のぢしゃ工房 Novels

ナイチンゲールのさえずり

第九章〜ナイチンゲールのさえずり

夜の闇に挑戦するかのように、星の数ほどの明かりを身にまとい、いくつもの摩天楼が立ち並ぶ街、ニューヨーク。午後十一時を過ぎても、喧噪の絶える気配は全く無い。

イーストリバー沿いにたたずむビル、国連ビルもまた不夜城であった。全世界の動向に目を向けるこの機関では、近々提議されるであろう地球連邦設立準備局設置案に関して不眠不休の作業が続けられている。

そのビルの、河を見下ろすことができる部屋のその窓際に、一人の男が立っていた。

十メートル四方ある室内は全くの暗闇で、ただ川面に反射した明かりが、その人物を部屋の暗闇から浮かび上がらせていた。

白衣を着たその男は、後ろ手に手を組んで窓の外を眺めていた。その風貌は彫りの深いアングロサクソン的なもので、意思の強さを感じさせた。白髪混じりの頭は綺麗に整えられ、銀フレームの眼鏡のガラスに外の光景が映り込んでいる。微動だにしないその姿は、さながら彫像のようであった。

その時ドアがノックされた。中に入ってきたのは、同じく白衣を着た若い男だった。彼は男のそばにやって来て言った。

「教授、東京から報告がありました」

「……木島からか?」

教授とばれたその男は、振り返りもせずに問い返す。

「はい、ゲート増殖が始まったそうです。現在抑制作業中」

「目途は?」

「は、イレギュラーな事態発生のため、大幅に遅れる見通しだと」

「イレギュラー?」

教授の声が、一オクターブは下がった。若い男は暗闇の中で身を縮み上がらせた。

「は、はい……しかし、それ以上の報告が無いため、詳細は不明です……」

「そうか……まあいい。下がりたまえ」

「は……」

若い男はしずしずと部屋から退出していった。

教授は依然として窓際から動こうとはしなかったが、やがて、口元を歪めてつぶやくように言った。

「イレギュラーな事態、か……だが、邪魔はさせん……絶対に」


みどりは由莉と由魅に抱えられるようにして、周りの変化を呆然と見つめていた。

もはや氷の荒野は消え失せ、混沌と言うしかない光景が全天を埋め尽くしていた。そして彼女たちの足元……未だ下方と感じられるその方向には、なにやら盛り上がりつつあるものがあった。

「来るわ……」

由魅がうめくように言った。

そう……新しく産まれくる火山のように急速に盛り上がるその山は、その頂きに何かをのせながら三人の方を目がけて向かってきた。

「……あれは、いったい何?」

みどりはあえぐように言った。それに由魅が詠うように答える。

「大いなる深淵より来たりしもの……世界の誕生より遙か以前より存在し、世界の始まりと共に封印されしもの……そう聞かされているわ。だけど、本当は何なのかは誰も知らない……」

「誰も知らないって……どうしてそんなものが絵俐素の心の中にいるのよ?!」

「それは……」

「見えた!」

由莉が指を指すその先、ゆっくりと近づいてくるその山の頂に、船首像のように半身を突き出し、三人を見つめる絵俐素の姿があった。先程とは異なり、氷の身体ではなく生身の身体をしているように見える。

「絵俐素!!」

「ばか!!」

みどりが慌てて絵俐素のそばに行こうとするのを、由莉が取り押さえた。

「は、放してよ!!」

「あれは絵俐素じゃないわ!!」

「え?!そんなばかな!あれは確かに……」

混乱するみどりに、由魅は冷静な口調で言った。

「そう、見せかけているだけ……奴は出現するのに具体的なイメージを必要とするの」

「え?……あ!だから人の心に取りつくのね!?」

「そうよ。特に才能のある……夢を持った人間の持つ想像力は計り知れない。そこに奴はつけ込んで、自らの依代とするの……もうそうなってしまえば、彼女を助けることはできないわ……」

