夕闇が、中庭を侵食しつつあった。校舎の影が二人の上に降りかかる。
里見は呆然として、変貌してしまったせりな……だった者を見つめた。姿形は変わっていない。だが、その表情はさっきまでの穏やかな顔とは違って、きつく険しいものになっていた。
「君は……一体誰なんだ……?」
もう一度里見は問いかけた。
「だから言ったでしょう、"アレフ0"だって……まったくこれだから……」
頭をかきながらせりな……いや、アレフ0はそう言った。
「だから……アレフ0っていうのは一体なんだって……」
「だ・か・ら……あんたと一緒だって」
呆れ顔でアレフ0が言う。
「同じって……」
「おなじはおなじさ!そう、あたしとおんなじ!どうだい、うれしいだろ?」
「……」
「ああ、そうか……せりなじゃなきゃ萌えないって言うんだろ?おあいにくさま……せりななんていなかったんだよ、元からさ」
「いなかった?……元からいなかったって、どういうことなんだ?!」
里見は混乱する頭を押さえながらうめいた。
「言葉通りさ。天野せりななんて帰国子女は存在しない。全部うそっぱちさ。ほんの慰みに偽りの記憶を与えられて、最後の時を過ごすためにここに来た、憐れな奴……それが天野せりなの正体さ」
「じゃ、じゃあ!幼なじみって言うのは……!?」
「もちろんでっち上げに決まってるじゃないか」
アレフ0はせせら笑った。
「あんたに近づくための口実さ。自分が告白するのが怖かったから、そんなもんをでっち上げたんだろうよ……とにかく、あたしが本来あるべきもの……本当の姿なのさ」
「そんな……そんなことって……」
「あるさ!あたしの方が本心……あいつの方が作り物なのさ。そして……いまそこにいる『里見啓吾』っていうのも作り物なのさ」
「僕が……作り物?……そんなばかな!?」
里見は自分の身体を見回した。それを冷ややかな目で見ながら彼女は言った。
「違う違う……自分が『里見啓吾』だって思い込んでいるもの……『里見啓吾』って人格そのものが作り物だって言うのさ……偽物なんだよ、その意識はさ」
「うそだ……うそだ!!」
里見は立ち上がって彼女を見下ろした。身体の奥から怒りが巻き起ってくるのを感じる。
「僕は『里見啓吾』だ!ちゃんと両親だっているし、それに……」
「それにぃ?」
「それに……」
……それに……なんだ?他にはないのか!?
「僕は……僕は……」
「まあ、混乱する気持ちはよく分かるよ」
同情するように彼女は言った。
「でも、現実は認めなくちゃ」
「うそだ!……うそだうそだうそだ!!」
否定の言葉を繰り返す里見に、彼女は露骨に不快な表情を表した。
「分からない奴だねえ……じゃ、主治医の名前言ってみな?」
「そ、それは……先生……」
「あんたばか?どこのどいつに先生なんて名前のやつがいるってのよ。フルネームだよ……当然知ってるんだろう?」
「……」
「じゃあ、病院の名前は?病室の番号は?当然知ってるよな?」
「……」
「ほらほら、どうしたの~?」
「……」
「なんとか言えよ!!」
彼女は急に立ち上がって里見を睨み付けた。里見はびくついた目で彼女を見た。
「……分からない」
「ああ?もっと大きく言ってご覧よ?ん?」
「……分からない……分からないんだ!!」
里見はそう叫び声を上げると、その場にしゃがみ込んでしまった。その姿を冷酷とも言える目で見下ろす彼女。
「……そうだよ。さっさと認めればいいんだ。全ては偽りの記憶……それも手ひどく精度の悪い、ね。今程度の質問で崩壊しちまうような記憶なのさ。そんな記憶、あるだけ無駄さ。だから壊してやった。ありがたく思うよな?な?」
しかし、里見はうなだれたまま答えない。ただ嗚咽だけが聞こえてきた。
「いけないな、泣いちゃあ……男の子だろう?おっと、今どきじゃこんなのは禁句だっけ……まあ、いいや。それよりも……ほら!」
アレフ0は里見の首根っこをつかまえると、強引に立ち上がらせた。
「いつまで泣いてるつもりだい!」
里見は意識のかけらもない目で彼女の方を見ていた。うつろで、焦点の定まらない瞳。
「まったく、いい身分だねえ。自分が何者か分からなくなったくらいで茫然自失かい?心底同情するよ。……でもね、もうこれ以上苦しむ必要はないんだよ」
一転して甘い声でアレフ0は言った。しかし、里見は聞こえてないように微動だにしない。
「それはね……」
アレフ0は里見の耳もとに口を寄せて、囁くように言った。
「もうじきあんたはこの世から消えてなくなるからだよ、里見啓吾君」
……いなくなる……僕が、か?でも僕は……里見啓吾じゃないんだろう……それに、どうでもいいじゃないか……そんなこと。
「ん?あんまりうれしそうじゃないね……自分には関係ないって顔してるじゃないか……」
「……どうでも……どうでもいいさ」
夢遊病者のように、現実感のない口調で彼は言った。
「どうでもいい?ああ、そういうこと言うかぁ……じゃあ、せりなも一緒に消えるって言っても……どうでもいいわけだね?」
せりなと聞いて、すこし、彼の瞳に生気が戻る。
……せりなが……消える……?
