……人は闇から逃れるために、明りを産み出した。光こそは文明の象徴。輝ける人類の英知!!
しかし、光だけの存在など有り得ない。光と共に、闇は産み出されたのだ。いかに光の存在のみを肯定しようとも、闇という対立要素無くしてはそれを証明することはできないのだ。
しかし人はそれを故意に無視してきた。科学という現代の魔術に名を借りて、知り得ざるものに耳目を閉ざしてきた。
だが、それももう、今日限りでおしまいだった。もはや逃れることは出来ないのだ。
逃れる術は、もう、残されてはいない……
……絵美はそこまで書き付けると、時計に目をやった。
もう一時をまわっている。いつもならここらで切り上げるのだが、絵美はそんな気にはなれなかった。
絵美の夢は小説家になることだった。今書いてるのはホラー小説だが、自分としては歴史小説家を目指していた。今までに何度か投稿しているが、認められるまでには至っていない。同人誌レベルの物は何度か書いていて、仲間と一緒にコミケなんかで売りに出したこともあった。
今はそれで満足している。書きたいことはいくらでもあるし、文章力にはそれなりに自信があった。だから、けっして焦っていなかった。
両親も、娘の自由にまかせるつもりだった。大学に行ったからといって必ずしも就職につながるとはいえず、就職そのものが厳しい状態では、変な会社に入られるよりも、好きなことをやらせて自分達のそばにおいておく方が安全だと考えていたからだ。
何不自由しない毎日。常に満ち足り、なんの恐れも無いはずだった。それが……。
絵美は机の上につっぷした。
この頃よく夢をみる。そう、夢だ。幻想、まぼろし、なんと表現してもいい。少なくとも現実ではなかったはずだ。そう、今までは。
……寝たくない。眠りたくない。でも、寝ないと……いや、いや、いや!
ボーっとする頭で必至に眠気を振り払おうとする。しかし、まぶたは重力に従って徐々に堕ちていく。
……駄目よ!!またあいつがやって来るのを見たいの?!あんな夢……見たくない!!お願い、眠らせないで……起きていたいの。あたしは、あたしは……。
しかし無駄な努力だった。絵美の意識は遠のいていき、ついには引き込まれてしまった……闇の中へ。
翌朝。
登校する生徒の群れが、坂道を登っていく。途中で知り合いを見つけて挨拶を交わす者、昨日のTVの話に沸くグループ……。
そんな中、仁科絵美は、見るからにつらそうな姿で、とぼとぼと歩いていた。
その後方数メートルには、美紀が様子を伺うようについていた。いつ追い着いたら怪しまれずに、かつ自然に接することができるのかを図りつつ。
校門が視界に入ってきたとき、意を決して美紀は絵美に駆寄っていった。
「絵美、おはよ!」
美紀は元気一杯に声をかけた。
「……あ、み、美紀、おはよう」
「どしたの?あんまし元気じゃ無いみたいだけど?」
美紀は内心の不安を隠して、そう尋ねた。
「え?あ、う、うん、昨日夜更かししちゃってね……」
「ふうん……そうなんだ」
「でも、どうしたの?いつもは秀一君と一緒じゃない」
「あ、あいつさあ、今日は寝坊しちゃってね」
これは本当だ。というか、このために無理やり遅刻させたという……それくらい、彼女も必死なのだ。
「そうなの……。でもいいな、彼氏がいて」
「へ?え、ま、まあね」
唐突な言葉に、美紀は顔をひくつかせた。
「デートとかしてる?普段どんな話してるのかなあ?」
「あ、小説のねたにでもしようってんでしょう!」
「あ、ばれた?」
ぺろっと舌を出して絵美はおどけた。
「現実にはかなわないからねえ……そう、現実には」
そう言って、絵美は遠い目をした。
美紀はその目の先を見てみたいと、今ほど思ったことは無かった……
由莉はちらちらと後ろの方を見た。
その視線を受けた涼は、別に気にする風もなく、そのまま歩き続ける。
「どうしたの?」
由莉の行動を見て隣を歩いている由魅が言った。
「うん……あいつが、ね」
「坂上君?」
「そ!しつこいったらありゃしない!!」
由莉は顔を歪めて嘆息した。
ここ二三日、こうした日々が続いている。双子の行く先々に必ず涼の姿があった。学校にいるときも、それ以外の時も。
「まったく、よくやるわよね。暇人なんだから……」
