のぢしゃ工房 Novels

ナイチンゲール・ジェネシス

第2章:そは虚ろなれば

ここのところ、春のような陽気が乙夜学園を包み込んでいた。

実際、いくつかの植物はつぼみをつけようとするものまであり、冬眠中の動物も何種類かは土の中から顔を出してしまうものが出るくらい、春めくというか、初夏に向かいそうな陽気がここのところ続いていた。

その陽気の中を、ひとり芝生に腰を下ろして、ぼんやりと周囲の様子を眺める男子生徒がいた。彼のすぐそばには、齢を重ねた桜の大木がうっそりとその幹を宙に伸ばし、その枝には季節はずれのつぼみが、春の訪れを告げるがごとく今にも咲き出しそうに大きく膨らんでいた。

その日影の下、彼はただ座っていた。彼に視界には特別なものが見えるわけではない。校舎やグランドの一部、並木道といった、普段目にもかけようとしないものばかりだ。

しかし、彼はそれらを見ていた。いや、ただ網膜に映し出しているだけのようだ。夢遊病者か白昼夢で見ているかのように、焦点の定まらない目が、眼鏡越しに見えている。

遠く、チャイムの音がした。昼休み終了の音色。

彼はゆっくりと立ち上がってスラックスに付いた雑草を丁寧に払いのけると、校舎に向かって歩き出した。もし彼が、白いかすりでも着ていたら、そして今が夜だったら、だれもが彼を幽霊と見誤ったに違いない、そんなことを思わせるような、存在感を感じさせない歩き方で。

そして彼の姿は校舎に吸い込まれるようにして、すっと消えてしまうのだった……。


将介は授業もそこそこに学園を飛び出すと、その足を高級住宅街へと向けた。

乙夜学園は元々華族も持ち物だった土地の上に建てられており、そういった土地柄もあってか、周囲に由緒ある建物が集まっているのだった。

里見啓吾の家はそのもっとも奥まった場所に存在していた。

「……すげえな」

将介はその建物を見上げてため息をついた。それは大正時代に建築されたという洋館で、石造りの三階建て、英国風の重厚な造りだ。付属する庭には手入れされた生け垣が張り巡らされており、様々に手入れされた植木がずらりと並べられていた。

「はてさて……まさか挨拶しに行くわけにもいかないしな」

途方にくれて後ろを振り返ると、遠くに人の歩いてくる姿が見えてきた。

「まあ、どうせ暇つぶしだったわけだしな……」


将介が秋元から聞き出したのは、里見啓吾の家庭環境についてだった。

里見啓吾は宮内庁に務める両親の許で生誕した。生まれつき病弱だったためにかなりの期間を病院内で過ごしたという。そのため通常の義務教育を受けることは無く、最近になってようやく乙夜学園に通えるようになったのだという。乙夜学園を選んだ理由は、近いことと合わせて、両親のコネがあったからだというのが秋元の話だった。

乙夜学園は元々ある華族の所有する広大な敷地を、学園の創設者が譲り受けたことに始まり、そのため華族や皇族と関係が深いと思われていた。そのつてで入学してくる者も少なくないのだ。

だが、秋元から聞き出せたのはその程度だった。後は自分でやってみるんだな、と秋元は言っていた。


将介はやって来る人影が目的の人物であることを確認すると、そのまま立って彼の接近を待ちかまえた。

里見啓吾はややうつむきかげんに歩いてくると、ふと顔を上げて将介の姿を見た。その目は虚ろで、焦点があっているのか、それとも将介を見ているのかもわからないような雰囲気だった。

しかし、すぐ視線を戻して歩き続ける。そして将介のそばを通りすぎたタイミングで、将介は振り向きながら声をかけた。

「よう、こんちわ〜」

すると里見は歩みを止め、うっそりと将介を振り返った。

一瞬将介はぞくっとした。背筋が凍るような、という形容詞が似つかわしい、そんな震えが背筋を通り抜けていった。

実は、里見と会うのはこれが初めてではない。ラブレターの代行渡しで何度も会っているのだ。その時も、なんか青っちょろい、いかにも病人上がりと言った感じのイメージを抱いたのであるが、ここまで鬱蒼とした感じはしなかった。

