の手を取って己が手を互いに重ねあった。
手のぬくもりが伝わってくる。それと同時に、様々な感情が二人の心の中にあふれるように流れ込んできた。
二人は顔を見合わせて互いにうなずきあう。
「まだ識域下に留まっているわ。なんて精神力なの、この人……」
由魅は感嘆の声をあげる。
「でもそれも限界が近いわ……由莉、急ぐわよ」
「うん」
今日の由魅は違う、と由莉は思った。言葉が断定的で、確信に満ちている。先ほどまでとは全くの別人のように見える。
「由魅……後悔しない?もう、もう戻ってこれないのかも知れないんだよ?」
由莉が不安気に訊く。彼女らしくない言葉に、由魅は一瞬考え込む仕草をしたが、首をふって言った。
「ううん。今は……自分の力がどれ程のものなのか、もう一度確かめたいの。今度こそ、後悔したりしない」
「由魅……」
由莉は自分が恥ずかしくなった。由魅は自分を試そうとしている。それを逆に揺るがすような言葉を吐く自分を恥じた。
以前にも似たようなことがあった。逃げ回るだけの生活に嫌気の差した二人は、自らの運命に立ち向かうことにしたのだ。
しかし……結果は失敗に終わった。誰も救うことが出来ずに、自らもひどく傷付けることとなった。
その後何度か再び挑戦を試みるが、幾度かやる気を取り戻そうとする由魅を、由莉は以前の結果を恐れるあまり止めるのだった。それは由魅の身を守るという名目ではあったが、実のところ、由莉自身の身を案ずるがあまりの行動だった。
それを指摘したのは木島隆だった。彼は組織を逃亡した双子を監視するために派遣されていた(不思議なことに、双子を連れ戻そうとはしなかった)。
その彼が二人に言う言葉は、二人の心に大きな重荷となっていた。美紀や涼も何度か聞いた彼の謎めいた呼びかけ……「逃げ回るだけでは何の解決にもならない。お前達はどうしたいのだ?」
は、その最たる物だ。
今は、その問いかけに答えを出すときが、来ている……
由莉は手に力を入れた。由魅も力を込めてくる。
「……始めます」
由魅は厳かに宣言すると、まぶたを閉じて”言葉”を紡ぎ出す。
「天と地と、火と水と、風と星辰の導きによりて、我らここに誓いをなさん。清き心、正しき心、もって我が力と成さしめ給え。闇と光の狭間で迷いし魂に、道よ、開け!!」
途端、二人の身体は光を発し始めた。その光りは次第に強さを増し、最高潮に達したかと思うと、急激に光りは止み、元の光景が復活した。
隆はよろめきそうになった二人の身体を支える。
彼女達の身体は完全に力が抜けていた。しかし、絵美の手に重ねられた手は、未だ力強く握り締められている。
「……行ったか」
隆はそう呟くと、目を閉じた。
「必ず戻って来るんだぞ。由莉……由魅」
……ああ、落ちていく。
由魅の精神は緩やかな落下感を伴って漂っていた。
何も見えない暗闇の中、恐怖感が由魅の心に忍び寄ってくる。
何度体験しても慣れるものではない、堪えがたい程の沈黙……自我の存在が希薄になる最も危険な時。
……アタシハダレ?ココハ、ドコ?ソシテ、ドコヘイクノ?
永遠に出ることのない答えを、由魅は繰り返す。
本当に答えは無いのか?見つかるとしたら、一体それはいつなのだろう?
