場所は中庭。時は昼休み。夏と秋の移り変わりの狭間で、少年と少女は邂逅を果たした。
当たり障りのない質問から、それは始まる。
「里見さんは、どの季節がお好きですか?」
「……どの、季節?」
人と話しなれてない啓吾は、戸惑った表情でせりなを見た。せりなは小首をかしげて啓吾を見つめかえした。
「……あの、里見さん?」
無言の里見に、不思議そうな顔をしてせりなは尋ねた。
「え?あ、いや……」
「……質問、変でしたか?」
「い、いや……そんなことは……」
「そう、ですか……あの……」
「え?」
「そのう……お答えは、どう……」
「こ、こたえ?あ、ああ,そうこたえ……」
「……」
「あ……その前に、質問が……わからなくて……」
「え?」
せりなは目を丸くして里見を見つめ、そして次の瞬間……くすくすと笑い出した。
「うふふ……ふふふふ……」
その姿を里見は呆然と眺めていた。
……変、なのかな?
「くすくす……あ、ああ、ごめんなさい……緊張していますか?」
せりなは優しげな目で里見を見つめた。
「……かも、しれない」
「そんなに、考え込まなくてもいいんですよ。……そう、お好きな季節はありますか?」
再び尋ねるせりなに、里見はやっとの思いでこう答えた。
「……とくに、ない……というか、知らないんだ、季節が……四季がどういうものかって……」
「そう……ですか……」
がっかりというか、かわいそうというか、そんな目でせりなは里見を見る。
「ずっと、病院にお籠もりだったんですものね……」
「……それを、誰から?」
「滝沢さんからです」
「そうか……」
「……ご迷惑でしたか、そういうことは?」
おそるおそるせりなは言う。
「いや、いいんだ……本当のことだから」
……本当のこと。
里見は入院生活のことを思い出していた。
……物心ついた頃から、白い病室の中で何をすることも無く、日がな一日ベッドの中で白い天井を見つめていたあの頃……あの頃?
……一体いつから僕はそうしていた?……思い出せない……。
「……里見さん?」
「え?」
気がつくと、心配そうにせりなが里見を見つめていた。
「大丈夫ですか?顔色がその……悪いです……」
「あ、ああ……いや、ちょっと気になることがあって……でももう大丈夫」
それを聞いて、せりなはうすく微笑んだ。
……どくん。
里見の胸が跳ね上がった。胸が締めつけられる。
……なんだ?なんでこんなになるんだ?
「あの?」
また不思議そうな目で里見を見つめるせりなの視線に気がつき、彼は思わず視線をそらした。
「い、いや……なんでもないんだ」
「そうですか?……でも、なんだか安心しました」
せりなはほっとした表情で言った。
「滝沢さんから聞く話では、取っつきにくいという事だったんですけど……安心しました。単に話慣れていないだけなんですね」
にっこりと笑いかけるせりなに、里見は今日二度目の異変を感じた。
……なぜだ……なんなんだろう?
「……もっと」
「え?」
「もっと知りたいんです……あなたのことが」
里見は今日三度目の胸の痛みを覚えた。
その日の放課後、里見は授業終了もそこそこに教室を抜け出すと、中庭に向かった。いつもの幽霊みたいなゆっくりとした歩き方ではない、いそいそというか心ここにあらずといった感じの落ち着きのない歩き方だ。
中庭に着いてみると、既にそこにはせりなが人待ち顔で待っていた。里見の姿を見ると、胸の前で小さく手をふって彼を迎える。
「それではお昼の続きで……ええと、好きな季節……は、よく分からないんでしたね。……では、好きな場所って、ありますか?」
「好きな……場所?」
「はい。そこにいるだけ落ち着くとか、いると楽しいとか……そういう場所です」
「好きな……場所……」
……僕の知っている場所って……あんまり無いな……病室と、家と、家から学校までの道程、校舎、教室……そしてここくらいか……ただ日々それらの繰り返し……なんのおもしろみのない……おもしろみ?おもしろいって……なんだ?