「あーあ、かわいそうに……せりなはあんたのことが好きだったのに、んな事言われてあの子もかわいそうに……いくら偽りの人格とはいえ、せりなは生きてたんだからね」
……偽りの人格……でも生きている?
「そうさ……生きてたんだ……必死で……精一杯……」
なにかアレフ0の様子がおかしい。言葉がとぎれとぎれで、弱々しくなっていく。
「……里見さん」
「……!?」
それはせりなの声だった。確かにせりなの声だった。
「天野さん!」
里見が声をかけると、せりなは顔を上げて言った。
「……おー、元気になった元気になった」
「……!?」
しかし、せりなではなくてアレフ0だった。彼女はにやにや笑いながらまた言った。
「そんなに彼女が恋しいかい?そうだろうそうだろう……楽しそうだったからねえ、あの子と話してるときのあんた……せりなが気になって気になって仕方ないって、あの顔ったら……ふふふ……かわいかったよ」
「……」
「おや、言葉も無しかい?せっかくほめてやったってのにさ。……ま、それも今日でおしまいさ……せりなはあともう少しで消えてなくなる……そしてあんたも……それが定められた事……」
「……せりなも……僕も……消える」
「そう、消えるのさ。そうして……何もかも……いつか消えてなくなる……うう……」
またアレフ0の様子がおかしくなった。
「……その前に……せめて……あなたに……」
「せ、せりななの?!」
「……あなたに……会って……根性たたき直して……話をして……生きる力を……希望を……ああ!!」
彼女はいきなりその場に崩れ落ちた。
「あ、あ!」
慌てて彼は彼女を抱き起こす。
「ちょっと……どうして!?」
「……だから言ったろう……消えてなくなるって」
アレフ0の声で彼女は言った。
「だけど、せりなが消えてなくなるって……」
「ばかやろう……せりなはあたしだ」
怒ったような声でアレフ0。
「せりなはこの身体に与えられた人格だ……表向きのさ。あたしは本当の人格……いや、はは、こいつも作られた人格だな……この身体も、おんなじさ……そしてあんたも……」
「僕も?」
「言ったじゃないか、さっき……せりなと一緒に消えちまうって……そういう造りになってるのさ……あたしたちはね」
苦しそうに息を吐きながら言うアレフ0に、里見は複雑な表情を向けた。
「そんな顔するなよ……それともせりなが消えるのは駄目で、あたしが消えるのはいいって言うのかよ?」
「そ、そんな……」
「ふ……わかってるさ……あんたはそんな奴じゃない……」
「でも僕は……僕も作られた人格……なんだろう?」
そう里見が寂しそうに言うと、彼女は笑って、
「そんなこと気にするな。確かにイニシャルはそうだが……途中からは違うさ……」
「途中から……違う?」
「そうさ……人格って言うのは、ある程度周りの環境に依存するのさ。もちろん根本部分は変わらないのかもしれない……"あたし"みたいにね……あんたにもそういう部分はある……今は見えてないけど、いつか出てくる……」
「僕の本当の……人格?」
「そうだ……あたしたちはある目的のために生み出された、モノなのさ。ある意味まっとうな人じゃない。本当はどうだかはあたしは知らない……欠陥品に理由を話す必要はないってことだろう……」
「欠陥品……?それは一体……?」
「意味通りさ……あたしは欠陥品なのさ……さっき言ったろう?あたしたちは作られたモノだって。……だからこそ、世の中に出ることを許されたのさ……偽りの……いや、ちょっとちがうな……元々世の中で暮らすことを考えられて与えられた人格と記憶だから……その意味では、本物さ。せりなも……そしてあんたもね」
「……」
黙り込んでしまった里見に、アレフ0は優しく聞いた。
「……どうしたい?いきなりこんなこと言われてめんくらったかい?」
「……う、うん……自分が作り物だと言われたときはショックだった……この記憶がまやかしのものだったなんて……」
「……でもな……せりなと一緒に過ごした時間……せりなと一緒に話した時間は、本物だ……違うか?」
ひどく緊張した表情でアレフ0が聞く。その表情に気圧されながらも、里見は答えた。
「いや……あの時感じたこと、考えたこと……それは確かに僕が感じて、僕が考えたことだ。それはこの人格、この記憶が偽り……作られたものだったと聞かされたって、変わらない……今ここにいる自分を信じたい……いや、信じる」
その時の里見の表情は、さっきまでの意気消沈ぶりが嘘のようにはっきりとした目で彼女を見ていた。それを、彼女は愛しそうに見つめる。
「なら……いいさ……偽りだろうが作り物だろうが……どのみち人は自分の存在に悩みながら生きてかなきゃいけないんだ……変わらないんだよ、あたしたちといくらもさ……ぐは……がっ……」
