「ふああ……」
直純は眠気に負けそうになりながら、なんとか立つことに成功していた。
昨夜はかなり遅くまで端末と向き合っていて、と言うよりは貫徹で全然寝ていないのだ。
そこへ制服姿の美紀がやって来て、大きな声で挨拶した。
「はよ〜ん!!直ちゃん!」
「うわああああ!や、やめて……」
直純は頭を抱えてうずくまった。
「ん?何してんのよ?」
「き、昨日は徹夜で……あ、頭が……」
「ふーん、なあんだあ……」
理由を訊いてつまらなさそうに美紀は言った。
「で、何かわかったの?」
「うん、いろいろと……」
その時家から秀一が出てきた。その姿を目ざとく見つけると、美紀は走っていって彼に抱きついた。
「おっはよ、秀ちゃん!」
「おう!元気だな」
「えへへ……」
それを見た直純はため息をつく。なにも見せつけなくったってねえ……
「じゃあ、行こうか」
そう秀一が言うと、美紀は辺りを見回して言う。
「あれ、涼ちゃんは?」
「あいつは今日は柔道部の朝練だろ?」
「あ、そっか」
涼は身体の鍛錬のために、運動部の朝練に良く顔を出していた。一時はなにか一つに集中してやろうと思ったこともあったが、生来の腰の軽さから一つの部には常駐しないで、様々な部、特に格闘技系の練習に参加するようにしていた。
「頑張ってるねえ……」
「さ、行こうぜ」
三人はぞろぞろと学校に向かって歩き出した。日常から、非日常の空間へと……
涼は道場から校舎に向かう道のりを悠然と歩いていた。
道の両脇にはイチョウ並木が立ち並び、陽光の中にその青々とした葉を伸ばしている。この季節にしては涼しい風が葉を揺り動かし、ざわさわ、ざわざわと、音を響かせていた。
校舎を左手に見ながら、校庭の方に近づいて行くと、生徒達のざわめきが聞こえてくる。その中でもとりわけ元気に聞こえる声は、涼にとってはずっと聞き慣れていたものだった。
「……ここまで聞こえてくるかね、全く」
涼はあきれたように言って、何気なく反対方向を見ると、そこには木のそばにたたずむ一人の女生徒の姿が目に入った。
「あれ……由魅ちゃん?」
その女生徒、千原由魅は、木に手を触れ、その額を木肌に押し付けて冥目していた。
木々の間を抜けて降り注ぐ光が、彼女を神々しいまでに優しく包み込む。背中に羽が生えていたのなら、天使ではないかと思い込んでしまいそうな、神秘的な姿……。
涼は、しばらくその姿に見とれ、誘われるかのように足を踏み出した、その時。
「ちょっと、邪魔しないでよ」
声のした方を見ると、すぐそばに千原由莉が腕組みをして立っていた。
「今大事な所なんだから」
「なんだ、おまえか……」
投げやりに涼が言うと、由莉はまなじりを逆立てて彼ににじりよった。
「なんだとはなによ!」
「人の足を踏んづけるような奴はそれくらいで十分だ」
「うるさいわねえ。男の癖に下らないことにいつまでもこだわってるんじゃないわよ」
「べ〜つ〜にぃ〜。こだわってるわけじゃないやい。だけどな」
「あー、もー、うっとしいわねえ……だからもてないのよ」
「どうしてんなことがわかる?!」
「だって……」
はたで見ていたものがいたら、その喧嘩の模様を不思議そうに見ていたろう。その口喧嘩は、ささやくような声で行われていたのだから。
先に根負けしたのは涼の方だった。当然の結果と言えよう。
「……くそ。負けない喧嘩はしないのが俺の流儀なんだが……」
「ふふん!……どうでもいいけど、さっさとどっかに行ってよ」
由莉が疲れたように言うと、涼はまだ木にもたれている由魅の方を見ながら言った。
「邪魔されたくないんだろ?だったらそんなこと言うなよ」
「はあ?あんたが邪魔だっての!」
「俺は邪魔しないさ。邪魔なんて……」
涼は由莉の目を見つめながら言った。その真剣な瞳に、思わず彼女の胸が鳴った。