気がつくと、考え込んでしまう。その顔をせりなはじっと見つめていた。
「……ごめんなさい」
「え?」
頭を下げるせりなに、里見は唖然とする。
「わたしの聞くことって、里見さんを困らせるものばかりですね……ごめんなさい」
「あ、いや……そんなこと……ないよ……」
「……ほんとうですか?」
上目使いで里見を見つめるせりな。
「本当に……なんていうのかな……いろいろと考え込ませる質問で……それで困っているんではなくて、その、考えさせられるんだ。今まで考えてこなかったことを……だから、もっと聞いて欲しい。それで答えられるかどうかは分からないけど……でも、それでよかったら……もっと、聞いて、欲しい」
里見はこれまでにないくらい力の籠もった目でせりなを見つめかえした。同じくせりなも彼の顔をじっと見つめた。
「……わかりました」
せりなは微笑みを浮かべながら言った。
「教えてください……あなたの考えていること。そして伝えます……あの子に」
今日の分の話を終え、家まで送るという里見の申し出を断って、せりなは学園を後にした。里見はいつもの道ととぼとぼと歩きながら、今日の出来事を反芻していた。
……それにしても、なぜあんな単純な質問に答えられないのかわからない……考えもしなかったこと……そんなに僕は中身のない人間なんだろうか?
……一体今まで何をしてきたんだろう……いくら病院に閉じ込められていたといっても……変なのかな?……どう変なんだ?
……悪い方向に考えるのは止めよう。なにか、わかりかけてる気がするんだ……それがなんだかわからないけど……。
……彼女……天野せりなさん……どこかであったような気がする。そんなはずないのに……懐かしい感じがする……。
……でも、今日は自分が自分でないような……変な感じだった……あの感じ……なんだろう……胸が締めつけられるようで……痛い……彼女に見つめられていると、胸が苦しくなる……なんでだろう?……わからない。
……それに……。
『伝えます……あの子に』
……なんだか、悲しくなってくるようなあの言葉……なぜ悲しい?……さびしい、のか?……悲しいって、どういうことなんだろう……。
もやもやとした感情を抱きつつ、里見は家路を進んでいく。その足どりは、泥沼を歩いていくかのように澱んでいた。
……ああ、ここはどこだろう……きもちいい……懐かしい……。
……なにもかもから解放された世界……なにものにも束縛されない世界……。
『でもここは安住の地ではないのよ』
……安住の地……じゃない?
『いつか出て行かなければいけない場所。かりそめの地』
……かりそめ?
『仮の宿り……巣からいつかは出なければいけない……』
……そんな……まだ、まだ早いよ……僕はまだ……。
『それはすでに決まってしまったこと……そうプログラムされているの』
……僕はまだなにも知らない……まだなにも……早いよ……まだここにいて……。
『時は満ちてしまった……誰も止めることはできない……』
……そんなの……そんなの……。
『……それは運命』
……いやだ!僕は……僕は……僕は……。
『……それは……さだめ……』
朝。里見はいつもの通り、7時丁度に目を覚ました。
目をこすろうとして、里見は涙を流したような跡が残っているのに気がつく。
「……泣いた、のか?……そういえば昨夜は夢を見たような気がするけど……」
しかし、思い出そうとしても思い出せない。仕方なく、里見はベッドから降りた。
いつものように一人の朝食。いまだ両親は帰ってこない。彼がこの家に来てから一度会ったきりで、今では会ったのかすら疑わしいほどに記憶が薄れていた。
味気ないはずの朝食が、今日はなぜだかおいしく感じる。そして早く食事を済ませて、学園に行きたいとすら感じていた。
……やっぱり変だ……昨日からずっと……。
いつもより早く朝食を終えた里見は、いつもよりも早く家を出た。いつもは鉛のように重たい足どりも、今朝は雲の上を歩くかのように軽やかだった。
……不思議だ……一体どうしたって言うんだろう?