「だ、大丈夫!?」
突然彼女がせき込み始める。里見は声を出すばかりで何もできなかった。それがたまらなく悔しかった。
「そろそろ……危ない……ふ……決まっちまったことはいえ……分かっちまうってのは、少々酷だね……」
「……大丈夫さ。僕ももうすぐ消えてしまうんだろう?」
そう里見が言うと、彼女は不機嫌な顔になって言った。
「ばか!……消えねえよ、あんたは……」
「え!?で、でもさっき……」
「あたしは消えるさ。そういう決まりだもの……あたしには分かってる。そういう風になっちまったんだ。……それが果たして単なる偶然か仕組まれたものなのかはわからない……そしてあんたも同じく、欠陥品だ……そうみんなは思ってる……でもね……くく……あたしには分かる。あたしはそういうふうになっているからね。わかるのがあたしの能力なのさ……でもそうなっていると他の奴等にはわからない。確認できないんだ。だからあたしは欠陥品なのさ……でも、それもあたしの自身が望んだこと。……あんたは消えないよ。あたしは消えるけどね……あたしのデータ欠損が及ぼした影響で、あんたを同じ欠陥品扱いしてる……あたしとあんたは近しい存在だからさ。……でも違う……あんたはあたしじゃない……同じはずなのに違うんだ……だからあたしは消える。そしてあんたもそう思われてる……他のみんなともあたしたちは違うから……だから捨てられた。そしてこうして余生を過ごしている……そうみんなは思い込んでいる……でもあたしにはわかるんだ……あんたは消えない……あんたはあたしじゃないから……残るんだよ、あんたはね。残って……いや、これ以上言うのは止めとく……くやしいからさ……」
そこで彼女は一瞬せき込んで話を続けた。今度はせりなの声だった。
「……あたしは……天野せりなは……アレフ0の表の人格として作られました。あたしたちが生み出される過程で刷り込まれた"あたし"は、すでに自らの運命を悟ったアレフ0によって生み出されたのです……元々用意された人格をベースに、"アレフ0"が作り上げた者なのです……そうして、欠陥品としてすぐに処分されるところを……あなたと同じように不治の病ですぐにも死ぬような事を言われた時……あたしの人格を使って、せりなの生まれ故郷……日本で余生を過ごすことを申し出たのです。程なくそれは認められ、そうしてあなたに会いに来たのです……あなたがここにいるのはアレフ0には分かっていましたから……そうしてあたしは幼なじみの話を思いつき……だって、半分は本当のことですもの……滝沢さんにお願いして、あなたと会えるようにしてもらったのです。……でも楽しかった。滝沢さんは優しいし……あなたも……最初はとっつきにくかったけど……でも、打ち解けてきて……それであたしのことを……好きになってくれて……アレフ0には申しわけなかったけど……とっても嬉しかった……あたし、本当に好きだったんですよ、あなたのこと……」
「そう、そうだよ!」
泣きそうな声で里見は叫んだ。
「君が……君が好きだった!気になって仕方なかったんだ!そうだよ……あの気持ち……あの時の心の動き……あれが好きだって事だったんだ!そうなんだろう?!」
「……あたしにもわかってたさ」
「アレフ0……」
「せりなと話せて楽しかったかい?」
「ああ、もちろんだよ!」
「……そうかい。そういつはよかった。あたしも……楽しかったよ……いい子だろう?」
「ああ!」
「ふ……とうぜんさ……せりはなあたしなんだから……刷り込みされようとした人格……あたしはそいつに賭けたんだ……」
遠い目をしてアレフ0は言った。ついでせりなの声がする。
「それこそ彼女の希望……そうよ、希望なの……そしてあなた……あなたはあたしたちの希望……もうすぐ生まれてくるあたしたちの……その道しるべ……だから……だからあなたは……消えない……」
不意に、彼女を抱き締める感覚が変わってきたように思えてきた。やけに軽い。まるで枯れ木でも抱いているような、そんな感覚……。
「せ、せりな?アレフ0!?」
「……そんな顔するなよ」
アレフ0は力なく笑った。
「さっきも言ったじゃないか……消えるのは決まり事、お約束なんだよ。仕方ないんだ。まさしく行く先を決められた運命って奴がこれなのさ……」
「でも……だって……そんなのひどいじゃないか!」
「仕方ないのさ……造物主に与えられた定めには従うのが……決まりなんだ……少なくともあたしには逆らえない……抵抗しようにも……誰にもあたしの消滅は止められないんだ……」
アレフ0の目が閉じられる。身体からほとんど力が抜けてしまう。その身体を里見は更に力を込めて、どこにも行かせないというようにきつく抱き締めた。
「駄目だ!あきらめるなよ!!」