「でも他の奴等は違うだろうな、興味本位の連中が多いから。お前一人じゃ抑えられないぜ、きっと」
「……あんた達がそうじゃないって、どうして言えるのよ?」
由莉は未だ彼らを信用しきれていなかった。まだ出会って一日しか経っていないのだ。それでは信用出来ないのも道理だろう。
だが、涼は疑うことを許さないように、力強く答えた。
「俺たちはいろんなことに首を突っ込むが、途中でほったらかしにはしない。ましてその当人が困るような真似は……堅く戒められている。ついでに言うと、その人間がやりたくないことを無理強いすることはない。今日みたいなことは……由魅ちゃんがなにか大事なことをしているのがわかるから……他から邪魔が入らないようにしてるってわけさ」
そう言って笑う涼の顔を、由莉は不思議そうに見つめていた。
今までに彼女達に絡んできた連中は、ナンパ目当てや、彼女達の行動をうさん臭く感じた者ばかりだった。だが、涼はそれとは少し違う気が、彼女にはしていた。
「お、終わったみたいだぜ」
涼の言葉に、我に返った由莉は、由魅がこちらの方を見ているのに気が付いた。
由魅は涼の姿を見て驚いたような表情をしていた。照れているのか、少し顔が赤いように見える。
「さて、行くか」
涼は荷物を肩に背負うと、校舎に向けて歩き出した。
「ホームルームに遅れんなよ」
そう言って手を振る……
由莉はその姿をしばらく眺めていた。そこへ由魅がやって来て、由莉に声をかける。
「由莉……」
「ひゃっ?!な、なに?」
「え、あ、あの……」
何故か慌てる由莉に、つられて由魅も慌てた。
「さっきの……坂上……くん?」
「そ、そうよ……由魅を邪魔しそうだったから、止めてたの」
涼が聴いたら怒るようなことを由莉は言う。
「でも……そんな感じはしなかったけど?」
由魅は小首をかしげて言った。
「ま、まあ、別に邪魔しようとはしてなかったみたいだけど……」
「……そうなの」
「それより……どうだった?感触は?」
そう由莉が話を変えると、由魅は険しい表情をして言った。
「……多分、ゲートが開きかかってるわ……ここに目がけて、力が集まってくるのがわかる……怯えていたわ、あの子達」
後ろを振り返り、木々を見つめる由魅。
「……後少し……後少しで時が満ちる……既に動き出している……止めなくちゃ……絶対に」
由魅の言葉に、不安を感じる由莉であった。
一限目が終わってすぐ、美紀達の教室に滝沢みどりがやって来た。
「あれ、みどりさん?どーしたんですか?」
美紀は秀一達から離れて、みどりの所までやって来る。
「早速だけど、やってもらいたいことがあるのよ」
みどりはウインクして美紀にメモを手渡した。
「なんですか、これ?」
「これまでの犠牲者と親しい関係に有った人たちのリストよ。この子達に会って話を訊いて欲しいの。三年生や大人達はあたしがまわるから、美紀ちゃんは二年生以下をおねがい」
「は〜い、わかりました……」
あまり気が進まないといった感じの美紀に、みどりはその頭をなでなでしながら言った。
「ごめんね、ほんとはあたし一人でしたいところなんだけど……」
「いいえ!あたしやります!あたしが一番適任ですから」
美紀はにっこり笑って答えた。
「……ありがと。それから直君!」
「はーい!」
直純は光磁気ディスクを持ってみどりのところにやって来る。
「これが昨日得た情報に対する報告書です。授業中にでも読んどいて下さい」
「ご苦労様。じゃ、詳しい話はお昼休みにね。次、秀君!」
「ほ〜い」
とことこといった感じで秀一がやって来る。
「君はやっぱり聞き込みだけど、学校全体のうわさ話関連の収集をお願い。ま、状況はそう変らないと思うけどね」
「ほいな!」
「それから涼君」
「はいはい……」
なんだかいやいやといった感じで、涼が歩いてきた。
「君は……わかってるわね?」
「はいはい、あの二人のお守りでしょ?」