……答えはきっと、この先にある。そこには、人の心の本質が眠るのだから。
由魅は強く念じた。知りたいと……自分が何者なのかを。
あたしは……今のあたしは……
由魅はそっと目を開く。そして、その眼前に広がる光景に心奪われた。
「綺麗……こんなアストラル・マトリクスは初めて……」
そこは、辺り一面エメラルドグリーンの光りに満ちあふれていた。まるで南海の海を思わせるような、そんな色だった。
由魅は自分の姿を見やった。
彼女の身体は白い光で輝いていた。いつもの身体が光に包まれているわけではなかった。光そのもので、彼女の身体は形作られているのだ。
由魅が視線を巡らすと、彼女の後ろには、同じく光の存在となって宙を漂う由莉の姿が見えた。
その身体の頭の方から波紋が下の方に広がっていき、それが何度も繰り返される内に、由莉の身体がはっきりとした形を作り出していった。
黒いショートカットの髪が、目が、鼻が、口が……そして、普段と違わない彼女の姿が現れた。ブルージーンズにスニーカー、黒のTシャツに白のジャケットという、動きやすい彼女好みの服装だった。
由莉は由魅を見て微笑みかける。
「由魅、早く準備しなきゃ!」
由魅はうなずくと、胸の前で手を組んだ。
すると、由莉と同じく頭の方からつま先へと光の輪が広がっていき、いつもの姿を取り始めた。
彼女は、乙夜の制服姿をとった。紺のセーラー服風のブレザーにタイ、フレアスカートという姿で、足は素足だった。
「なんで制服なの?」
「うーん……何故かこの格好じゃないといけない気がして」
由莉の問いにそう答えると、由魅は足下を見つめた。
「この辺りはこんなに綺麗なのに……底が見えないわ」
「急ごう。悩んでる暇はないわ!」
「うん」
二人はうなずき合うと、”底”目がけて降り始めた。
由莉を先頭にしてどんどん降りていく二人。その周りは始めこそ明るさを保っていたが、次第に暗さを増していき、更には降りるスピードも遅くなっていった。
「……くっ!抵抗が強くなってきたわ。由魅、大丈夫?」
「な、なんとか……あと少しよ……あと少しで”壁”に行き着くわ」
「よし……もう一踏ん張り!」
すでに周囲は真っ暗闇で、二人は自ら光りを放つことでお互いを認識していた。
水圧に押し潰されてしまう、そんな感覚が、文字どおり二人の身体を包み込む。そしてそれは頂点に達しつつあった。
そのとき、二人の行く手に、赤く、鈍い光が見えてきた。それはやがて目の前一杯に広がっていき、二人の前に壁となって立ちふさがった。
「見えた!”壁”よ!!」
由魅が苦しそうに叫ぶ。
それは、意識界と無意識界をしきる”壁”である。普段人が認識することのない無意識界を意識界から守る、いや、無意識界に存在するありとあらゆるものから意識界を守るために存在する壁……それはあまりにも堅固で、並の精神力では突き破ることは出来ない。だが、彼女達の目指す場所は、その向こう側にあった。
いずれこの壁を打ち破り、現実世界へ侵入を果さんとするものが現れる。その前に何としても壁を越え、それを食い止めなければ、絵美という存在はこの世から消滅してしまうのだ。
「由莉、お願い!!」
「まかせといて!!」
由莉は胸の前で印を組むと、呪文を唱え始めた。
「邪なるもの、浄化せし地獄の劫火よ、我が手に宿りて力と成せ……」
アストラル・マトリクス界における力の発動は、その発現の様をいかにイメージするかによって行われる。その過程で言葉も使われるが、それはイメージを鮮明にさせる手段の一つに過ぎない。だから、由莉が唱える呪文もどんなものでもかまわないの。それによって引き出そうとする力を、強くイメージできるかが問題なのである。
今由莉は壁に穴を開けようとしていた。二人が通り抜けられるだけの、小さな穴で良い。あまりに大きな穴を開けすぎるのは、絵美の精神に回復不可能なダメージを与えることになるからだ。しかし、壁に穴をうがつには、かなりのパワーを要求される。その力加減が問題だったが、由莉はそれを問題としていなかった。
……これだけの壁に穴を開けるには、強力な……強力な力が必要なんだ……コントロールはまかせなさい!!