「……それはこっちのセリフだ……ばか……」
苦しい息の下、また目を開けてアレフ0は怒って言った。
「あんたこそ……諦めるんじゃないぞ……あたしにもこれからおきること全て見えるわけじゃない……なにが起きるかなんて、分からないんだよ……もしそこであんたに諦められたら……あたしが今までやってきたことが無駄になっちまうんだ……せりなのためにも……諦めるんじゃないぞ……分かったか?」
「わかった!わかったよ!だから……」
里見は半分泣きながら彼女の身体をゆする。
「だから……消えないでくれ……」
「……無理だって……何度言ったら分かるんだよ?……すでに決まったことにぐだぐだいうな……まだ決まっていないことをどうするかだけ考えろ……未来なんか決まっちゃいないんだ……人の動き一つ、決断一つでいくらでも変わっちまうものなんだよ……でも漫然とかまえていたら、ただ流されるだけだ……あんたがそんな風じゃこまるんだよ……しっかりしろ……いまは……ただ……あたしたちを見守ってくれればそれでいい……それだけで……いいんだ……」
そうして、アレフ0は沈黙した。
「……アレフ0?……どうしたんだ?……なにか言ってくれよ?」
里見が弱々しく声をかけるが、彼女はなんの反応も示さない。
「おい、待ってくれ!まだ……まだ早すぎるよ!!」
里見は彼女の身体をゆする。何度も何度も……しかし、彼女は何も言わない。
「アレフ0!せりな!返事を……返事をしてくれ……頼むから……」
里見の目から涙があふれだし、彼女の頬を濡らした。
と、彼女はうっすらと目を開けて里見を見た。それは、天野せりなの目だった。
「せりな!?」
「……ん……あ……里見……さん」
「せりな、しっかりしろ!」
「良かった……また会えました……」
弱々しい笑みを浮かべながらせりなは言った。
「まだ伝え足りないことがあるんです……もっともっと話したかったこと……聞いてみたかったことがあるんです……」
「いいじゃないか!もっと話そうよ……もっと聞いてよ……」
「……でも駄目なんです……あの子が言ってたでしょう?幼なじみの……」
「ああ、言ってたよ!だけど!」
「仕方ないんですよ……」
「そんなことない!」
「……頑固なんですね、意外と」
くすっと笑って、せりな。
「その気持ちを……忘れないでください……何事にも諦めない……そんな気持ちを……ああ、でも良かった……里見さんが思った通りの人で……」
「思った通り……?」
「はい……あなたのことはアレフ0が教えてくれました。でもそれが本当のことか、あたしには分からなかった……だから、滝沢さんにあんな依頼をしたんです……彼女の……幼なじみの思いを確かめるって意味では、本当だったんですよ……そして、それを確かめることができました……あなたは……自分が何者かを分からずにさまよってました……不安だったのですね……だから誰とも関わりを持とうとしなかった……でもそれではいけないんです……人と人との繋がりが、その人を形作っていくんです……だからあたしは、あんな質問をして、あなたに考えて欲しかった……そして悩んで……自分を探して欲しかったの……でも、もう大丈夫みたいですね……あなたは真実を知った。そしてそのことを考え、逃げず、立ち向かう決心をしている……」
「そんな……僕はまだ何も決めていない……」
「いいえ……あなたは他人のことを考えることを覚えました……そしてその関係を守りたいと思っています……そのためにはなんでもしたいと、思っている……それだけで充分なんです……だからあなたは、大丈夫……」
にっこりと、せりなは笑った。この上ない笑顔で。
が、最後の時は迫っていた。せりなは急激にせき込むと、身体を悶えさせた。
「せりな!」
「……はあ……はあ……正直……言うとね」
息も絶え絶えにせりなは言った。
「……なんであたしは消えなくちゃいけないんだろうって……そう思ってました……あたしはあなただけど……あなたは、あたしじゃない……ただそれだけのことが、あたしたちを分け隔ている……一体何が違うんだろう……って。でも……もういいんです……あなたと話していて、そんな気持ちは吹き飛んでしまいした……違わないんだって……あなたはあたしも変わらないんだって……同じように苦しんで、悩んでる……そうわかったから……もういいの……これでもう……思い残すことはない……」
「せりな、そんなこというな!まだ……まだ……」
「……もういいの……もうあたしの願いは叶えられたから……」
「願い?」
「そう……あたしの願い……ただ……あたしがが今、確かにここにいたという事実を、残しておきたかったの。……里見さんは……魂の実在を、信じますか?」
せりなの問いに一瞬戸惑う里見だったが、しっかりとした口調で答えた。