いつもは気にならなかった秋晴れの空がすがすがしい。道すがら通りすぎて行く木々や小鳥たちのさえずりさえも、妙に生き生きと感じられた。
……こんな道だったんだ……全然気がつかなかった。いままで一体何をみていたんだろう……。
里見は日常的なこれらの情景に奇妙な感動を抱きつつ、学園に向かった。
その学園では、無性に昼休みが待ち遠しかった。元々興味のなかった授業も今日は妙に頭の中に入ってきたが、それ以上に昼休みが待ち遠しかった。
そして待望の昼休みが訪れると、里見は居ても立ってもいられなくてそそくさと教室を抜け出すと、せりなの待っているはずの中庭に向かった。
駆け足で、やや息を切らせながら中庭にたどり着くと、そこには手に大きめのバスケットと携帯ポットを持って木の前に佇むせりなの姿があった。
せりなは里見の姿を見つけると、うれしそうに手を振った。
「あの、走ってきたんですか?」
「え!?あ、う、うん……」
照れくさそうに言う里見に、せりなは笑いかけて言った。
「それじゃ……お昼、まだですよね?」
せりなは草の上にハンカチを2枚敷いて、その内の一枚の上に腰を下ろすと、膝の上にバスケットを置いた。
「さあ、そちらに座ってください」
「あ、う、うん……」
里見がもう一つのハンカチの上に腰を下ろすと、せりなはバスケットの蓋を開けて中身を見せた。
「こ、これ……」
里見は中を見て驚いた。中にはサンドイッチやおにぎり、鶏の唐揚やサラダといった総菜が詰め込まれていたのだ。
「滝沢さんから聞いてたんです。いつもお昼はパンで済ませてるとかで……それでもしよろしければと作ってきたんです……ご迷惑でしたか?」
せりながうかがうように言うと、里見は首をふって慌てて言った。
「そ、そんなことないよ」
また、胸が締めつけられる。昨日よりもずっと強く。
「あ……あ、ありがとう」
やっとの思い出口に出した言葉に、せりなは満面の笑みを浮かべて答えた。
「よかった!……さあ、食べてください。お茶もこちらにありますから……」
紙コップを渡され、せりながポットからお茶を注ぐ。お茶の香りが里見の鼻をくすぐった。
「さあ……」
せりなに促されて、里見は迷った挙げ句におにぎりに手を伸ばした。丸形の海苔で全体を覆われたそれを一口食べた。
「……どうですか?」
心配そうに見るせりなに、もう二三口口に運んだ里見は、ごくんと喉に流し込んだあと、言った。
「おいしい……すごくおいしいよ……」
「まあ、よかった!」
うれしそうな顔で見つめるせりなに、里見は何度も何度のおいしいおいしいと言い続けて、あっと言う間に平らげてしまった。
「さあ、まだまだありますから」
そうせりなに促されるまま、里見は食べ続けた。その姿をせりなは眩しそうに見つめながら、自分も一緒に食べる。
バスケット一杯の料理も、あっと言う間に無くなった。その大半は里見が食べてしまったものだ。
「……うふふ、お口に合ったみたいで、良かったです」
せりなは笑ってそう言った。
「いや、でもほんとにおいしかったんだ……今までで一番……」
「……良かった……これ、あの子のアイデアなんです」
「あの子……?」
里見はそう問うと、せりなは少し表情を曇らせて言った。
「ああ、ええと……わたしの幼なじみで……里見さんを……好きな子です」
「あ……」
里見は最初せりなが言っていたことを思い出した。
「……その子っていうのは……確か病気の……」
