乙夜学園は秋の装いに彩られつつあった。校庭に生える木々は色づき、落ち葉が地面を覆い始める。
しかし、今日は春のような日和だった。これから冬ではなく夏になるのではと思わせるような、散歩に絶好な日和……。
そんなこともあってか、お昼休みの緑地では弁当を広げて会話を楽しむ女生徒や、ぶらぶらと歩いている男生徒などなど、普段より多くの生徒が日の恵みを享受していた。
しかし、こんな日和でも屋内の方がいいという人間はいる。そういうものは図書室にいると相場は決まっているものだ。
乙夜学園の図書室は少し変わっていた。普通よりかなり大きめの閲覧スペースに、下手な大学図書館以上の蔵書数が、ではない。その奥に存在する部屋のことだ。
閲覧スペースのその奥、壁に連なるようにしてドアが幾つも続いている。ドアの上にはプレートが掲げられ、そこには『視聴覚室』と、その連番が書かれていた。大きさ的にはワンルームマンション以下だ。
普通視聴覚室というのは大きいのが一つだけで、小さいのが幾つもあるものではない。実際、乙夜学園にも視聴覚教室はある。……そう、教室だ。図書室にあるのは視聴覚室、目的は別にある。ここの部屋は生徒が個人的に自由に使用できる部屋であり、内部にはCAIやヒアリングの機材があるのだ。中には目的外のことに使用する者もいるらしいのだが。
その7号室のプレートの上に、赤いランプが灯っていた。どうやら使用中らしい。
と、その前に、ひとりの女生徒が姿を現した。身長は160センチくらい、ほっそりとした身体は他の女子に羨望の目で見られるほど軽そうだ。髪の色は淡い茶色といった感じで、肩のラインで綺麗に切りそろえられている。顔は細面で、濃い茶色の瞳にすっと通った鼻筋、そしてかわいらしい唇は、非常に整った印象を与えていた。綺麗なことは確かなのだが、どことなく近寄り難いような雰囲気を漂わせている。
彼女はじっと視聴覚室の扉を見つめると、左手を上げて扉をノックした。
ととん、とん、とん、とん。
すると、中からどうぞという大きな声が扉越しに聞こえてくる。男子生徒のようだ。
彼女はドアのノブに手をかけると、それを回して扉を開け、中に足を踏み入れた。
「失礼いたします」
ぺこりと一礼して彼女は挨拶した。まるで鈴を転がしたかのような声だった。
彼女の瞳に部屋の様子が映し出された。
そこはワンルームマンションを二回りほど小さくしたような縦長の部屋で、中央には楕円形のテーブルに椅子が何脚か置かれていた。そして壁際にはTVモニターやらパソコンを置いたテーブルが壁にそって設置されていて、そこにも椅子が置いてあった。
その中央に置かれたテーブルの一番奥、彼女に向き合うように座っていた男子生徒が、テーブルに置かれたノートパソコンの画面から目を上げて、彼女をにこやかに迎えていた。ちょっと角ばった輪郭に吊り目がちの大きな目、程よい大きさの鼻に大きな口、髪はスポーツ刈りをほったらかしたようなつんつん頭、それでいてぞんざいには見えず、人好きのするような笑みを浮かべて、彼は彼女に話しかけた。
「こんにちは!何かご用ですか?」
「ええ、そうですわ」
彼の笑みに引き込まれるように、軽やかな笑顔を見せて彼女は答えた。
「まあ立ち話もなんだから、適当に座ってくれるかな?」
「はい」
彼女は就職面接の時のようにきっちりとした動きで音もなくドアを閉めると、彼と向き合う形で椅子に腰掛けた。
「ここに来たっていうことは、俺のことは知ってるってことだよね?」
彼がそう尋ねると、彼女は笑みを浮かべながら目を細めて答えた。
「はい。……滝沢将介様、ですわね」
滝沢将介様と呼ばれた男子生徒は、面映ゆい笑みを浮かべた。
「あ、あの、様付けは止めて欲しいんだけど……そうです、この俺がなんでも屋の滝沢将介。どうぞよろしく!」
「こちらこそよろしくお願いいたしますわ。わたくし、一年C組の天野せりなともうします」
そう言って彼女……天野せりなは深々と頭を下げた。
「あ、いや、そんなにかしこまらなくてもいいんだけど……ま、いっか」
将介は慣れない感じで頭をかくと、気を取り直してせりなの顔を見た。
「それで、御用の向きはどういうことでしょうか?」
「はい……わたくしの友人のことで、ご相談があるのです」
「友人?」
「はい」
「それはクラスメートか誰かで?」
「いいえ……別の所にいる知り合いなのです。幼なじみ、といったところでしょうか」
「ほう、幼なじみのことで……それは、うちの学校に関連することなんですね?」