「そんな!?じゃあ、どうするって言うのよ!?」

「簡単なことよ……この世界ごと消去するまで!」

由莉のその言葉に、みどりは絶望に近い感覚を覚えた。

「そ……そんなこと……だ、だめよ!!」

「何がだめだっていうのよ!?」

「う……」

みどりの首を締め上げながら、由莉は叫んだ。

「あんたさえいなかったら、こんなになるまでも無かったのよ!こうなったのはあんたのせいよ!」

「あぅ……あたしの……せい……?」

「そうよ!どのみちあの子に助かる見込みなんてなかったの!あいつらに融合された魂を取り戻す手段はあたしたちにはないのよ!だから……だから……せいぜい安らかに眠らせることしかできないのに……それをこんなになるまで……彼女に余計な苦しみを与えてるってことがわかんないの!?」

「そんな……じゃあ、さっきまでのことはまったくの……」

「由莉……止めなさい」

由魅は冷酷な口調で命令した。

「彼女を責めても無意味よ……それはあたしたちも同じなのだから」

「く……」

由莉は唇をかむと、みどりを放した。

「みどりさん」

由魅はみどりに申し訳なさそうな視線を向けながら言った。

「あたしたちができたのは、絵俐素さんの心にあなたを触れさせられることだけ……今のあたしたちでは、真の意味で彼女の心を救うことはできないの……ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい……」

「そんな……そんなのってないわよ!!」

みどりは顔を涙でくしゃくしゃにしながら叫んだ。

「せっかく……せっかくここまで来たのに……そんなのってないわよ……また……また駄目だっていうの?今度こそ本当に……もう手立てはないの?ねえ!?」

だが、由魅は静かに首を振った。

「そんな……」

みどりはついにその場に崩れ落ちた。絶望に身体を震わせる。

そんなみどりの様子を、由莉と由魅は沈痛な面持ちで見つめていた……。

やがて、由魅がみどりのそばに寄り添って声をかけた。

「もうこれ以上ここにいてはいけないわ。あなたまで巻き込まれてしまう……さあ、もう行って。戻る方向はわかるでしょう?もうここはあなたのいるべき場所じゃない」

「で、でも……」

「行きなさい」

逡巡するみどりに、由魅は有無を言わさぬ口調で言うと、みどりの身体を上方へと押しやった。

「あ……?!」

「じゃあ……また後でね」

みどりはゆっくりと上昇しながら、双子から離れていくのを成す術もなく眺めていた。

……そんな……あたしのしたことが無駄だったなんて……もう絵俐素を助けられないなんて……あたしはいったいどうしたらいいの?