「ええ、そうです。……まだ一人で出歩くことはできなくて……たまたまそれを許されたときに……あなたに会ったそうです……その日以来あなたのことが忘れられなくて……苦しんでいます。だから……」
「……」
「だから、代わりにわたしが来たんです……」
「代わりに……?」
「はい……あの子はずっと病院にいたので、他人のことをよく分かりません。いくら第一印象が良くても、それが正しいとは限りません……。ですからわたしは、調べようと思ったんです、あなたのことを。あの子を、悲しむことにならないようにと……でも、それはどうやら取り越し苦労だったようです」
せりなは顔を上げて里見を見た。うれしそうな、でもどこか憂いを含んだ笑みを浮かべて。
放課後までのわずかな時間、里見の心はふたたび憂鬱な雰囲気に覆われていた。
幼なじみについて語るせりなの顔が目に浮かぶ。その様子はうれしそうに見えて、どこか悲しげだった。
だがそれよりも里見の心に深く残ったのは、せりなはその幼なじみのために里見に会っているという事実だった。それが無性にやりきれない。もしもっと感情について上手く説明できるのだったら、彼はそれが切ないという感情であることに気がついただろう。だが、今の里見にはその感情を理解することはできない。ましてやそれが、"恋"と呼ばれるものだとは……。
……彼女は幼なじみのために僕に会っている……そして期待通りの結果が出ている……だからあんなにうれしそうなのかな……でも、気になる。なんで悲しい顔になるのかな……だけどそれよりも……僕は一体なにをすべきなんだろう?このまま……いつまでこの状態が続くのかな……いつまでも続いてくれると……続いてこのまま、どうなるのかな……このまま……。
そして、放課後のチャイムが鳴る。
いくばくかの憂いを感じつつ、里見は中庭に向かった。足取りがなんとなく重い。
しかし……校舎の影を抜け、一歩その庭を足を踏み入れると、そこには彼を待つ者がおり、その向ける笑顔は、今の彼には何物にも変え難い何か……それが何かは分からないが……であって、その何かを見つけたいと、里見はせりなの顔を見つめながら思うのだった。
……いつかは答えが見つかる……いや、見つけたいんだ。
そうして今日も対話が始まった。
「里見さんは、何か好きな言葉ってありますか?」
「好きな言葉?」
「はい、そうです」
またもや難問をせりなは突きつけてくる。
「座右の銘とかいいますでしょ?」
「うーん……」
またもや考え込んでしまう里見に、せりなは言った。
「もし答え辛ければ明日にでも……それに、答えてもらう必要もありませんし……」
「いや……もうちょっと待ってて……」
しかし里見はそう言って黙り込んだ。その姿を、せりなははらはらと見つめる。
やがて。
「……『理由』、かな?」
「りゆう?」
せりなは目を丸くして問い返す。
「そう、『理由』……わけ……」
「それは、どうしてですか?」
「……分からないから」
「……え?」
「いろんな事が分からないんだ……君に聞かれたことで、まともに答えられたものはなにもない……で、それはどうしてなんだろうって……気になってる言葉かな。……好きな言葉ってわけじゃないと思うから答えになっていないと思うけど……」
「……いいえ」
せりなは胸の前で手を合わせながら言った。
「あなたが選び取った答えですもの。きっと意味のあることなんだと思います」
「意味……?」
「はい。……理由を探すということは……生きているということですから」
「生きている……」
……生きるって、そういうことなんだろうか?