「ああ……信じるよ……信じるとも……」
「……ああ、よかった……」
安心しきった表情でせりなは言うと、ゆっくりと目を閉じていく……。
「これで思い残すことはありません……あたしはしあわせなんですもの……だって、いつだってあなたに想っていてもらえるんですから……だから、さびしくないの……ありがとう」
せりなの口元が幸せそうに笑う。
「こんなに心から笑えたのは、初めてです。さあ、あなたも笑って……笑ってください……そうしたらあたしのいる意味、きっとある……笑って下さい……あたし、しあわせになれる……あたしも、笑っていたいです……最後まで……ああ……あたしちっとも不幸じゃないです……だからあたしをおぼえていて……笑いながらあたしのことを思い出して。そうしたらあたし……あたしは……ねえ、笑ってください……そうしたらあたし、しあわせになれる……生まれてきた意味がある……ね?」
「せりな!?」
その時、せりなの身体が光の粒子に包まれ始めた。金色の、螢の光のような、淡くて幻想的な光……。
「……ああ、なんだかいい気持ち」
光は徐々にせりなの身体を置き換えていく……せりなのからだが光の粒子で構成されていく……里見の手から、彼女の体の感覚が消えてく……。
「せりな、消えるな!消えるんじゃない!!」
だがその言葉も虚しく、せりなはどんどん軽くなっていく……。
「……好き……あなたが大好きよ」
声も定かではなくなっていく……聞き取れなくなっていく……。
「……大好き……大好き……」
せりなは何度も何度もそう繰り返すと……やがて……。
「せりな!!」
里見の叫びも虚しく……せりなの身体は一気に崩れ落ち、光の粒子と化して彼の手の内から漏れ出すと、宙に舞う。そうして中庭の桜の木にまとわりつくように上っていき、そして天空に消えていった……。
……だいすき……。
その光景を、里見は呆然と見送った。声も出ない。
手の中をじっと見る。さっきまでせりなを抱き締めていたのに、今は何も無い。
「そんな……ほんとに消えたの?……ほんとに……いなくなった……いない……いない……う……うう……うわあああああああああああああ!!」
里見は天に向かって絶叫した。深い悲しみだけが、里見の心を埋め尽くしていく。
……もういない……消えてしまった……いなくなってしまったんだ!!
……なにも……なにもできなかった!なにも、なにも、なにも!!
……彼女は……彼女たちは僕を救ってくれたのに……僕は何もできなかったんだ……何も!!
「……やっぱり僕は……役立たずなのか?……それなのに、生き残っている……そんなのって……そんなのって……意味無いよ……」
地面にひざを突き、手を突いて、里見は力なくうなだれる……と、その時。
「しっかりしろ!!」
「……!?」
上の方から聞いたことのある声がした。里見は泣きぬれた顔を上げて見ると、そこには将介の姿があった。
「……きみは……見ていたのか?」
「最後の瞬間だけ、な……だが、君は生きているようだな」
「……!?……知ってるのか、僕のことを?!」
驚きの表情を見える里見に、将介は感情を抑えながら言った。
「そう外れてはいないと思うが……君と天野せりなが同じ存在ということは聞かされている……」
「……なんでそんなことを?」
「調べていたからさ、君たちのことを……気になったことは調べずにはいられない性分なんでね……おかげで、色々分かってきたよ」
そう言って将介は、ポケットから手紙を取り出して里見に差し出した。
「これは?」
「俺がある人に頼んでた調査結果さ。今俺の知りうる全てだ」
里見はその手紙を受けとると、ゆっくりと読み始めた。
『すまんな。お前がこの手紙を読むときは、俺は学内にはいないはずだ。いや、それどころか日本にいるのかも分からん。こんな手紙を書いてるのは、メールだと危険だからだ。……ということは、まあ、核心に近づいたということも意味するわけだが……いまその全てを伝えるわけにはいかん。いまだ不明なところもあるし、それに知りすぎると不幸になるからな……今の俺がそうだ。それはさておき、調査の結果だな。結局の所、二人の本当の正体というのは判明しなかった。ああ、だががっかりするな。ここでいう正体と言うのは彼らがどのようにして成り立っているのか……その過程と目的だ。……ああ、こういう書き方は混乱を招くか……要するにだ、どうも彼らは元々存在しなかった存在らしい。だが偽名というわけじゃない。言ったろう。元々いなかったって。誰かが成り済ますようなこともない……二人は何も無いところからそうなるように生み出されたのだ。それもここ二、三カ月の間にな。……だから彼らのこれまでの軌跡、これまでの記憶は偽物だ。