「ええ、そうですわ。この学園の……とある方のことについてなのです、滝沢様」
そう言ってせりなはじっと将介の目を見つめた。笑みを浮かべていはいるが、目は真剣そのものだった。
「……様はいらないですよ。同学年なんだし」
将介はその視線を躱すように一瞬視線を外した。
「それで、どういう内容なのか、詳しく聞かせてもらえますか?」
「はい」
そうしてせりなはとつとつと話し始めた。
「実は、わたくしの幼なじみである女性が、ここの学園の男性のことを見初めたらしく、わたくしに仲を取り持つようにと頼まれたのです」
「その幼なじみというのは、同い年なんですか?」
「はい、まったく。誕生日もそれほど離れてませんの。わたくしの方が少し妹ということになりますでしょうか」
「なるほど……。それで、その幼なじみの子にはどう返事を?」
「それが、まだはっきりとはもうしておりません。そこでこうしてご相談にうかがった次第で……」
「すると、その幼なじみと、その……見初められた男性、ですか?その二人の仲を代わりに取り持ってくれというのが、依頼内容なわけですか?」
そう将介が先回りをして問い掛けると、せりなは首を横に振って答えた。
「いいえ、そうではないのです」
「え?それじゃ……」
「なんと申し上げてよいのか……その……幼なじみは、なんともうしますか、その……世間知らずなところがありまして……はっきりもうせば、純粋培養とでももうしましょうか、それまで男性とおつきあいするということはまったくなくてですね、もし……もしもですが、つらい目にあってはしまわないかと、思わなくは無いのです。そこがなんとも心配なところでして……」
「は、はあ……たしかにそれは心配でしょうが……心配のしすぎでは……」
そう将介が疲れたように言うと、せりなは身を乗り出して叫んだ。
「いいえ!そんなことはありませんわ!彼女は……本当に純粋なんです。ほんのちょっとの躓きで、心に大きな傷を作ってしまいますわ!そうなってからでは遅いのです!」
せりなの迫力に押されてか、将介は身体を後ろにそらし気味にして言った。
「そ、そうですね……精神的ショックってのは後まで尾を引きますから……。それで、結局の所、あなたはどうしたいんですか?」
「ええ……わたくし、その人に会ってみようと思いますの」
「その人と会う?」
「はい……実は、今日はその段取りをつけていただきたくて、こちらにお邪魔したんですわ。滝沢……さん」
そう言ってせりなはにっこりと微笑んだ。
考え込むように黙り込んでしまった将介を見て、せりなは不安げな表情を見せた。
「あの……駄目なんでしょうか?」
「……え?いや、そんなことは無いけど……それだったら別に俺の所に来なくても、直接そいつのところにいけばいい気がするんだけど……」
「それがその……」
せりなはもじもじしながら言った。
「わたくしも男の方とはあんまりお話したことがないものですから……まずは、その方のことをお調べしていただきたいのです。そしてその上で、わたくしが直接お会いして、幼なじみにふさわしい相手かどうかを見定めたいのです。……受けてくださいませんか?」
必死の面持ちで将介を見つめるせりなに、将介は安心させるように笑いかけた。
「ええ、もちろん、受けさせてもらいますよ」
「本当ですか?!」
「困ってる人を見たら助けるってのが、俺の基本方針でね。特に恋の悩みとなってはなおさらだ」
「ありがとうございます!」
せりなは顔を机にこすりつけるように頭を下げて感謝の意を現した。
「あ、いや、お礼の言葉は事がうまくいってからでないと。正直言って、恋愛相談は願い通りの結果になることが希だから……」
「いいえ、そのお言葉で充分です」
せりなは頭を上げて静かに言った。
「よろしくお願いいたします」
「それで……その相手って言うのは、どこの誰なのかな?」
「はい。その方は……一年F組の里見啓吾様です」
そう伝えるせりなの目は、恋をしている目そのものだった。
「F組ね……わかった」
将介はその目を訝しげに見つめながらそう言った。
「じゃあ……まずはその彼の調査ということで、そうだな……二日、もらえますか?その後で調査結果を聞いてもらって、段取りをつけるということで?」
「はい、それでお願いします!」
せりなは机にぶつかりそうな勢いで頭を下げた。よほどうれしいらしい。
「それでは」
と、せりなは椅子から立ち上がった。そしてドアの前に立つと、失礼いたしますと頭を深々と下げ、ドアを開けて外に出た。