……これじゃまるで、死人じゃないかよ。

将介は口に出してしまいそうになるのをこらえて、つとめて陽気に言った。

「久しぶりだね〜。元気だった?」

すると里見は立ち止まり、ゆっくりと振り返って将介を見た。

「……君は?」

里見はそこに誰もいないかのように言った。

「やだなあ、何度も会ってるじゃないか。滝沢だよ、滝沢将介。なんでもござれのなんでも屋さ。その節はラブレター渡しで、どうも」

そう言って、将介は執事のごとく頭を下げた。その姿を無表情に里見は見つめた。

「……」

「……まあ、そう無口にならずに」

やりきれないと思いつつ、将介は話を切り出した。

「じつは、今日はお願いがあって来たんだ。あしたさ、ちょっと付き合って欲しいのさ……放課後にでも、どうかな?」

一瞬やばい申し出かとも思ったが、将介はつとめて普段通りに話した。

しかし、里見はまったく興味なさげに言った。

「……どうして?僕には理由がない」

しかし、将介はひるむことなく傲然と言い放った。

「俺の方にはあるのさ。正確に言えば、俺のクライアントがだ」

「……僕には関係ないことだよ」

しかし里見は元通り歩き始めた。その背中に、将介は声を投げかけた。

「待ってるさ。いつも君がいる場所で、放課後に」

しかし里見は二度と振り返ることなく洋館の中に消えていった。

「……さてと、これでひとつ片づいたな。さあ、これからが大変だぞ」

将介はそう呟くと、駆け足で学校の方に戻り出した。


啓吾が見た目にも重厚な両開きの扉を開けて館の中に入った。

そこは広間のようなエントランスになっていて、床には赤い絨毯が敷き詰められている。壁には何点か絵画がかけられており、白い彫像が並べられていた。

と、左手の方から執事服に身を固めた初老の男が啓吾に近寄り、深々と頭を下げた。

「おかえりなさいませ、啓吾様」

「ああ、ただいま……今日はどうなのかな?」

啓吾は期待するように尋ねると、執事は感情を表に出さぬように言った。

「はい、本日もお二方ともお忙しいそうで、遅くなりそうだとのことです」

「そう……わかった、もういいよ」

啓吾は残念そうに言うと、階段に向かって歩き出した。その背中に執事は深々と礼をした。

啓吾は二階に上がると、廊下の奥の方の部屋に入っていった。

そこが啓吾の部屋だ。入り口から見ると、奥には壁の半分を占める窓がレースのカーテン越しに日の光を取り込み、部屋の中を照らし出しており、そのそばには勉強机が置かれていた。床には赤い装飾の施されたペルシャ絨毯が敷き詰められ、白い壁とのコントラストを成していいる。壁の右手にはベッドがおかれ、手前にはクローゼットがあった。そして壁の左手には……いや、そこが壁と言える状況にないというべきか、天井まで埋め尽くす本棚がそこには鎮座していた。

啓吾はカバンに机を置き、制服を脱いでスラックスにシャツという姿になると、ベッドの上に身を横たえた。

白い天井を見上げる。染み一つない白くて清潔な天井。

だが、啓吾はそれが大嫌いだった。

「……どこまでいってもこのままなのか?」

彼にとって、”白”は日常であり、そして死の象徴でもあった。生まれたときから虚弱であるとして病院から一歩も外に出ることなかった幼年期、長じるにつれ高まる外への欲求とそれを許さない肉体に対する不信感との戦い、そのどれもが死に直結していた。

白い世界、隔離された世界、何も無い世界……死の世界。

そして今、その世界の外にいる。ようやく訪れた、望んで止まなかった世界!

だが……今自分のいる部屋はどうだろう?なにも変わっていない。何もかも。

「やはり……駄目なのかな」

啓吾は身体をねじりながら呟いた。本棚の中の本が目に入る。彼にとって、ほとんど唯一の外界との接点だったもの。それは希望と夢を象徴していた。だがそれも、今となっては空虚な物に思える。

医者はもう大丈夫だよといっていた。両親も異口同音にそういった。もう心配することはないのだと、自分の好きなように生きていいのよ……。そう、生きていいのよ、といったのだった。