考えれば考えるほど分からなくなってくる気がする。それでも……。
「じゃあ、里見さんは……どんな食べ物が好きですか?」
せりなの問いかけに答えたいと思って、必死になって考える里見は、その行為を心地よくも感じていた。
次の日も、せりなとの対話で過ぎていった。
昼休みはせりなのつくった昼食を一緒に食べながら学校の事について語り合い、放課後はもっと深い問いかけが行われる。それは、里見にとって苦しさと同時に喜びをも与えていた。
そしてまた次の日も……。
「……里見さんは、幸せってなんだと思いますか?」
「しあわせ?」
「そうです……幸せ」
せりなはそう言って、どこか遠くを見るような目をする。
「幸せって、なんなのでしょうね……」
「幸せって……なんだろうね……」
里見にもそれは分からない。
「里見さんは……幸せ、ですか?」
里見の目をまっすぐ見つめて、せりなは問いかける。
「幸せだと、感じていますか?」
今までの里見であれば、その視線をまともに受け止められなかったに違いない。しかし、今の彼は違った。
「……たぶん……きっと……不幸せではないんだと思う」
「では……」
「でも、幸せだとも言い切れない。だって……わからないもの。なにが幸せなのかって……君はどうなの?」
初めて、里見の方からせりなの方に問いかけてみた。するとせりなは、ちょっと泣き出しそうな顔になって彼の問いに答える。
「……たぶん……幸せです……あたしは……今生きていることが、この上ない幸せだと……そう思うから」
「……よかった」
「え?」
里見の言葉に、せりなは不意を突かれた。
「里見……さん?」
「いいじゃないか」
里見は微笑みを浮かべながら言った。
「幸せだったら、いいじゃない……」
「……はい」
せりなは極上の微笑みを浮かべながら、そういった……。
「里見さんは、どんな……夢を持っていますか?」
「夢……?」
「そう、夢です。将来の、夢……」
「夢……ああ、考えたこともなかったよ……いつも未来は白い闇に覆われていたから」
「白い闇……」
「そう……病室の中で、いつ直るかも分からない病気と闘いながら……闘う?」
里見は病室の中のことを思い出そうとした。
……朝起きると検温と先生の問診があって、それから朝食……そうしてひたすら待機の日々……え?
……なにか治療をしただろうか?注射とか、検査とか……あれ?
……覚えていない……思い出せない……なぜだ?
「……里見さん?」
せりなが心配そうに見つめている。
「いや、なんでもないよ……」
そういう里見を、せりなはますます心配そうに見つめる。
「……ど、どうかした?」
「……大変だったんですね、病気……」
若干目を潤ませながらせりなは言った。
「でも良かったですね、出歩けるようになって」
「あ、うん……」
「あの子も……そういうときが来るのかな……」
ぽつりと、せりなは呟くように言った。その声は、心なしか冷めているように里見は感じた。
「天野さん……」
「……里見さんは、どういう……女性がお好きですか?」
せりなはいくぶん顔をそらし気味にして言った。
「え?」
「……ですから……好きな女性のタイプ……です」
「えと……」
不意な質問で言葉に窮す。告白されたことは何度もあったが、告白がなにを意味するのかを知らず、ましてや好きな女性のタイプなど考えたことなどない。
「考えたことないから……よく分からないよ。それに……」
「それに?」
「……人を好きになるって、よく分からないんだ。それも……その……女性のことはもっとよく分からなくて……」
しかし、それは半分嘘でもあった。今里見の心の過半を占めているもの、それは……。
「里見さんは……誰か好きな人はいますか?」
また、せりなの問いかけ。今度はしっかりと里見を見つめている。
「そ、それは……」
……気になっている人はいる。でもそれが好きって感情かどうかが分からない……ただ、一緒にいたいって思うだけ……思うだけで……。
「里見さんは……あたしのこと……好きですか?」
少しだけ里見の方に近付いて、せりなは言った。その表情はとても緊張していた。
里見の心臓が飛び出さんばかりに鳴った。
……好き……なのか?……駄目だ、わからない……だけど……。
「僕は……僕は……」
言い淀む里見に、せりなは不意に視線をそらして言った。
「……ごめんなさい……忘れてください……今のは……」
「え?……あ……」
あっけに取られる里見に、もう一度せりなが言う。
「忘れてください……忘れて……う?!」
突然せりなは胸を押さえてうつむいた。その横顔が歪む。
「だ、大丈夫?!」
慌てて里見がそばに寄ると、せりなは不思議と落ち着いた顔で言った。
「……え、ええ……大丈夫です、まだ……」
その言葉の最後で、里見の心に何かがひっかかった。
「そう……え、ま、まだ?!」
しかし、せりなはそれに気づかないかのように、ごく普通に受け答えする。
「あ、いえ……もう大丈夫、です」
そうしてゆっくりと立ち上がった。
「今日はもう遅いですから……今日はこれでおしまいにしましょう……お先に失礼させてください」
そうせりなは言い残すと、中庭の出口に向かって歩き出した。
里見はその後ろ姿を唖然として見つめていた。
……ほんとに大丈夫なのかな?なんともないといいけど……でも……気になる……今日の彼女は何かが変だった……まだって……まだってなんだろう?