片目をつむりながら涼が言った。
「いいないいな!おれ、こっちがいい!」
そう秀一がチャチャを入れると、美紀が思いっきり彼の耳を引っ張った。
「いだだだだ!」
「浮気は許しません!!」
「……ま、まあ、それはともかく」
みどりは苦笑しながら言った。
「あの子達、なにかと面倒に巻込まれる気がするから、守ってあげてね」
「妹の方はいいですけど……姉貴の方がねえ……気が進まないけど、ま、みどりさんの頼みじゃしょうがないか」
ちらっと双子の方を見る涼。
「でも……あんまり必要は無いんじゃないかなあ」
「どうして?」
「いやね……」
そこで涼は、今朝双子に出会ったことを話した。
「……で、その場を離れようとしたとき、誰かに見られている気がしたら、あの、木島隆がいたんですよ。あいつ、なんかあの双子にくっついてる見たいじゃないですか。美紀の話じゃ、前の学校でも一緒だったみたいだって言うし……。まあ、逆に双子のことを狙ってるってことも考えられるから、護衛ってことには反対しないけど」
「……ふうん」
みどりはしばし考える顔を見せたが、すぐにいつもの表情に戻って言った。
「ま、直接害を与えるみたいじゃないから、特にマークしておく必要は無いでしょ。それじゃあ、さっきのこと、お願いね。あと……くれぐれも気を付けてね」
そうして、みどりは教室から出ていった。
「……いよいよだね」
美紀がメモに目を通しながらぽつりと言った。
「あ、これ知った子だあ……そういえば、昨日死んだ子って、あたし達と同じ二年生だったのよね」
奇妙な現実感に、4人は言い様も知れない圧を感じていた。
昨日のことなど無かったかのような教室の雰囲気。にぎやかな話し声と馬鹿笑い、じゃれあい、プロレスごっこ……。いつもと同じ日常。
……ううん、そうじゃない。
仁科絵美は、弁当箱をハンカチでくるみながら、一人心の中で呟いた。
……どうしてみんなは、そんなに無関心でいられるのだろう?……クラスメイトが死んだのよ?それも尋常じゃない状況で。それでも、誰もお葬式にも行こうとしない……朝礼で話題なる訳でもない……絶対変よ。そりゃ、学校の面子とかいうのもあるんだろう。変にうわさになって、新入生が減っちゃうかも知れない。だけど……人が死んでるのよ、何人も!一人だけじゃない。もう五人も……そう、五人目の犠牲者が、ついにこのクラスから出たって言うのに……ああ、雅美!!
弁当箱を抱えこむように、絵美はうなだれた。
その時教室の中に、杉下美紀が入ってきた。美紀は絵美の姿を見つけると、とてとてと近づいていった。
「え〜み、どうしたの!」
「え?!あ、み、美紀!」
絵美は慌てて顔をあげて美紀の顔を見た。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
「う、ううん、ちょっと目をつぶっていただけだったから……」
絵美がそう言うと、美紀は隣に座って絵美の顔を見た。
「大丈夫?つらそうな顔してるけど……」
「うん、大丈夫大丈夫」
両方の手のひらを振りながら絵美が言う。
「……でも、珍しいね。美紀がここまで来るのって」
美紀の2−Aのクラスと絵美の2−Hのクラスはフロアは同じなのだが、ちょうど校舎の両端に位置していて地理的に離れており、また合同授業の組み合わせも違うために、普段は交流の少ないのである。それでなぜ二人が知り合いなのかと言えば、二人は中学時代クラスメイトだった時期が有り、乙夜入学当初は交流があったのだが、二年に上がってからは、先の事情で途絶えていたのである。
「うん……昨日のことで、ちょっとね」
美紀は頭に手をやりながら、言いにくそうに言う。
「わかってる……わかってるよ。雅美のことでしょ?」
「うん……」
「でも良くわかったわね、あたしが雅美と親しかったって」