天野せりなが言っていた幼なじみというのもそうだろう。それを補完するものはとある組織のお膳立てしたものらしい。だがそれはこの際どうでもいい。……問題はあの二人のことだよ。もはや二人は用のない者らしい。だから俺たちはある意味無事でいられたんだ。なぜ用がなくなったか……それは……二人の命はもう尽きかけているからだ。そう、死ぬんだよ、彼らは……。その彼らを、なぜわざわざ我々の世界の住人として存在させたのか……それは分からない。だがその終焉の時は迫っている。それは今日にも起りかねない事態だ。そしてそれはどうすることもできない。どうすることもな。……俺にはお前にどうしろとは言えない。途中でお前の依頼を投げるような形になったからな。……でも……そうだな……あの二人を見届けることは、お前の義務かもしれないな。……俺はこれからとある場所へ行く。今回の謎をより掘り下げるためにだ。当分会えないだろうが……いずれ時が来れば会うことになる。その時は……全ての謎が一つに収斂し、全てが明らかになるだろう。その時まで色々あるだろうが、あまり無茶をするなよ。そうだ、この部屋は自由に使ってくれ。鍵はいつものところにある。使い方は分かっているな?よし。ではまた会える日を楽しみしている……じゃあな』
里見は読み終えた手紙を握りしめたまま目を閉じた。
「……これはどうやって調べたんだろう……」
「俺もそこまでは知らない……それで、間違っているのかい?」
「いや、おおよそは……せりなが……言ってたんだ。消えるべくして消えるんだって……そうしてその通り……彼女は消えてしまった……それを防ぐことはできなかった……なのに僕は生きている……」
再び里見の目に涙が浮かぶ。それを冷ややかに見つめながら将介は言った。
「そうだな……君は生きている。なぜだ?」
「……僕は欠陥品だけど、せりなとはまた違う存在だと、彼女が言っていた。だから消えないんだって……彼女にはそう分かってたんだって……」
「元々いるはずのない存在というのは本当なのか?」
「……そう言ってたような気がする……作り物だって……この記憶は偽物だって……里見啓吾なんて、天野せりななんていないんだって……そうして本当にいなくなってしまった!さっきまでこの手の中にいたのに!天野せりなはここにいたんだ!なのに消えてしまった!!僕は何もできなかった!何もできなかったんだ!!」
里見は地面を力いっぱい殴りつけた。何度も、何度も。
「必要とされながら何の役にも立たなかった!生まれて来た時も!今の今も!……僕はどうしようもない奴だ……なにもできなかった……なにもできなかったんだ……僕には生き残る資格なんてないんだ……一緒に消えてしまえばよかったんだ!!」
「君がそう思うのは君の勝手だ」
「……!?」
突き放すような将介の口調に、思わず里見は顔を上げた。
「今からでも遅くはないさ……自殺という手がある。死ぬのは簡単だ……だが、それは彼女を裏切る行為じゃないのか?」
「……裏切るもなにも……僕は……」
「彼女は自分が消えることを知っていたと言ってたな?それに君は消えないということを……ならばなぜ、彼女はわざわざお前に会いに来たんだ?消えないと分かっていたら、ここへは来なかったんじゃないのか?俺にあんな依頼なんかしなかったはずじゃないのか?なぜ彼女は俺にあんな依頼をしたと思う?お前に何かを伝えたかったからじゃないのか?どうなんだ?彼女はお前になにか言っていたはずだ。……思い出せ。思い出すんだ。彼女が望んでいたことを」
「……彼女が伝えたかったこと……望んでいたこと……」
……そう、最初は……。
『あなたのことを……知りたいのです』
……それは友人のため……アレフ0のため……いや、それだけじゃない……。
『ただ……あたしがが今、確かにここにいたという事実を、残しておきたかったの』
……そうだ……そうだよ……彼女は言ってたんだ……。
『あたしはしあわせなんですもの……だって、いつだってあなたに想っていてもらえるんですから』
『ねえ、笑ってください……そうしたらあたし、しあわせになれる……生まれてきた意味がある』
……そうだよ……彼女のことを一番知ってるのは僕じゃないか……その僕が彼女のことを忘れたら……死んでしまって何も彼もがなくなってしまったら……彼女は……せりなは消えてしまう……本当にこの世から消えてしまう……。
「……そうだ……駄目だ……」
里見はゆっくりと立ち上がると、眼鏡を外して涙をぬぐった。
「僕には残る意味がある……生きていかなきゃならない理由がある……彼女のことを、忘れちゃいけないんだ」
「……」
無言で見つめる将介に向かって、啓吾は言った。
「ありがとう……気がつかせてくれて」