「……でも、必死なんだよね、みんな」
由魅がかみしめるように言った。
「知らなければ……知ってても知らんふりしていれば……気楽に生きていけるのに。どうして、あそこまで必死になれるのかな……」
「由魅はいいんだよ!そんなこと考えなくったって!」
由莉がムキになって叫んだ。
「やっぱり、間違いだったわ。あんなこと言わなきゃ良かった」
「でも……」
そのとき、彼女達の前に、2人組のグループが立ちふさがった。
「ねえねえ、彼女〜、どこ行くの?」
「俺たちと遊ばない〜?」
一体これで何組目だろう。今日は初めてのナンパだ。
由莉はジト目になって2人組を見た。お世辞にも見れたものではない。
「いいわよ〜、遊んだげる。ただし……あれを潰せたらね」
「え?」
その二人組がきょとんとしたところに、いきなり背後から肩を掴まれた。
「な、なにしやがる?!」
「なんだ!?」
二人が振り返ると、そこには涼が睨みを効かせて立っていた。
「……消えな。怪我したくなけりゃな」
「なにを……」
言ってやがる、と言いかけたところに、涼の手刀が一閃、瞬く間に二人は地面に転がった。
それを見て、由莉はやれやれといった感じで言った。
「まあ、目にも止らぬ早業ってやつよね」
「えらい人気だな」
涼は手を払いつつ、ぶっきらぼうに言った。
「お陰でいいストレス解消になったが、いい加減面倒だ。一体いつになったら終わるんだい?ええ?」
「そんなこと……こっちの方が訊きたいわよ……心底ね」
「……そうかい」
しばらく二人はにらみ合った。由魅は悲痛な表情で二人を見た。
「ま、それまでは我慢するんだな、俺がつきまとうのは。……このまま何も起こらなければ、それに越したことは無いが」
「……冗談は止して。いつまでもあんたなんかにつきまとわれたくなんかないわ」
「……俺がやめても、あいつはついてくるんじゃないかな?」
涼が指し示す場所を、由莉と由魅は見た。
そこには、木島隆の姿があった。
「奴が言ってたぜ。逃げ回るだけじゃ何の解決にもならねえってさ……。少なくとも俺たちは、逃げ回ってない。見えない敵に必死になって抵抗している。……美紀なんて必死さ。目の前に死が迫っているという恐怖に怯えながら、頑張ってる」
「それであたし達に何とかしろって言うの?!何とか出来るって思ってるわけ?!」
由莉はヒステリックに叫んだ。
「おかど違いもいいとこよ!いい加減にして欲しいわよ!いつだって……いつだって」
大きく肩で息をする由莉の姿を、涼はじっと見つめていた。
「……取りあえず今は、気張らずにいろよ。邪魔は入れさせないからさ」
そう言うと、涼は二人のそばを離れた。
由莉はその行き先を確認しないまま、由魅を引っ張って歩き出した。
……奴がすぐそばまで迫っている。奴の忍び寄る音が、ひたひた、ひたひたと、まるで耳元でささやきかけるように聞こえてくるのだ。
もう逃げられそうにない。すでに私は辺鄙な湖のそばの、あばら家に押し込められていて、ここから逃げ出すことは及びもつかない。これまで私に協力してくれていた人たちも、今ではすっかり怯えきり、あろうことか、私が犠牲になることで自分達の安全を確保しようとする位だった。
今にして思えば、私がこの街にやって来たこと自体が間違いだったのだ。遠い親戚の残したわずかな遺産。今となっては呪わしいその書籍群は、私に新たな知識を与えてくれるはずだった……いや、確かに与えてはくれたのだ。
しかし……それは禁断の知識だった。限りなく冒涜的で、悪魔的というのでは言葉が足りないほどの、知ってはいけないもの……
ドンドンドン……
ああ、戸を叩く音が聞こえる……まるで人がドアをノックしているかのような、規則的な音が……
ああ……そして、窓には、窓には!
……ぱた。絵美の手からシャープペンが転げ落ちた。
朦朧とする意識、もう、書き続けることなど叶わない。
まだ……書きたいのに……どうしてあたしがこんな目にあわなくちゃいけないの?
まだやり残したことがある。こんなことで負ける訳にはいかないのに……でも、駄目。まぶたが堕ちる……このまま、死んじゃうのかな?……雅美みたいに。
雅美……あなたもこんなに辛かったの?それでも、学校に来たかったの?