「うん……みどりさん、大抵の人間関係記憶してるから」
「ああ、そうだってね……良く聴くよ、あの人の話……すごい人らしいじゃない?」
「うん、そりゃあもう……憧れてるんだ、あたし。絶対ああはなれないから」
「……雅美も、すごかったよ。あたしなんか思いもよらないくらい……」
絵美は遠くを見るような目つきで言った。
「もう自分のやりたいことを見つけてて、それに向かって全力を出し続けてた……。雅美ね、調理師になるんだって、いっつも料理の本ばっかり見てたの。家庭クラブで毎日いろんな料理の練習してた。あたしは何度も試食させられたけど、おいしいもの以外が出てきたことなんてなかったなあ……ほんと、美紀にも食べさせてあげたかったくらい、とってもおいしかったよ。なのに……あんなことになっちゃうなんて……」
絵美はうつむき、唇をかみしめた。
「……それで、最近、変ったこと無かった?」
美紀は絵美に済まないと思いながらも、あえてその質問をした。
「……あ、うん、そうだね、そう……なんだか、学校に来るのがつらそうにしてたわ。寝不足みたいな顔して、あたしがどうしたのって訊いても、ぼーっとしてるっていうか……思えば、あれが予兆だったのかもね。もっと早く気が付いていればこんなことには……」
「絵美ちゃん、そんなふうに考えるの良くないよ!」
美紀は絵美の手をとって言った。
「そんなふうに自分を責めるのは良くない。それで雅美さんが生き返ってくる訳じゃないし、責めすぎて今度は絵美ちゃんが変になっちゃったらどうするのよ!それこそ、雅美さんに笑われちゃうよ!」
美紀の真剣な表情に、絵美はほんのすこし、心の重みが消えていくのを感じた。
「美紀……ありがと」
「ううん、ぜんぜん……あたしはこうやって励ますことしか出来ないから……」
「それでも……ちょっと楽になれた」
そう言って絵美は微笑を浮かべた。
「よかった……。でも、雅美さん、それまでは別に悩み事とか無かった訳でしょう?両親に反対されてたとかあったのかな?」
「……それは無いみたい。昨日お家の方に言ってみたんだけど、そんな気は無かったって言ってたし……でも、お家の人も最近態度が変だって気付いてたみたいね。それから……よく夜中にうなされていたらしいわ」
「うなされてた……?」
美紀の目が輝く。
「うん……」
そう頷く絵美の表情は、今までで一番暗く、畏れに満ちていた。
「悲鳴をあげるくらいに……だからそのせいで寝不足になって、負担がかかって……。あの日もね、気分が悪いって言ってね、あたしが保健室に連れていったの。あの時まではまだ生きてたのに……」
「……ごめん、やなこと訊いちゃって」
美紀は本当に済まなそうに言って頭を下げた。
「ううん、いいの……聞いてもらえてよかったわ。きっと……」
「絵美ちゃん……」
「……あ、もうすぐお昼終わっちゃうよ」
美紀が時計を見ると、開始4分前になっていた。
「いっけない!早くもどんなきゃ!」
慌てて美紀が立上がろうとしたとき、絵美が美紀を呼び止めた。
「あ、美紀!」
「え、なに?」
美紀は立ち止まって絵美の顔を見た。絵美の不安気な表情が、なにかを訴えるように美紀を見た。
「あのね……あの……あ……やっぱり、いいわ」
「絵美?」
「なんでもないの……なんでも、ない」
絵美は目を反らしてうつむいた。
美紀はなにか声をかけたかったのだが、言うべき言葉が見つからなくて、静かにその場を去っていった……
後に残された絵美は、さっきまで美紀のいた空間を見た。
……言えば良かったのかな?でも……全部話しても信じてくれなかったら?たとえ信じてくれても、状況が変るっていうの?……わからない……でも……でも……どっちにしろ、もう手遅れなような気がするの……だってほら、聞こえるでしょう、あの声が。闇の中から呼びかけてくるあの声が。