絵俐素は重い体を引きずるようにして、階段を上っていった。その手には学生鞄とひも付きの布袋が握られている。そしてやっとのことで自分の部屋までたどり着き、扉を開けた。いつもと同じ風景。ベッドに机と、そしてクロゼット。
彼女はため息をつくと、鞄をベッドの上に放り出し、布袋を勉強机の上にそっと置いた。そして着替えを済ませると、椅子に座って先程の袋から本を取り出す。青い表紙のハードカバー本が二冊。それからノートパソコンの蓋を開いて電源を入れた。
液晶ディスプレーには昨夜までに打ち込んだ小説が映し出されていた。絵俐素はそれを目を細めて見つめ、そして目をそらした。
……あと三十枚か。
今度は借りてきた本を開く。難しい漢字が並んでいる。そして、怪しげなつづりのアルファベットや、意味不明のカタカナ。
「……さてと、やるか」
絵俐素は画面に向き直ると、猛烈な勢いでキーボードを打ち始めた。それはリストの打鍵さながらで、たちまちの内に画面は文字で埋め尽くされ、スクロールしていく。
……なんでこんなに調子がいいんだろう?
絵俐素は不思議に思いながら、キーボードを叩いていた。
……こんなことあたし考えたっけ?覚えてない……いつもならキャラの行動や思考は全部記憶してるのに……彼らのやり取り、彼らの考え全てを……でも、思い出せない……一体いつこんなこと考えついたの?
……でも……いいよ、これ……次から次へと言葉があふれてくる……こんなに調子がいいのは久しぶり……いったいどれくらいぶりだろう?
……でもこんな……こんな作品で……ああ、あたしにはもっと書きたいものがあるのに……どうしてこんな作品で、こんな……。
……ああ、でも書かなくては……書き終らなければ……先には進めない……。
絵俐素の指は更にスピードアップする。
その時、部屋の扉がノックされた。しかし絵俐素は気がつかない。もう一度、今度はもっと大きな音でノックされる。
ようやく絵俐素はそれに気づき、一旦打つ手を止めて、まるで怯えるような声で言った。
「だれ……!?」
「あたし、みどりよ……入ってもいい?」
「みどり!?……あ……うん、どうぞ」
絵俐素がそう言うと、扉を開けてみどりが入ってきた。走ってきたのか、顔を真っ赤にして少し息を切らしていた。
「や、やっほ……」
「ど……どうしたの?そんなに慌てて……」
「いやなに、朝のことが気になっちゃってさぁ……でも良かった、元気そうで!」
みどりはそう言ってほっとしたような笑みを浮かべる。本当に嬉しそうだ。
そうしてみどりは絵俐素のそばにやってきて、画面をのぞき込んだ。
「これ、新作?」
「う、うんまあ……頼まれ仕事なの」
「ふうん、どれどれ……あ、もしかしてホラー?なんか怖いこと書いてある……」
「うん……まあ、ね」
「これが資料?」
みどりはそばに置いてあった青い表紙の本を手に取った。ずっしりと重い。
「うわ、難しそう……」
ぱらぱらとめくっていると、付箋紙が貼り付けてあるページがあった。
「えーなになに……『そは永久に横たわる死者にはあらねど、はかりしれざる永劫の元に死を超ゆる者』……なにこれ?」
「アメリカのホラー作家の翻訳よ。あたしの一番好きな……その一節……」
絵俐素は暗く澱んだ声で答えた。
「ふうん、そうなんだ……」
みどりは本を机の上に置いた。そして床にぺたんと座り込むと、見上げるようにして絵俐素を見つめた。
「ねえ、絵俐素……なにか……隠しごとしてない?」
「えっ?!」
絵俐素はひどく驚いた顔でみどりを見つめた。真剣なみどりの目に、圧倒されるような感覚を覚える。
「っていうか、その……心配ごととかさ……人にはあんまり言えないような悩みとかさ、あったらその……話してみてよ。あたしで力になれることだったら、なんでもするから……ね?」
「……」
絵俐素は言葉を失ったまま、みどりを見つめた。
……ああ、お願いだから、そんな目で見ないで……あたしはそんな……。
「ねえ、絵俐素?どうしたの?」
「……え!?」
「黙り込んじゃって……やっぱりなにかあるの?!」