妙だった。まるで余命いくばくも無い者に対する物言いだった。そう啓吾には聞こえてしまったのだ。

そして……最近よく夢を見る。内容は覚えていない……ただ、悪夢だったと思えるように、その時は身体全身が汗でびっしょにと濡れているのだ。更に最近は、時々頭が割れるように痛くなることがあった。頭の中が真っ白になって、何かが直接ささやきかけてくるような、気持ち悪さで一杯になる。それをこらえようとすればするほど、症状は深く激しいものになっていくのだ。

今、啓吾の心にあるのは、病気から解放された喜びではなく、見捨てられたのだという空虚感だった。

誰も彼を励まそうとはしていなかった。両親はこれまで子供にかかりっきりだったつけを払わされるかのごとく働き続けていたし、家にはその両親以外には執事と使用人しかおらず、啓吾と会ってまもないためか、非常によそよそしい態度しか取れなかった。学校では転入生ということで一時は注目を集めたものの、その直後に先の症状に見舞われたためになにもする気がおきなくなり、その無気力さが周囲の者を遠ざけることとなってしまった。

啓吾は孤独だった。誰も信じられなかった。自分さえも……だから彼は、今世界を拒絶していた。

……僕はいなかったんだ。生まれてからずっと、どこにも……どこにもいなかったんだ。そうさ、僕は……必要とされない人間なんだ。いらない人間なんだ。そしてもうすぐ……もうすぐ……

啓吾はうつ伏せになって枕に顔を押しつけた。眼鏡がずりあがり、顔がじかに枕に触れた。

ふと、さっきの言葉が頭をよぎった。

『待ってるさ。いつも君がいる場所で、放課後に』

……誰の言葉だっけ……ああ、さっきの……たしか、滝沢とか言ったっけ……学園一のおせっかいかき……うらやましいな、人のことにそんなに積極的になれるなんて……僕は自分のことすら持て余しているというのに……でも僕には関係ない……そうさ。他人のことなんか関係ないんだ……なのに……なのに……どうして……彼の言葉が思い浮かんだんだ?あの場で受け答えは終わったんだ。なのになぜ……さっきのことが気になるんだ?関係ないんじゃなかったのか?なのになんで?……わからない……わからないよ……

しかしこの疑問を反復する以前に、彼は明日将介の誘いに乗ることを心の片隅で決意していた。

それはまだ、彼が生きる意思を持っているということなのだろうか?


天野せりなはいつものように軽やかな足どりで図書館に入ってくると、まっすぐ奥の部屋に向かった。そして視聴覚室の七号室の前に来ると、いつものリズムでドアをノックした。ととん、とん、とん、とん。