あたしもそうだ。死の予感に捕らわれていても、それでもいつもと変らない生活を望んでいた。やけになる訳じゃない。辛いながらも、普段通り……
でも、もうそれも限界……ああ、呼び声が聞こえる。眠りたくないのに……またあの世界に行くことなど望みもしないのに……それはやって来る……それは、来る……。
美紀は絵美の顔を見たとき、昨日までのことが嘘だったような気がした。
「どうしたの?そんな顔しちゃって?」
「え、いや……」
絵美の顔は昨日までとは打って変わり、じつにすがすがしい表情をしていた。
「だって、昨日までひどい顔してたじゃない?!」
「まあねえ……でも昨日までかかってた小説がやっと上がったの!これでもう思い残すことはないわ」
「……え?」
「あ……」
一転して暗い雰囲気が二人を包み込んだ。
……思い残すことはないだなんて、まるで死ぬのを知ってるみたいに言うなんて……
「や、やだ、あたしったら、変なこと言っちゃって……まだまだ書きたいことが有るのにね!」
そう言って照れ笑いをする絵美を、暗澹たる思いで美紀は見つめていた。
……今日は、絶対に絵美のそばを離れないぞ。
ILROは臨戦体制に入った。美紀は時々教室を抜け出して保健室に行って何か異常はないかと探り、休み時間には絵美の様子を伺いに行った。
涼は双子から片時も目を離さなかった。そのそばに、木島隆の姿が無かったことを不思議に思いながら。
秀一と直純はただ美紀達の行動を見守るだけだった。すでに彼らの役目はすでに終わっていたから。
そしてみどりは……美紀の報告を聞いても何の指示も出さず、ただ、頑張りなさいと声をかけただけだった。
……そうして、昼間は何事も起きないまま、放課後を迎えた。
絵美の行動や態度に不審な点は全く無かった。逆にそれが美紀の不安をかきたてるのだ。
絵美が下校するのを、美紀は校門の前で待ちかまえていた。
「あら、美紀」
絵美は極普通に声をかけた。
「またなの?もうなにも出ないわよ」
「……お願いだから答えて。本当になにも無いの?変ったことか?」
「無いわよ……無いったら無いの」
「……」
「ほんとだってば。あたし、そんなに変に見えるかなあ?」
……そう見えないから、心配なのよ。
「……ううん、見えないわ」
「でしょう?」
絵美は得意げに言うと、美紀の手を引っ張った。
「どうせ暇なんでしょう?どっか遊びに行こうよ!」
「あ、ちょ、ちょっと!」
美紀は絵美に引っ張られるままに、街の方角へと歩き出していた。
街はいつもと変らなかった。車の走る音、川のような人の流れ、どれをとってみてもなんの変哲もない光景。
「あー、久しぶりだから、なんか新鮮!」
伸びをしながら絵美が言った。
「ねえ、どこいこっか?ゲーセン?マック?茶店でもいいよお」
「どこでもいいけどさあ……元気だねえ」
ここまで息が切れるほどの勢いでやって来たので、多少ばて気味に美紀が言う。
「だって、まだ若いもん」
「あたしゃ年寄りかい……」
「ふふふっ」
絵美はこの上なく明るかった。美紀は今までの自分の心配はなんだったのかと疑ってしまうくらいに。
……これなら大丈夫なのかな?なんか損しちゃった気分。
しかし、心の奥底では、いまだに信じられない部分があった。
……でも、なんだろう?胸の奥がちくちくする。……やだな。どんどん痛くなってきた。どんどん、どんどん……。
ひとしきり遊んだ頃には、夕闇が迫りつつあった。目が覚めるような夕焼けが、二人の目の前にある。
その夕日を眺めながら、絵美は言った。
「あたしね、夕焼けって、大好きなの」
「なんで?」
「太陽がね、一番近くにいるって感じることができるから。手に取れるくらいに大きくなって……」
絵美は両手を伸ばして、夕日を手に包むような仕草をしながら、
「掴み取れそうな、そんな気にさせられるのよ」
「ふうん……」
「変、かな?」
「ううん、すっごく素敵!星を掴んでみたいってのとおんなじだね」
「そうねえ……高望みしすぎなのかな?」
「そんなことないと思うなあ……夢はでっかい方はいいよ!!」
「夢……ね」
その言葉を聞いた途端、絵美の表情に影がさした。
ちょうど交差点に差し掛かったところだった。会社帰りの車の列が道路を行き交っている。
「……ねえ、美紀、夢ってなんだろうね?」
「え、なに?」
唐突な問いに、美紀は絵美の顔を見つめた。
「夢っていうのはさ、夢が有るって言うのは……素敵なことだよね?」
「う、うん……」
「そうだよね……そうだよね、夢って、そういうものだよね……」
「なにが……言いたいの?」
美紀は急速に不安が増えていくのを感じた。が、感じつつも、何も動くことが出来なかった。
「でも、絶対に見たくない夢があったら?絶対に叶えたくない夢があったら?美紀なら、どうする?」
絵美の顔……それは、いつか見た、目が落ちくぼみ、幽鬼のように青ざめた、まるで……そう、死人の顔のような。
美紀は絶句した。
「……わかんないよね……あたしも、わかんなかった。だから……」
絵美の身体が、揺らいだ。
「絵美……絵美……だめ!だめだよ!!」
美紀は手を伸ばして絵美の身体を捕まえようとした。
しかし一瞬遅く、絵美の身体は車道の方に倒れ、そして、そして……。
「絵美ーーーーーー!!」
美紀は伸ばした手を凍りつかせ、彫像のように立ちすくんだ。
車のライトが、クラクションが、美紀の意識を覆い尽くしていった。