みどりが不安そうに見つめる。絵俐素は慌てて首を振った。
「う、ううん!な、なんにもないわよ……」
「ほんとに?」
みどりは身を乗り出して絵俐素に詰め寄った。とても心配そうな表情で。
「ほんとにほんと?無理してない?今朝だってひどい顔してたじゃない!」
「……」
「篠田さんもそうだったって……目の前の目標に向かって、頑張って、頑張って、頑張りすぎて……だからあんなことに……だからあたし、絵俐素もそんな風になって欲しくないから……だから……」
うつむいて吶々と語るみどりを、絵俐素はじっと見つめていた。
……あたしのことをそんなに思ってくれるなんて……みどり、やっぱりあんたはいい奴だわよ……なのに、このあたしは……。
「やぁねえ、変なこと言わないでよ!」
絵俐素は妙に明るい声でそう言った。
「絵俐素!?」
あっけにとられて絵俐素を見るみどりに、彼女はいきなりみどりの額を指で弾いた。
「いたっ!」
「へんなこと考えるからよ!」
くすくすと笑う絵俐素。
「たたた……もう!いきなりなんてことすんのよ!」
額を手でおさえながら、みどりは絵俐素を睨みつける。
が、ほんの少しの間を置いて、みどりは突然笑い出した。
「ふ……ふふふ、あははは!」
「み、みどり……!?」
こんどは絵俐素があっけにとられる番だった。
「あははは……は〜あ、安心した!」
ひとしきり笑い終えると、みどりはほっとした表情で絵俐素を見つめて言った。
「え?」
「……そんだけ元気がいいんだったら、大丈夫だね」
みどりの明るい表情に、絵俐素も自然と顔がほころんだ。
「そりゃそうよ。まったく……変な想像しないでよね」
「え?」
「あたしが……真里みたいに死んじゃうとか、さ」
「あ……うん……だって……」
ばつが悪そうな表情のみどりに、絵俐素は真剣な表情で言った。
「あたしは……真里や辻本さん達みたいに才能あるわけじゃないし、有名人でもなんでもないから、噂みたいなことにはならないよ。だからこそ……真里の分も頑張らないといけない。だからあたしは書き続けるの。今のあたしにはそれしかないから……」
「絵俐素……」
「だから……あたしは大丈夫」
絵俐素はにっこりと笑った。
「それにもう終わりが見えてきたし……今夜中になんとかなるわよ」
「そっか、それなら……うん、わかった。でも無理しちゃ駄目だからね!」
みどりはそう言って笑うと、掛け声と共に立ち上がった。
「よいしょ!……じゃ、かえろっかな」
「うん……来てくれてありがとね、みどり」
ほんとうに……ほんとうに嬉しそうに絵俐素は言った。
みどりはちょっと照れたような笑みを浮かべると、
「うん……じゃ、また明日ね!」
と言って、みどりは部屋から出ていった。
絵俐素はしばらくみどりの出て行ったドアを見つめていたが、急に寒気を覚えて身震いした。
……う、なにこれ?……さっきまで蒸し暑いくらいだったのに……。
絵俐素は椅子から立ち上がると、窓を開けようとカーテンを引いた。外を眺めると、道を歩いていくみどりの姿が見えた。
みどりは立ち止まると、振り返って絵俐素の部屋を見た。そして絵俐素の姿を見つけると、手を振ってきた。
それに手を振り返しながら、絵俐素は思った。
……心配しに来てくれた……こんなあたしのために……うれしい……。
だが、みどりの姿が見えなくなる頃、またさっきよりも激しい寒気を感じた。
……寒い!どうしてこんなに寒いの!?
絵俐素は肩をかき抱くようにすると、窓から離れて椅子に座った。
……風邪ひいた?ううん、違う……けどわからない……わからないけど……でも。
……書かなくちゃ。
液晶モニターを睨みつける。キーボードのホームポジションに指先をのせる。そして……指は恐怖の言葉をつづり始める。
……書かなくちゃ。
目はうつろになり、顔が汗ばんでくる。
……書かなくちゃ。
先程まで寒気を覚えていた肌が、紅く染まっていく。
……書かなくちゃ。
心臓が早鐘のように、どくんどくんと打ち鳴らされる。
「……書かなく……ちゃ」
がん!