そして由莉の呪文は完成し、発動した。
「フレアー!!」
由莉が手を前に突き出すと、黒い光がほとばしり、赤黒く光壁目がけて突き進み、壁の表面ではじけた。
絵美の身体が一瞬けいれんを起こしたように震えた。
「……越えたようだな」
隆が呟く。
「よっし!!」
まばゆい閃光が辺りを覆い尽くす。やがて光がおさまると、壁の一部が裂けているのが見えた。そしてその向こう側には……
「行くわよ、由魅!!」
「はいっ!!」
間髪入れず、二人はその裂け目目がけて突き進む。
内側からは様々なイメージがあふれてきて、二人の侵入を拒むように押しやった。その圧力をはねのけて、二人は裂け目をくぐり抜けた。途端、裂け目が閉じる。
「これでいよいよ戻れなくなったよ?」
「……そうね」
二人は一瞬後ろを振り返ったが、すぐさま前の方を見据えた。
そこには、荒野が広がっていた。ちょうど西部劇に出てくるような、そんな光景だった。
「由魅……あのとき見たイメージだね、これ」
由莉が面白くもなさそうに言う。
「ここのどこかに彼女がいるわ。あのイメージ通りからすると……」
由魅はメサの一つを指さして言った。
「あの台地付近が、きっとそうだわ」
「そして……あいつ等もいるってわけね」
由莉は指を鳴らしながら言った。
「よし、そいつらはあたしにまかせて……由魅は早く彼女の元へ」
「ええ……由莉、気を付けてね」
「わかってる。由魅こそ、気を付けて」
二人は互いに見つめ合い、手と手を触れ合わせる。
「あたし達は……」
「いつも一緒よ……」
合わせ鏡のような二人の姿……引き裂かれた魂の半身同士は、互いの無事を祈って目を閉じる。
「……よし、行こう!」
「ええ!」
由莉を先頭に、二人は目標の台地目がけて落ちていった。
だんだん大きくなっていく台地の上に、何かがうごめくのが見えた。それは徐々に形をはっきりとさせていく。
「こっちに来るわ!」
由莉はそう叫ぶと、一段と降下速度をあげて由魅との距離を離した。
うごめくもの共はその数を増やしつつ、二人を包み込むかのように散開していく。
その姿形は、由莉の目にはっきりと映し出される。
「やっぱり……」
人と似たような姿……全身真っ黒で、頭と二本の腕、二本の足を持ち、背中に蝙蝠の羽を巨大にしたような翼を持つ化け物。その特徴的なものは、鋭い爪と頭に生えた角、そして……のっぺりとした、何も無い顔!
「夜魔!!」
それは人を幻夢郷カダスへさらうと言われる、あのラブクラフトが悪夢の中で見た化け物そのものだった。
「ここまでそっくりってことは、この子!?」
「ええ!……知ってるのよ、あの神話体系をね!」
「なんてこと!やりづらいったらありゃしない!」
無意識界ではイメージが力を持つ。それはより鮮明であるほど、より具体的であればあるほど、本来の力を、いや、本来以上の力を発揮するのである。
よりにもよってクトゥルフ神話の化け物どもが相手では、精神世界での対決は非常に困難なものになる。なぜなら奴等は、まさにここの住人なのだから。
奴等は二人の姿を見つけると、群がるように向かってきた。
「あいつ等はあたしが引き付ける!その隙に先へ!」
「あ、由莉!!」
由莉は由魅をおいて夜魔の群れに突入して行った。
「こいつ等を由魅のそばに行かせるわけには!!」
由莉は気合いもろとも技を放つ。
「はあああああっ!炎の矢ーーーーーー!!」
由莉の手から炎がほとばしり、輪となって広がった。
夜魔は回避しようとするが、一瞬早く炎が身体に触れ、瞬く間に燃え上がり、消滅した。生き残った夜魔は一旦由莉の周りから退くが、由莉は容赦無く炎を浴びせかける。しかし、夜魔の数は一向に減る様子は無かった。
「くそ!!これじゃ切りがない!」
由莉はいらつきながらも、攻撃の手を休めない。
由魅はその光景を目に止めつつ、絵美の魂の中心部分を探そうとしていた。
「このどこかに……囚われた魂があるはず」
由魅の身体は戦場を回避しつつ、メサ台地に近づいて行った。
茶色の砂で覆われた、荒れ果てた大地。
小説家を目指した少女の深層心理を現すにしては、あまりにも殺伐とした世界だった。
「こんなイメージを造り上げるなんて……一体何が?」
由魅は無事着地すると、周囲を見渡した。
上空では依然として戦いが続いている。多勢に無勢でありながら、まるで負ける気がしないのは、ここまで伝わってくる由莉の気迫故だった。
由魅は片膝をつくと、手のひらを地面に押し当てて気を探った。
「……絵美さん。どこにいるの?答えて」
彼女は土を一掴みとると、やおら口に含んで、すぐに吐き出した。
「だめだわ。これは抜け殻に過ぎない。でも気は感じる。すると……この内側に?」
由魅は立上がると、手を組み合わせて呪文を唱え出した。
「地の精霊よ……我の導きに従いて、その力現さん。地によりてはぐくまれし者に……」
一方由莉は夜魔を一手に引き受けていたが、その数は一向に減らなかった。なんとかその注意を自分一人に集めようと派手に動き廻るが、それも飽和しかけていた。
「このままじゃいつかは……あっ!!」
ついにその均衡が破れた。夜魔の一群が地上の由魅に向かったのだ。
「由魅!!くそっ、どけーー!!」
由莉は必死になって突破口を開こうとするが、すでにその周りは完全に包囲されていて身動きが取れなかった。
「由魅、由魅、早く逃げて!!」
しかし、呪文の詠唱に入っている由魅に、その声は届かなかった。
「くそーーーー!どけろって言ってるのに!!」
由莉はまくし立てるように呪文を唱える。
「風よ、火よ、わが鎧となりて全てを貫かん!!」
風が由莉の身体に絡み付き、それに炎が重なり合う。
「ぬおおおおおおおお!!」
彼女自身の身体が炎の塊となって、夜魔の群れに突入した。
夜魔を蹴散らしつつ、由魅の元に向かおうとするが、果して間に合うのか?