しかし、彼女の問いに答える者は誰もいなかった。


由莉と由魅は彫像のように動かない絵俐素を見つめながら、その周りをぐるぐると回り始めた。

「ようやく会えたわねえ……」

挑戦するような目つきで、由莉は絵俐素を見た。

「もっとも……本当に会いたかったのは、お前の方だけどねえ……」

そう言って、絵俐素のめりこんでいる山の方を睨みつける。

「さんざん振り回してくれたじゃない……でも、ここが年貢の納め時、ってね」

『……邪魔しないで』

絵俐素が口を開く。だがその声は、暗闇そのものと言ったような、暗く殷々として響くのだった。

『もう何もいらない……だから壊すの……何もかも』

「させないわ……」

由莉は由魅を見て叫んだ。

「始めるわよ!」

由魅は静かに肯く。

二人は絵俐素を挟み込む態勢になると、互いに手を差し伸べ、手のひらを向け合った。

そして、呪文の詠唱が始まる。

『天地四方をつかさどる汝が御手よ、我らに宿りて力と成せ。この世ならざるものどもを、再び地の大いなる深淵の内に帰さん』

『うあああああ……』

絵俐素が悶える。そのたびに山はうねり、空間は震えた。

『世界に宿りし聖なる力……』

「炎よ」

由莉の右手に炎が。

「風よ」

由魅の左手に風が。

「土よ」

由莉の左手に土が。

「水よ」

由魅の右手に水が。

それぞれの元素は二人の手から放たれ、絵俐素の周りを回り始めた。

『おあああ……うあああああ……』

絵俐素の苦しみはますます強くなっていく。髪を振り乱し、身をよじり、苦悶の表情を浮かべながら呪いの声を上げた。

『あたしは悪くない……悪くない……みんなが……あたしを……あたしを拒絶したんだぁぁぁぁぁ……だからこの世界を……世界を……』

『今こそその力を示せ!!』

双子の詠唱と合わせて、四元素は一つに融合し、閃光のリングと化して絵俐素を包み込んだ。

『きゃあああああああああああああ!!!』

絵俐素はおどろおどろしい絶叫を上げ、崩れ落ちるように地面に突っ伏した。

双子は目線を交わし合うと、絵俐素の直上に移動し、互いの身を重ねつつ、最後の呪文の詠唱に入った……。


みどりは上へ上へと昇りながら、絵俐素のことを考えていた。

……そんなに……そんなに小説家になりたかったんだ。自分を失ってもいいくらいに……そうまでして叶えたかった夢……ああ、なんて素敵で、なんて残酷なんだろう……そうまでしても、叶えられないのが『夢』だというの?

……あんなにがんばってたのに……あんなに張り切っていたのに……あんなに……もう、本当にだめなの?もう道はないの?もう何をしても無駄なの?

……ううん、諦めたらだめだ。ここは想いの世界……どれだけ強く、深く想っているかが生死を分ける世界……。

……そうだ……さっきの絵俐素……何かを言いかけていた……いったい何を言いかけていたの?まだ……なにかあるというの?

……まだ……まだ、なに?なんなの?

……考えろ、みどり!考えるんだ……絵俐素はどうしようとしていた?そう、自分の作品を他人の作品として提供することで、デビューへの道を得ようとした……提供?売り渡す?渡す……まだ……。

……まだ渡していない?!

みどりは上昇を止めて、双子の動きを見つめた。二人は向き合いながら、呪文の詠唱を始めようとしていた。おそらく奴と……そして奴に取り込まれた絵俐素の魂を、この世から消し去るための。

……だめ……まだ……まだ絵俐素が自分を取り戻すチャンスはあるのよ!

みどりは歯を食いしばると、絵俐素のいる場所目がけて急降下した。

……絵俐素、今度こそ……今度こそ救けるからね!!


四元素による封じ込めに成功したことで、残すは深淵へと逆召喚……すなわちこの世界ごと葬り去ることだけとなった。それは取りも直さず、絵俐素という存在を消滅させることに他ならない。

由魅には心のどこかで迷っている自分を感じた。それは由莉も同じくらしく、術に入る前に一瞬の間があった。

しかし二人がやらなければ世界が破滅するのだ。否応はなかった。

それが彼女たちの存在理由なのだから。

『……我ら汝に告げん、我らの歌声さえずる時こそ世界に黄昏の訪れし時……無より生み出されしもの、生み出されし無へと還れ……始まりたり、終わりたるものの名において、我らは……』

そこまで詠唱が終わった時、双子の頭上から一条の光が、轟音と共に絵俐素目がけて落下してきた。そのあまりの勢いに、由莉と由魅は詠唱を中断され、二人は頭上を見上げた。

「なんだ!?」

「みどりさん?!」

『うおおおおおおおおおおおおおお!!!』

双子は別れて絵俐素から離れた。そこを光に包まれたみどりが突き抜け、結界を破壊し、そして絵俐素の直近の山肌にめりこみ……そして、はじけた。

その時……世界は破滅の恐怖に震えた。『深淵より来たりしもの』は何ものからも解き放たれて、全てを闇に閉ざそうとしていた。

双子はその光景を呆然と眺めていた。

失敗した。もはや奴を抑えきることはできない。全ては……深淵の内に飲み込まれてしまうのだ。

「なによこれ……なんなのよこれは!!」

由莉の絶叫も虚しく、闇はものすごい勢いで全てを飲み込もうとしていた。

「あのばかが……あいつのせいだ!!」

しかし、由魅は相変わらぬ冷静な表情でその渦を見つめていた。

「由魅、もう一回よ!まだ間に合うわ!」

「……待って」

「どうしてよ?!」

いらだつ由莉を探るような目つきで見ながら、由魅は言った。

「よくわからない……でも……待ちたいの」

「由魅……」

双子は互いの身をかばい合うようにして、世界の変容を見つめた。


……。

…………。

………………ここは、どこ?