絵俐素の頭に突如として衝撃が走った。
「うあ……!?」
絵俐素は両手で頭を抱えた。そして顔を掻き毟り、椅子の上で身体を激しくよじった。
「ああ……!」
……痛い!痛い痛い痛い!!なんで……何よこれ!?……真里!?
痛みはますます強くなっていった。だが、それとは全く反対の感覚が絵俐素の心を蝕んでいく……。
……あ、ああ……でも……このまま……このまま楽になれたら……。
……でもだめ……書き続けなくては。
……でもだめ……眠りたいの……楽になりたいの……。
……だめよ!だめだめだめ!……書かなきゃ……書かなきゃいけないの……。
……でもだめ……もう耐えられない……あたまがいたい……もう何もかも忘れたいの……忘れてしまえたら、もう……。
……でもだめ……もう遅いの。もう……時間が……残ってないの……。
「うあぁ……うう……」
絵俐素はうめきながら、震える手でキーボードに触る。不意に指が動いて意味不明の文字列がディスプレーに現れる。
「先へ……先へ進まなきゃ……」
間違いを修正し、言葉を続けていく。ゆっくりと、ゆっくりと。
しかし頭痛はますますひどくなっていった。手の震えも激しくなり、顔を上げているものやっとの状態になる。
……ああ、まだ……まだ書き終っていないのに……まだ……。
薄れゆく意識の中で、絵俐素は何かが近づいてくるのを感じた。
……前にも……前にもあったような気がする……これは……いったいなに?……ああ、そうか……そういうことなんだ……なあんだ……あはは……そういうことだったんだ。忘れてただけなんだ……ううん、忘れたかっただけなんだ……あたしは所詮、その程度の人間でしかなかったんだ……あたしは……あたしは……。
そうして、絵俐素の意識は完全に途切れた。
みどりはうきうきとしながら歩いていた。夜空の星が綺麗に見える。
……良かった、案外元気そうで。
窓から手を振る絵俐素の姿を思い浮かべると、自然とみどりの頬がほころんでくる。
……ちょっと寝不足みたいだけど、それももうすぐ終わりだって言ってたし……もう、大丈夫だよね?
そんなことを考えながらみどりが家に帰りつくと、将介が居間でテレビを見ているところだった。
「ただいま〜、おなかすいたでしょ?今作るからね!」
そう言ってみどりはキッチンの方へ駆けていった。
「……どういう風の吹き回しだ?」
将介はソファから起き上がると、怪訝そうに眉根を寄せた。
そのうちキッチンからいい匂いがしてきたかと思うと、しばらくしてみどりの呼ぶ声がした。将介はダイニングに向かうと、テーブルの上には、ご飯や味噌汁、焼き魚、その他付け合わせが並べられていたのだった。
「早く座っちゃってよ!」
ニンジン柄のエプロンをしたみどりが将介をせかした。
「ん、ああ……」
「さあ、たくさん食べてね」
向かいに座ったみどりが、にっこりと笑いながら言う。将介は恐る恐る箸を手にとると、焼き魚に箸をつけて口に運ぶ。
「……」
「どぉ?」
「……まあ、いいんじゃないか?」
「ほんと?よかった」
みどりは嬉しそうに笑うと、たくさん食べてね、と言って自分も食べ始めた。
しばらく黙々と将介は食べていたが、やがてみどりに尋ねた。
「……なんかいいことでもあったのか?」
「ん?うん……」
みどりはほっとしたような表情を浮かべて言った。
「さっきね、学校帰りに絵俐素んちに寄ったの。そしたら案外元気そうで……それであたし嬉しくて……」
「……うれしいだって?」
「そう……あたし、あれからずっと事件のこと調べていたの。そしたら、死んだ人達には共通点があったのね。みんな才能にあふれていて……そして互いに支え合う関係だった。あ、でも全員が知り合いってわけじゃなくて、死んだ順番に隣り合った人同士がそうだったってことなんだけど……。それで篠田さんはね、彼女は絵俐素の親友で、やっぱりお互いの夢を語り合う程の仲だった。だからあたし……次は絵俐素の番じゃないかって……それで心配になって、さっき会いに行ったんだけど……実際会ってみたら全然なんともないの!やっぱりあたしの考え違いだったのかなぁ……里見さんの言う通りだったのかもしれない……」
「……そうか」
将介はしばし考え込むような表情をし、やがていつもの表情に戻って、そいつは良かったな、と言った。
みどりは兄の表情に不思議な感じを覚えたが、それはすぐに記憶の底に沈んでしまった。
食事を終えると、みどりは後片づけのためにキッチンに残った。洗いものしながら鼻歌を歌う。
そんなみどりの声を聞きながら、将介はリビングの電話を手にとった。
「……ああ、俺だ……うん、えらく元気よさそうに帰ってきたよ。そっちはどうだ?……ああ、やっぱりそうか……うん、いやな予感がする……そうだ、十分用心しないといけない……とにかく、明日だ。じゃあ」
電話を置いても、みどりの機嫌のいい歌声がまだ聞こえていた。その歌声に耳を傾けながら、将介はソファに身を横たえた。
「俺は……哀しい顔なんてもう見たくないんだ。ましてや、あいつのそんな顔なんて……くそっ」
心底嫌そうに顔をゆがめると、将介は立ち上がり、リビングを出ていく。
キッチンからは、みどりのハミングがいつまでも流れていた……。
……もう書けない……だめ……こんなことのためには書きたくないの。
……じゃあ、なんのために、あたしは書いているの?