……はあはあ……はあはあ……はあはあ……。
……なぜこんなに苦しいの?なぜこんなにせつないの?
……時間がないの……?
……もっと話していたいのに……もっとあのひとを感じていたいのに……。
……もう時間がないの?
……もう……。
………………。
……ふふふ……あはは……
……そりゃそうよ……あんたはあたしじゃない。
……あたしがほんとうのあ・た・し。ふ……長かったわ。あの子がちんたらやってるから……。
……でももうそれもおわり……時が満ちる……全ての時が、今……。
いつもの放課後……その日も、ごく普通の質問から始まった。
「里見さんは……この世界はお好きですか?」
「世界?」
「そうです……この場所のように限られた部分ではなくて、場所を含める全体のこと、です」
「それが……世界?」
「はい。……好き、ですか?」
里見は周りをふと見回してみた。たしかにそこも世界だろう。だが一部であって全部ではない。通学までの道程を思い出す。これも世界だ。だが一部であって全部ではない。
「好きか嫌いかじゃなくて……世界ってなんだろうと思う……」
「世界とはなにか、ですか?」
「そう、世界……僕たちの周りにあるもの……それは世界の一部だ。でも世界って全てを取り巻いている何かだし……そもそも、そんな巨大なものが分かるんだろうか?」
「……多分、無理だと思います」
せりなはうつむきながら、少し寂しげに言った。
「人の目で見れるものだけが、世界の全てではないですから……」
「そうだよね……でも知ろうとするんだよね、みんなは……どうしてだろう……そんなことはしなくても、生きていけるのに……」
「呪われてるのさ」
不意に、低くくぐもった声が聞こえてきた。せりなの声じゃない。
「……え!?今何か言った?」
せりなは顔を上げて答える。だがその表情は屈託がない。
「いえ?なにも言ってませんけど……」
「あ、そ、そう……空耳かな」
……でも確かに聞こえたんだけど……。
再びせりなが聞いた。
「里見さんは……ずっと生きていたいと思いますか?」
「え?……ずっと?」
「ええ……すっと生き続けたいと思いますか?思いませんか?」
「ずっとって……永遠に?」
「はい」
「さあどうだろう……今は明日をも知れぬ命というわけじゃないから……よく分からない……生きていることはすばらしいことだと思う。生きていれば何かができる……いい悪いはわからないけど、生きていたいと思う。それと、生き続けたいって言うのは違うと思うんだ……」
「……」
せりなは考え込むようにうつむたまま、黙り込んだ。
「あの……どうかした?なにか、おかしかった?」
里見の問いかけに、せりなは目を閉じながら応えた。
「里見さんは……自分が消えてなくなるって、感じたことはありますか?」
「え?」
里見はせりなを見た。彼女は目を閉じてじっとしている。
「消えてなくなるって……死ぬってこと?」
「……そう思ってもらってもかまいません」
それだけ言うと、せりなは再び黙り込んだ。
「それは……はっきりと感じた事はないよ。いつまでこのままなのかなって思うだけで……いつここから……病室から出られるのかと……」
……病室?……白い壁、白い天井、白い床、白いシーツ、白いベッド、窓のない部屋……何も無い。ベッドだけの何も無い部屋だった……だった?あれ?どこの病院だっけ?……わからない……もう大丈夫だと言った先生の顔……思い出せない……看護婦さん……誰かいたっけ?……誰もいない……それにどうやって家まで来たんだ?……気がついたら家だった。そして父さんと母さんと会って……ああ、よかった、思い出せる!!……でもその前は……学校に来る前は……思い出せない……小さい頃……一番古い記憶は……記憶……記憶が変だ?なにかが変だ?僕は誰だ??里見啓吾……そう、これが僕の名前だ……これ以外の何かなわけじゃない。……でも……昔の僕は……僕じゃ無い気がする……昔のことは良く忘れるっていうけど……これは変だ……変だよ!