……………………あたしは……だれ?

……ああ、そうか。

死んだんだ、あたし。だから、もう名前なんていらないんだ。だから、どこにいるのかも関係ない。そう、なにも関係ない……。

そうなのかな?

ほんとうに、そうなのかな?

ほんとになにもないのかな?

今いるあたしは何?いま、考えている、あたしは誰?

『それ、なに?』

え?

『いいなあ、そんな夢があるなんて』

え?え?

『実現するといいね』

これはなに?

あなた……誰?


……童話。ママが聞かせてくれたいろんなお話。でも、いつもお決まりの終わり方。

『末長くしあわせに暮らしましたとさ』

不思議だった。それからその人達はどういう生活を送ったのだろう?

本当に、しあわせだったのかな?なにも、起きない、なんの波風も立たない、平和でなんの変哲もない世界で。それはしあわせというのかな?

しあわせって、なんなのかな?


……鳥の目……俯瞰……物事の見方。客観視。その対極……原理主義、イデオローグ。

人は何故、誤った思考に導かれるんだろう?……ううん、導かれるのではなくて、ただ受け入れてしまうのね……その方が簡単だから。

正しい歴史、正義の戦い……そんな物が無いって気がついたのは、いつだったろう?

世界は相対的なものだった。絶対なんてなかった。

……だからなのかな?だからこそ、なのかな?

絶対のものを見つけたかった。ありきたりの生と死、始まりと終わり、破壊と再生……ありとあらゆる二項対立を凌駕する、『絶対』な、なにかを。

それを見つけるために始めたのかな?

自らを神として、その言葉を紡ぐ……物語りを。


……でも、もうおしまい。もう、悩まなくたっていいんだよ。今日で終わりなんだから。物語の終わり。世界の果て。今ぞ、黄昏の時。

あたしがあたしでなくなった日。

さよなら、あたし。さようなら、みんな。さようなら、世界……。


……。

…………。

………………誰かが泣いている。この声、知ってる。十才くらいの女の子……うつむいて、唇をかみ締めて、何かに耐えるように、泣いている。

『……父さんも母さんも、あたしがいらないんだ』

悲痛な声……胸に突き刺さる。

『あたしよりも、けんきゅうの方が大事なんだ』

『あたしはいらない子なんだ』

『邪魔なんだ』

『足手纏いなんだ……あたしが子供だから、役に立たないんだ』

『だったらなんでそう言ってくれないの?下手な慰めなんていらない。あたしは本当のことを知りたいの!』

それは……疑問。

『……でもそれを……父さんにも、母さんにも、聞けなかった……確かめられなかった』

それは……恐怖。

『怖かった……いらない子だって言われてしまうのが……そして……認めてしまうのが怖かった。自分を役立たずだと認めてしまうことが……』

『でも……でもいやだ!こんなのはもういや!こんな中途半端はもういやなの!』

それは……叫び。

『だからあたしは知りたい……確かめたい!』

そうして少女は顔を上げる。決意の表情で。

『そうでなければ……そうでなければ……あたしは何をしていいかわからない。だから教えて、真実を。何をすべきかは、あたしが決める!』

『あたしのことはあたしが決めるの。誰にも邪魔はさせない。あたしはあたしの道を進むの!』

……自分のことは自分で決める……。

そうよ、だからあたしは、自分を売った。あたしの夢を叶えるために。

でもだめ。それはあたしじゃない……あたしの力じゃない。

あたしがあたしでないのなら……そんな夢にいったいなんの価値があるというの?

だからもう、手遅れなのよ……。

『違う……』

え?

『手遅れなんかじゃない』

なに?だれ?

『まだ渡してないじゃない』

渡して、ない……なにを?

『自分を』

自分?

『そう、あなた自身をよ、絵俐素』

絵俐素?だれ、それ?