……なんでだろう?
……ああ、もう、どうでもいい……あたしなんか、もうどうでもいいんだ……。
……ああ……ここは心地いいね……暗くて……そして、あったかい……。
絵俐素はベッドの上に横たわっている自分に気がついた。一体いつのまに上がったのだろうか……。
彼女が上半身を起こすと、頭に軽い頭痛が走った。しかし、昨夜ほどではない。
「そうだ、小説は!?」
急いでベッドから降りると、机の上のノートパソコンの画面を見る。小説は……完成していた。頭からざっと流してみたが、抜けも誤字脱字も見つけられなかった。
……一体いつのまに?でも……これでやっと解放される……。
よくわからなかったが、絵俐素は小説の完成を素直に喜んだ。
時計のアラームが鳴った。いつも起きる時間だ。
……ああ……学校に行かなくちゃ。
絵俐素は突然憂鬱な気持ちになった。また頭が痛くなってくる。
……ああ、まただ……いったいいつになったら無くなるの?あう……。
……でもこの感じ……覚えてるんだけど思い出せない……一体これは何?
……でも、あたし、これ、知ってる……確かこれは……眠りに落ちる間際に……眠りから覚める時に、感じたもの……夢の中と同じ?
……もう目は覚めているはずなのに……それとも、まだ夢の中に、あたしはいるのだろうか?……夢なら覚めて欲しい。夢なんか見たくない。夢なんて……夢ってなに?
……現実の中にあるゆめ。夜の闇の中に沸き起こるゆめ。どちらもはっきりしていることは、それがまぼろしでしかないことだわ。そうよ、実現するはずの無いものなのよ。
……そうよ、そうなんだわ。あははは、うふふふふ……なんて簡単なことだろう!
そう思ったとき、不思議と頭が楽になった。彼女の口元が奇妙に歪む……笑っているのか?
……ああ、そうだ。学校に行く用意をしなくっちゃ。こんなに現実的でつまらない場所でも、なにか一つは取り柄はあるってことね。少なくとも、夢のことは忘れさせてくれる。
……そうよ。いつだって現実は、誰にだって平等に、退屈窮まりない日常をもたらしてくれるのだから。
……ああ、めんどくさい。うまくボタンがしまらない。一体誰がこんなものを考えついたのかしら。こんなの、飾りにもなりゃしない。
「おはよ〜!……っと、あれ?」
早朝修練を終えてリビングにやってきたみどりは、いつもならいるはずの将介の姿が見当たらないことに気がついた。
「おかしいなあ……昨日は朝早いなんて言ってなかったのに。せっかく今日はお弁当作ってあげようと思ったのにさ……」
みどりは不機嫌そうに言うと、キッチンの方に向かって歩き出した。
「そうだ、今日はみんなにお弁当作ってってあげよう!あたしの分、里見さんの分、それに絵俐素の分!……やっぱり、お兄ちゃんの分も作ってあげようかな……みんなでお昼食べたら、おいしいだろうしね!」
いつもと全く変わらぬ様子で、絵俐素は家を出た。
夏の陽光が彼女を照らす。大気は既にかげろうで揺らぎ、足元に映し出された影も所在なげにゆらゆらとして定まらない。
まぶしかった。世界全てが輝いているように絵俐素には見えた。そして思った……自分は、その輝きの中の影なのだ、と。
……あたしは、どうせこの世界の歪みみたいなものなのよ。世界の影……あるべき世界の中の、与えられた役割すら果たせないような、異分子なんだ……。
だんだんだるく、重たくなっていく体を引きずるようにして、絵俐素は学校への道を歩んでいた。
……あつい……だるい……はやく学校に行かなきゃ……あれを渡さなければ……そして渡してしまえば……そうすればあたしは……。
絵俐素の前後には同じように学校に向かう生徒たちがいたが、その中に里見啓吾の姿もあった。だがここは彼のいつもの通学路ではない。
啓吾の視線は間断なく絵俐素に注がれていた。つかず離れずの絶妙な距離を保ちつつ、彼女の後を追っていく。
絵俐素の様子に特別変な感じは無かった。気だるそうな歩みが多少気にかかる、その程度だった。しかし……。
……なにかおかしい……なにがおかしいんだ?