中から返事がするのを待って、せりなは部屋の中に入っていった。部屋の中では将介が椅子に座ってノートPCの画面を睨み付けていた。

「こんにちは、滝沢さん」

そういってせりなは頭を下げて挨拶した。

「ああ、来ましたね」

将介は顔を上げると、彼女に座るように勧めた。

「あの……なにかわかりましたの?」

期待と不安とを混ぜ合わせた表情でせりなが将介に尋ねた。

「いや、そういうわけではないんですけどね。……とりあえず、明日彼と会う約束を取りつけたんで、それをまずご報告しようと思って」

「まあ、ありがとうございます。……それで、なにかわかりましたか?」

「いや、詳しくはまだ……この学校でのことはわかってますけどね。でも、明日の昼にはご連絡できると思いますよ。それから直接会うかどうか決めてもらえばいい」

「そうですか……」

ちょっと残念そうな表情になるせりな。

「まあ、そうがっかりしないで……とりあえずわかっている範囲内で話しますから」

「はい!!」

すぐ明るい表情になるせりなに苦笑しつつ、将介は話し出した。

「彼は生まれたときから病弱だったそうで、つい最近までは病院にいたそうです。それが最近退院を許可されたそうで……それでこの学園にやって来たらしいですね」

「そうなんですの……大変でしたのね」

せりなは本当に心配そうに言った。まるで自分のことのように、眉を寄せて苦しげな表情で。

「それで、どういう方なのです?性格とかその……女の方の趣味とか……」

「ああ、それはその……よく分かりません」

将介は素直に言った。

「まあ、あまり人付き合いが上手だとは言えないようですけどね。ラブレターもらって、どうしていいのかわからないって感じだったから」

「ラブレター……?もらっていたんですか?」

「そりゃあもう……山ほどね。一時期は依頼がそればっかりで嫌になったくらいで……まあ、それはともかく」

将介はせりなの方に向き直った。

「その……彼のことを好きになったっていう友達は、どういう子なの?」

「え……?」

目をぱちくりさせながらせりなは言った。

「彼女のこと……ですか?」

「そう、その……ああ、そういや名前も聞いてなかったような……」

そう将介が言うと、せりなは困ったような表情を浮かべた。

「あの……どうしても話さなくてはいけませんか?」

「いや、別に無理しなくても……ただ、どんな子なのかなと思っただけだから」

「そうですか……」

「その、彼を見初めたってのはどういう状況だったの?」

「あ、はい……なんでもこの近くを散策しているうちに、道を歩いている彼の人を見かけたらしく、それで一目ぼれをしたとか……」

「それはいつごろのこと?」

「二週間くらい前だそうです」

「なるほど……」

「それ以来、その方のことが忘れられなかったそうです。毎日毎晩、その方のことが頭に浮かんでは離れず……でも、もう、一度でもお見かけしたら、それこそ死んでしまいそうになる気がして……だからもう一度会いに行く勇気も無く……でも、忘れられなくて……」

せりなは感きわまっていくのか、目が潤み、白い肌は紅潮し、身体を震わせながら話し続けた。

将介はその姿を一時も目を離さないように見つめ続けた。

その視線に気づいたのか、せりなははっとして、思わず将介の視線と合わせてしまう。見つめ合う瞳と瞳は、一体何を伝えあうのか?

「あ、あの……やだ……」

せりなは顔を真っ赤に染めて目をそらした。

「ごめんなさい、あたしったら……」

「いや……ずいぶんとそのお友達のことをよくわかっているんですね。親友なんだ」

将介はせりなの変化に気づいていないような顔をして言った。

「……」

せりなは何も言わずにうつむいたままじっとしていた。

しばらくせりなを見ていた将介は、おもむろに言葉を発した。

「それでその子は今学校には?」

「あ、はい……行っておりません」

「行ってない?」

「はい……最近まで彼女、病院にいたんですの。それにまだ静養中ということで……」

「……そう。それは……大変だ」

「でも今は」

せりなは明るい表情を向けていった。

「とっても明るいんです。……恋で苦しんでいるのかもしれません……でも、それでもやっぱり明るいんですの。だからわたくし……彼女にもっと、心から喜んでもらえるようにって……」

「そう……早くそうなれるといいね」

将介は心底そう思いながら言った。せりなはそれに、はいっ、と元気よく答えた。

「それじゃあ、わたくしはこれで失礼いたします」

せりながそう言って頭を下げ、椅子から立ち上がりかけたとき、将介は彼女を呼び止めた。

「あ、ちょっと」

「はい?」

浮かしかけた腰をもう一度椅子におろし、せりなは首をかしげた。

「なんでしょうか?」

「いや……ちょっと聞きたいんだ……君自身、彼のことはどう思う?」

「彼のこと……どう思うとは?」

呟くようにせりなは問い返した。

「思ったままでいい。一回は彼のこと見たことはあるんだろう?」

そう訊くと、せりなは顔を伏せた。

「……それはあります」

「その時の感想でいいんだ」

「……捕らえ処がないというか……不思議な感じがしました」

「他には?」

「……それだけ……です」

ぎこちなく、せりなは答える。その間、顔を伏せたまま。

将介は思い切って疑問をぶつけてみた。

「君も、彼のことが忘れられないんじゃないのかい?」

……さっきの、友人の里見啓吾対する想いを語る彼女は普通じゃなかった。親友の気持ちに共鳴しているだけとは思えない……彼女自身の心の震えが伝わってくる、そんな話し方……彼女はやはり……。

「忘れられない……あの人のことを……」

せりなは独り言のように呟く。が、それ以上彼女は何も言わずに、ただ沈黙していた。

「……天野、さん?」

将介はおずおずと声をかけた。しかし、せりなは黙ったままだった。

「もしかしたら、君も、彼のことが好きなんじゃないのかい?」

もっと直接的な質問を将介は投げつけた。そう、さっきのせりなの姿……それは、恋する乙女そのものだった。

しかし、せりなは黙ったままだった……いや、違った。そうではなかった。

鈴でも転がるかのような音が、せりなの喉の奥から聞こえてきた。それはすすり泣きのようなかすれた音の連続のようであった。肩も、身体も震えている。最初は泣いているのかと将介は思った。

しかし、唐突にあることが思い浮かんだ。それは演劇についてで、泣きは難しい演技の一つなのだが、上手くいかないときは別の演技で代用するとうまくいくのだという。その演技とは……笑い。

笑っている……そう思った途端、将介の背筋は凍りつく感覚に襲われた。

……笑っている?そんな……なぜ?!