『それはあなたの名前……絵俐素……絵俐素……絵俐素……』

あたし……そんな名前じゃない……あたしは……あたしじゃない……。

『あなたはまだ渡してない……絵俐素は絵俐素よ。あなたは、絵俐素』

あ、あたしは……絵俐素じゃない……じゃ、ない……。

『過ちは、正せばいいのよ。あなたは過ちを犯そうとした……でも、まだ犯してはいない。まだ引き返せるのよ、絵俐素』

……だめ……だめよ……あたしは、たった一度の過ちを犯そうとした……それだけで十分なのよ……。

『違う、違う、違う!間違わない人間なんていない!迷わない人間なんていないのよ!それは絵俐素が一番よく知っていることでしょう?だからこそ絵俐素は小説を書くんでしょう?そうじゃないの、絵俐素!!』

あたしが?小説を書く?絵俐素って……誰?あたしは……あたしは……。

『絵俐素!!』

絵俐素……あたしの名前……そうか……これがあたしの名前なんだ……そうか……そうなんだ……あたし……あたしの意味……あたしの理由……そして……あたしの夢!!

そうよ……あたし、まだなにもやってないじゃない……なにも残してないじゃない……いやだ……いやだよ、こんなの……まだ死にたくない……まだ生きていたい!

あたしは生きるの、人として、自分らしく、誇りを持って……。

生きたい。


絵俐素はゆっくりと目を開いた。

そこは暗黒だった。ただ広さもわからない暗黒が広がっていた。

「ここは……どこ?」

『きっと、絵俐素の心の中だよ』

絵俐素の問いに答えるように、別の声が響く。

「だれ?!」

『忘れちゃうなんて心外だなあ』

「まさか……みどり!?」

『ピンポーン、大正解!……やっと見つけた、探したんだよ〜』

「どこ?今どこにいるの?!」

『わからない……でもね、きっと絵俐素のすぐそばにいると思うよ』

「すぐそば?」

『うん、きっとそう……だから探して』

「探すっていったって……」

『……想いがあれば……戻りたいって絵俐素が願っているのなら、きっと見つかるはず。だって……』

「だって?」

『……あたしたち、友達でしょ?』

「あ……」

絵俐素はみどりと初めて出逢った時のことが思い出した。

その時、みどりはこう言ったのだ。

『そんな夢を持ってるなんてうらやましいな……あたしにはまだそんな夢がないの……でもいつかきっと見つけてみせる!その時は応援してね。でもあなたはもう見つけてるんだもんね……そんなに素敵な夢だもの。きっと叶えてね。一緒に頑張ろう?』

……ああ……そうだ。あたしには叶えたい夢があるんだ……そしてそれを応援してくれる友達もいる……なにを……なにを焦っていたんだろう……あたしには、まだ未来があるんだ……!

……帰ろう……あの場所へ。夢を叶えるべき場所……私達の世界へ。

その時、絵俐素は暗闇の中に一つの光を見つけた。それはどんどん大きくなり、その中に、絵俐素は懐かしい姿を見つけた。

「みどり……!」

「絵俐素!」

みどりは手を差し伸べた。それがとても遠く感じる。でも、絵俐素は精一杯手を伸ばした。

指先が触れ、それる。もう一度、そう、もう一度……そして、二人の手はしっかりとつなぎ合わされた。

「絵俐素!」

「みどり!」

みどりは絵俐素を引っ張り上げると、絵俐素の身体は山の頂から引き出された。

「やっと会えた、絵俐素……」

みどりはそっと絵俐素を抱き締める。互いのぬくもりが伝わり合っていく……。

「みどり……ありがとう」

「うん……さあ、帰ろう、絵俐素」

「……うん」

そうして、二人は連れだって上昇を始めた。

「ねえ……みどり?」

「ん?なに?」

「……ありがとう、来てくれて」

「当たり前じゃない……」

みどりはふっと微笑んで答えた。

「あたしたち、友達でしょ?」

「……そうだね」

絵俐素も微笑みを返しつつ、上を見上げた。

そこは、エメラルドグリーンの輝きであふれていた。


「……!?」

由魅は何かが変わったのを感じて身を震わせた。

増殖を続けていた『深淵より来たりしもの』の動きが、ぴたりと止まっている。

「由魅……なんかおかしいよ」

同じく異変に気づいた由莉が不安そうに言った。

「“ゲート”が自然に動きを止めるなんて……あり得ない!」

「……来る」

「え?」

「戻ってくる!」

由魅は変化の中心たる山の方を見つめていた。山頂にはみどりの飛び込んだ勢いでカルデラのような穴が開いていたが、その穴の奥深く、“ゲート”の中心から、輝く光がゆっくりと昇ってくるのが由莉の目にも見えた。