啓吾はなんの気無しに後ろを振り返った。しかし、誰の姿も無い。
……誰かに見られている気がする……気のせいか?
背中がちりちりするような感覚に苛まれながら、啓吾は絵俐素の後を追った。
それから何事も無く、絵俐素は学校に到着した。仕上がった原稿は昼休みに図書館で手渡すことになっている。それまでまだ三時間以上あった。
まるで忍び込むようにして、絵俐素は自分の席に座った。クラスメートの挨拶にも気のない返事をして、みんなを不思議がらせる。みどりもその中の一人だった。
「ちょっと、どうしたの?また徹夜?」
「うん……まあね」
絵俐素は力のこもってない声で答えた。いくぶん顔色も悪いようだ。
「ちょっとちょっとちょっと!気をつけてよね!昨日もそうだったんでしょ!?だめじゃないの!」
みどりが声を荒げると、絵俐素は顔をしかめた。
「あたた……大きい声出さないでよ……もう終わったんだから……」
「終わりって……もう書き終ったの?」
「うん……頼まれてた分はまあ……だからもう大丈夫」
そう言って微笑む絵俐素は、ひどくさっぱりとして見えた。
「そう……」
みどりは心の隅になにかしら引っかかるものを感じたが、絵俐素の笑顔に警戒心を解いた。
「それならいいけど……あ、お昼さ、一緒に食べよ!今日は一杯お弁当作ってきたんだ。お兄ちゃんや里見さんも一緒に、ね?」
お昼と聞いて、絵俐素の表情が暗くなった。
「あ……ど、どうしたの?」
「あ、ううん、なんでもないの。ちょっとやな用事があってさ……あ、でも、終わったらすぐ行くわ。視聴覚室でしょ?」
「うん、そうだけど……早く来てよ?無くなっても知らないからね!」
「うん、絶対行くわ。だから待ってて」
「うん、わかった!」
実に嬉しそうな顔で笑うみどりを、絵俐素は思い詰めたような表情で見つめていた。
……そう、もう終わりだもの。
そうして何事も無く、四時限目までの授業が終わった。これまで、また誰かが死んだとか変な噂とかは聞かれなかった。あの双子も、木島も特に目立った動きはしていない。
絵俐素は教科書を机の中にしまうと、鞄から一枚のフロッピーディスクを取り出した。なんのラベルも貼っていない、黒いディスク。
それをじっと見つめていると、みどりが声をかけてきた。
「絵俐素!早く来いよ〜!」
その両手には大きなバスケットがぶら下がっている。みんなのために作ったお弁当。みんなに喜んでもらうために作った、心のこもったお弁当……。
「うん……」
絵俐素はそっと手を振って返事をすると、みどりはにっこりと笑って教室から出ていった。
そして一人、また一人と教室から人の姿が消えていき、最後に絵俐素だけが残された。
絵俐素は立ち上がると、フロッピーを手に教室から出た。向かう先は……みどりと同じ図書館だった。
図書館へ続く道はすばらしさで満ちあふれていた。照りつける太陽、青い空、流れる雲、さわやかな風、鳥の鳴き声、生徒たちの歓声……実に平和な光景。
しかし、絵俐素にとっては死の世界も同然だった。
……ああ、でも……後少しでそれも終わるのね……だけど、なぜこんな思いまでして、これを渡さなければいけないんだろう?