由魅は気が付かない。詠唱は佳境に入り、後は発動を待つばかりとなった。
「……我が手に宿りて地を裂か……ああっ?!」
まさに手を振り下ろそうとした瞬間、由魅の身体のそばを夜魔が通りすぎ、振り上げた腕に当たった。たちまち精神集中が切れる。
夜魔達は由魅を取り囲み、その輪を徐々に締め上げていく。
一度途切れた精神集中は、次の呪文詠唱を難しくした。由魅の心には新たなイメージが沸く暇もなく、夜魔のプレッシャーに曝された。
「そんな……後少しで……由莉、由莉!!」
由魅の脳裏に、あの時の出来事が甦ってきた。あの時も呪文の発動が遅れ、更には中途半端な効果しか得られずに、彼女の精神は引き裂かれたのだ。
……また……またなの?また同じことの繰り返し?!
じりじりと、夜魔達は近づいてくる。嘲り、罵り、嘲笑、弱者を追いつめることへの歓喜の声……どれ一つ取っても由魅の心を逆立たせ、傷付ける。
今や包囲の輪は由魅のすぐそばに迫った。あと一伸び、腕を伸ばせば夜魔に触れる。そして連れ去られるのだ……どこへ?
由魅は目をつぶった。
……もうだめ!!
と、その時。由魅の周りに一陣の風と、炎が巻き興った。
「由魅、しっかりしなさい!!」
「由莉!?」
間一髪、夜魔を蹴散らすことに成功した由莉が由魅の背後に立った。
「早く詠唱を続けるの!!こいつらはあたしが食い止める!!」
「う、うん……!」
二人は同時に詠唱に入った。
由莉は結界を張り、由魅の詠唱を助ける。そしてより強力な攻撃呪文を唱え出した。
夜魔達は二人に近づこうとするが、結界にはじき返され、悲鳴を上げる。
由魅は中断されてしまった呪文詠唱を思い返していた。詠唱中に心の内に沸き上がる魂の声を、想いを。
「地の精霊よ……我の導きに従いて、その力現さん。地によりてはぐくまれし者に、幸いと安らぎを与え給え。今こそ我が手に宿りて地を裂かん!!」
由魅の手は再び地に向けて手を振り下ろす。同時に由莉の呪文も完成し、二人の力は解き放たれた。
「ティルトウェイト!!」
「土雷破!!」
激しい爆音が巻き興り、結界を中心に火球が広がった。その衝撃で夜魔達は吹き飛ばされた。と同時に大地は鳴動し、すさまじい音を立てて、砕け散った。
荒野はあちらこちらでその姿を崩壊させていった。それは世界の最後の情景のようであった。吹き飛ばされる土塊れが更に砕け、その粒は素粒子以下に……アストラル体に還元されていく……
そんな光景を、結界に守られながら由莉と由魅は眺めていた。
「崩れていく……何もかも」
「いいえ……所詮あれは幻よ。自分の心を守るための……そして、自分の心を欺くための。あれを見て。あれこそが本体……」
由魅の指し示す方向を由莉は見た。
大地にぽっかりと開いた大穴に、赤黒く輝くもの。それは、崩れ続ける大地を喰いつつ、次第に大きくなっていった。
「なに……あれは?」
「絵美さんの心の中心……そして、あれこそが、”ゲート”よ」
「あれが……”ゲート”」
「そう。異界との接点……誰もが心の奥底に抱いている、全てにつながるもの」
もはやさっきまで存在していた荒野は消え失せ、全ては暗黒の空間に呑込まれて”ゲート”のみがその存在を主張していた。
二人は結界に守られつつ、それに近づいていく。
それは、木の根が複雑に絡み合ったような、あまりにも巨大な構造体だった。赤黒い光を規則的に放ちつつ、その表面を脈動させる。何とも醜悪な姿。そしてそれは、徐々にその大きさを膨らませつつ合った。
「由魅、大きくなってるよ!」
「うん。絵美さんのアストラル体を喰って成長しているの。早く絵美さんを探すのよ!」
二人は結界を高速で移動させながら、ゲートの表面をなぞるように進んでいく。
そして半周ほどしたところで、表面に他と異なる部分を見つけた。
「あれ!あそこに人の姿が!!」
由莉の叫びに、由魅は目をこらして表面を見た。
「……うん、いるわ。でもかなり”喰われて”る。行くわよ!!」
結界を加速させると、急速に表面に近づいていく。