「……あれは……なに?!」

「あれは……希望よ……ああ」

由魅は恍惚として言った。

「由莉、呪文の詠唱を……」

「え?」

「もういちど、最初から」

「う、うん!」

二人は山の頂へと舞い戻ると、向かい合って手を重ね合った……。

『天地四方をつかさどる汝が御手よ、我らに宿りて力と成せ。この世ならざるものどもを、再び地の大いなる深淵の内に帰さん』

『世界に宿りし聖なる力……』

「炎よ」

「風よ」

「土よ」

「水よ」

それぞれの元素が二人の手から放たれ、頂きを取り囲む。

『今こそその力を示せ!!』

双子の詠唱と合わせて四元素は一つに融合し、閃光のリングと化して頂きを包み込んだ。と同時に、その火口から二筋の光が飛び出していった。眩しいほどの輝きで、それは遙か彼方へと昇っていった。

そして、最後の呪文の詠唱が二人の口から紡がれる……。

『……我ら汝に告げん、我らの歌声さえずる時こそ世界に黄昏の訪れし時……無より生み出されしもの、生み出されし無へと還れ……始まりたり、終わりたるものの名において、我らは等しく滅びを与えん!』

地鳴りのような悲鳴が空間を埋め尽くした。うねり、歪み、絶望のうめき声が、滅びから逃れようと上を目指してのたうちまわる。

しかし、それはまぼろし……偽りに過ぎなかった。彼らは滅ぼされる運命にあった。

なぜなら……彼女たちがその存在を認めなかったから。

闇はその勢力を減退させていった。消えていく……還っていくのだ。

大いなる深淵の内に。


……どこからともなく、鳥のさえずる声がした。それは空間全体に広がっていき、その高まりと共に、世界は……徐々に崩れて、新しい姿を見せ始める……夜明けが来るのだ。

その様を絵俐素と共に見つめながら、みどりは思った。

……崩れていく……いやな感じが薄れている……心の奥にたまった澱が、更に奥に沈んでいく……沈んでいく?

……そっか、消えて無くなるわけじゃないんだ……いつまでも付き合っていかなくちゃいけないんだね……そして打ち勝たなくちゃいけないんだ……あたしがあたしで居続けるために。


鳥の声がする。心をとろかすような美しい歌声……それは、夜の闇に溶け込んだナイチンゲールのさえずりだった。


……静かだった。何事もなかったように。

周りの空間は、エメラルドグリーンの淡い光で満たされていた。そして中心と思われる場所には、黒くて丸い何かが漂っていた。

みどりと絵俐素のそばに由莉と由魅がやってきた。四人はその光景を、声も無く見つめた。

「……終わったの?」

みどりが誰に尋ねるでもなく言った。それに由魅が答えた。

「そうね……いまのところは、ね」

「いまのところ?」

「そう、いまのところ……」

みどりは絵俐素を見つめた。

「な、なに?」

絵俐素が驚いたようにみどりを見る。

「ううん、なんでもないよ」

「さあ……もう帰らなくては」

由魅はそう言って、絵俐素の手を引いた。そしてみどりから離れる彼女の額に人指し指を当てると、ささやくように言った。

「さあ、お戻りなさい……今日ここで起ったことをあなたは覚えてはいないでしょうけれど……もし、思い返すことがあれば……忘れないで、今日あなたが自分が自分であることをみつけたことを……」