……僕は変なのか?……でもそんな……昔のことが思い出せないくらいで……たとえ変だとしても、それは病気のせいだ。きっと、そうだ……でも、病気ってなんだ?一体僕はなんの病気だったんだ?免疫不全?白血病?心臓?中毒?治るのが奇跡なくらいの奇病?!……でも今はなんともない。薬すら飲んでない。……まったくの健康体?……そうだよ、今はなんともない。なんともない……ははは、考えすぎだ。もう僕はなんともない……そう、なんでもないんだ!!
「……違うよ」
「え!?」
また声がした。さっきと同じ声だ。
せりなを見るが彼女はうつむいたきり動く気配がない。
「い、いまなにか聞こえなかった!?」
しかし、それには応えないまま、せりなは再び質問を発した。
「里見さんは……未来を信じますか?」
「え?」
里見はなにがなんだか分からなくなった。せりなはなにか様子が変だし、自分の幻聴が聞こえるようにまでなっている。
「……里見さんは……未来を信じますか?」
再びせりなが問うた。
さすがに意を決して、里見はその答えを考え始め、そして……答えた。
「病気の時は信じられなかった……明日生きていられるか分からない病気と言われてたから……」
……本当にそんな病気だったのか?……いや、そんなことより……。
「でも今は……信じてる……いや、違うな……未来はいつか来るものだからどうでもいい……それよりも、今を大事にしたい。今を精一杯生きたい……そうすれば未来は、明るくていいものになるだろうって……そう思うから……いつか来る何かを待つんじゃなくて、いまある何かをなんとかする……なにかをしたいって思うから……」
「お人よしだね、あんた」
「……!!」
また声が聞こえる。幻聴などではない。今度は、はっきりと里見の耳に聞こえてきたのだ。……せりなの口から!
「な……」
里見はもう一度せりなを見つめた。せりなは膝を抱えてうつむきながらそこにいた。さっきと変わりは全く無い。しかし、里見にはそう思えなかった。
「天野……さん?」
しかし返事はない。ただ、一瞬彼女の身体が震えたように見えた。
「どうしたの?……寒いの?」
せりなは答えない。ただ、身体の震えがより増したように見えた。
「天野さん!?」
里見は彼女の体に触れようとして……あることに気がついた。
……何か聞こえる……?
人の声のように聞こえる何か……それはせりなの方から発せられていた。さらに、身体の震えが増したように見える。
「ねえ……なにかいっ……え!?」
「……くっくっく……」
それは笑い声だった。喉の奥で、含み笑いをする声。それに合わせるように身体が揺れれる……体全体で笑っているのだ。
「天野……さん……」
「ほんとに、分かっちゃいないんだ……」
「……!?」
……違う……天野さんじゃない……そうだけど、そうじゃない……違うんだ……さっきまでの……昨日までの天野さんじゃない……誰だ……誰なんだ……。
「……君は一体……誰なんだ??!!」
そう里見がうめくように聞くと、せりなは……いや、せりなではない別の何者かは、顔を上げて口元を歪めながら、憐れみを声に含ませながら言った。
「あたしは……"アレフ0"。あんたと……あんたと同じモノ、さ」
二人の間を、冷たい秋風が吹き抜けていく……。
『……そろそろ始まります』
『しかしよいのか?放っておいて?』
『データ収集はリモートでできる。もしもの場合は保安部員がとぶさ』
『問題はないよ……だからこそ、放置してあるのだ』
『それにしても博士の気まぐれには困ったものだ』
『まったく……おかげでうちは進捗率が3%も低下したよ』
『だがおかげでその後の計画は順調だ。トラブルフリーだ』
『もうすぐだな……あっちの方のモニタ、怠るなよ』
『フェーズ5まで順調……まもなくフェーズ6にさしかかります』
『もう二山か……第一段階……長かったな』
『第二段階への準備、進んでいるかな……?』
……くすくす……くすくすくすくす……。