どんどん足どりが重たくなってきた。足を上げるのも億劫になってくる。
……あたし……行きたくないのかな……渡したくないのかな……でも……。
そうしてようやく、図書館の建物が見えてきた。
……あともう少し……あともう少しなんだから……。
途中、桜の大木のそばを通った時、絵俐素はふと、手にしたフロッピーに目をやった。
……でも……本当にいいの?これを渡しちゃって……本当にいいの?
……でもここで渡さなかったら……今まであたしのしてきたことって、どうなるの?無駄にするつもり?
……夢が……夢がかなうかもしれないのに……たとえどんな手段だって……かなってしまえば……そうよ、どんな手段だって。
途端。
全身に言い知れぬ衝撃が走った。
「うあ……あっ……!?」
膝から力が抜け、絵俐素は両手をついて地面に倒れ込んだ。フロッピーが手から離れて草むらに転がる。
「が……かはっ……」
苦しそうにせき込む。全身にひどいおぞけが走り、絵俐素は痙攣するように身悶えした。
……痛い痛い痛い!!
……頭が割れるっ!胸が苦しい!心が……引き裂かれるっ!?
……ああ……誰か……誰か助け、て……!
声にならない叫びをあげつつ、絵俐素は地面を転がった。たちまち制服が草と土にまみれる。そして桜の幹に身体をぶつけて、ようやく身体の動きが止まった。
だが、筆舌に尽くし難い痛みを感じつつも、何故か、絵俐素の心は安らぎを感じていた。
……でも……これで……楽になれるのかもしれない……嫌な思いをすることもなく……もう書く必要もない……これでもう……おしまいなのかな?
……だったら……それでもいいのかも……きっと……いいんだろうな……。
……ごめん、みどり……お弁当……食べられそうにないや……ごめんね……ほんとに、ごめん……。
そうして深く、ただ深く……絵俐素の意識は沈み込んでいった……。
啓吾は校舎のすぐそばから、絵俐素がもがき苦しむ様子を目撃した。授業を抜けるのに手間取ったために、それだけ距離が離れてしまったのだ。
「しまった……」
彼らしくない台詞を吐くと、駆け足で絵俐素の元へ向かった。
……早く……早く行かないと……。
しかしはやる気持ちとは裏腹に、思うほどには絵俐素に近づかない。
そうして絵俐素に手が届くところまで近づいた時、彼の視界を突如として遮る者があった。
「誰だ!?」
啓吾は立ち止まってその人物を見ると、それはみどりのクラスに入ってきた転校生で、名前は確か……。
「……木島隆君、か?」
木島隆は感情を殺した顔で啓吾を見ていた。だが啓吾の問いかけには答えない。
「どいてくれないか?彼女を……絵俐素ちゃんを助けないといけないんだ」
「どう助けるつもりだ?」
木島隆は冷酷な口調で言い放った。
啓吾はそれに反論できず、ただ唇をかみ締めて彼を睨みつけることしかできなかった。
……身体が……動かない……くそ……。
「おい……早くしろ」
隆は後ろを振り返って言った。
一体いつの間に現れたのか、由莉と由魅の双子の姉妹が絵俐素のそばに立っていた。由莉が絵俐素の身体を抱き上げるのを、由魅がそばで真剣な表情で見つめている。
「だから……よせっていったのよ」
莫迦にしたように由莉が啓吾に言った。由魅は無言で、そして切なげに啓吾を見つめている。
「早くしろ。時間はないんだ」
隆が叱責するように言うと、二人は絵俐素を連れて木の陰に隠れた。
啓吾は後を追いかけたかった。しかし、隆の放つ異様な気に圧倒されて、身動きができない。
「待て……彼女を一体どうするつもりなんだ!?」
「あなたには関係のないことですよ。それに……動けないんでしょう?」
そう隆は冷ややかに言い残すと、彼はゆっくりと後ろに下がり、双子たちと同じく木の陰に隠れた。
啓吾は隆の呪縛から解き放たれると、すぐさま彼らの後を追った。
しかし全く時間が経っていないのに関わらず、まるで煙にでもなったかのように、彼らの姿は消え失せていた。
「……わかっていたのに……これはあまりにもまぬけすぎだ……」
平板な口調で啓吾はつぶやくと、シャツのポケットから携帯電話を取り出してコールした。
「……ああ、僕だ。やられたよ……ああ、そうだと思う……先に行くよ」