将介は見入られたようにせりなの方を見つめる。顔を伏せたままの姿勢で、せりなはそこにいた。確かにそこにいた。しかし。

……違う……違うぞ……何かが違う……なんだこの違和感は?さっき俺は友人がではなく、彼女自身が里見のことを思ってるんだと感じた。それが違和感だった。さっき俺が疑問に思い、そして彼女に問い掛けた。でもそれは違ってるのか?……いや、そんなことじゃない。今感じているこの違和感……なにかが狂っているようなこの感じ方は……一体なんだ?!

微かにせりなは顔を上げた。表情は相変わらず見えなかったが、口元がほんの少しだけ見えた。唇の端が少しねじ上がっていた。……笑っているのか?

それを見た瞬間、将介は頭の中が真っ暗になるような、恐怖感に襲われた。

……だれだ、これは?だれなんだ、お前は?……これは天野せりなじゃない。見てくれはそうかもしれないが、絶対に彼女じゃない……じゃあ、一体だれなんだ!?

その瞬間、将介の意識は何かに吸い込まれるように消え失せていった。

……。

「……滝沢さん?」

「……え!?」

将介が我に返ると、せりなが心配そうに彼を見つめていた。

「どうかいたしましたか?」

「え、あ、いや……」

慌てて時計を見るが、特に変わったところはない。

「……天野……さん?」

「はい?」

せりなは不思議そうな目で将介を見つめた。確かに、将介の知るせりなだった。

「い、いやなんでもない……」

せりなはくすっと笑うと、

「急に黙ってしまわれたので、どうなさったのかと……」

「そ、そう?……あ、で、質問の答えは……」

「質問?」

きょとんとしてせりなは尋ねた。

「なんでしょう、それは?」

「え?いや、だからさっき……」

しかし、せりなは心底しらないといった表情で将介を見つめかえした。

「……あ、いや、俺の勘違いらしい」

「そうですか……あ、もうわたくし戻らないと……」

「そ、そう?」

「はい」

せりなはにっこり笑うと、席を立った。

「それでは明日を楽しみにしていますわ」

「じゃ、じゃあ、また明日」

「それじゃあ、わたくしはこれで失礼いたします」

そう言ってせりなは深々と一礼すると、部屋から出て行った。

将介は納得いかない様子で何度も首をかしげてみた。

「おかしいな……確かに奴のことは好きかって聞いたはずなんだが……」

その時、ドアに何かがぶつかるような鈍い音がした。が、それっきりなにも音は聞こえない。

「……誰かがぶつかったのか?」

将介は一瞬嫌な顔をしたが、里見のことを調べる用事を思い出し、まださっきのことをぶつぶつ言いながらノートPCをたたき始めた。


ドアに寄りかかるようにして、天野せりなは立っていた。その両手は胸に当てられ、苦しそうに肩で息をしていた。

しばらくして彼女はドアから離れると、ゆっくりとした足どりで出口に向かって歩き出した。その口元に、あの笑みを浮かべつつ、彼女はゆっくりと歩き続けた……。


日暮れ時、ひとりの少女が道を歩いている。ごく普通のセーラー服姿で、肩には大きなスポーツバックをかけていた。それがそんなに大きく感じられないのは、彼女の背の高さのせいだ。制服は近くの中学の物だから、彼女は中学生ということになるが、それだけに彼女の背丈は図抜けており、そして贅肉の一切ない引き締まった身体は、マラソン選手かモデルのようだった。もう一つ特徴的なのは腰元まで届く長い黒髪で、それが白い肌とコントラストを成していた。しかし、それとは対照的に、流麗な顔は憂いに満ちていた……。