「……まだ少し後向きだな。でもまあ……これからのことは今から考えればそれでいい」
将介はちょっとだけ笑って言った。
「……で、これからどうする?」
「どうする……って?」
「この問題はただではすまんだろう……君は生き残ってしまうしな。それに全てが明らかになったわけじゃない。君が生み出された理由がまず分からん。裏にはかなり大きな何かがある……それこそ世界レベルでの動きだ。いつ消されたっておかしくない。それでも……俺はその謎を解き明かしたいんだ」
「……僕も知りたい。僕の生まれてきた理由……その先に何があるのか」
「じゃ、商談成立だな」
にやっと将介が笑いかける。
「え?」
「おいおい忘れたのか……俺はなんでも屋……困ってる人間を見るとほっとけないたちなのさ。で、君は情報を握ってるが、実行手段には乏しい……俺は情報はあんまりないが、実行力にかけては自信がある……手を組んだ方が利口ってもんだ。違うかい?」
「でも……僕に、やれることはあるんだろうか?」
「やれるかどうか、それが成就するかどうかはあんまり問題じゃない。なにをしたいか、そして、それをどう実現させようと努力するか、なんだ。……で、どうする?」
将介の視線を受けて啓吾は少し考え込み、そして顔を上げて言った。
「よろしくお願いするよ……ええと……」
「滝沢だ。滝沢将介」
手を差し出しながら将介が言った。啓吾はその手をじっと見つめ、おずおずと自分の手も差し出して、握手を交わした。
「よろしくな」
「うん……」
その手の温かさに、啓吾はなんとも言えない安心感を感じた。
……人と触れ合うって……こう言うことなのかな?
ひとしきり握手を交わしたあと、将介は待ちきれないと言う感じで啓吾に話しかけた。
「さあ教えてくれ……せりなが君になにを伝えたのか……俺もそれが聞きたい……」
「うん……僕も話したいんだ」
啓吾はそう言いながら、桜の木の方を見た。夕闇に溶け込むように立つその木が、二人を祝福するかのように、金色に輝いて見えた……。
……きっと、だいじょうぶ……。
『……プロジェクト第一段階、ファイナルステージスタート』
『……フェーズ7突入。各種パラメータ変更なし』
『……増殖スタート……分裂速度偏差+2.3……+20??』
『警告……速すぎる!?』
『停止しろ!!』
『駄目だ!それでは計画が……』
『偏差+568!!尚も増大!!』
『ノード02を突破しました!!』
『分裂過程は正常だ……ただ速すぎる!!』
『ノード128を通過……いや、ノード200!間もなく臨界です!!』
『かまわん、減速材投入しろ!!』
『間に合いません、ノード255……臨界突破します!!』
『くそ!潰れるぞ!!』
『分裂速度偏差!……0だって!?』
『なにぃ?!どういうことだ!!』
『あ、いえ……ただいま、フェーズ8に突入……ステータスに問題なし……』
『なんだ!?フェーズ7だけ異常だったというのか?』
『わ、分かりません!でも……え、あ!?』
『今度はなんだ!』
『ア……アレフ13が……割れます……二つに分裂します!!』
『なん……だと?』
『……アレフ13……二つに分裂しました……両方ともノード01をクリア……ステータス、オールグリーン……』
『監視を続けろ!!直ちにデータ照合いそげ!!次に何が起るか分からん……それにしてもこれは一体……あ、博士!』
……まったく、なんという失態だ。
『申し訳ありません!ただ今原因を調査中です……』
……アレフ0の件といい、アレフ1の件といい……開発体制に問題があると言わざるをえんな……。
『で、ですが、アレフ0、1については対策済みであります!』
……しかし、アレフ0の消失について報告は受けたが、アレフ1は未だ存在しているとの報告があったぞ。
『なんですって!?』
……至急あわせて調査しろ……ただし、アレフ1に関しては既存保持データのみの調査としろ。手出しはするな。それが計画支援の条件だからな……。
『は!直ちに……』
……それにしても……この期に及んで、まだ何かあるというのか……いや……邪魔するものなど何も無いさ……この世に神など存在しない……そんなものはとうの昔に滅んだのだ……生き残ったのは我々だ……。
あの日……そう、あの日から一週間が過ぎた。
あたりはすっかり秋の装いに彩られていた。冷たい風が吹きつけるようになり、木々の緑も紅葉しつつあった。街行く人の服装は秋物にすっかり変わり、もう夏の面影はどこにもなかった。
放課後、啓吾は中庭にやって来て、桜の木を見上げていた。
葉はすっかり色落ちして、冬支度に入っている。啓吾は木肌に手を押し当てて、優しげにその感触を確かめる。
……なんだか暖かいな……これなら今年も大丈夫だね。
そこへ、将介がやって来た。彼は啓吾の姿を見つけると、急ぎ足で駆け寄っていく。