そこはだけは、白い輝きを放っていた。そして……そこには、何も身にまとわない絵美が、奇妙にも上半身だけを突き出たせていた。
「これは!なんてこと、半分以上喰われてるじゃない!!」
由莉は絶望的な叫びを上げる。
「半分で済んでる方が不思議だわ。こんなにゲートが成長してるのに、どうして?!」
由魅の驚きも無理はなかった。ゲートの大きさは今にもはじけそうなまでになっているのに、絵美はその自我を未だ保っていることになるからだ。
「絵美さん!目を開けて!!あたしの言葉を訊いて!」
由魅は可能な限り接近すると、絵美に声をかけた。一瞬、彼女の眉が動く。
「聞こえてるわ!由莉、一緒に声をかけて!!」
「判ったわ!」
二人は必死になって絵美に声をかけ続けた。
その間にもゲートはその大きさを増していく。
「まだ目を覚まさないわよ!!」
「まだよ!もっと接近するの!!」
由魅は結界を更に接近させると、結界から手を出して絵美の身体に触れようとした。
途端、青白い火花が飛び散り、由魅は思わず手を引っ込めた。
「きゃあああ!!」
「由魅!大丈夫?!」
「え、ええ、大丈夫よ……」
由莉に助け起こされながら、由魅は絵美を見つめ続けた。
ぴくり、と絵美の眉が動く。
意を決した由魅は、再び手を伸ばす。
「由魅!?」
「どうしても起こさないと……いけないのよ!!」
そして一気に絵美の肩を掴んだ。激しく火花が飛び散った。
「ああああああああああ!!」
「由魅!!」
悲鳴を上げつつも、由魅は絵美に念を送り続けた。
……負けないで!まだ諦めちゃ駄目!!
おおおおお……ゲートが震える。全体に火花が飛び散った。
由魅と絵美の身体に飛び交う青白い火花は次第に輝きを増していき、それが最大限に達したとき、目も眩むような閃光が辺り一面に広がった。
……やがて光も止み、由莉は恐る恐る目を開けた。
さっきと変らない風景がそこにあった。だがゲートの拡大は止っているようだった。
「ゆ、由魅?!」
慌てて由魅を探すと、由魅は絵美と向き合うようにして宙を漂っていた。
「由魅、大丈夫?!」
「ええ……彼女は?」
由莉は前を指さした。そこには、目を開けた絵美がいた。
「絵美さん!」
その呼びかけに、絵美は二人の方をゆっくり見た。
「……あなた達、だれ?」
「美紀さんに頼まれて、あなたを助けに来たのよ。わかる?」
「あたし……夢を……ひどい夢を見せられて……もう終わったの?」
「いいえ……まだよ。まだ……」
由魅はゆっくりと絵美に近づいていく。
「あなたの心に宿っている恐れや不安、憎しみや妬み、その他のマイナスの感情を吸いながら、ゲートは育っていくわ。その感情を認め、そして克服すること無しに、魂の平穏は得られない……一体何があなたの心をここまで追いつめてしまったの?」
由魅は額を押し付けん程に絵美に近づき、何もかも見通すような目で絵美の目をのぞき込んだ。
「あたしは……別に……」
目を反らそうした絵美は、自分がどういう状態にあるのかを認識した。
それは、まさしく悪夢の再来であった。
「な……なにこれ?……いや……いや……いやいやいやああああああ!!」
絵美は絶叫を上げながら腕を振るおうとするのだが、その腕は後ろ手に回されてゲートにからめ捕られ、それが更に絵美をパニックに追いやった。
「もういや!!いやよ!もう止めて……お願いだから楽にさせて……お願い」
泣き叫ぶ絵美を、しかし、由魅は奮い立たせるように声を荒げて言った。
「しっかりしなさい!元に戻りたくはないの?!今ならまだ間に合うのよ!」
「……まだ、間に合う?」
絵美は焦点の結ばぬような目で由魅を見た。
「ええ、そうよ。それもあなた次第……だから、あたしに話して。一体、なにがあなたをそうさせたのかを」
由魅は絵美の肩に両手を置き、己が額を絵美のそれに重ねた。
「……ああ……あたし……あたしは……」
絵美は力が抜けていくのを感じていた。何もかもが後ろ向きに進むような感覚に襲われ、そして、たどり着く。