図書室には何人かの人が読書をしたり、昼寝をしたりしている。その間を縫うようにして、せりなは微笑みを浮かべつつ歩いていく。その足どりは朗らかに、そして優雅であった。
閉じられた扉をじっと見つめていた将介は、頭を振りながら呟いた。
「……さては奇妙なる願い……なればこそ、か」
腕時計をちらと見る。始業まで二十分あった。
彼はノートパソコンに向き合うと、軽やかなキータッチであるデータを検索し始めた。
ここ乙夜学園の情報システムは大学以上の設備を誇り、一般の生徒にも無料で公開されている。ノートパソコンも無償貸与の対象だ。将介の物は私物だが。
将介が検索しているデータベースは生徒管理DBだった。どういう名前の生徒がいるのかという程度には、生徒でもアクセス可能である。
結果が出たのか、軽いビープ音と共に結果がウェブ・ブラウザ上に表示される。そこには生徒のバストショットと名前、クラス名、出身中学校等といったプロフィールが軽く記載されている。プライバシー保護のため、生年月日や住所、電話番号、家族構成などはマスクされている。
そこに映し出されているのは先程この部屋を訪れていた女生徒、天野せりなだった。先程と同じく、なんとも言えない微笑みを浮かべている。
「ん……出身中学が出てないな」
ちょうどその欄が空白になっている。
「転入扱いってことか」
それ以外に特別なことが無いことを確認した将介は、次の検索案件に取りかかる。今度画面に現れてきたのは、男子学生だった。一年F組、里見啓吾。愛しき想い人だ。
ポートレートでははっきりしないが、ほっそりとした体格らしい。顔の輪郭もそれにならってか、あごはほっそりとしている。ややふと目の縁の眼鏡をかけ、薄い唇は少女のようだ。目鼻立ちのはっきりとしたその顔は、美少年と呼ぶになんら不足はない。ただ、生気の無さが妙に目に付いた。
彼もまた、出身中学の欄が空欄になっている。彼も転校生なのか?
将介は二人の顔を交互に見比べながら、頬を撫ぜた。
「ふうむ……こりゃあ、調べるのは結構難儀だな。二人とも、俺の手に余るかも……な」
そう呟く彼の表情は、不敵と言うほかなかった。
時計を見る。始業5分前だ。
「今日は店仕舞いだな」
将介はノートパソコンを手に取って小わきに抱えると、視聴覚室を後にする。
あとには静けさだけが残った。
放課後、生徒たちは部活動に向かい、また家路とへと急ぐ。
将介はその流れに逆らうように、その足を職員室に向けた。職員室には何人もの教師が仕事をしていたが、彼はその中の窓際の席に座る教師に近づいて声をかけた。
「秋元せんせ、お元気ですか?」
「なんだ、滝沢か……」
秋元学はノートから顔を上げると、気乗りのしない表情で言った。
年齢は30才すぎだろうか、呉服問屋の若旦那のような、さわやかな顔をしている。女生徒には結構人気があるらしい。担当科目は歴史だ。
「嫌な顔しないでくださいよ、せんせ」
「おまえが来るとろくなことがない。またどうせ頼み事だろう?」
「はっはっは……ご明察」
将介は窓枠によりかかりながら言った。
「でも今日は大した話じゃないよ。ちょいと生徒のことで聞きたいだけさ」
「まったく……お前の持ってくるネタって言うのは、そんなもんばっかだな」
「毎度のことさ。今に始まったことじゃない」
「まったくだ……まったくだよ。恩師の息子じゃなかったら、とっくにおしりぺんぺんだな」
「おお、こわ……じゃ、せいぜいいい子でいることにするよ」
おどけたように将介は肩をすくめる。
「ならば、面倒は起こしてくれるなよ」
しかし将介はは真剣な表情で確信的に言った。
「世に悩みごとの種は尽きまじ、ってね。憐れな子羊達を導く……それが俺の使命なのさ」
「……かもな」
将介を見つめる秋元の目には、暖かい光があった。
考古学者である両親の影響を受けてか、好奇心旺盛に育った将介が興味を持ったもの……それが人間そのもの、特に、その心の動きだった。それは中学時代に触れたある文物の影響を受けた結果恋愛感情にシフトし、そのころから級友たちの面倒を何くれとなく見るようになった。そのために、いわれもしない面倒事を引き受けたり、便利屋のような事をやっていたのだ。
そして乙夜学園に入ってからもそれを続けるつもりだったが、入学早々とある事件に巻き込まれてしまった。直接彼は関係していなかったのであるが、持ち前の好奇心と困っている人を見ると黙っていられないという性格から、深く関係することとなってしまったのだ。それは生徒と学園側の闘争に端を発した事件で、とんでもない騒動を引き起こしたのだが、その解決に力を発揮したのが将介であり、秋元だった。