「ああ……」

そうして、絵俐素の身体は細かな光の粒にわかれ、散り散りとなって空間に溶け込むようにして消えていった。

「またね、絵俐素」

みどりは手をふりつつ、その光景を見つめた。

「さあ、あたしたちも帰りましょう……ここはもう閉ざされてしまうから」

由魅の言葉に由莉とみどりは肯くと、上を目指して動き出した。

「さようなら、絵俐素……また、逢おうね」

遠ざかっていく心の中心に向かって、みどりはささやいた。

……あたしは忘れないよ、ここで起ったこと……絶対に。

そうして三人は限りなく昇り続け、そして、そして……。


将介と啓吾はまんじりともせず、その時間を過ごしていた。木島隆は窓枠にもたれるようにして、腕組みしながら目を閉じている。

絵俐素が運び込まれてから一時間以上経っていた。倒れた四人は依然として動く気配はしない。

「……まだなのか?」

今日何度目かわからないセリフを口にして、将介はうめいた。

「おい、木島!」

「さあ……」

「おい!」

その時、四人の様子を注視していた啓吾が、いきなりみどりのそばに寄っていき、彼女の体を抱き起こした。

「啓吾、どうした!?」

将介も慌ててみどりのそばによると、啓吾は軽くみどりの身体を揺すって優しく声をかけた。

「みどりちゃん……さあ、起きて」

「んん……んあ……」

みどりは軽いうめき声を上げると、ゆっくりと目を開けた。

「あ……さ、里見さん?」

「よかった……気がついたんだね」

啓吾の安堵の微笑みに、みどりは一瞬恍惚となりかけたが、はっとなって辺りを見回した。

「あ、え、絵俐素は?!」

絵俐素は彼女のすぐ隣に寝ていた。みどりはだるさを感じる身体を引きずるようにして絵俐素のそばに近づき、そして彼女を抱き起こした。

「絵俐素、絵俐素!起きてよ、絵俐素!!」

強引にゆすられて、絵俐素はうめき声を上げると、ゆっくりと目を開けた。

「う、ううん……あ……みどり……?」

「絵俐素!!」

みどりは絵俐素に抱きつくと、思いっ切り絵俐素の身体を締め上げた。

「うあ!い、いたいいたいいたい!」

「よかった、よかった!絵俐素!」

「痛いってば、離してえええ〜!!」

絵俐素の悲鳴も無視して、みどりは絵俐素を抱き締めた。その様子を、将介と啓吾は本当に嬉しそうに見ていた。

一方、隆は双子の方にゆっくりと近寄ると、一人ずつ抱き起こして壁にもたれさせた。

「大丈夫か?」

由魅の顔に頬寄せて、彼は小声で言った。

「……ええ」

目を開けずに由魅が答える。その隣では由莉が頭を振りながら、起き出そうとしていた。

「一体何が起ったんだ?……ゲートをデリートしただけじゃないな?」

「そう……ゲートキーパーを……」

「救い出したのか……」

隆は喜び合う四人の方を見てつぶやく。

「……あたしたちの力ではないわ」

疲れた声で由魅は言った。

「あたしたちは、与えられた枠を越えられなかった……あたしたちはなにもできなかったのよ……いったいなんのためにあたしたちは……なんのためにあたしは……」

由魅は繰り返しつつ、再び眠りに引き込まれた。その目許には涙の後が残っていた。

そんな彼女に優しげなまなざしを向けながら、隆は由魅の髪を撫ぜた……。


日付が変わろうかというその時、書斎机の上の電話が鳴った。教授は窓から離れ、受話器を取って耳もとに寄せた。

「ああ、私だ……なに?……そうか……わかった。至急調査チームを編成しろ……そうだ……本件は最優先事項とする、いいな?……よろしい……かかれ」

教授は電話を切って受話器を置くと、再び窓の外を眺めた。

光景に何一つ変わったところは無い。だが、それを見つめる彼の目は、怒りにも似た輝きで満ちていた。

……私の邪魔をするつもりか?これも必然だというのか?……許さん……私は絶対許さんぞ……ようやくここまでたどり着いたのだ……邪魔はさせん……絶対に……。

その時、星空に流れ星が落ちて、そして消えた……。





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