悪夢の始りへと。
……いつからだろう?自分の進む道について疑問を抱くようになったのは。
そうだ。あれは歴史小説の懸賞に応募して、橋にも棒にも引っ掛からなかった時だ。そんなことこれまでにも何度もあったことなのに、なぜかあの時だけは悔しかった。
あたしの最高傑作……になるはずだった、一枚のフロッピーディスク。
今はもう手元に無い。落選が判ったときに燃やしてしまったから。
やっぱり歴史小説には向いていないのかな?歴史小説というには奇抜な発想の、正統派とは言えない分野……
それでもあたしはずっとすっと書きたくて、ついにそれを書き上げて応募したんだ……その結果の、惨敗。
でもチャンスは無かったわけじゃない。
昨日まで書き続けていたホラー小説は、その少ないデビューチャンスの一つだった。このテーマでなら書かせてくれるという、実にありがたいお言葉。
初テーマということもあって最初は戸惑ったけど、執筆そのものは順調だった。
でも……。
なんかしっくり来なかった。過去の作品の亜流、焼き直し、デッドコピー……こんなのはあたしの作品じゃない。あたしの書きたい小説じゃない!
そうまでプロデビューしたい?
……したい。みんなに認めてもらいたい。同人で終わりたくない!
でも今のあたしのしていることは、今までの自分を否定するような気がして、嫌なんだ。手段が姑息すぎやしないだろうか?安易すぎないだろうか?
……大体、どうしてあたしは認められないのか?
文章力だって構想力だってある。人物描写や心理描写だって人よりうまく出来る自信がある……だのに、なんで?
なんでなのよ!!
「……!?いけない、だめ!!」
由魅は絵美から急に離れた。
周囲の雰囲気が変化している。先程まで緩みかけていた緊迫感が、再び張り詰めつつ合った。
「絵美さん、だめ!戻ってきて!!」
「由魅!ゲートが!!」
由莉が指し示すそこは、再び膨張を始めていた。絵美と取り巻く部分も不気味にうごめき始め、彼女の身体を呑込みつつあった。
『……あたしは、他より優れている……あたしの書くもの全て……あたしの考えること、思うことの全てが……』
絵美の声が響く。その声は次第にトーンを変え、どす黒い、負の感情を増幅させつつ、最後の声を放つ。
『……こんな世界は間違っている……滅びて当然なのだ!!……』
「だめええええええええ!!」
絵美だったものの声と、由魅の絶叫が交錯した。
その時突如として突風が巻き興り、由莉と由魅はゲートから遠ざかる方に吹き飛ばされた。由莉は由魅の身体をかばいつつ、結界を張って宙に留まった。
「ゲートが拡大する!もう保たない!」
由莉は絶望の声を上げた。
見よ。たった一瞬でゲートの大きさは見た目の倍になっている。しかもそれはなおも拡大中で、それは加速度を増しつつ合った。
「由魅!どうしよう?!このままじゃ……世界が……」
激しい風に結界を維持するのがやっとの由莉は、後は由魅次第だということをよくわかっていた。
そしてその由魅は……呆然とゲートの様を見つめていた。
……ゲートを受け入れてしまうなんて……あと5分もしない内に識域下を突き抜けて、精神の殻を破り、ありとあらゆる負の精神エネルギーを放出して……虚無に、還る……
由魅にはその光景がありありと浮かんできた。
ゲートを中心にして広がる虚無の空間は、アストラル体の負のエネルギーを吸って拡大し、そこから人類が、神話で、伝説で、そして夢の中で創造したありとあらゆる災いや化け物や現れるだろう。
しかし、そこにはパンドラの箱のように、”希望”は残されてはいない。人が想像し、実現することを恐れた物や事は、それを忌避するが故に、逆にそれを実現させてしまう……それが、”ゲート”の本質なのだ。
由魅は憎悪の念に圧倒されながらも、考えることをやめなかった。
今の状態では、彼女の力をもってしてもゲートの成長をとどめることはできない。一時的にでも、ゲートを押し止めなくてはならないのだが、しかし、その方法はあるのか?