彼女は坂道を上りきると、角地にある一戸建ての前で立ち止まった。それは三階建ての普通の家だった。彼女はその門扉を開けて敷地に入ると、門に作りつけになっている郵便受けを開けて中をのぞき込んだ。しかし、何も郵便物は入っていなかった。彼女は眉を顰めると、無言でふたを閉めた。

再び彼女は歩き出し、短い小径を抜けて玄関にたどり着いた。そして電子ロック装置のカバーを開けると、素早くキーインしてロックを解除する。

玄関の扉を開け、彼女は家の中に入っていった。そうしてバッグを床におくと、靴を脱ぎながら口を開いた。

「……ただいま」

しかし、家の中からは返事は聞こえてこなかった。

彼女は苦虫を噛み潰したような表情になると、乱暴に靴を脱ぎ捨てて上に上がった。が、しかし。彼女は後ろを振り返ると脱ぎ散らかした靴をじっと見つめ、おもむろにかがみ込むと靴を綺麗に並べ直した。そうしてバッグを持ち上げて居間の方へと向かった。

居間には誰もいなかった。ぽつんと置かれたテーブルにテレビ、カーテン越しに西日が差し込み、中をオレンジ色に染めている。

しかし彼女はそれらには一切興味なさげに見回すと、すぐに向きを変えて階段の方に向かう。階段を昇り、二階で通路にはいると、その奥にある部屋に入っていった。

そこはかなり広い部屋で、十畳ほどの広さはあるだろうか。中には普通サイズの勉強机に椅子、ベッド、大きなクロゼットに本棚等があり、化粧品の入った棚以外は、特別少女らしい物はぬいぐるみやアイドルポスターの類は一切なかった。

彼女はスポーツバグを床におくと、制服をさっと脱ぎ捨て、クロゼットの下の引き出しからTシャツとジーンズを出して身に付けた。そして制服を綺麗に畳むと、ハンガーにかけて壁にかけた。

少し乱暴にベッドに身を横たえると、彼女はふかくため息をついた。見上げる天井にはなにもない。あるのはただ白い壁だけだ。

「……なにもない……なにも……あたしは一体何をしてるって?」

少女……滝沢みどりはぼそぼそと囁くように呟いた。

彼女は首を傾けて机の上を見た。机の上にはこまごまなものが置かれていたが、その中に写真立てがあった。それは横長の写真立てで、中の写真には小学生くらいの男の子と女の子、そしてその両親と覚しき姿が写っていた。両親の方はにこやかな顔をファインダーに向けて、その手はそれぞれ子供たちの肩に置かれていた。少年の方はこれまた晴れやかな顔をしてカメラに向かっていたが、少女の方は……堅く口を閉ざしてカメラを睨み付けていた。まるでこの場にいるのを拒むように。

みどりはその少女と同じ表情になると、急にベッドから起き上がってかばんの中をあさり始めた。中から学生鞄、お弁当箱、シューズ袋と出てきて、最後に彼女は紐でくくったものを取り出した。

それは合気道用の道着だった。綺麗に折り畳まれたそれを彼女はしばらくじっと見つめていたが、何を思ったか、それを壁に向けて投げつけた。それは壁にあたると、閉じてあった紐がほどけて中身がばらけた。黒いはかまと白い上着がごちゃごちゃになって床に散らばる。

「……こんなもの……こんな……」

みどりは身体を震わせて、散らばった道着と写真立てを交互に見比べた。何度も、何度も……彼女はそれを見返した。

しかし。

彼女はゆっくりと立ち上がって道着のそばに来ると、散らばったそれを拾い始めた。そうしてそこにぺたんと座り込むと、一つ一つ綺麗に折り畳み始めた。きっちりと畳まれたそれらを重ね、帯紐できゅっとまとめ上げた。

それを見つめながら、みどりはふと洩らした。

「……あたし、一体何やってるんだろう……」

しかし、彼女に応えるものはなにも無かった


……ここはどこ?あたしはだれ?

『もはやアレフ0は汚染レベルEで手のつけようがありません』

『アレフ1も同様です。現在汚染レベル計測中ですが、おそらく駄目でしょう』

『両タイプの破棄を申請します』

……否定、否定、否定。

『……破棄は認めない。隔離の上、最終段階まで育成とする』

『それは……?』

『……失敗作から学ぶことは多かろう』

……negative,negative,negative,negative,negative……





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