「やあ、待たせたな」
「いや……それほどじゃないよ」
啓吾は振り返って言った。
「いやあ、先生をごまかすのに手間取っちまってな……まさかほんとのことを話すわけにもいかないし……」
将介は今回の事件の顛末を秋元に説明していたのだ。天野せりなに関しては、急な転校ということで済んだと説明し、そのことは何故か学校側にそう言う説明があったので、それで納得してもらった。啓吾については、従来の説明を繰り返すだけだった。
「多分うすうすは気がついてるなぁ、ありゃ……ああ見えて謎な人だから……」
「……いろいろと隠されてことがあるみたいだね」
啓吾が呟くように言うと、将介は不敵な笑いを浮かべて言った。
「だが……それだからこそ、やりがいがあるってものさ」
「君は、そう言うとき一番生き生きしてるね」
「性分でね……。そういや、ずいぶんといい面構えになったなあ、お前」
将介は啓吾の顔を見て言った。
「いろいろ……分かったからね」
あの日以来、様々なことがあった。次の日、忙しいということで一度きり会っただけだった啓吾の両親が家に帰ってきたのだ。同時に家にいた使用人たちは姿を消してしまったが……。
その日以来、啓吾は将介と共に自分探しの旅を始めることになった。そこで明らかになったいくつかの事実……しかし、それは全ての謎を解決するには、未だ足りなかった。
「でも……まだ分からないことがある……一生終わらないのかもしれないね」
「……まあ、いつか分かるさ」
明るい調子で将介は言った。
「楽天家だね、君は」
「明けぬ夜はないって言うじゃないか……太陽が地球の周りをまわっている限り、いつかは分かるときがくるさ」
「……地球が太陽をまわってるんじゃないのかい?」
「そいつは主観の相違だな」
にやっと笑って将介が言うと、啓吾はじっと見ていたが、やがて吹き出して笑い始めた。つられて将介も大声で笑う。
「はははは……はぁ、しかし、おどろいたなぁ……」
「なにがだい?」
「お前が笑うなんて……これまでなら想像もつかなかったからな」
「……そうだね」
啓吾は桜の木を見上げた。秋風に葉が揺れる。まるで啓吾に話しかけるように……。
……だいすき……。
みどりはいらいらしながら居間のソファに座っていた。
将介がここ一週間以上家に寄りつかない。学校に行っているのは確認しているのだが、どうにも捕まらない。
「……まったく……どこほっつき歩いてるんだか……」
いらいら、いらいら。
昇段試験が明後日に迫っている今、落ち着かないみどりはその原因を将介のせいにしていた。しかし、余計にいらいらが募ってきて、どうにも気持ちに収まりがつかなくなってしまっていた。
「あんにゃろ~……帰ってきたらただじゃ済まさないわよ~……ぎったんぎったんにのしてやるんだから……」
と、その時。玄関のドアが開く音がした。
みどりは飛び跳ねるようにソファから立ち上がると、どたどたと玄関向けて突進した。
「お兄ちゃん!!いったい今の今までどこ行ってたのよ!!あたしがどれだけ心配……し、て……あ、ああ……」
玄関に飛び出してどなり散らすみどりだったが、現れたのが将介一人ではないことに気づき、そしてそれがいままであったことのない人だったので、彼女はあまりの恥ずかしさに全身を真っ赤にしてうめいた。
その様子を最初はびっくりしたような目で見ていた将介と啓吾だったが、将介はにやにや笑いを浮かべて言った。
「ああ、会うのは初めてだよな。こいつは里見啓吾、一緒に仕事するようになったんだ。それで家に連れてきたんだが……」
みどりは啓吾に視線を移した。彼はメガネ越しに優しげな目を向けながら言った。
「初めまして、里見啓吾です。よろしく」
みどりは吸い込まれるように啓吾を見つめた。声が出ない。
「おい、突っ立ってないで何か言えよ」
将介に言われて我に返ったみどりは、胸の高鳴りを感じながら、たどたどしく言った。
「……あ、あたし……みどりといいます。よろしく……うちのばかあ……あ、兄がお世話になってます」
「こちらこそ、よろしく」
啓吾はすばらしい笑みを浮かべてみどりに笑いかけると、みどりはぼーとなって啓吾を見つめた。
その様子を、将介は意味深な笑みを口元に浮かべながら見つめていた。
……こいつは、おもしろくなりそうだな。
この時出逢った三人が後に直面する事態こそ、第二幕の開幕であったのだが、それをこの時点で知る者は誰もいなかった。
しかし、いつか何かが起ることを誰もが予感していた。それぞれの思惑は異なっていたが、その目指すところは同じだった。
しあわせという名の、未来を。
……ねえ、笑ってください……そうしたらあたし、しあわせになれる……生まれてきた意味がある……。
……大好き……。