電話を終わると、啓吾は振り返って絵俐素が倒れていた場所を見つめた。
草の上に、フロッピーディスクが落ちている。それを拾い上げると、啓吾は桜の樹を見上げた。
「……哀しみを、繰り返させるわけにはいかないんだ……絶対に」
そう自分に言い聞かせるようにつぶやくと、啓吾は走り出した。
みどりは鼻歌を歌いながら図書館に来ると、いつものように視聴覚室を目指した。そうしてドアの前でいつものノックをする。
ととん、とん、とん、とん。
だが、中から返事は無かった。
「あれ?……入るわよ?」
そろりとドアを開けて入っていくと、中には誰の姿もなかった。
「おっかしいなあ。いつもは昼休みになったらすぐ来るのに……ま、いいか」
持ってきたバスケットをテーブルの上に置くと、みどりは椅子に座っておとなしく待つことにした。
「あ〜あ、早く来ないかなあ……せっかく作ってきたのに……」
恨めしそうにバスケットを睨みつけると、みどりは退屈そうにあくびをした。
その時、凄まじいほどの足音が聞こえてきた。それは明らかにみどりのいる部屋を目指していた。
「誰よ、走ってるのは?」
みどりがドアの方を見ると、いきなりドアが開けられ、将介が息を切らしながら飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと!いつもはノックしろってうるさいくせ……に……?」
みどりは立ち上がって将介に詰め寄ろうとするが、将介のひどく真剣な顔に気圧されてその場に立ち尽くした。
「ちょ……やだ……いったいどうしたの?」
「……来い」
有無を言わさない、そんな雰囲気で将介が言う。
「ど、どこへよ?!いったい何があったの?」
そうみどりが尋ねると、将介は一瞬逡巡の色を見せつつも、目をそらすことなくみどりに向かって言った。
「……次の犠牲者が出たんだ」
「ええっ!また!?」
みどりはもう起らないと思っていた事態を告げられて、どす黒い不安が胸の内に沸き起こるのを感じた。
「いったい今度は誰なの!?は、早く言ってよ!」
「それは……」
言い淀む将介の顔を見る内に、みどりの脳裏に昨夜の会話が蘇った。絵俐素のことを話すみどりを見る将介が一瞬見せた、不安そうな表情が。
「まさか……まさか……!?」
みどりは認めたくなかった。今自分が考えてしまったこと……そんなことはあって欲しくないと。ずっと思い続けていた願いが壊されてしまうことを。
しかし将介の言葉は幻想を打ち砕いた。
「そうだ……羽田絵俐素だ」
「う、うそ……うそでしょう!?……だってそんな……昨日は……昨日までは大丈夫だったのに……今朝も大丈夫だったのに……」
「嘘じゃない。本当のことだ」
みどりの頭の中が真っ白になった。よろめいた拍子に机に足をぶつけ、机の上にあったバスケットが落ちて、中身が床にぶちまけられた。
「せっかく……せっかく作ってきたのに……そんな……そんなのってないよ……」
力なく床に崩れ落ちるみどり。
「あたし……あんなこと言っといてだめだったっていうの!?……あたしがもっと気をつけていればよかったのに……あたしが……あたしが……」
うわごとのようにあたしがを繰り返すみどりに、将介は叱責するような口調で言った。
「いや、まだだ」
「……え?」
充血した目で将介を見つめるみどりに、将介は身をかがめながら手を差し伸べた。
「まだ死んだわけじゃない。お前が本当に彼女のことを想っていて、そして真剣に彼女を助けたいと思うのなら、可能性はないわけじゃない……来い」
みどりは将介の顔と手を交互に見つめた。
「まだ終わりじゃないの?まだ……まだ間に合うの……?!」
肯く将介の真剣な表情をじっと見つめていたみどりは、意を決してその差し出された手を握りしめた。
将介は手を引いてみどりを立たせると、彼女の頭をぽんと一つ叩いて言った。
「お前なら、きっと彼女を助けられると信じている。だからお前もそれを信じろ。いいな?」
「……うん」
みどりは少しだけ元気を取り戻した表情をして肯いた。
「よし……それでこそ俺の妹だ」
みどりの答えに満足そうに将介は肯くと、二人は連れだって部屋を出ていった。
後ろを振り返ることなく。