……だめ……もう止らない……なんて力なの?前のとは比べ物にならないくらい……それほどまでに、彼女の思いは深く、純粋なものだったの?
由魅は羨望を感じていた。わが身を、世界を打ち壊しても叶えたい夢を持っていることに。自分の持っていないものを持っていることに、嫉妬に近い感情を覚えた。
……でもちがう。これは間違ってる!他人を不幸にしてまで得られるものに、真の純粋さは無いのよ……お願い気付いて……初めて夢をもった時のことを……
由魅は心の中で強く念じた。しかし、ゲートの拡大は一向におさまらない。それでも由魅は祈り続けた。
……ああ、あたしだけの力じゃ足りない……他に誰か、彼女ことを思っている誰かに……夢を共有することの出来る誰かに!
……そうだ……美紀!!
「……え?」
美紀は誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。
「どうした?」
秀一が心配そうな顔をして訊く。
「誰かに呼ばれたような気がして……」
……美紀答えて!!
「あ!!また?!」
「お、おい、大丈夫か?」
秀一が落ち着かせようと、彼女の肩に手をかけようとした。それを、何故か涼が腕を掴んで止めた。
「な、なにすんだよ?!」
「いいから!」
涼はみどりに目くばせした。みどりも何が起ころうとしているのが判るのか、もたれていた壁から離れて美紀の前に立った。
「美紀……」
「み、みどりさん……?」
美紀が顔を上げると、みどりは額を額に押し付け、ささやくように言った。
「落ち着いて……そして、絵美ちゃんのことを考えなさい」
「絵美のこと、を?」
「そう……聞こえるでしょう?あなたを呼ぶ声が。あなたの助けを必要としている人がいるわ。……さあ、心を合わせて……」
「心を合わせる……」
美紀は目を閉じて、思った。
……絵美、お願い。無事で戻ってきて……待ってるから……祈ってるから。
『……あたし、このまま、無くなっちゃうのかな?』
絵美のもう半分の心は、ゲートに呑込まれるもう半分の自分を、只見ていた。
『……これでいいのかもしれない。これでもう悩まなくて済むんだもの。こんな自分がいるなんてことを誰にも知られなくて済むんだもの。これっきりで……』
絵美は目を閉じる。
『もう何も見ない、もう何も話さない、もう何も聞かない、もう何も考えない、もう何も感じない、もう何も思わない、もう何も……もう、何も……』
……へー、絵美ちゃんって、小説家になるのが夢なの。
『?!』
突如として、絵美の心の中に美紀の声が響いた。それは絵美が美紀に初めて出会ったときの、互いの夢を語り合ったときの光景だった。
……見せて見せて!……ふうん、すっごく難しいお話しを書くんだねえ……けど読みやすいし、きっとすごい作家になれるよ!『お世辞でもうれしいわ』
お世辞なんかじゃないよ!……いいなあ、そんなでっかい夢があって。あたし?あたしはそんな夢なんて無いよ。あたしはねえ……ある人のお嫁さんになることかなあ。はは……普通の夢でしょ?
『ううん……そんなことない。あたしの夢なんて、実現する可能性は少ない分、持ってるだけ面倒なだけだもの』
そんなことないよ!!自分の持ってる夢をそんな風に思っちゃ駄目だよ!!あたしの夢は誰でも思うような夢だけど、それを簡単だなんて思ったことなんかないよ!それに比べて絵美ちゃんの夢は持ってるってことだけでもすごいことだと思う。それに、絵美ちゃんは諦めてるわけじゃないんでしょう?だったら、まだまだ間に合うよ!
『美紀ちゃん……また、読んでくれる?』
うん、もちろん!!また新しいお話しが出来たら、一番にあたしに読ませてね!
『……そうだ。あたしまだ書いてない。本当に書きたいもの……本当に読んでもらいたいものを……このままじゃ……終れない……!!』
まだあたしは書いていたいんだ!!