秋元は将介の両親の教え子のひとりで、これが将介との初めての出会いであった。最初は首を突っ込まないようにと再三にわたって忠告したのだが、それを素直に聞く将介ではなく、一時は険悪な雰囲気になったこともある。しかし、将介のひたむきさに心を動かされた秋元は、将介と共に事態解決にあたり、成功したのであった。
以来、秋元は将介の活動を陰日向に支援していた。もちろん、行き過ぎた行動には目を光らせつつ。
「で?何を聞きたい?」
「里見啓吾のこと」
「ああ……彼ね。今や学園一の人気者であり、かつ……学園一の変わり者、と言ったところかな?」
「それくらいは俺だって知っている」
そう。里見啓吾は今から一ヶ月前に転入してきた生徒で、とたんに女生徒の人気を獲得してしまったのである。
確かに彼はこれまでの乙夜にはいないタイプの生徒だった。活発な生徒がかなりを占める中にあって、どことなく憂いを含んだルックス、はかなげな物言い……という、彼のの落ち着いた雰囲気は女生徒たちに強烈な印象を与えたらしい。
瞬く間に学内一の人気者になった里見であったが、彼に告白を試みた者の誰一人として、その想いを遂げた者はいなかった。そのため、元々男子からの受けがよくなったのが余計に悪化、それ以後も何度か告白をした女子もいたのだが、彼の頑なさに次第に関心は薄れていったのである。
と、ここまでは将介が何度も聞いたことのある話だった。現に、彼にラブレター渡しの代行を依頼してくる者が相当数に昇っている。
「俺が知りたいのはそんな表面的なことじゃない。もっと深い話さ」
「あのときは、お前、うんざりしてたんじゃなかったのか?」
「まあ……転校生に群がる女子なんて構図には興味なかったからなあ……それに、男にも興味はないし。でも……」
「でも?」
「……この期に及んで、奴を見初めたって話を聞かされては……いい加減、どんな奴だか、徹底的に調べたくなってきたんだよ」
「ふうん、なるほどね……」
「で、だ。普通、そこまで女子に興味なしなんてのは、本当に興味がないってのも今じゃ珍しくもないが……そういった噂はこれっぽちも聞きやしねえ。だとしたら、考えられるシナリオは……」
「かつての恋人に操を立てている、ってわけか?」
少々揶揄するように秋元は言った。
「ま、俺好みの話ではある。……あとは隠れた婚約者でもいるのか、はたまた禁断の恋をしている真っ最中って線もあるな。それを調べるためには、奴のパーソナルデータが重要だってことさ。だからわざわざせんせの所までやってきたんじゃないか」
「……気持ちはわからんでもないがなぁ……」
「ああ、ああ、わかってるよ!悪さはしない。脅迫行為なんてこっちから願い下げだよ!これにはひとりの女の子の思いがかかってるんだ。いや、その子の未来に関わることなのかもしれないな……。とにかく、教えてもらわないといけないのさ。頼むよ」
「……」
しばらく二人は向き合ったまま何も言わずにいたが、やがて秋元が諦めたように身体の力を抜いて言った。
「……もちろん、信じているさ。その前に、その依頼のこと、聞かせてくれ。それが交換条件だよ、何でも屋君」
「了解!」
将介はにやりとして秋元に笑いかけた。そして、依頼内容を包み隠さず話した……その時将介が感じたことはいっさいに含まずに。
「……なんか、複雑だな」
そう秋元が感想を洩らす。すると、将介は何かを考え込むかのように言った。
「だからおもしろそうなんだよ。なにか……小説の前振りでも読まされているような感じがするんだ。何か起りそうな予感って言うのかな?もちろん、変な話になって欲しいとは思っていないさ。だけど……」
「だけど?」
「いや、なんでもない」
将介は頭を振ると、ずいっと秋元に顔を寄せて言った。
「とにかく調べてからだ。根拠のない推理・想像は真実の鏡を曇らせる。事実の積み重ねだけが、真実へと近付く唯一の方法だ。……頼むよ、秋元せんせ」
そう言う将介の目には、確信的な光が宿っていた。その目を冷たく反射しながら、秋元は思った。
……何事も無ければいいのだが……何事も無ければ。
窓から風が吹き込んでくる。そのあまりの冷たさに、二人は思わず身を震わせた。
……アレフ1にアレフ0同様のヌクレチオド鎖欠陥発見……繰り返す、アレフ1にアレフ0同様のヌクレチオド鎖欠陥発見。ただちに修復班は分裂に介入されたし……エラー、エラー、エラー……アレフ2以下の形成停止、緊急停止、停止、停止、停止……