由魅の目が見開かれた。
「由魅、ゲートが止ったよ!?」
由莉の言う通り、ゲートは突如としてその動きを止めた。いや、それだけではない。逆に収縮していくではないか。更には先程まで吹き荒れていたも風も、すっかり吹き止んでしまっていた。
と、ゲートの表面で、そう、絵美が取り込まれた辺りに、白い光が漏れ出しているのが見えた。それは次第に大きく、そして強くなっていく。
そして、その光の中に、絵美の姿が浮かび上がってきた。両膝を抱きかかえ、卵のように丸くなって、彼女はゲートから離れつつあった。
「絵美さんが……絵美さんが戻ってくるわ!」
由魅は歓喜の声を上げた。
彼女は勝ったのだ。自分自身の弱さに。
「由莉!はやく絵美さんを保護して!!」
「よっしゃあっ!」
由莉は猛烈な勢いで絵美に向かって突進した。
それを見た由魅は、再び絵美に意識を向けた。
……絵美さん。届いた?美紀さんの思いが。さあ、もう一度立上がるのよ。あたしが手伝ってあげるから。
そうして由魅は、最後の呪文を唱え始めた……
「……汝封印されし者、暗黒に包まれし彼の地に集いて、光を喰わんとする者達よ。もはや汝らは退けられた。自らを闇に貶めた者に、光ある者に触れること叶わず、近寄ることは許されぬ。見よ、夜明けが来る……輝ける希望……煌く夢よ。今こそ我が心に、その力を示さん!!」
ばっ!
由魅の身体が光に包まれ、腰まである髪が天を突くかのごとく逆立った。
次から次へと力がみなぎってくるのを彼女は感じていた。初めての感覚だった。
……ああ、感じる……みんなの心を……前には無かった、こんな感じ。
その間に、由莉は絵美の身体をしっかり抱えると、ゲートから遠ざる。そして由魅の背後にぴったりとついた。
「由魅……あたしも力を……!」
由莉は由魅の肩に手をおいて、一緒になって呪文の詠唱を続けた。
「いにしえより伝えられし伝説の地より、来たりし者の末裔たる我らに引き継がれし力よ。いま剣となりて邪悪なるものに滅びを与えんことを、我ら切に願わん!ひとたび破られしこの地を、久遠の平穏に包まれんことを!!」
二人を包む光は限りなく、限りなく広がり続け、ゲートを包み込み、空間全てを呑み尽くしていく。その輝きは、闇をことごとく呑込みんで、そして、そして……
『トート・ヴェルト・レヴォルツィオン!!』
二人の詠唱の終わりを告げる言葉が紡ぎ出され、世界は地響きを立ててそれを祝福した。
……これがあたし達に与えられた力……本当の力なんだわ。
由魅と由莉は自分達が生まれ変わっていくのを感じ取っていた。死にかけていた世界を救う力……これこそが二人に与えられた力……
……この感じ、忘れない。……決して、忘れない。
そうして二人の意識は上昇を始めた。
光はおさまりつつある。そしてそこに広がる光景は、かつての荒野ではなく、先程の光に勝るとも劣らない、輝きに満ちあふれた地へと変貌していた。
急速に薄れていく意識の中で、由魅はその輝きに向かってある言葉を呟いていた。
……これからが、本当の戦いなんだわ。いつかまた、この地に暗黒が忍び寄るときがやってくる。それを克服するのは、あなた自身の力だけ……忘れないで、今の思いを。この忘れ得ぬ思いこそが、人を勇気ある存在と成さしめているのだから……。そしてそれを教えてくれて、ありがとう……。
隆は場の空気が変化したことに気が付いた。さっきまでまるで力の入っていなかった双子の身体に力が甦り、そして、先程まで苦しい息をしていた絵美に、満ち足りたような、平穏な表情が浮かんでいるのを。
「……う、ううん」
軽いうめき声を上げて、由莉が目を覚ました。彼女は自分が隆に支えられているのに気付くと、ゆっくりと身体を起こして彼から離れた。
「やったな?」
「……ああ、うん、やったわよ。大したもんでしょ?」
寝ぼけたような目で隆を見ながら由莉は言った。
「ああ、大したもんだ。お前も、由魅もな」
そう言って隆は由魅を抱き上げると、もう一つのベッドに彼女の身体を横たえた。
「お前も休め。彼女はもう大丈夫だろう。後はみんながやってくれる」
「そだね……そうする」
由莉は座り込むと、壁にもたれてそのまま眠り込んでしまった。
隆は口もとに笑みを浮かべると、静かにその部屋を離れた。
「……反応が消えました。封印に成功したものと考えられます」
「ふむ……ようやく実力発揮というわけだね。すばらしいことだ」
「……ですが、よろしいので?」
「なにがだね?」
「このままでは我々の目的に……」
「いらぬ心配だよ。ゲートのひとつやふたつ、後のことを考えれば安いものさ。そう、我々の求めるものは、そんなものでさえないのだからね。せいぜい彼女等には頑張ってもらうことにしよう」
……どこまで大きくなるか、とっても楽しみだよ……由莉、由魅……。